第六話 愉快な冒険の始まりだ
長い夢から覚めた幽者は、欠伸と共に起き上がる。
おかしい。明らかに他人の記憶が複数混在していた。
夢は集合的無意識とやらに繋がっているらしいが、それが何か関係しているのだろうか。
他人の記憶の内訳は
いずれも面識のある相手である。
集合的無意識を経由して双方の記憶が接続され、夢という形で他者の記憶を回想したのかもしれないが、知識が無いのでこの仮説が正しいのかも分からない。
まさか他人が自分の記憶を見ていることはないだろう。
もしそんなことが起きれば、今までの努力は全て水の泡になってしまう。
どうかそんな悲劇が起きませんようにと祈り、ベッドから出て着替える。
窓からは柔らかい朝日が差し込んでおり、穏やかな天気模様なことが伺えた。
鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに気が付く。料理の仕込みをした覚えはないが。
「やあ、おはよう。清々しい朝だねえ。…な、なんだいそんな目でこっちを見て!?私だって料理くらいするさね!?」
扉を開けると、そこにはエプロンを着けて料理をしているシルヴィアの姿が。
魔法使い御用達のローブも着ておらず、その姿はまるで主婦のようだ。とても高名な賢者とは思えない。
「いやいや、私も賢者って持て囃されるまでは一人で頑張ってきたんだからね!?自炊出来なきゃ話にならなかったんだよ。他人に全部任せるのも性に合わないし…」
なんとなく魔法で全部済ませてるイメージがあっただけだと弁明する。
そんな他人をこき使って悦に浸る邪悪な人間だとはこれっぽっちも思っていないのでご安心ください。
「…君の想像上の私は随分と悪辣な人間のようだね。悲しいよ」
やれやれと言いながらも、手際良く料理を並べていく
まさか一人でこの量を食べるのだろうか。見かけによらず大喰らいだと幽者は感心した。
「君の分も作ったに決まっているだろう!?全部独り占めするほど卑しくないし、こんないっぱい食べられないってば!」
消費した魔力の補給には、魔力回復のポーションを飲むか大量に飲み食いするかが効果的だ。
だからシルヴィアも魔力回復のために大喰らいだと思ったのだが、どうやら違うようだ。ちなみに幽者は三人前までなら余裕で平らげたりする。
料理のラインナップを見てみると、近所で採れた山菜のサラダと野菜のスープ、川で釣った魚の塩焼き、買い溜めしていた乾パンと量の割に質素だ。
これでは食べ盛りの若者の腹は膨れまい。少なくとも、自分は満足しない。せめて肉が欲しかった。
「有り合わせの物で作ったから仕方ない。豪華な料理をご所望なら、相応の食材を持ってきてくれれば用意するよ」
それはありがたい。一人暮らしだと、どうしても食事は雑になりがちだ。
真心のこもった手料理など何ヶ月ぶりになるだろうか。期待を込めて、幽者はフォークを持った。
賢者の手料理は素朴で、どこか懐かしい味だった。
☆☆☆
朝食を終えた幽者たちは拠点の整備を開始する。
聖女を喪い流れ着いたこの場所は数十年前に打ち捨てられた限界集落の名残であり、崩壊寸前の廃屋が数軒残っている。他は全て崩れてしまった。
長年放置されていた場所を拠点にすると決めた時に、一番原型を留めていた廃屋を修繕し、真横に不恰好な墓地を拵えたのだ。
その過程である程度雑草や倒木は処理して整地も実施したのだが、男手一つでは些か無理があった。
賢者の知恵を借りて整地作業を再開するもシルヴィアの非力な細腕では雑草を抜くのも一苦労なので、程なくして作業員から現場監督にジョブチェンジすることになる。
いっそ更地にしてから建て直した方が早いんじゃないかと思いながら整地を行う幽者に、休憩を告げる賢者が冷たい水を用意する。
感謝を述べつつ水を口に含むも、微かに魔力の気配を感じ首を傾げた。
「あ、やっぱり気が付いたね。これは私のなけなしの魔力を使って生成した冷たーいお水だよ。この程度の魔法であれば、今の私でもギリギリ使えるみたいだ」
シルヴィアは両手を上に向ける。右手の人差し指には小さな火が燃えており、左の手のひらからは水が滴り落ちている。
どちらも基礎の魔法である。幽者はその基礎の魔法すら使えないが。生まれ持った光魔法の素質が邪魔をしているのだと推測している。
どっこいせと漏らしながら切り株に腰掛けるシルヴィアはまるで畑仕事を終えたお婆さんのようだった。
シルヴィアはこちらを見ながら、隣の地面をポンポンと叩く。ここに座れ、ということか。
シルヴィアに従い隣に座る。差し込む日差しが心地よいが、先程まで作業をしていたのもあって少し暑い。幽者は上着を脱いで木の枝に引っ掛けた。
「…重ねて言うが、今の私は知識だけが取り柄の木偶の坊だ。魔法はほとんど失われ、魔力だってミジンコみたいな量しかない。自慢じゃないが、今の私なら近所のお子ちゃまと喧嘩しても負ける自信がある。この忌々しい指輪のせいでね」
不快げに指輪を叩く賢者。
絶大な魔力と真理にも至る智慧を兼ね備えた賢者でさえも例外ではなく、力を奪われ囚われの身となったらしい。
そんな賢者様の智慧を以ってしても、取り外すことは不可能なのだろうか。
「あらゆる方法を試したさ。無理に外すのはもちろんのこと、指を切り落としても意味は無かった。…指輪(これ)は私の魂魄と結びついてるんだよ」
彼女が言うには、
どちらにせよ、指輪に内蔵された術式は複雑怪奇で解析も思うように進まないのだとか。
皿に適当に盛り付けたスパゲッティのような絡み具合だというのが彼女の評価だ。
魂と一体化した
指を詰めようが酸で腕ごと溶かそうが、気が付けばそこにあったらしい。もはや呪物の類である。
破壊は不可能だと悟ったシルヴィアは、指輪と魂の接続を切り離す方法を探っているわけだが、ここにある設備では術式の解析等は困難を極める。
戦力として計上したいのであれば環境改善を早急に求める、というのがシルヴィアの要望だ。
こちらとしても、頼れる仲間が増えるのは非常に助かる。出来る限りのサポートをすることを伝えると、シルヴィアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。私を救ったことは絶対に後悔させないから、楽しみにしていてくれ。『光耀の勇者』くん」
名乗った覚えはないが、どうやら自分の魔法を見て正体に勘付かれたようだ。ウィズディアまでは広まっていないと踏んでいたのだが。
シルヴィアの救出劇の際に使った魔法も光魔法ではなかったのに。素晴らしい洞察力である。
「仮にも大賢者だからねえ。魔法を喪おうとも知識までは消えないよ。自分で言うことじゃないが私は特別な人間でね。魔法はほぼなんでも扱えたんだ。地水火風。特別な素養が必要な光と闇でさえ例外じゃなかった」
光と闇。世界のはじまりとされる二つの力は根源を司るものとされており、扱える人間は非常に稀である。
かく言う幽者も、本来はある名家の出自だったのだがその血縁者も誰一人として光、闇の力を宿す者はいなかった。
幽者ただ一人だけがその才を持ち、それ故に生かされていたのだ。忌み子として地下に幽閉されていながらも。
現在普及している魔法で、光と闇の代替となっているものが神聖魔法と混沌魔法である。
これはあくまで光と闇の性質のごく一部を抽出し利用しているだけに過ぎず、その性能も光、闇魔法に較べると劣っている。
それでも特別な素養が無くとも習得出来るのは明確な強みであり事実、聖職者や呪詛師など神聖魔法や混沌魔法を修めている者もそれなりにいる。
「私が天才だというのは、冗談や自惚れではないのさ。…そんな私でも、君の魔法は知らない。耀ける闇。あるいは冥府に差し込む、影を落とす光。全てが矛盾した悍ましい光だ。そんなものは、私が今まで見た文献にさえ記されていない」
そう言われても反応に困る。幽者は頬を掻き目線を逸らした。
学がない故に言語化出来ない幽者には、なんやかんやあって光魔法が変質したとしか言えないのだ。
別に光魔法は普通に使えるし、意識するだけで光が変質するのも何故か分からない。幽者はこの異端な光を『冥光』と呼んでいる。
光魔法の使い手が絶望したり闇堕ちしたらそうなるのではないかと、投げやりに返事をした。
「そんなカジュアルにあんなバカみたいな魔法が生まれちゃ堪らないよ。それなら過去にも同じ冥光とやらを扱える人が居たはずだ」
言われてみればそうである。過去に自分と同じような、あるいはより過酷な経験をした人間はいるはずだ。
才能のある、出世した人間ほど、人の悪意に中てられるもの。彼らが平穏に過ごせたと何故言えようか。
「つまり、君のその冥光はイレギュラーなんだよ。君だけが持つ、特別な力だ。故に私もアドバイスは出来ないし、その力は強力すぎる。使い方を誤れば人類の敵認定されてもおかしくないよ」
この力が危ういのは自覚しているつもりだ。
もし、戦争に携わっていた時に冥光が使えたら。あの絶望的だった最終決戦は、五分の状況に間違いなく持ち込めていた。
奇跡的な勝利が現実的なものになっていた。それだけの力がこの光にはある。
手のひらの上で明滅する冥光。幽者がそれを握り潰すと、光の欠片が宙に散った。
夜空そのものを凝縮したような、不思議な色の光。これはいったいなんなのだろうか。
☆☆☆
シルヴィアの許可を得て居住地にする予定の地域一帯を更地した幽者は、剣を軽く振って伸びをした。
光魔法で爆撃して破壊するのは容易いが、それでは整地でなくなってしまう。
聖剣を触媒として魔力の制御をより精密にし、建築に支障が出ない範囲での破壊作業を行ったのだ。
普段とは全く違う魔力の扱いに多少は手こずったものの、シルヴィアの助言もあって概ね成功と言える。
「お疲れ様」
シルヴィアは労いの言葉と共に、魔力回復のポーションを手渡してきたが断っておく。
この程度で魔力が底を突くことはない。無駄に物資を消費する必要もないだろう。頷いたシルヴィアはポーチにポーションを戻す。
「…さて」
地図を開き、メモを始めたシルヴィア。幽者は剣を虚空に仕舞い、地べたに座った。
視線はこちらに向いていないが、シルヴィアが何かを聞きたいのは様子を見れば分かる。聞きたいことがあれば言ってくれと続きを促した。
「君はウィズディアを敵に回してまで私を助けた。そのことは感謝しているし、その恩には報いるつもりだ。…けど。だからこそ解せない。リヒトくん。君は何故私を助けたんだい?」
一通りメモを終えたであろうシルヴィアは、地図を折り畳み視線を移す。心を探っているような鋭い視線だが、幽者は何も感じない。
何故助けたと問われてもこっちが困る。助けた理由など見て見ぬふりが出来なかったからとしか言えない。
たとえ大罪人と謗られる蛮行だとしても、無辜の賢者が殺される様を黙って見るのが我慢ならなかったのだ。
「それを為せるだけの力があったのは認めるよ。でも、本当にそれだけとは思いたくないな。人は利益のために大義を平気で捨てる生き物だ。下衆な目的があって、それを隠すために正義と嘯いていた方が納得がいく。…すまないね。助けてくれた礼はすると言っておきながらこんなことを言って」
気にしなくていい。何かやましい考えがあると邪推されても仕方ないことだと割り切っている。
彼女だって、囚われていた間にあらゆる辱めを受けていたはずだ。シルヴィアにはそれだけの美貌があり、魅力がある。
灰色の青春を送ってきた幽者ですらそう思うほどなのだ。
欲に溺れた貴族がどう思うかなど語るまでも無いし、幽者は記憶をフィードバックされてしまっているので、ごく一部ではあるが何があったのかを知っている。
だが、敢えて。敢えて彼女にも納得出来る理由を挙げるとすれば一つだけあるのだ。
無理矢理捻出した感が否めないが、そのつもりが無かったとは口が裂けても言えない下衆な願い。
シルヴィアに愛されたいという、たった一つのシンプルな理由が。
「はは。愛されたい、ときたか。随分と受動的な願いだね。君であれば今の私くらい好きに嬲って欲を満たせるだろうに。言うに事欠いてただ愛されたいだけとは」
愛されたいと願うことの何がおかしいのかと、幽者は怪訝な視線を向ける。
幽者は真面目だった。愛されたいと本気で思っていた。
産まれてはならない存在だと幽閉された幽者は、家族の愛を知らない。
家を放逐された後、巡り巡ってフィアリス家の世話になり、そこで初めて愛を知ることになる。
そして、聖女は死んだ。他ならぬ
幽者はただ、認めたかったのだ。忌み子である自分にも、生きている価値はあるのだと。愛される資格はあるのだと。
愛を知ってしまったが故に愛を求める醜い獣。それこそが今の自分だ。愚かなりし勇者の末路だと、自嘲を込めて小さく笑う。
そんな幽者を見て、シルヴィアは笑顔を引っ込める。
「助けてやれば愛情が自分に向くと思ったのかい?身勝手にも程があるね。…しかし、なるほど。忌み子、か。聞いていていい気がしない言葉だ」
自分だって嫌になる。忌み子でなければ。普通に産まれていれば、こんな思いはしないで済んだのに。
だが、いくら悔やんだところで過去は変わらないのだ。今までのこと全てが無駄だったとも思えない。
ならば、背負うしかないだろう。忌まわしき記憶も。苦しんだ過去も。全て。
愛されたいと願うなら、忌み子だった自分を過去のものと切り捨ててはならない。
唇を噛みながらも紡がれる幽者の言葉。それに対する賢者の答えは。
「…こんな人を疑っておいてなにが賢者だ嗤わせる」
頬を打つ音と、戒めの言葉だけだった。
☆☆☆
少し冷静になりたいというシルヴィアの要望を受け、幽者は先に風呂と食事を済ませ眠りに就いた。
軽い運動をしたのもあって気分爽快。今夜はぐっすり眠れそうだと言っていた通りに、気持ちよさそうに眠っている。
同日深夜。風呂場にて。
「…ふう」
湯船には近くで採れたと思しきミカンが浮いており、白磁のような柔肌は上気している。
湯船を上がったシルヴィアは石鹸で身体を洗っていくが、背中には切り付けられたような無数の痛々しい傷痕が残されている。
前にも同じような傷があるだろうことは容易に想像出来た。四肢にも大小様々な傷痕があり、彼女が辿った悲惨な過去を物語っている。
「…私が何をしたというんだ。私は、ただ…」
人の役に立ちたかっただけなのに。涙を溢すシルヴィアは蹲り、嗚咽を漏らす。
ウィズディアでの、愛弟子たちと過ごした平穏な日々はもう戻らない。
私が耐え難い屈辱を受けていた時、彼らはどうなっていたのだろう。もしや、私と同じように。
そこまで考えたところで、シルヴィアは自身の頬を叩いた。
「…絶望するには早いだろシルヴィア。皆は強く、賢い子たちだ」
少なくとも、悪意を見抜けなかった私よりずっと。
鏡を見据える双眸は、暗く澱んでいた。
☆☆☆
よく眠れた幽者は軽い足取りでリビングに向かう。
「…おはよう。今日は作る元気が無かったから缶詰で許しておくれ」
浮かない表情のシルヴィアが、フルーツのシロップ漬けを食べていた。
幽者もおはようと返し、適当に見繕った缶詰を開ける。選ばれたのは鶏肉の缶詰。
甘辛いタレに漬けられた鶏肉が炭火焼きされたもので、保存食の中でも特に人気な逸品である。
それに乾パンと氷砂糖を合わせて食べる。それなりに腹が膨らんだところで食事を切り上げた。
幽者がゴミを片付けている間、シルヴィアは溜め息を吐いて机に突っ伏してした。具合でも悪いのだろうか。
「大丈夫、気分が乗らないだけだよ。…ごめん、ちょっとキツいかも」
ならゆっくり休んでいて構わないと、幽者は剣を取った。何匹か動物を狩るついでに薪割りでもしてくるとしよう。
つい先日まで囚われの身だったシルヴィアに無茶をさせすぎたのかもしれない。
何事も自分基準で考えるのは良くないと幽者は猛省した。
「リヒトくんは悪くないんだ。気にしないでおくれ」
本人がそう言うのなら気にしないでおこう。幽者は手を振って、ドアに手を掛けた。すると。
「…わがままですまない。少しの間で構わないから、話し相手になってくれないかい?」
賢者様に頼み事をされたとなれば、断るわけにいくまい。
どうやら随分と参っているようだし、この雑談が快復の一助となれば良いのだが。
剣を置き椅子に座る幽者に、顔だけをこちらに向けたシルヴィアは力無く微笑んだ。
「面倒くさい女で悪いね」
別に面倒くさいとは思っていないが、それをわざわざ口にするのも憚られる。
自分も大概面倒くさい性格だと自覚しているから尚更だ。
幽者は敢えて黙秘を貫き、シルヴィアが話し出すのを待つ。その意図を汲んだのか、ポツリと話し始める。
「昨日の夜に色々考えたんだ。君のおかげで命を拾った私は何をするべきなのか。私は何をしたいのか。それを、ずっと。…つまり、この不調はただの寝不足だよ。心配を掛けて申し訳ない」
言われてみれば、シルヴィアの目には隈が出来ている。
捕まっていた間も満足に眠れなかったはずだ。体調の一つや二つ悪くなっても仕方ないかと納得する。
「正直に言うとね。私は生きるのを諦めていたんだ。断頭台に縛られた時、民衆の顔を見て絶望したんだ。…私はこんな人たちのために尽くしていたのかと」
その絶望も無理はない。自分だって、聖女が腕の中で息絶えた時はこの世の全てを呪ったものだ。
あの時ほどの絶望感を感じたことは、短い人生の中で一度も無かった。
それでも今、自分は生きている。聖女の言葉が、想いが残っているから、生きていられる。
彼女にもそうあってほしいと願うのは傲慢だろうか。
シルヴィアに生きていてほしいと願っている人は、他にもたくさんいるはずだ。
「ふふ…。慰めてくれてありがとうね。少しは気が楽になったよ」
別に慰めで言ったわけではなく、これは全て本心だ。
死んでほしくないと思ったからこそ、あの時の自分は剣を取ったのだから。
そして、死んでほしくないと思ったのはゼレウスの懺悔の結果とも言える。
彼と話していなければ、あの時カチコミを掛けていたかは定かではない。
「…ゼレウスさんか。彼にも迷惑を掛けちゃったな」
シルヴィアは申し訳なさそうに髪を弄る。
彼が指輪を完成させていなければこのような悲劇は起きなかったわけだが、恨んではいないのだろうか。
「恨むわけがないとも。彼はただ仕事を果たしただけだ。悪いのは私を亡き者にしようとした貴族共に決まっているだろう?どのような武器だって、結局は使い手が居なければ人を害さない。それと同じだよ」
それを聞いて安心したと、幽者は安堵の息を漏らす。
今度ウィズディアに行く機会があれば伝えてやろう。きっと大泣きして喜んでくれるはずだ。
その後に申し訳なさでさらに泣く気しかしないが。
あまりにも明け透けな幽者の言に、苦笑したシルヴィアは同調を示す。
どうやらゼレウスに対する認識は概ね同じらしい。
「…私はただ、皆の役に立ちたかっただけだ。家族を喪い路頭に迷った私を救ってくれたウィズディアの皆に、恩に報いたかったんだ。その上で、愛弟子たちと穏やかに過ごせたらそれだけで良かった。地位も名誉も、私には不要なものだったんだ」
賢者が何より求めていたもの。
それは富でも名声でもなく、何気ない幸せな日常。ただそれだけだった。
今となっては叶うかも分からない細やかな願い。
全てを簒奪された賢者は今、辺境での隠遁生活を余儀なくされている。ここで出来ることなどたかが知れている。
だが、それでも。何かを為すことは出来る。
シルヴィアは非力であっても無力ではない。
知識は残ったままだし何より、彼女にはまだ頼れる仲間がいる。
「全てを奪われ抜け殻となった今だからこそ、私は私の為すべきことを見定めることが出来た。百万回殺しても
シルヴィアの為すべきこと。それはいったいなんなのだろう。
「どれだけ優れた才があろうとも、人は生まれ、性差で差別される。花開くことなく歴史の影に埋もれた萌芽は数知れない。…それは何故か?上に立つ者が保身に走る愚者だからだ。自己のみを愛し、他者を蹴落とし、苦しめることで醜く権威にしがみつく。これを愚かと言わず何と言う」
他でもないウィズディアの貴族に向けた言葉。だがしかし、それは世界に突き刺さる真言でもあった。
既得権益を享受する上級国民はいとも容易く弱者を切り捨てる。都合の悪い現実を黙殺し、闇に葬ってきた。
自身の権威を脅かす者が現れればどのような手を使ってでも排除する。シルヴィアが受けた仕打ちはまさしくそれだ。
彼らが世界に齎らすのは停滞。流転することを辞めた世界は緩やかに死んでいく。
人は足掻き、競い合ってこそ進歩してきた。それを妨げるのなら人はいずれ滅ぶだろう。
他でもない人の手によって、再び世界は滅ぶだろう。
「…ならば私は、真に才能が正しく評価される世界を。生まれだけで全てが決まらない世界を創りたい。綺麗事だと罵られても構わない。たとえどれほどの刻を経ようとも、必ずや実現してみせる」
語られたのは遠大な理想。叶うかも分からない夢物語。
神の居た先史文明ですら成し得なかったはずの偉業を、成せるというのか。
「出来るかどうかじゃない。やらなきゃいけないんだよ。でなければ、世界は緩やかに腐っていくだけだ」
流れの停まった水が腐るように、いずれ世界も腐り落ちる時が来る。
目を覆いたくなるほどに凄惨な仕打ちを受けてもなお人類の未来を案じる賢者の姿は、幽者には眩しく見えた。
「…一応言っておくけど、私がこう思えたのは君のおかげだよ?」
何故自分なのか。ゼレウスが奇跡的に救出を成功させたとしても、同じ目的を見つけていた気がするのだが。
苦言を呈した幽者にシルヴィアは微笑む。その笑顔は陽だまりのように暖かく、優しかった。
「君という見ず知らずの人間に助けられたからこそ、人間はまだ捨てたものじゃないって思えたのさ。…君には本当に感謝している。ありがとう、
幽者が賢者を救ったのは、衝動と利己的な考えが理由の大部分を占めている。
憐れみも多少はあったかもしれないが、それよりもゼレウスが犬死にするのを避けたいという感情の方が強かった。
少なくとも幽者自身はそう認識していた。
だからこそ、賢者の感謝の念には疑問を抱かずにいられない。
「君が勇者と呼ばれたのは、ただ光魔法を使えたからじゃない。他者に救いの手を差し伸べるその優しさがあったから、人は君を勇者と呼ぶんだ」
勇者。魔族をたくさん殺して得た称号。それは幽者が背負う罪の象徴だ。
結果的に救われた命もあったのかもしれない。だが、それでも。命を奪った罪は消えはしない。聖女を護れなかった事実は変わらない。
「…その勇者様は、大切な人一人すら護れなかった。その称号には、なんの価値も無いよ」
故に幽者は勇者であることを棄てた。血に塗れた栄誉など今の自分には不要だ。
☆☆☆
「…戸締りヨシ!片付けヨシ!忘れ物もナシ!いつでも行けるよリヒトくん。いや、しばらくの間リュクスくんと呼んだ方が良いか」
「そうだな。俺の本名は他人に聞かれないとこで言ってくれ。無駄な死人が出る」
旅支度を終えたシルヴィアが家から出てくる。
墓への祈りを終えた幽者は立ち上がり、シルヴィアの方を見た。
聖女が生前羽織っていたローブを着用しているシルヴィアだがサイズが合っていない。
具体的には丈が足りず胸元がギッチギチである。ボタンが悲鳴を上げている。
これを着ている時は16とかそこらの歳だったので仕方ないか。
そういえばシルヴィアは何歳なのだろうか。
老成した立ち振る舞いをしているが、その割に若々しい見た目をしている。まさかこれで未成年ということはないだろうが。
「私?今年で23だよ」
思ったより妥当な年齢だった。本当に妥当か?とツッコミを入れたくなるほどに大量の偉業を達成しているが、外見と乖離した年齢ではないので妥当だということにしておく。
そういう君は何歳なのさ、と聞かれたので正直に答える。
「19か。良いね、今度晩酌でも頼もうかな」
酔っ払いの介護は勘弁してほしいので普通に嫌だが。
真顔で返答されたシルヴィアはなんだいつれない男だね、と文句を垂れた。余計なお世話じゃい。
今回の旅は明確な目的地を決めていない。というのも、二人がこの旅に抱いている目的が違うからだ。
幽者は自身を愛してくれる人を見つけるため。ついでに金も稼げればなお良し。
賢者は指輪の呪いを解除する手掛かりと、自身の目的に賛同してくれる同士、および悲惨な境遇の子供たちの救済。
人が欲しいという意味で、二人の思惑は合致している。一人は利己的、もう一人は利他的と内情は大きく異なるが。
この拠点に戻ってくることは当分の間無いはずだ。
次に戻ってくる時は、拠点を発展させる目処が立った時くらいだろう。ここがシルヴィアの野望の始発点になるのだから。
「それじゃ行こうか。まずは情報収集を兼ねて
期待に顔を綻ばせるシルヴィア。先日までの表情を知っている身としては喜ばしいことだ。
虐げられた賢者に幸あれと心から思い、幽者は斧槍を片手に拠点を後にする。
仲間を探す旅が、始まった。