ガラスは赤い羽根を閉じ込める。   作:an-ryuka

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第8話 約束を守る男

 

最初に霧から出てきた男は、靴を履いていなかった。

 

病院のものらしい薄い履物を片方だけ手に持ち、コンクリートの床へ足をつけた。眩しそうに目を細める。ホークスを見つけても、すぐには近づいてこなかった。

 

「ここ、出ていいんですか」

 

「はい。こっちへどうぞ」

 

ホークスは羽を一本、その背中へ回した。

 

触れる直前に止める。

 

「足元、支えますね」

 

男が頷いてから、踵を浮かせた。

 

引き渡し場所は、使われていない配送施設だった。搬入口が広く、救急車を複数つけられる。周囲に住居はない。

 

こちらが指定し、相手が受け入れた場所だった。

 

玻璃は、まだ別の部屋にいる。

 

十八人の身元と安全を確認するまで、彼女の拘束は解かない。相手も、その順序に同意していた。

 

六人目は担架で運ばれてきた。

 

七人目は、途中で座り込んだ。

 

九人目の女性は霧を抜けた瞬間に泣き出し、後ろから出てくる人のために場所を空けてくださいと言われて、何度も謝った。

 

ホークスは彼女を抱き上げ、医師のところへ運んだ。

 

「謝らんで大丈夫。ほら、椅子ありますから」

 

女性がジャケットを掴んだ。

 

「妹は」

 

「確認してます。お名前、聞かせてもらえます?」

 

資料には家族の名がある。それでも本人の口から聞いた。

 

霧の向こうから、次の人が出てくる。

 

ホークスは顔と人数を確かめながら、羽を散らした。誰かが急に倒れても支えられるように。救急車へ歩く人が、何もないところで躓いてもいいように。

 

全員が出てくるまで、二十分かかった。

 

十八人。

 

名簿と一致した。

 

最後の一人が医師に引き継がれると、黒霧は開いていた出口を閉じた。

 

「お約束した方々は、以上です」

 

ホークスは返事をせず、無線を聞いた。

 

本人確認、継続中。重篤な急変なし。別の場所に残されていた者については、個別に聴取する。

 

渡された名簿の十八人を取り戻した。

 

全員を取り戻したとは、まだ言えなかった。

 

*

 

ラグドールは、自分の足で入ってきた。

 

隣にはマンダレイがいた。医師が最後の説明をし、本人の意思を確かめる。

 

「やる」

 

その声は、少し大きすぎた。

 

本人も気づいたらしく、一度唇を湿らせた。

 

「返してもらう」

 

黒霧の隣に、新しい霧が開いた。

 

奥には椅子が見えた。

 

座っている男の上半身。その顔を覆う器具。胸元へ続く管。

 

事前に見た資料と同じだった。

 

オール・フォー・ワン。

 

ホークスは、翼の付け根に力が入るのを感じた。

 

男は、霧の向こうからこちらへ顔を向けた。

 

「来てくれてありがとう」

 

誰に向けた言葉なのか、分からなかった。

 

ラグドールは答えなかった。

 

用意された椅子へ座る。医師がその背後につき、マンダレイが肩に手を置いた。

 

ホークスは横に立った。

 

もし何かが起きたら、手を引いて離す。だが、触れた瞬間に何が起きるのかを、こちらは完全には制御できない。

 

それを説明されたうえで、ラグドールは手を出した。

 

霧の縁から、男の手が伸びた。

 

「余計なことはしないでくださいね」

 

ホークスが言う。

 

男は、彼の方へ顔を傾けた。

 

「今日は返すだけだよ」

 

掌が、ラグドールの手に重なった。

 

彼女の肩が跳ねる。

 

マンダレイの指が、その肩を強く押さえた。

 

ほんの数秒だった。

 

男の手が離れ、霧の奥へ戻った。

 

ホークスはすぐに二人の間へ羽を入れた。ラグドールの腕を支え、医師の方へ椅子を引く。

 

「気分は」

 

「待って」

 

彼女は目を閉じた。

 

口が少し開いたまま、息を止めている。

 

「待って、今」

 

ホークスは黙った。

 

ラグドールの目が開いた。

 

壁の方を見る。

 

その向こうに、救急車と、待機している仲間がいた。

 

「いる」

 

マンダレイが腰を落とした。

 

「戻った?」

 

「いる。ちゃんと、分かる」

 

ラグドールは立とうとして、膝から力を抜いた。マンダレイが抱き止める。

 

笑おうとしているのに、声にならなかった。

 

医師に促され、別室へ向かう。予定していた確認を行うためだ。本人に知らされていない位置へ移動した、彼女が以前からサーチの対象としていた仲間たち。その位置を、順に答えてもらう。

 

ホークスは二人を見送った。

 

背後から、男の声がした。

 

「随分と警戒するんだね」

 

振り向く。

 

「奪った人から返してもらってるんで」

 

「それは、もっともだ」

 

怒りもせず、男は答えた。

 

*

 

確認が済むまで、三十分待った。

 

ラグドールは正しく答えた。

 

医師からも、現時点で新たな異常は見つからないと報告が来た。今後の経過観察は必要だが、約束された返還が行われたと判断できる。

 

十八人を乗せた車両は、既に出発していた。

 

ホークスは無線へ了解を返し、黒霧を見た。

 

「こちらも、準備します」

 

別室へ迎えに行くと、玻璃は窓のない壁を眺めていた。

 

自分の鞄が、足元に置かれている。

 

「終わった?」

 

「向こうの確認はね」

 

「じゃあ、行ける?」

 

ホークスは頷いた。

 

同行の職員が、手の動きを制限する拘束具を外した。手袋はそのままにしておくよう告げると、玻璃は素直に従った。

 

自由になった指を曲げ伸ばしし、鞄を持つ。

 

「瓶は?」

 

「ここ」

 

ホークスは、小さな箱を差し出した。

 

返却を求められた私物の目録に、あの瓶があった。証拠品として留める必要はないと判断され、ほかの荷物と一緒に運ばれてきたものだ。

 

自分が持つ必要はなかった。

 

だが、職員が箱を取り上げる前に、手を出していた。

 

玻璃は蓋を開けた。

 

布に包まれた瓶を出し、赤い羽を確かめる。底と、口と、栓の周り。順に指を添え、最後に持ち上げて光へ透かした。

 

「よかった」

 

その声を聞くために持ってきたのだとしたら、随分と馬鹿だ。

 

ホークスは箱を支えたまま、彼女が瓶を戻すのを待った。

 

玻璃は蓋を閉じ、鞄へ入れた。

 

「ありがと」

 

「ほかの荷物は、目録のとおり。返せないものについては、説明されたね」

 

「うん」

 

二人の間へ、職員が入った。

 

最終確認が行われる。

 

今回の引き渡しによって、彼女が関与した行為への捜査が終わるわけではない。残る証拠の調査も、被害者への対応も続く。

 

玻璃は頷いた。

 

内容は聞いている。

 

それでも、もう足が扉の方を向いていた。

 

*

 

「黒霧」

 

広い搬入口へ出るなり、玻璃の声が変わった。

 

黒霧がこちらを向く。

 

「玻璃さん」

 

「首、平気?」

 

「問題ありません」

 

「見せて」

 

玻璃は数歩進み、襟元を覗き込もうとした。

 

ホークスの羽が、その前へ出た。

 

彼女が振り返る。

 

「まだ?」

 

「合図があるまで待って」

 

唇が尖った。

 

それでも、今度は羽を押しのけなかった。

 

霧の奥から、男が声をかける。

 

「よく頑張ったね、玻璃」

 

玻璃の顔が、ぱっと上がった。

 

「先生、あの玉」

 

「預かっているよ」

 

「ドクター、触ってない?」

 

「箱を開けないよう伝えてある」

 

「絶対、見たがるから。貸さないでね」

 

「君からも言っておくといい」

 

先ほどまで医師たちが個性の返還を確認していた場所で、そんな話をしている。

 

隣にいる男は、十八人を閉じ込めていた側の人間だ。

 

玻璃は、それを知っている。

 

知ったうえで、大切なものを預け、ちゃんと守ってくれたかを確かめていた。

 

無線に、引き渡しを進める指示が入った。

 

ホークスは羽を下げた。

 

「ここから先は、ご本人の意思で」

 

職員が告げる。

 

玻璃は返事をして、境界に引かれた線を越えた。

 

躊躇はなかった。

 

黒霧が鞄を受け取る。玻璃はその隣へ立ち、先生のいる方へ向き直った。

 

「家、帰っていい?」

 

「今すぐは勧めない。しばらく、別の場所にいてもらう」

 

「やだ。水槽、ほっとけない」

 

「必要な手入れはさせよう」

 

「自分でやりたい」

 

男が、少しだけ顔を傾けた。

 

「玻璃」

 

彼女は黙った。

 

数秒して、頷く。

 

「……じゃあ、棚も持ってきて」

 

「置き場所を決めてからにしなさい」

 

「全部だよ」

 

「分かった」

 

玻璃はそれで、少し機嫌を直した。

 

ホークスはそのやり取りを見ていた。

 

公安では、彼女が何を望んでいるか分からないと言う者がいた。

 

分かっていても、聞き続ける者はいなかったのかもしれない。

 

だから許されることではない。

 

だが、この男が彼女に何を与えたのかは、初めて目の前で分かった。

 

*

 

「少し、話してもいいかな。ホークス」

 

呼ばれて、ホークスは男を見た。

 

引き渡しは終わっている。

 

それでも相手がここに留まっているのは、話すためだった。こちらも通信を切らず、記録を続けている。

 

「伺いますよ。お答えできるかは別ですけど」

 

「十八人の様子はどうだった」

 

「あなたがご存じなんじゃ?」

 

「君が見て、どう思ったかを聞いている」

 

ホークスは、最初の男の裸足を思い出した。

 

妹の名を繰り返していた女性。

 

担架の上で、顔だけこちらへ向けた青年。

 

「帰れてよかったと思います。そもそも、帰れなくした人間がいなければ、もっとよかった」

 

「君は、助けられたことをちゃんと喜べるんだね」

 

褒められたのだと分かり、背中に冷たいものが走った。

 

「確認したかったのは、それですか」

 

「今日は、お互いに望む結果が得られた。君たちは人を取り戻し、僕は玻璃を取り戻した」

 

「あなたが奪ったものを、こちらの損と引き換えに返した。それだけでしょう」

 

「そうだね。そこを綺麗に言い換える必要はない」

 

男はあっさり認めた。

 

玻璃は話を聞いているのかいないのか、黒霧の袖口を見ていた。裂けた跡が気になるらしい。

 

「ただ、次も同じ形である必要はないよ」

 

男が続けた。

 

「僕のところへ、いろいろな相談が来る。金がない。逃げたい。誰かを黙らせたい。個性をどうにかしてほしい。君たちには届かない話も多い」

 

「あなたが届かなくしてる話もね」

 

「それもある」

 

苛立たせるために肯定しているのではなさそうだった。

 

隠す必要がないと思っている。

 

そのことが、なお悪かった。

 

「今までなら、僕の役に立つものを選び、あとは放っておいた。だが、君たちに渡した方が役立つ話もある」

 

「部下の処分を、代わりにやれと?」

 

「部下とは限らない。僕の忠告を聞かずに、危ない商売を始める者もいるからね」

 

黒霧が封筒を出した。

 

ホークスは近づかず、羽で受け取った。確認担当へ回す。厚みは薄い。紙のほかに、小さな記憶媒体が入っていた。

 

「今日の条件にはありませんよ」

 

「追加の対価は求めない」

 

「見返りなしで?」

 

「処理してくれれば、僕にも利益がある」

 

ホークスは男を見た。

 

「なら、あなたの利益になるかどうかは気にせず調べます。あなたに繋がれば、そのまま追います」

 

「そうするといい」

 

男の手が、椅子の肘掛けへ戻った。

 

「同じ理由で動く必要はない。君が人を助けた結果、僕が得をする。それだけで、君は助けるのをやめないだろう?」

 

無線の向こうで、小さな物音がした。

 

誰かが、同じ言葉を聞いている。

 

ホークスは口元だけで笑った。

 

「やめませんよ」

 

「なら、また話ができる」

 

その返事が欲しかったのだと、言い終えてから分かった。

 

握手を求められたわけではない。

 

忠誠も、見逃しも、まだ求められていない。

 

放っておけない情報を、受け取るかと聞かれただけだった。

 

「次に会うときは、捕まえるためかもしれませんけど」

 

「その可能性も、覚えておこう」

 

声の調子は変わらなかった。

 

*

 

黒霧が、玻璃の帰るための出口を開いた。

 

向こうには明るい部屋が見えた。床にいくつか箱があり、窓際には、まだ何も入っていないガラス棚が置かれている。

 

玻璃がそれを見つけた。

 

「先生、もう買ったの?」

 

「気に入らなければ替えなさい」

 

「奥の板、透明?」

 

「自分で確かめるといい」

 

玻璃は一歩進み、それから振り返った。

 

ホークスを見た。

 

「啓悟」

 

彼はその場に立っていた。

 

「もう帰るの?」

 

「こっちは、引き継ぎがある」

 

「そっか」

 

そこで終わると思った。

 

玻璃は手袋の甲を撫で、もう一度口を開いた。

 

「前に言ってたやつ」

 

ホークスは待った。

 

「飛んでる記憶。あれも、もう駄目?」

 

隣に黒霧がいる。

 

少し離れた霧の向こうには、彼女の先生がいる。

 

自分は何を楽しいと思うのか。

 

それを知りたがってくれたことが、あのときは嬉しかった。

 

「……あの約束は、なしにして」

 

玻璃の指が止まった。

 

「空だけでも?」

 

「うん」

 

どうせ今までだって、と言われるかもしれないと思った。

 

見せたことも、触れさせたこともある。何を今さらと笑われたら、こちらは何と答えるのだろう。

 

玻璃は笑わなかった。

 

「分かった」

 

少し間を置き、付け足した。

 

「じゃあ、もう頼まない」

 

ホークスは頷いた。

 

謝らなかった。

 

玻璃は彼から目を離し、黒霧の隣へ戻った。

 

鞄を受け取ろうとして、持っていきますと言われる。その手が空いたので、彼女は先に出口へ入った。

 

部屋の向こうで、棚に顔を近づける。

 

透明な板を、横から確かめていた。

 

霧が閉じた。

 

*

 

その日の記録上、引き渡しは成功だった。

 

十八人全員を確保。ラグドールの個性の回復を確認。現場での負傷者なし。

 

目盛玻璃は相手側へ移った。

 

ホークスは、その報告に署名した。

 

病院へ向かうと、廊下で一人の男に呼び止められた。

 

引き渡された十八人のうちの一人だった。誕生日に帰れなかったことを、映像で娘に謝っていた人。

 

靴下を履き、病院のスリッパを足に引っかけている。

 

「家に、電話できました」

 

「そうですか」

 

「娘、怒ってました」

 

男は、泣きそうな顔で笑った。

 

「それから、ずっと泣いて。妻が代わってくれても、向こうで声がして」

 

ホークスは頷いた。

 

男が何かを言おうとして、言葉を探す。

 

待った。

 

「ありがとうございます」

 

頭を下げられた。

 

これは、取り消してはいけないことだった。

 

玻璃を手放したのが嫌だったからといって、この人が帰れたことまで、失敗の側へ置いてはいけない。

 

「よかったです」

 

ホークスは言った。

 

今度は、素直に笑えた。

 

「体、ちゃんと診てもらって。帰ってからも、仕事はすぐに無理せんでくださいね」

 

男は何度も頷いた。

 

病室へ戻る背中を見送り、ホークスは窓のそばで立ち止まった。

 

外では、車が途切れず走っている。

 

この人の娘は、たぶん今日、少し眠れる。

 

そのためにした仕事だった。

 

ただ、彼女の父親が帰れる日を決めたのは、自分たちではなかった。

 

*

 

封筒の中身について報告を受けたのは、翌朝だった。

 

違法薬物の取引記録。

 

仲介者の連絡先。

 

数件の運搬先と、製造元に関する情報。

 

既存の捜査記録と照合すると、複数の記載が一致した。誇張や偽情報の混入は引き続き調べる必要があるが、無視できる内容ではなかった。

 

公安の担当者が、最後の紙を出した。

 

薬物の効果について、短い説明がある。

 

一時的に、個性を使えなくする。

 

完成品では、回復しない。

 

ホークスは読み終えてから、紙を裏返した。

 

裏には何もなかった。

 

「どこまで確認できてます」

 

「裏の市場で試作品が出回り始めているらしい。個性が使えなくなったという被害情報もある。ただ、持続時間と成分は未確認だ」

 

「出どころは」

 

担当者が、別の資料を寄せた。

 

死穢八斎會。

 

既に、別のヒーロー事務所が関連事件を追っているという。

 

ホークスは、その名を見た。

 

オール・フォー・ワンが、これを潰したい理由は分かる。

 

奪い、与え、返す。

 

そうして人を従わせる男にとって、個性そのものを壊す薬は邪魔になる。

 

だが、理由が分かったからといって、放ってはおけなかった。

 

「担当の事務所と繋いでください」

 

言ってから、昨日と同じことをしていると気づいた。

 

相手の利益になる。

 

それでも、止める必要がある。

 

ホークスは資料を手元へ引いた。

 

紙の角を押さえていた赤い羽を、背中へ戻す。

 

今度は、誰から何を守る仕事になるのか。

 

まず、話を聞かなければならなかった。

 

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