傭兵団の野営地は、まだ静まり返っていた。薄い霧が地面を覆い、遠くでは馬が鼻を鳴らしている。ユウは眠そうに目をこすりながら、団長ザガンの後ろを歩いていた。「団長……まだ暗いよ」「朝だ」「朝というには早すぎない?」「口が動くなら足も動くだろ」「それは別の話だと思うけどなぁ」ザガンは振り返らずに笑った。「カカカ! 減らず口は一人前だな」二人が向かったのは、野営地から少し離れた丘だった。丘の麓には、いくつかの麻袋が置かれている。「今日はあれを背負って走れ」「……あれ?」ユウは麻袋を覗き込んだ。中には大小様々な石が詰め込まれている。「重そうだね」「重いぞ」「僕、まだ小さいんだけど」「知ってる」「じゃあもう少し優しくしてくれてもいいんじゃない?」「カカカカ!」ザガンは豪快に笑い、麻袋を一つ持ち上げた。「まずはこれだ。丘の向こうまで行って戻ってこい」ユウは袋を背負った。ずしりと肩に重みがかかる。「うわっ……!」「走れ」「えっ、もう?」「走れ」ユウは不満そうに口を尖らせながら走り始めた。最初は順調だった。しかし、坂道に差しかかると足取りが重くなる息が荒くなり、肩に食い込む袋が気になり始めた。途中で何度も立ち止まりそうになる。ようやく丘を越えたところで、ユウは袋を下ろして地面に座り込んだ。「はぁ……はぁ……もう無理……」「まだ半分だぞ」「嘘でしょ?」「帰りがある」「聞いてない!」「言ってねえからな」ユウは空を見上げた。どうやら今日は長い一日になりそうだった。
昼
ユウは野営地の近くにある川に連れてこられた。「今度は何?」「泳げ」「走ったばっかりなんだけど」「だからだ」ザガンは川を指差した。「戦場じゃ、道があるとは限らねえ。橋が落ちていることもある。川を渡らなきゃならねえこともある」「泳げなかったら?」「溺れる」「簡単に言うね……」「戦場はもっと簡単に人を殺すぞ」ユウは川の水に足を入れた。冷たい。「うわっ、冷た!」「入れ」「団長も入る?」「俺は見てる」「ずるい!」「カカカカ!」ユウは渋々川に入った。最初は浅い場所で水に慣れ、少しずつ泳ぐ距離を伸ばしていく。ザガンは無理に遠くへ行かせず、呼吸が乱れれば休ませた。「力を入れすぎるな。水に逆らうな。流れを見ろ」「水に逆らわない?」「力任せに泳げば、すぐに疲れる。流れを読んで身体を動かせ」
ユウは言われたとおりに水面を見つめた。流れの向き、身体の浮き沈み、呼吸。剣とはまるで違うが、身体を思いどおりに動かすという点では同じだった。夕方。ユウは野営地の木陰で木剣を振っていた。まだ腕力も足りず、剣を振るたびに身体が揺れる。そこへザガンがやってきた。「今日はもう終わりだ」「やっと?」「その前に一つ聞く」ザガンは近くの丸太に腰を下ろした。「ユウ。なぜ俺がお前を走らせていると思う?」「強くするため?」
「違う」「体力をつけるため?」「それもある。だが、一番の理由じゃねえ」ザガンは遠くの地平線を見つめた。「戦場で、走れなくなった奴から死んでいく」ユウは木剣を下ろした。「どういうこと?」「戦場じゃ、敵と斬り合っている時だけが危険じゃねえ。矢が降ってくる。騎兵が突っ込んでくる。味方が崩れて逃げ始める。道には死体や武器が転がっている」「うん」「そんな場所で足が止まったらどうなる?」「敵に追いつかれる?」
「俺は、走れなくなった仲間を何人も見てきた。剣の腕が立つ奴もいた。腕っぷしの強い奴もいた。だが、疲れ果てて足が動かなくなれば、そいつらもただの的だ」ユウは黙って聞いていた。「どれだけ強い剣を持っていても、敵のところまでたどり着けなきゃ意味がねえ。逃げる時に逃げられなきゃ、そこで終わりだ」「じゃあ、走るのは逃げるため?」「逃げるためでもある。追いかけるためでもある。仲間についていくためでもある」ザガンはユウの頭に大きな手を置いた。「戦場じゃな、最後まで自分の足で動ける奴が生き残る」ユウは少し考えた。「じゃあ、団長は走れなくなったことある?」「ある」「えっ?」「若い頃にな。死にかけた」「団長でも?」
「ワイアルドにやられたときもな走れたから右目だけで済んだんだよ」
「ちょっとやられてるじゃん」
「やかましいわ」ザガンは笑った。「自分の限界を知っておかなきゃ、戦場じゃ命取りになる」その夜。食事を終えたユウは、ザガンに呼び止められた。「一か月後、戦がある」「戦?」「ああ。領主同士の小競り合いだ。俺たちも雇われている」「僕も行くの?」「連れていく」ユウの顔が明るくなる。「本当? じゃあ、僕も剣を持って戦うの?」「馬鹿野郎」
ザガンが笑いながら頭を軽く小突いた。「お前はまだ戦わねえ。荷物持ちだ」「荷物持ち?」「水、食料、矢、予備の装備。必要なものを運ぶ。戦場で俺たちの邪魔をせず、指示された場所に物を届ける」「それって戦いじゃないじゃん」「戦場に行くんだ。十分に戦いだ」ザガンの表情が少しだけ険しくなった。「いいか、ユウ。初陣でお前に求めるのは敵を倒すことじゃねえ」「……」「生きて帰ることだ」ユウはザガンを見上げた。
「戦場を見てこい。音を聞け。血の臭いを覚えろ。人間が死ぬところを見ろ。だが、英雄になろうとするな。勝手に飛び出すな。命令を守れ」「分かった」「怖くなったら隠れろ。危なくなったら逃げろ。俺たちのところに戻ってこい」ユウは少しだけ笑った。「分かったよ、団長。死ななきゃいいんでしょ?」「そうだ。簡単に言うなよ。実際には、それが一番難しい」ザガンはユウの頭を軽く撫でた。「明日から一か月、みっちり鍛えるぞ」「……毎日?」「当たり前だ」「団長って、本当に容赦ないよね」
「カカカカ!」ユウは空を見上げた。一か月後、自分は初めて戦場に立つ。母を殺した黒犬騎士団のことを思い出す。その名を心の中で繰り返しながら、ユウは拳を握った。