命が消え失せた大宴会場は鮮血と血肉で彩られており、地獄さながらの光景である。
騒ぎを聞きつけた衛兵の声が、壁越しから聞こえてくる。すぐに城は包囲されるだろう。
そうなれば空路を使って逃げるだけだ。有り余る魔力に物を言わせた強行突破は得意中の得意である。止められると思うな。
王殺しにより色々と吹っ切れた幽者は再び白に染まった聖剣を構え、意識を集中させる。研ぎ澄まされた魔力が聖剣を包み、溢れんばかりの光を湛えた。
と同時に、視界の隅で何かが動いた。まさか生存者か、と幽者は警戒を露わにし、恐る恐る何かに近づく。
はっきりとその姿が見えた時、記憶のそれと眼前のそれが紐付く。
宴会場の隅に縮こまっていたのは一人の少女。その頭部からは角が生えており、魔族であることを示していた。
たしか彼女は、王が『功労者に与える個人的な褒賞』だと言っていた子だったか。まだ年端もいかない子供だろうに、非道い扱いをするものだ。
潤んだトパーズのような瞳に、艶やかな竜胆色の髪。幼くも麗しい顔立ちに、子供とは思えない早熟な肉体と将来性を感じさせる風貌をしている。
眼前の惨憺たる光景に絶句しているのだろう。王の物言いからしてここに連れ出されるまでに散々な扱いを受けたことも容易に推察できる。
惨状の下手人が目の前にいて、しかもそれが
別に好きで魔族を殺していたわけではないのだが、彼女がそれを知る由は無い。彼女を殺す理由も、意志も無い。
なので、安心してもらうために慰めることにした。
「ここに居たのは、人の形をした
その発言をしている幽者はナチュラルに魔族を人間扱いしていなかった。そもそもの種が違うのだから、当然の話ではあるのだが。
なのに人魔で子を成すことは出来るらしい。生命って不思議。
「…我を殺さぬのか?貴様からすれば、我は穢らわしい魔族ぞ。今まで貴様が殺めてきた者と何ら変わらぬ存在よ」
何故殺す必要があるのだろう。別に敵対しているわけでもないというのに。状況を見れば彼女は被害者だ。
まさか、魔族全て滅するべしと考えている血も涙も無い蛮族だと思われているのだろうか。
勘弁してほしい。魔族だろうが人間だろうが、明確に敵と認めた場合は殺すというだけの話なのに。
まさか死にたいから介錯してほしいとでもいうのか。あまり気は進まないが、他ならぬ本人が望んでいるのであれば否やはない。
せめて痛みを知らず安らかに逝くといい。慈悲の心を胸に、幽者は聖剣の柄を握った。
「いや待て。待ってくれ。何か盛大に勘違いしておらぬか?たしかに我は数え切れぬほどの苦しみを経験してきたが、死ぬつもりなど毛頭無いぞ!?」
どうやら早とちりだったようだ。幽者は謝罪して、少女の頭を撫でる。これで落ち着いてくれれば良いが。
「というか貴様は我を
笑えない冗談を言うものだ。いくら魔族といえど、こんなちっこいのが大人なはずがあるまい。
非情な現実から目を背けるために記憶を偽っているのかもしれないと、幽者は生暖かい目で魔族の少女を見つめた。
「…はあ。まさか、勇者に憐れまれる日が来るとはな」
恐怖が消えたのか。毒気が抜かれたのか。やれやれと脱力した少女は、小さく咳払いして笑った。
「何はともあれ。貴様には二度も助けられたな。礼を言うぞ」
彼女の言っている意味が分からなかった。少なくとも、こんな年寄りくさい話し方をする幼女と出会った記憶は無い。人違いではないだろうか。
首を傾げる幽者を少女は否定する。曰く、幽者が解放した都市に幽閉されていたという。
念のために、その幽閉された都市の名前を問う。返ってきたのはたしかに、過去に自分が攻め落とした城塞都市だった。
「…うむ。貴様があの都市を陥落させるまで、我は虜囚として城主に囚われておった。解放されるまでは陵辱の日々よ。思い出すだけでも虫唾が走るわ」
少女は不快感を露わにした表情で腕を鳴らす。先程まで怯えていたとは思えない強気な姿勢だ。
そうでもしないと正気が保てないのかもしれない。怒りや憎悪に縋り精神を保つ。珍しくもない話だ。
どのような目に遭おうとも生きることを諦めず、前向きに考えるそのバイタリティは見習いたい。
「望まぬ子を孕まされ、産み落としたそばから取り上げられた…。記憶に残っておるのは、たった一瞬のぬくもりだけだ」
まるで家畜のようである。同じ魔族に対してそのような仕打ちをするとは、城主はどれだけ性根が腐っていたのやら。
その城主がどんな奴だったかは覚えていないが、記憶に残らない程度のつまらない魔族だったことは確かだろう。多少なりとも手こずっていれば嫌でも覚えているものだ。
「城主の亡骸を見た時は胸がすく思いだったわ。この手で縊り殺せなかったのは無念だが、贅沢は言えん。改めて感謝を申し上げるぞ、勇者よ」
散々殺してきた魔族に感謝されるとは、どう反応すればいいのやら。複雑な胸中の幽者は、視線を逸らして頬を掻いた。
分かりやすく困っている幽者に苦笑した少女は、徐に壁を叩いた。
「すまんが、壁を壊してくれぬか?城外に出られればあとは自力で逃げ出してみせようぞ。あの愚王の言葉に従うなら貴様の下婢となるべきなのだろうが、我にその気は無い。…無論、貴様もそうなのだろう?」
言われるまでもない。あの下衆共と同等まで堕ちるつもりはないのだから。
頷いた幽者は聖剣を取り出し軽く振るった。刹那の間に幾重もの光の線が壁に走る。
数瞬の間を置いて、壁がバラバラに崩れ去った。これで障害は排除された。あとは逃げるのみである。
「感謝する。我は『シェリア・コルティオ』。名も知らぬ娘を探し旅する者だ。勇者よ。再び貴様と相見える日が来たなら、その時は礼をさせてもらいたい。必ずや貴様を満たそうぞ」
貴き血族の末裔としての矜持があるでな、と少女は笑い闇に消える。手足を縛っていた枷のみが、少女のいた場所に残される。
まるで夢のようだと、幽者は枷に触れる。微かに温かさが残っていた。
「いたぞ!勇者だ!」
「包囲しろ!逆賊には吊るし首すら生ぬるい!生まれたことを後悔させてやれ!」
宴会場の扉が破壊され無数の兵士がなだれ込む。あっという間に囲まれた幽者だが、足元の枷を拾い何度も宙に放っている。
この状況に興味が無いと言いたげな態度であり事実、幽者はこの状況をなんとも思っていなかった。
命の危険など微塵も感じていない。こんなことで死にそうになるなら今までに百は死んでいる。そういう修羅場を越えてきたのだから。
「貴様ら如きが勝てると思うなよ…」
国王らを殺め越えてはならぬ一線を越えてしまったからか。
もはや人間に刃を向けるのに一切の躊躇いは無く、その命を奪うのに良心の呵責は存在しない。
だが、彼らの首には何一つ価値が無い。生きてようが死んでようが、それは幽者にとってどうでもいいことだ。
呆れたように息を吐いた幽者は、軽く地面に剣を突き刺して魔力を込める。
瞬間。
「「「「「ぎゃあああああああああ!!!!!!!」」」」」
宴会場が爆ぜ、
☆☆☆
同時刻。
「大将ー!おかわりを寄越せー!!!」
一人の
だがこの光景は彼らにとっては日常らしく、制止もほどほどに酒盛りに興じていた。
お盆を使った裸踊りをしている変態さえおり、なかなかにカオスな状況である。
そんな
全てはアルコールのせいだろう。我に返った時に机に頭を打ちつけて記憶を消そうとする姿が目に浮かぶ。
「何を恥じているんだー!男ならもっと堂々とやれやー!!」
アッシュブラウンの髪を束ねた
スタッフを除き、ここにいる全員は皆脳みそがアルコールに芯まで浸かっているので場が白けることもなく、そうだそうだもっと派手にやれと煽られる始末。
とても子供に見せられる光景ではない。見たら確実に悪影響だし、こんなところに子供を連れてくるようなバカ親は袋叩きにされても文句は言えないだろう。
煽てられた男は
両手のお盆で股間を隠しながら逆さまになり、助走なしで回転を始める人間離れした芸当を魅せた。あまりにも無駄な技術である。
幸いにして、男の象徴が曝け出される大惨事は避けられている。
ここまで狂っているなら、別に
どんちゃん騒ぎを経てひとしきり満足した
「はいよ。いつも金を落としてくれてるアルミューレ様にちょっとばかりの心付けだ」
「ありがとう」
先程のあられもない姿からは想像もつかないほどに温和な笑みを浮かべる
王都の有力貴族の跡取り娘である彼女が、こんなバカ騒ぎに混じるのを咎めないのにはそれなりの
真面目で人当たりの良い、それでいて貴族の身でありながら戦争を終わらせるために騎士として戦列に加わった、万人に愛されるような非の打ち所がない彼女の心をバッキバキにへし折った
ノブレス・オブリージュを体現したとまで言われた彼女がここまで自堕落になってしまったのは、他ならぬ勇者の心無い言葉が原因である。
足手まといを庇っている余裕はない。端的に、しかし無情で残酷なお荷物宣言を受けたアルミューレは自信を喪失してしまったのだ。
本人もそのことを自覚していたので尚更、無慈悲な言葉のナイフは心に深く突き刺さった。
他人を嘲ることをしない勇者が直々に言ったことが、その事実をより強調しているのも原因にあっただろうが。
必死に反論したアルミューレだったが、勇者は取り合ってくれず戦線離脱させられることになる。
傷つくことを厭わず、最前線で剣を振るう勇者。その傍らに立ち護りたいと、決意を胸に秘めていたアルミューレには、悲しいことに共に戦う資格が無かった。
勇者に悪気があったわけではないと、頭では理解している。
だが、時々思うのだ。あの時の勇者は何を思い自分を追放したのか、と。
武器を振るえない聖女は許されて、何故自分は許されなかったのか、と。
それからというもの。あれほど精を出していた鍛錬はすっぱりと辞めてしまい、昼夜問わず酒場に入り浸るダメ人間になってしまったのだ。
引き締まっていた体つきも今ではだらしなくなってきており、ちょっとお腹まわりや太ももがぷにぷにしてきた。
本人も流石に危機感を覚えてはいるのだが、酒を飲まずにはいられない。嫌なことは飲んで忘れるに限る。
「…私だって、努力したんだけどな」
オマケしてもらったグラタンを口に含み、愚痴を漏らすアルミューレの姿もまた日常だった。
最初は他の人も彼女を慰めていたのだが、勇者の話題になった途端、アルミューレがプンプンと怒るのだ。
お前たちに勇者の何が分かるだの勇者のことなど知らないくせにだのと面倒くさい怒り方をする。
まるで彼氏に捨てられて未練たらたらの女みたいだというのが皆の総意である。本人にそのことが知れたら血を見る羽目になるので黙っているが。
ぶつくさ言いながらもスプーンを動かす手は止まらない。熱々のグラタンから漂う匂いは香ばしく、空きっ腹に直撃したらさぞ効くだろう。
他の客からも俺たちも金落としてるんだから振る舞えと、酔っ払いの戯言が噴出するもマスターはそれをあっさりと往なす。
むさ苦しいおっさん共に恵む飯はないのだとか。きったねえもん見せた罰だとも言っていた。
愉快なやりとりを尻目に、アルミューレは席を立つ。グラタンとアルコールで火照った身体を涼めるために一度夜風に当たろうとしたのだ。
酒場を出て、備え付けのベンチに腰掛ける。見上げた空に星は無く、月明かりが厚い雲の存在を示している。
ふう、と息を吐いたアルミューレはふと、王城の方角を見遣る。猛烈に嫌な予感がしたのだ。
原因は不明だが、敢えて述べるのであれば激戦を経て培った直感だろうか。
目を細めて王城を見つめること数秒。
光が一瞬漏れたと思ったら、ド派手な大爆発が起きた。
もしかしなくても大惨事な光景にアルミューレは息を呑む。立ち上る煙の量は多く、城の様子は窺えない。
完全に酔いが醒めてしまったアルミューレは、怪我人の救助に向かおうと立ち上がる。
同時に、閃光が煙を突き破る。その正体に勘付いたアルミューレは驚愕と怒り、その他諸々の感情と共に目を見開く。
「ふはははははー!!!さらばだーーー!!!!!」
宵闇を切り裂く流星の如く飛翔するそれを、アルミューレが見間違えるはずもなく。
予感が的中しわなわなと怒りに震えたアルミューレは、空に向かって吼える。
「なにやってるんだバカリヒトォォォォ!!!?!!??」
がしかし。その言葉が
☆☆☆
「ふはははははー!!!さらばだーーー!!!!!」
高らかに勝利宣言をしつつ夜空を駆ける流星のように空を往く幽者。
国王らを弑逆した幽者は単身で王都を脱出する。包囲網を光魔法で雑にぶっ飛ばして逃げるだけの簡単なお仕事だ。
魔王直属の親衛隊と戦うのに較べれば、包囲網の突破など赤子の手を捻るようなもの。
王都の守備隊と
守備隊の主将である騎士団長は他でもない幽者が宴会場で斃したので当然の話だが。
艱難辛苦を振り払った高潔な盾も、いつしか醜い欲望に染まっていた。
これ以上思い出を穢す前に死んでくれと、幽者が一思いに首を刎ねたのが死に様である。
魔力の防御壁とミスリル製の大盾を全て豆腐のように切り裂き、何の抵抗もなくずるりと落ちた頭は現実の無常さを表していた。
さて。盛大に暴れて包囲網を突破したのは良いが、これからどこに向かえばいいのだろう。幽者は空を飛びながら思考していた。
思考を妨げるように遠方から飛来する矢の雨と魔法を光の壁で掻き消し、お返しと言わんばかりに無数の光弾を発射する。
視線の先、関所前の広場に布陣していた敵兵が光の中に消えていった。それなりに手加減はしてあげたので死にはしないはずだ。
これでくたばるならその程度の存在だと幽者は冷たく切り捨てる。
攻撃するなら仕返しされる覚悟くらい持つべきだ。
それで死ぬなら未熟な自分が悪いのだと、力量差を分かっていながら命をドブに捨てたのは自分だろうと、自己責任論を振り翳してぶん殴る所存だ。訴えるなら訴えてみやがれ。
迎撃を済ませた幽者はふと、聖女の家族のことを思い出す。彼らとは絶縁した仲だが、嫌いではない。
王殺しの下手人である幽者は嘗て、聖女の家に居候させてもらっていた。行政側もそのことは把握しているはずだ。
聖女が亡き者となってからは離別したのだが、そんな事情は知ったことではないだろう。復讐のために刺客が差し向けられてもおかしくない。
「…しょうがない。手紙だけでも入れとくか」
これで放置して皆殺しにでもされたら寝覚めが悪いと、わざとらしく独り言ちった幽者は、南へ向けて飛翔した。
☆☆☆
『王都レムカーナ』から遠く離れた辺境の田舎『フィアリス領』には、大きさだけが取り柄の屋敷が建てられている。
特に豪華でもなく、ただただ大きいだけの一軒家と言った方が適切な風貌だ。
仮にも領主の住まう屋敷なのだが、領主の意向もあって民家と同じ様式で建築された。
移動の最中に認めた文書を確認する。要点はちゃんとまとめているので、危険が迫っていることは文書を読みさえすれば伝わるはずだ。
名前を書いておくべきか。一瞬逡巡するも、すぐに首を横に振った。
こんな警告をする時点ですぐに正体は割れる。わざわざ書く必要は無い。
手紙をポストに乱暴に突っ込み、玄関を二度ノックする。これで投函されたことに気づいてくれるだろう。
長居したくなかった幽者はそのまま足早に去ろうとするが、背後から掛けられた声に反射的に振り向いてしまった。
「…リヒト君か。二ヶ月ぶりだな」
「アベル…様…」
「様はよしてくれ。私はもう、君の主ではないからな」
穏やかに微笑む壮年の男性。
ゆっくりと幽者の隣まで歩いたアベルは、幽者の肩を優しく叩きポストの手紙を取った。
「言わなくてもいいよ。…王を弑したのだろう?それで、私たちに危害が加わるのを懸念して忠告しに来た、と」
「…はい。お嬢様はこんな手荒な真似を赦さないでしょうが」
「どうだかな。クロエは確かにお人好しで甘っちょろい部分はあったが、近頃の王の横暴は目に余る。殺されたとて文句は言えんだろうよ」
手紙に目を通し、すぐに仕舞う。その視線は鋭く、曇天の夜空に向けられている。そろそろ一雨ありそうだ。
フードを被った幽者はアベルに問うた。その声色は怯えを含んでおり、とても元勇者とは思えない。
「…アベル様は何故、俺を赦したのですか?お嬢様を護れなかった俺を。…逃げ去ってもなお迷惑を掛ける俺を」
「何故、か」
ふむ、とアベルは顎に手を当てて熟考する。不安そうな視線を向けられるアベルは、ゆっくりと口を開いた。
「正直言うと、クロエを救えなかった君に思うところはあるよ。…だが、クロエは死の間際に全てを君に捧げた。その行為の真意は私には計りかねる」
けどね、と微笑みながらアベルは続ける。
「他ならぬクロエが。私の娘が、民ではなく君を選んだ。ならば、クロエを信じてその道行きを私も見届けたい。そう思っただけさ」
アベルの赦しに、幽者は頭を下げる。彼らが優しかったからこそ聖女も聖女として在れたのだと、何度目か知れぬ納得と共に。
「それと。せっかく忠告していただいたが、私はここに留まるつもりだよ。君にとっての民は
夫であるアベルとよく似た優しい方だった。
だからこそ、訃報を知った時はかなり悲しかったのだが涙が流れることは終ぞなかった。
当時は我ながら冷めたものだと自嘲したものだ。育ての母に等しい方だったというのに。
感傷に浸っていると、地面へと雨粒が落ちてきた。どうやら降り始めたようで、遠くからは雷鳴の音も聞こえてくる。
このままでは豪雨の中を行軍する羽目になってしまう。服が張り付いて気持ち悪いから、出来る限りは避けたいのだが。
鬱陶しそうに空を見つめた幽者は、アベルに最後の言葉を伝える。
おそらく、もう二度と会うことはないこと。そして、自分にその権利は無いだろうが、穏やかな余生を過ごせるよう祈っていることを。
「…ああ。私もまだ、家族の元に向かうつもりはないよ」
去り際に見えた
☆☆☆
鬱蒼と茂る森の中にひっそりと佇む廃屋同然の小屋。その隣には小さな十字架が刺さっており、人名が刻まれている。
名は『クロエ・フィアリス』。嘗て
「屋根は壊れてないな…。水捌けも問題なし、と」
十字架の周囲と屋内を確認する。不定期で長期間留守にするので、こうやって戻ってきた時は補修作業が必要か各所を点検している。
修理の腕は並程度なのでその場しのぎにしかならないが、ほったらかしにするよりかずっとマシである。
びしょびしょになった服を脱ぎ捨て、替えの衣類に着替える。虚空より取り出した聖剣を抜き、刃に付着した水滴を丁寧に拭った。
これは幽者が最も信を置く愛剣だ。それ以外の武器は保有していないのだから当たり前なのだが。
ただの戦士から勇者に至るまで、苦楽を共にしたこの剣はまさしく戦友と呼ぶに相応しい。
思えばこの武器とも長い付き合いだ。アベルに餞別だと買ってもらって、かれこれ四年になるだろうか。
よくもまあここまで保ってくれるものだ。手入れを欠かしていないとはいえ、度重なる激戦で酷使したというのに。
愛おしそうに剣の腹を撫でる。当たり前だが、そうやっても何か声が聞こえたりはしない。
元は市販の武器なのだ。意思を宿した
ざあざあと雨の止まない外を見ると、幾つもの落雷が森奥へ消えていった。この様子ではしばらく止みそうにない。
これでは外出なんてできやしないと、溜め息を吐いた幽者は風呂を沸かす準備を始めた。
井戸から水を汲み、浴槽に流し込む。浴槽の下に薪を敷き詰めたら、光を凝縮して小さな光球にし、そっと薪に触れさせた。
刹那、炎が轟々と燃え上がる。超高温の光に触れ瞬時に発火したのだ。
これも魔王軍との戦いの中で得た技術である。各地を転々とし野宿ばかりだった勇者時代。
焚き火なくして料理は出来ず、暖も取れなかった。そのため、勇者とその一行は火付けの方法は習得している。
というより、旅人の必須技能である。覚えてない奴が、自然の中で生きていけるはずがない。
傷付いてばかりの日々だったが、あの苦しい戦いも無駄ではなかったと、今では懐かしい思い出である。
思い出の中でじっとしていてほしい面々は見なかったことにしておく。人として堕ちるところまで堕ちた畜生に情けなど無用だ。
「あ゛ぁ゛〜〜。極楽極楽」
雨で冷えた身体が癒やされていく。風呂は命の洗濯という先人の言葉が心で理解出来る瞬間である。
このお湯が温泉なら言うことは無いのだが。
近くに火山など無いので、無い物
風呂で温まっている最中に、残りの物資がどれだけだったか思い出す。食糧はあと一週間分程度残っていたはずだ。
最後に
となると、道中でギルドを訪ねられてかつ依頼が多い危険なルートが望ましいわけだが。
頭の中で地図を描くこと数分。ここから程よく離れており、道中でギルドにも行けるルートを思いついた。
定期的に隊商が行き来するので、そこまで足止めは食わないはずだ。最悪アリフに滞在して依頼をこなし、路銀を稼ぐ手段もある。
まだ
自慢ではないが、幽者の行軍速度は単独であれば冗談のように速いのだ。統率を欠いてぐだぐだな軍隊ではちょっとやそっとでは追いつけない。
ついでに