「原料は、人間です」
ナイトアイが机の上へ写真を置いた。
小さな靴だった。
足の大きさが分かるように、横へ定規が添えられている。次の写真には、使用済みの包帯が写っていた。
ホークスは椅子へ深く座り直すのをやめた。
「薬から血液と細胞組織が検出された。運搬に関わった男の供述、それと本拠地への出入りを確認した結果、組長の孫にあたる少女が利用されている可能性が高い」
「生きてるんですね」
「現時点では」
ナイトアイは言葉を切った。
「繰り返し、原料を採取していると考えられる」
会議室に、紙をめくる音がした。
ホークスは自分の指先を見た。今、手元に置いた資料の何頁目を読もうとしていたのか、一瞬分からなくなった。
人間の個性を、薬にする。
使って、なくなれば、また作る。
原料は生きていた方がいい。
「少女の名前は、壊理。個性の詳細は不明だが、肉体そのものに作用するものと推測される」
写真が切り替わった。
遠くから撮られた、白い髪の子供。大人の脚の陰で、片腕だけが見えている。そこにも包帯があった。
隣に立つ若い男が、膝の上で拳を握った。
通形ミリオ。ナイトアイのもとで活動する、雄英の三年生。
「連れ出したあと、すぐに治療を受けられるようにします」
ホークスは言った。
「飛ぶのが危険な状態なら、地上の搬送を優先する。それと、救出後に何を聞くにしても、俺らの都合で急がせんように」
ナイトアイは頷いた。
「同意する。君には救出経路の確保と、保護対象の搬送を頼みたい」
「了解です」
机の向こうで、相澤が資料を閉じた。
今日は、白雲の写真を持っていなかった。
互いに一度だけ目を合わせる。どちらも、玻璃の話はしなかった。
今は、この子を連れて帰る。
そこには、全員の意思が揃っていた。
*
捜査には十日かかった。
渡された情報を、そのまま作戦図にはしなかった。取引先を押さえ、運搬車両を追い、薬物の被害者を探した。
裏づけを取るたびに、最初の封筒が正しかったことが増えていった。
その一方で、渡されていない情報も見つかった。
薬を試された人間が、治療を受ける前に別の買い手へ引き渡されている。
売られていたのは、薬だけではなかった。
ホークスは売買の記録を追う担当者へ、オール・フォー・ワンとの接点を調べるよう依頼した。少女の救出に必要な情報と、情報提供者を追うための材料を、同じ書類から拾っていく。
向こうの狙いどおりに動いている部分がある。
それでも、調べる手を止める理由にはならなかった。
突入の前夜、事務所から電話があった。
翌週の取材についての確認だった。子供向けの企画で、飛行時にどんな景色が見えるのか聞きたいらしい。
ホークスは予定表を見た。
「時間、短くしてもらえます? 無理なら別日に」
延期になるかもしれないと伝え、電話を切った。
窓の外には、低い雲があった。
雲の上へ出るだけなら、すぐだ。
少し迷って、やめた。
明日は、早い。
*
「この人、もう帰したら?」
玻璃は寝台から手を離した。
白衣の男は眠ったままだった。研究者だと紹介されたが、玻璃には見覚えがない。ドクターのところへよく出入りする人間とも違った。
「もう、必要なところは見終わったのかい」
先生が尋ねる。
「たぶん。途中から、同じことばっかり」
「では、それを見せてくれるかな」
玻璃は先生の手へ触れた。
白い部屋。冷蔵庫。細い注射針。
薬液の量を変え、結果を書き込み、別の試料を用意する。大人の声が、何度も同じ数字を読み上げる。
そこに、子供の腕があった。
玻璃は、男の記憶から見つけた工程を順に見せた。先生は途中で質問を挟んだ。いつの記憶か。同じ場所に何人いたか。完成品はどこへ運ばれたか。
覚えていないものは、分からない。
ガラス玉を作るときと同じだった。中身を勝手に足すことはできない。
手を離すと、頭の奥が鈍く痛んだ。
「お疲れさま」
「先生、薬の中に人が入ってるのって、嫌じゃない?」
「君は嫌なのかい」
「中、濁るじゃん」
透明な容器に入っていても、薬液は綺麗ではなかった。沈殿したものを振って混ぜる場面など、何度も見たくない。
先生は少し黙り、それから頷いた。
「そういう意味では、好ましくないね」
「でしょ」
玻璃は水を飲んだ。
今度の部屋には、ちゃんとガラスのコップがあった。
先生はドクターへ通信を繋いだ。薬の作用について話し始める。個性を抑えているのではない。因子そのものに損傷がある。時間が経てば戻るものと、戻らないものでは、処理が違う。
玻璃は、半分ほどしか聞いていなかった。
「戻す薬も考えていたようだね」
先生のその言葉に、ドクターが何か答えた。
実験途中。
安定しない。
製造工程の続きが要る。
玻璃はコップを持ったまま、寝台の男を見た。
「じゃあ、また読むの?」
「今日は休んでいい」
「明日?」
「必要になれば、頼むよ」
玻璃は嫌な顔をした。
それから、コップを照明へかざした。縁が少し厚い。ここの食器は、好きなものを自分で選びたい。
「先生、買い物行きたい」
「今はまだ、控えなさい」
「黒霧が一緒なら大丈夫でしょ」
先生は返事をする前に、通信へ顔を戻した。
「資料は保全してくれ。八斎會の設備は、明日以降使えなくなる可能性が高い」
玻璃は、コップを下ろした。
また聞いてない。
でも、もう一度言うと、今日は駄目だと決められそうだった。
明日、黒霧に頼もうと思った。
*
突入から八分で、地下の図面は役に立たなくなった。
壁が動く。
通路の幅が縮み、床が持ち上がる。人を押し潰すようにではなく、必要なところだけを離し、別の場所へ繋げていく。
ホークスは羽を通気口へ送り込んだ。
奥から、子供の声は聞こえない。
聞こえるのは、靴音と、息と、壁の軋み。
「右、三人。武器あり」
無線へ伝える。
そのうち二人の手首を、角の向こうで羽が押さえた。残る一人は床へ伏せる。逃げる方向を読んで、足元へ一本回す。
相澤が横を抜けた。
捕縛布が、羽で止めた男たちをまとめて引き寄せる。
「行け」
ホークスは床を蹴った。
先行するミリオの姿は、もう見えない。壁を抜けて、奥へ向かっている。少女の位置を見つけ次第、連絡を寄越す手筈だった。
羽が、人の呼吸を拾った。
近い。
「左の部屋、二人。片方、呼吸が浅い」
そこへ向かうと、扉の内側に棚が倒されていた。
羽を隙間へ入れ、棚ごと浮かす。中には縛られた男と、床に座った女がいた。二人とも、ヒーローを見てもすぐには動かなかった。
「外へ出ます。歩けますか」
女性が首を振る。
ホークスは二人を羽で支え、後続へ渡した。
その分、背中が軽くなった。
もう何本出したか。
数える必要はない。どの羽がどこで、何を持っているかは分かる。
今はまだ、分かっていた。
*
ミリオから連絡が来たとき、ホークスは地下の中央通路にいた。
「少女を確保! 若頭が追ってきます、床に触らせないで!」
直後、足元が突き上がった。
床が割れ、白い尖端が何本も伸びる。
ホークスは天井すれすれへ逃れ、後ろの警察官を羽で引き上げた。一本が防護服を掠める。身体には届かない。
角の向こうからミリオが飛び出してきた。
胸元に、白い髪が見える。
包帯の巻かれた細い腕が、彼の首へ回っていた。
その後ろに、鳥の嘴のようなマスクをつけた男がいた。
床へ伸びた手が、止まる。
通路の反対側に、相澤が立っていた。
「今だ!」
ミリオが少女を抱えたまま滑り込んでくる。
ホークスは両腕を出した。
「預かる」
少女は離れなかった。
ミリオの服を、指が白くなるほど握っている。
「大丈夫。この人、すごく速いんだ」
ミリオが言った。
「君を外へ連れていってくれる」
少女の目が、ホークスへ向く。
怯えた目だった。
自分がヒーローだと分かれば安心してくれる、そんな目ではなかった。
ホークスは手を伸ばしたまま、待った。
後ろで、男の怒声がした。
「壊理!」
少女の体が縮む。
その瞬間、ミリオが彼女をホークスへ渡した。
「お願いします!」
「任せて」
受け取った体は、思っていたより軽かった。
軽いのに、抱えた腕の内側がひどく狭く感じた。
ここから落とせない。
背中で翼を開き、ホークスは通路を戻った。
*
出口までの道は、途中で折れていた。
先ほど通った場所に、斜めの壁がある。別の部隊が迂回路を確保していたが、天井の支えが不安定だった。
ホークスは羽を上へ回した。
崩れかけた配管を持ち上げる。落ちれば通路が塞がる。
背中から、また数本が離れた。
「もう少しね」
少女へ声をかける。
返事はない。
顔を肩へ押しつけたまま、息を止めるようにしている。
「苦しくない? 腕、痛いところ触ってない?」
小さく、首が動いた。
どちらの意味か分からなかったので、抱え方を少し変えた。
少女の指が、ジャケットを掴み直す。
「……戻った方が」
耳元で、声がした。
「戻った方が、みんな」
ホークスは足を止めなかった。
「戻らなくていいよ」
「でも」
「痛いの、嫌でしょ」
少女の指が動かなくなった。
「嫌でいいんだよ。だから、外へ行こう」
前方に、地上の明かりが見えた。
その手前で壁が軋んだ。
ホークスは少女の頭を抱え、身体を横へ傾けた。壁が通路へ倒れ込む。後ろに続く負傷者と搬送員へ、残った大きな羽を走らせる。
持ち上がる。
二人とも、下敷きにはならない。
壁の向こうに、空洞があった。
そこにいた男が、銃を持ち上げた。
こちらを見ている。
いや。
腕の中の少女を見ている。
ホークスは、男の手首へ羽を向けた。
間に合わない。
銃口が跳ねた。
少女を胸へ押し込み、左肩を前へ出す。
衝撃は、思ったほど強くなかった。
痛みより先に、音が消えた。
*
耳が聞こえなくなったのかと思った。
違う。
目の前で壁が砕けている。その音は聞こえる。誰かが叫んでいる。無線も鳴っている。
消えたのは、廊下の奥だった。
配管を支えている羽の、重さ。
負傷者を抱き上げた羽の、震え。
外の空気に出ていた羽の、風。
全部が、一度に分からなくなった。
背中へ命じる。
持ち上がれ。
動かない。
足が床を離れていた。
落ちる。
ホークスは少女の頭を胸へ押さえ、身体を捻った。
肩から床へぶつかった。翼が下敷きになる。骨の奥で、嫌な音がした。
少女の体が跳ねる。
腕だけは、離さなかった。
頭上で配管が落ちた。
誰かがそれを受け止めた。金属が鈍く鳴り、怒鳴り声が続く。
「こっちや! 下がっとれ!」
ファットガムだった。
別の通路から合流してきた大きな身体が、瓦礫と人の間へ入る。
赤い羽が、空中を落ちていた。
一枚が、少女の髪へ触れた。
動け。
ホークスはその羽を見た。
動けよ。
羽は、肩から床へ滑り落ちた。
「ホークス!」
ミリオの声がした。
銃を持っていた男が蹴り倒される。駆けつけた警察官が、その両腕を押さえた。
ホークスは返事をしようとして、息が詰まった。
左肩が熱い。
背中は、もっと痛い。
少女が腕の中から顔を上げた。
「わたし」
ホークスは、その口が次に何を言うか分かった気がした。
「違う」
先に言った。
声が掠れた。
「君のせいじゃない」
ミリオが膝をつき、少女へ腕を伸ばす。
彼女は、ホークスのジャケットから指を離さなかった。
ホークスは右手で、その小さな手を包んだ。
「この人と、外へ」
指を一本ずつ外す。
少女は泣いていなかった。
それが、かえって怖かった。
何かを諦める顔を、させたくなかった。
「俺も行くから」
ミリオが少女を抱き上げた。
ホークスは右手を床についた。
脚は動く。
なら、立てる。
背中の重さに引かれ、膝がもう一度床へ落ちた。
*
地上へ出るまでの記憶は、途切れていなかった。
誰が腕を貸してくれたかも、途中で何度足を止めたかも、覚えている。
いつもなら自分が先に持ち上げる担架へ、座らされたことも。
翼の下へ、畳んだ毛布を差し込まれたことも。
「動かさないでください」
医師に言われた。
ホークスは頷いた。
動かせない、とは言わなかった。
救急車の扉が閉まる前に、無線から報告が入った。
若頭を拘束。
少女の身柄を確保。
押収物の確認中。
ホークスは目を閉じた。
よかった。
そこは、ちゃんと思えた。
思えたあとで、もう一度、背中へ命じた。
動かなかった。
*
「試作品では、時間の経過とともに個性の働きが戻った例が確認されています」
医師が言った。
ホークスはベッドの端に座っていた。
左肩には処置がされている。背中は固定され、楽な姿勢が見つからなかった。
「今回使用された薬が、同じものかどうかは、まだ確認できていません」
「完成品ってやつかもしれない」
「その可能性も調べています」
机の上に、採取した検体についての書類があった。
医師は、断言を避けている。
戻るとも、戻らないとも。
ホークスはその慎重さをありがたいと思った。同時に、今すぐどちらかを言ってほしかった。
「羽の方は」
「落下の際の損傷があります。まずはそちらを治療します。個性の状態とは、分けて考える必要があります」
「分かりました」
分かることばかりだった。
何を先にするかも。
検査に時間がかかることも。
調べていないものを決めつけてはいけないことも。
全部、分かっていた。
医師が退室したあと、ホークスは机の上の携帯を見た。
少し遠い。
いつものつもりで、そこへ意識を向けた。
何も起きなかった。
手を伸ばす。
背中に痛みが走り、途中で止まった。
ベッドのそばにいた職員が、黙って携帯を取った。
「ありがとうございます」
ホークスは受け取った。
画面には事務所からの連絡が並んでいる。
取材の延期。担当するはずだった警戒業務の引き継ぎ。容体を気遣う、短い文面。
上から順に返事をした。
最後に、少女の状態を確認する。
大きな外傷はない。診察を受けている。安全な場所で休ませる予定。
その返信を、しばらく見ていた。
彼女は外へ出た。
ホークスは窓へ目を向けた。
病室は上階にあった。向かいの建物の屋根が見える。
あの高さなら、ほんの一息で。
そこまで考えて、やめた。
*
報せを受けたとき、玻璃は棚の位置を決めていた。
黒霧が箱を置く場所を尋ねたので、窓際を指した。
「違う、もうちょっと右。そこだと、午後に」
そこで、先生が名前を呼んだ。
玻璃は振り返った。
画面に、病院の外観が映っていた。ニュースの映像だった。
死穢八斎會への一斉捜査。
少女を保護。
負傷したヒーローの名。
「啓悟?」
「薬を撃たれたようだ」
玻璃は先生を見た。
「昨日の?」
「同じ系統だろうね」
「じゃあ、飛べないの?」
「今のところは」
玻璃は画面へ戻った。
担架の映像は遠かった。赤い羽が見える。動いていないのは、怪我をしたからか、薬のせいか、映像だけでは分からなかった。
黒霧が箱を床へ置いた。
いつもなら、音が大きいと文句を言うところだった。
玻璃は気づかなかった。
「病院、行きたい」
「今は難しい。君の姿を見せられる場所ではないよ」
「黒霧なら行けるじゃん」
「君が行けば、彼の立場を悪くするかもしれない」
玻璃は口を閉じた。
言い返しかけて、もう一度画面を見る。
啓悟は、自分が行っても喜ばない。
それは分かった。
分かったのに、箱を開ける気にならなかった。
「……見るだけでも」
先生は答えなかった。
玻璃は、棚に置いた小瓶へ目を向けた。
赤い羽は、綺麗なままだった。
中庭で抱えられたとき、啓悟は何を感じていたのだろう。
怖いとさえ思う前に、部屋の外へ出ていた。黒霧の方へ戻りたくて、あのときは空なんて見ていなかった。
もう頼まない、と言ったのは、自分だった。
玻璃は瓶に触れず、もう一度、病院の映像を見た。
今、何を考えているのか。
触れれば分かるはずなのに、行って、触って、確かめるところを想像すると、指が動かなかった。