ヘルモード・マタニティライフ〜妊娠させた男子高校生の養育費払い地獄生活〜 作:月生あひめ
街灯の並ぶ夜道を、美希は一人歩いていく。並ぶ街灯が、道に転々と光の輪を浮かべている。周囲は中古の一軒家、アパートが立ち並ぶ。コンクリートのひび割れた歩道には、雑草が生えていた。都会と違い街明かりの乏しい田舎町は、空に黒雲が立ち込めると真っ暗だった。
まだラインの既読はついていない。SNSをブロックされたということは、おそらくラインのほうもされているだろう。もう美希は連絡するのもやめていた。
寂れた住宅街の一角に、美希の家はある。薄汚れたコンクリートとトタン屋根のボロアパート。鉄骨の階段を登ると、派手な反響音と振動がする。二階奥の「山田」と書かれたドアを開けると、ヤニ臭い部屋の空気が美希の鼻をつく。
「⋯⋯ただいま」
かまちで靴を脱ぎ、木板の廊下を踏むとギィッと音が鳴った。築四十年のボロアパート。いつ床に穴が開くかと、恐ろしくなる。
居間に明かりがついていた。夜職の母はまだ出勤していない。カビやシミの浮いた壁と畳の居間にはプラスチックの小さいローテーブルがあり、酒缶と灰皿と惣菜パックが置かれている。テーブルのそばに、テレビを見る母の姿があった。
金髪の艶のある髪を後ろで結び、派手な虎柄のキャミソールを着ている。片手には煙の立ち上るタバコ。
「ただいま、お母さん」
母は振り返らずに言った。
「飯できてるから、食いな」
居間に隣接するキッチンのほうを見ると、ラップに包まれた茶碗と皿があった。いつもは美希が夕飯を準備しているが、帰りが遅かったからか今日は母が先に準備してくれていたようだ。
茶碗にはお粥と、皿にはトロトロに溶けた野菜炒め。せっかく作ってくれたのに悪いが、まだ吐き気があり食欲がわかなかった。
「今日、遅かったな。河口とデート?」
美希は茶碗を持ち上げようとした手を止めた。デートどころなんかではない。妊娠を知られ、拒絶され、捨てられた。胸に大きな暗闇の穴が空いていて、何も感じない。
美希は胸の内を察せられまいと、母に謝る。
「お母さん、ご飯作ってくれてありがとう。⋯⋯ごめんなさい」
美希はテーブルに茶碗と皿を持っていき、ラップを剥がした。ほんのりお粥の湯気を吸い込んだとき、急激に吐き気を催し、美希は手で口を覆って空嘔吐する。口から胃液の糸を吐きながら、美希はなおも謝る。
「ごめんなさい⋯⋯お母さん」
母はリモコンを手に取ってテレビを消した。電灯のジーッという音だけが響く静寂の中、母が口を開いた。
「────おめー、妊娠してるだろ」
美希は息を止めた。一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「薄々気づいてたんだよ。おめーが最近、ゲロ止まらないの。胃腸炎ならすぐ治るけど、もう一週間以上げーげーだろ? おかしいなって」
美希は母を横目に見た。薄化粧した母の横顔が、美希を見つめていた。十六歳の娘を持つ母にしては、顔立ちが若すぎる。
呆れたような、静かな怒りを孕んだ母の鋭い眼光に、美希は目を背ける。
──今日、この家からも追い出されるかもしれない。
美希の家は貧乏だった。母の少ない給料で生活費と学費を払うのに精一杯で、家はボロアパート、毎日の食事はレトルトかスーパーの惣菜だ。赤ん坊なんてとても育てられるわけない。
赤ん坊を孕んだ美希は、お荷物だろう。河口にとっても、母にとっても、学校にとっても。
母がフゥ~ッと息を吐いて、灰皿に煙草を置いた。
「相手は河口、だよな?」
「⋯⋯間違いないよ」
河口以外、この身に誰も触れさせていない。赤ちゃんの父親は河口だ。
「河口と連絡は取れるのか?」
「ラインもSNSもブロックされてる」
母は深いため息をついた。
「そりゃそうだよな。河口、まだ十六歳だろ。父親になるには幼すぎる」
──幼すぎる。その言葉は美希にも刃物のように突き刺さった。自分も、母親になるにはあまりにも子供だ。
ライターの火が付き、母の息を吐く音がした。
「おめーの父親と一緒だよ、河口は」
その一言が、狭い居間の淀んだ空気をさらに重く凍りつかせる。
美希の父は、妊娠が発覚した途端に行方をくらましたそうだ。顔も知らないし、どこにいるのかもわからない。
母と自分を捨てた男と、いま自分を捨てようとしている男。その二つの影が重なったとき、美希の胸にあるのは怒りというよりも、どうしようもない虚無感だった。
「⋯⋯っ」
喉まで出かかった言葉を飲み込み、美希は畳に視線を落とす。逃げ場のない遺伝の呪いと、一人でこの重荷を背負わされる現実が、容赦なく肩に重くのしかかる。
「おめーの部屋を掃除してたら、これがあったよ。⋯⋯破れてた」
かさっと何かの置かれる音がして、美希はテーブルへ目を向けた。黒いサニタリー袋だった。
破れていた、という一言から頭が思い出したくもない記憶を引き出し、全身の毛穴が立つ。失敗したと気づいたあの時、河口と二人で絶句した。慌てて二人でスマホで『緊急避妊薬』と検索したが、学生の小遣いで買うにはあまりにも高く、近場の薬局では取り扱いなしと知り、途方に暮れた。
逃げ場がないと悟ったあの日の窒息しそうな空気が、今この場に再び蘇ってくる。
その決定的な失敗の証拠がテーブルに置かれたことで、美希はもう現実から目を背けることができなくなった。
「たぶん、これが妊娠の原因だろうな。学校は避妊をしましょうと教えるけど、避妊の難易度は教えてくれねぇ。安価の素材やつだと破けやすい、付け方甘いとすぐ外れる、ズレる。最悪中に残って産婦人科で取り出してもらわないといけないとか」
家庭科の教科書や保健の授業で教わった「避妊」という言葉は、あまりにも綺麗事で、抽象的で、本当はこんなにも脆いものだとは思わなかった。わずかな油断や知識の不足、経済的な理由で選んだ選択が、取り返しのつかない結果を生んだ。
「避妊しようと思ったのは褒めてやる。けどな、妊娠したら何の意味もねぇから」
――そもそも、妊娠のリスクを背負う覚悟がないなら最初からするな、クソガキどもが。と言いたげな母の苛立ちと軽蔑が、ビリビリと肌を伝わってくる。
反論の余地などなかった。母の言う通りだ。どれだけ「気をつけようとした」と言い訳したところで、誰にも望まれない小さな命は腹の中から消えてくれない。
「で、産むの? おろすの?」
突然二つの選択を突きつけられ、美希は身をよじって母の威圧から逃れた。逃げようとする美希を追い詰めるように、母は問い詰めてきた。
「あのな、妊娠したら産むかおろすかしかねぇんだわ。おろすなら妊娠二十二周未満までだぞ。──選べよ」
母の突き放したような、タイムリミットを告げる声が、狭い居間に冷たく響いた。
「二十二週⋯⋯」
美希の背筋を冷たいものが這い上がった。産むか、おろすか。どちらを選んでも、今の自分たちには地獄以外の道が用意されていない。
つわりのことを検索していた頃、同時に中絶のことも調べていた。おろすとなれば、高額の金がかかる。未成年の自分が一人で病院に行けるわけもなく、親の同意書か、あるいは同伴が必要になる。
こんな貧しい生活で、母にそれだけの工面を頼み込むことの恐ろしさは想像を絶する。かといって、このまま産むとなれば、高校はどうなる? 学業も、将来も、生活も、すべてが暗転して底辺の泥沼に沈んでいく。十六歳の子供が、赤ん坊を育てることの過酷さなんて、テレビやネットの向こう側の話でしかなかった。
「おろす、お金⋯⋯」
喉の奥が引きつり、かろうじて掠れた声が零れた。
母は呆れたようにふっと鼻を鳴らし、再び煙草に手を伸ばした。
「中絶費用だってタダじゃねぇよ。十数万か二十万、それ以上だ。あたしがそんな大金出せるとでも思うか? それとも、あの逃げ出した河口のガキに払わせるか?⋯⋯おい、聞いてるのか美希」
冷酷な現実の札束が、次々と美希の顔面に叩きつけられる。
どちらの道を選ぶにせよ、自分一人では何も決められず、何も動かせない。ただ「妊娠した」という一つの事実だけで、人生のなにもかもが完全に指の間からこぼれ落ちていく。
美希は震える両手で自分の腹を抱え込み、畳の目を必死に見つめた。息をするのも苦しい。
「とりあえず、明日病院行くぞ」
「⋯⋯うん」
はぁ〜と長い息を吐いて、虚ろな表情で母は天を仰いだ。
学校帰りの夕方、美希は母と共に、町に一つしかない廃れた産院へ向かった。制服を着たまま、重い足取りで母親の後ろを歩く美希の視界に、一軒のくすんだ赤レンガ壁の建物が入る。
塗装が剥げ落ち、昭和の古い匂いを漂わせるその二階建てのビルは、町全体の寂れ具合をそのまま形にしたかのようだった。看板には『田中産婦人科』と書かれている。かつて母が美希を産んだ産院だった。
薬品と、古い病院特有の湿った匂いが混ざり合う院内へ一歩足を踏み入れた瞬間、取り返しのつかないことをしたのだという実感が込み上げてきた。
白いリノリウムの床に設置された待合室の椅子に、母と腰を下ろす。母の横顔は、すでに家計を侵食されたダメージに対する乾いた諦めに満ちていた。
「まず病院で初診してから、書類もらって役所で妊娠届出書を出して、母子手帳と妊娠健診の補助券をもらう」
美希の妊娠を察していた母は、事前に妊娠した際の手順を調べていたそうだ。
「でも⋯⋯補助券で補えない分は自己負担だ。で、初診料は全額負担と」
母は安物の革バッグから財布を取り出し、ラメで輝く付け爪で器用にチャックを開けた。中には一万札と五千札が入っている。母は溜め息まじりに呟いた。
「おめー、今日の夕飯おにぎり一個だけな」
一万五千円。一ヶ月分の食費が、初診で一気に消し飛んだ。
名前を呼ばれ、ベッドで腹に機械を当ててエコー写真を撮った。その後、診察室でしわだらけの老人医師から告げられた。
「妊娠八週です」
医師はそれだけを告げ、机の書類に目を落とす。医師の背後でカルテを書いていた看護師は、おめでとうございますと言わなかった。
美希は腹に手を当てた。やはり、この中に宿る命は誰にも祝福されないのだと、思い知らされる。
医師は美希に目を向けず、一言──
「中絶するならば、早いうちがよいです」
まだ何も言っていないのに、頭ごなしに中絶を勧められ、美希は俯いた。医師の一言は、未成年の妊娠というトラブルを抱えた人間に対して、この社会がどれほど冷淡に、どれほど効率よく「厄介払い」を望んでいるかを突きつける刃物のようだった。
「美希、どうすんだよ。ほっといたら取り出せなくなるぞ」
母まで中絶を望むのか。とうとう、赤ん坊の最後の命綱が途切れてしまった。
河口にも、医師にも、社会にも、母にとっても、美希に宿る命はゴミでしかないのか。そう思った時、空っぽになった胸の奥から小さな何かがうずくのを感じた。
言葉にならない叫び。でもあまりにも小さすぎて、具体的に何が言いたいのかわからない。
(赤ちゃんの心臓、動いてた)
エコーで赤ん坊の心臓が動いているのを見たのを、思い出す。豆のように小さいけれど、確かに鼓動していた。今この瞬間、赤ん坊は生きているのだと実感した。
(──ちゃんと、生きてたよ)
暗い空洞に陽が差し込むように、胸がほかほかと熱くなる。胸の奥の声はどんどん膨れ上がってきて、やがて具体的な形になっていく。
(──殺したくない)
ゴミのように扱われるなら、いっそ自分だけは赤ん坊の味方でいたい。
母親で、いたい。
美希はスカートを握りしめ、全身を駆け巡る熱に身を震わせる。
叫びは喉の奥からせり上がり、美希の唇から飛び出る。
「──産み、たい」
消え入るように小さく、言葉がこぼれ落ちる。自分が咄嗟に言ったことに、美希自身も驚いて口に手を当てる。
机に向かっていた医師がこちらへ顔を向け、眼鏡を指で持ち上げた。
「は? 今、なんと?」
母が悲鳴じみた声を上げた。
「はぁ!? 産みたいだぁっ!?」
看護師も顔を引きつらせて美希を見つめていた。
目から熱いものが溢れ出て、美希の頬を伝っていく。
「私⋯⋯産みたいです」
産院を出た後、美希は母親の後ろを歩いていた。産みたい、そう告げたときから身体に不思議と力がみなぎり、地を踏む足の感覚がしっかりしていた。
母が振り返らずに言った。
「おめーが産みたいと言った以上、誰にも中絶を勧めることはできなくなった」
「え⋯⋯」
予想外の言葉に、美希は目を丸くする。
「法的に、同意がないのに中絶を勧めるのは違法なんだよ。妊婦が産みたいと言った以上は、誰も文句は言えない」
「お母さん⋯⋯!」
「だがな──」
母は立ち止まった。
「河口。あいつはきっと、おろしてくれと譲らないだろう。お前から逃げたんだ。そう安々と頭は下げてくれねぇだろうよ」
その一言で、フワッと浮きかけた美希の希望は、再び泥沼の底へと引き戻される。
そうだ。美希一人で産むと決めたところで、あの逃げ回る十六歳の河口が「じゃあ責任持って結婚して養います」なんて言うわけがない。
ラインもSNSもブロックし、自分の恐怖から逃げることしか頭にないあの少年が、この重すぎる十字架を背負う覚悟を持つはずがなかった。
「じゃあ、どうするの⋯⋯」
掠れた声で問いかける美希の背中に、母は煙草の箱をバッグにしまいながら、低く、しかし底知れない凄みを含んだ声を投げた。
「どうするも何も、決まってんだろ」
母が振り返った。その顔には、先ほどまでの呆れや疲労の色はなく、まるで獲物を狩るような、冷酷な笑みが貼り付いていた。
「あいつが逃げるなら、逃げられないところまで追い詰めるまでだ。学校だろうが、バイト先だろうが、実家だろうがな。まずは、あのクソガキを引っ張り出すぞ」
◆ ◆ ◆
河口流は、夜道を自転車で駆け抜けていった。午後八時、週三回のバイト帰りだった。
頭の中に、あの二本線がこびりついて離れなかった。避妊失敗を表す、陽性反応の証──。
気が変になりそうで、正直、とても働けるような気分ではなかった。バイト先の信用を失ってでも無断欠勤したかった。しかし、家に帰るわけにはいかなかった。既に美希の親から、妊娠したという連絡が家へ来ているかもしれない。
(じいちゃん、ばあちゃん)
家には祖父母がいる。親代わりに育ててくれた彼らに、迷惑は絶対かけられない。だが、既に真実を知られていたら?
家に戻ったら、きっと問い詰められる。職場でいつも以上に、焦りながら手早く仕事を進めた。頭からあの二本線を追い出すために。だが、二本線は頭の中で色濃く残って、消えてくれなかった。
がむしゃらに自転車を漕ぎながら、海岸線の道を意味もなく突っ走る。家とは真逆の方向へ、勢いだけで進んでいく。
美希と並んで夕陽を眺めたこの道が、今では地獄へ続く道に見える。肌寒い潮風に顔を殴られる中、河口は嘆いた。
「畜生、なんで、こんな⋯⋯」
自分は、みんなが当たり前のようにしていることを、しただけなのに。
普通のことを、普通にやっただけなのに。
ちゃんと避妊だってしていたのに。
なぜ、自分だけがこんな目に──。
「畜生、まじ最悪だ⋯⋯」
スクールバッグの中から電話の着信音が鳴った。好きなアニメのオープニング曲の着メロが、河口を追い詰めるように騒ぎ立てる。
美希の着信は拒否している。ならば、家族からだ。バイトからなかなか帰ってこない孫を心配して、電話を寄越してきたのだ。そう信じたい。自転車を止め、河口はスクールバッグからスマホを取り出す。「家電」と表示されていた。通話ボタンをタップする。
「はい⋯⋯」
『⋯⋯流か』
じいちゃんだった。いつもより低い声に、背筋に鳥肌が立つ。
息を呑んで、流は訊いた。
「何、じいちゃん」
「⋯⋯美希ちゃんを妊娠させたのは、本当なのか」
スマホを落としそうになった。
先手は打たれていた。乾いた笑いが口から飛び出る。
『いますぐ、戻ってこい』