魔術とは何か。
そう尋ねられたら、僕は便利な道具だと答える。
例えば、肉を焼いたときに逃げてしまう旨味を閉じ込めたり、相性が悪いはずの食材から、今までにない美味しさを引き出したり。
神秘を追い求める魔術師たちが聞けば顔をしかめるかもしれないけど、僕には関係ない。
「......うん。いい感じ」
フライパンを傾けると、溶けたバターが薄い膜となって広がった。そこへ卵を流し込み、縁が固まるより早く、炎の熱を細かく調整する。
僕の魔術属性は『無』。魔術特性は『調和』。
僕はその属性と特性を利用して、火、水、風、土の精霊の力を身体に定着させた。
もちろん、簡単な話じゃない。
4つの力は互いに反発し、初めは身体が内側から引き裂かれる苦痛を味わった。でも、それを1つの器に収めてくれたのが『調和』だ。
今では、炎の精霊の力で鍋底の温度を自在に操れる。肉汁と一緒に失われるはずの香りを『無属性』で一時的に留め、『調和』によって、苦味や酸味を消すことなく別の味と結びつけることもできる。
とはいえ、魔術は万能じゃない。
素材が腐っていれば美味しくならないし、下ごしらえを怠れば仕上がりも落ちる。結局必要なのは、料理を作る人間の手だ。
「朝から熱心するなぁ、旦那はん」
背後から聞こえた甘い声に振り向くと、酒呑童子が戸口に立っていた。羽織をゆるく肩に掛け、まだ眠たそうな目でフライパンを見つめている。
「おはよう、酒呑。もう起きたんだ」
「ええ匂いに誘われてしもて。うちの朝ご飯もあるんやろ?」
「もちろん。後で2階に運ぶよ」
「ふふ。さすが旦那はんやねぇ」
僕らの店は、1階がカフェで、2階が住居になっている。
店の奥には従業員用の階段があり、それを上がると居間と台所、4人それぞれの部屋がある。
仕事場と生活の場が同じ建物にあるのは、思っていた以上に便利だ。仕込みのために早起きしても移動時間はゼロ。閉店後に疲れたら、階段を上がるだけで自分の部屋に帰れる。
もっとも、その便利さを別の意味で満喫している人もいる。
「旦那はん、味見だけさせてもろても?」
酒呑が焼きたてのベーコンへ指を伸ばした。
「朝ご飯の分がなくなるから、つまみ食いは一枚だけ」
「一枚も許してくれるん?優しいお人やわぁ」
渡す前に自分で取っていくあたり、実に酒呑らしい。
「そうだ。ブーディカは?」
「上で洗濯物を畳んどるよ。朝から働き者やねぇ」
「酒呑も、あとで手伝ってあげてよ」
「うちは旦那はんの料理を褒める大事な仕事があるさかい」
「それは仕事に入らないかな」
くすくす笑う酒呑を横目に、僕は焼けた卵を皿へ滑らせた。
朝食を載せた盆を持って2階に上がると、居間ではブーディカが最後の洗濯物を畳んでいた。
「あ、マスター!おはよう。ご飯、あたしも運ぶの手伝ったのに」
「これくらい平気だよ。おはよう、ブーディカ。洗濯ありがとうね」
「みんなで暮らしてるんだもん。できることはやらないとね」
正直、ブーディカがいなければ僕らの共同生活はとっくに破綻....というよりも、僕の負担が倍増していたと思う。
「ステンノは?」
「一応、さっき声を掛けたんだけど......」
ブーディカが苦笑した。その表情だけで察するものがある。はぁ、僕が行かないとダメか。
仕方なく廊下の奥にある扉を叩く。
「ステンノ。朝ご飯だよ」
「......ええ。聞こえているわ、マスター」
声はする。けど扉は開かない。
「今日はオムレツとベーコン。それに昨日焼いたパンも温めたよ」
「そうなのね」
「食後にはデザートの桃もある」
「......まあ。よく冷えていて?」
「もちろん」
かちゃり、と扉が開いた。
淡いワンピースをまとったステンノが、柔らかな微笑みを浮かべて現れる。髪は一筋も乱れていない。
生まれながらに完成された女神には、寝起きの酷い顔なんて存在しないのかもしれない。
「おはよう、ステンノ」
「ええ。ところでマスター、せっかく迎えにいらしたのだから、食卓まで手を引いてくださらない?」
「すぐそこなんだけど」
「距離の問題ではないでしょう?」
こうなるとテコでも動かない。本当に動かないか試してみたいけど、あとが怖いのでそんなことは出来ないけど。
「......仰せのままに、女神様」
差し出された手を取ると、ステンノは満足そうに笑った。
「んっ!今日のオムレツも美味しい!」
ブーディカが嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。新しい焼き方を試してみたんだ」
「マスターの料理は、毎日食べても飽きないね」
「そらそうやろ。うちなんて毎日ご馳走を待っとるようなもんやし」
「酒呑は食べるだけじゃなくて、ちゃんと働いてね」
「ふふっ、どうやろうか」
そんな風に会話をしているのを尻目に、ステンノは僕の皿から桃を1切れ取った。
「......それ、僕の分なんだけど」
「あら、そうだったの?あなたが譲ってくれそうだったから」
「聞いてから取ってくれればいいのに」
「答えは決まっているのに、聞く必要があるのかしら?」
まったく、理屈になっていない。まあ、別にいいけどさ
「はい、マスター。あたしのをあげる」
ブーディカが笑いながら桃を差し出す。
「......本当に、ブーディカがいてくれて助かるよ。ありがとう」
「そんな大げさな」
いや、全然大げさじゃない。
午前10時。僕は店先の札を『OPEN』に裏返した。
1階のカフェには、通りに面した窓際の席と、小さな丸テーブルがいくつか。奥にはカウンター、その向こうが僕の厨房だ。
2階へ続く階段は、客席からは見えない位置にある。僕らの暮らしをお客さんの目に晒すつもりはないから、そこはきっちり分けている。
「いらっしゃいませ!お好きな席へどうぞ!」
ブーディカの明るい声が店に響く。
朝一番の客は、近所で働く会社員と、いつも本を持ってくる年配の女性だった。彼女はブーディカの顔を見るなり頬を緩める。
「今日も元気ねぇ。いつものコーヒーをお願いできる?」
「もちろん!少しだけ待ってくださいね!」
ブーディカは注文を取りながら、手が空けば水を注ぎ足し、椅子を引き、さりげなく客の様子を見ている。
無理に会話を続けず、話したそうな人には笑顔で耳を傾ける。その距離感が上手い。
一方、ステンノは開店とほぼ同時に2階から下りてきて、窓際のいちばん日当たりのいい席に腰を下ろした。
「マスター。紅茶をお願い」
「今、お客さんのコーヒーを淹れてるから、その後ね」
「女神を待たせるのね。それなら、焼き菓子も付けてちょうだい」
追加注文だけは早い。あと、君はお客さんじゃないからね?働いて?
僕の気持ちとは裏腹に、ここに座っているステンノの存在を楽しみに来る客は少なくない。初めて来た人は思わず視線を向け、常連は少し距離を保って眺める人もいる。
ステンノは気が向いたときだけ微笑み、気が向かなければ紅茶を飲んでいる。営業中は基本的にこの席かキッチンにいる。
働いていないのに店の名物。本人に言えば、当然でしょう、と返って来ると思う。
昼が近づくと、注文票が次々に厨房へ届いた。
「マスター、ランチの鶏肉が2つと、きのこのパスタが1つ!」
「了解。先にサラダをお願い!」
「はーい!」
鶏もも肉の皮を下にして焼く。ぱちぱちと弾ける脂の音が心地いい。熱を強めすぎず、肉の中心だけにゆっくり火を通す。
僕は肉から逃げようとする香りと旨味を無属性の魔術で留めた。表面を焼き上げてから、醤油と焦がしバター、ほんのわずかなコーヒーを合わせたソースを絡める。
普通なら衝突する苦味と塩気。それを『調和』で整えると、コーヒーは味を邪魔せず、香りの奥行きとして残る。
手をかざすだけで料理が完成するわけじゃない。でも、丁寧な仕事に魔術を少し重ねるだけで、味や格段にあがる。
「......よし。ブーディカ、1番テーブルお願い!」
「はいっ!」
皿を持ち上げようとした瞬間、横から小さなフォークが伸びた。
「......あら、美味しい」
ステンノが鶏肉をひと口、さらりと食べていた。
「ステンノ」
「何かしら、マスター?」
「それ、お客さんの料理」
「ええ。とても上手にできているわ」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、注文の品に手をつけないでほしいんだけど」
「ふふ。では、それは私の分ということでよろしいのではなくて?」
残った肉を涼しい顔で見つめる女神様に、僕は小さく息を吐いた。
「......仕方ないね。ブーディカ、ごめん!1番作り直すから、もう少しだけ待ってもらって!」
「えっ、どうしたの?」
「女神様が味見した」
「ああ......うん、分かった!」
納得するのが早い。僕は新しい鶏肉をフライパンに載せた。
午後の客足が落ち着き始めた頃、ホールから聞き慣れない声が聞こえてきた。
「ねえ、お姉さん。仕事、何時に終わるの?」
「ん?今日は閉店までいるよ。それがどうかした?」
ブーディカの明るい声が返ってくる。
「だったらさ、仕事終わりに飲みに行かない?俺たちが奢るから」
「ははっ!誘ってくれるのは嬉しいけど、遠慮しておくよ」
「えー、なんで?彼氏でもいるの?」
「さあ、どうだろうね?」
ブーディカが楽しそうに笑う。
「いいじゃん、少しくらい。連絡先だけでも教えてよ」
「ごめんね。そういうのは教えないことにしてるんだ」
「そんな固いこと言わずにさ。絶対楽しいって!」
「うーん......お兄さんたち、ちょっとしつこいかな?」
それまでの明るい声が、少しだけ低くなった。
「誘ってくれたのはありがたいけど、あたしはもう断ったよね?それに、ここは食事を楽しんでもらうお店なんだ。だから、別の目的なら他のお店に行ってね」
「いやいや、別にそういうつもりじゃないって!」
「そう?なら、そろそろ注文を決めてくれると嬉しいな」
笑顔は崩していない。
けれど、そこには先ほどまでの親しみやすさとは違う、毅然とした迫力があった。
さすがは、かつて兵を率いた女王様。
普段は面倒見のいいお姉さんだけど、決して気弱な女性ではない。
「何だよ。ちょっと誘っただけなのに」
「うん。だから、最初は普通に断ったんだけどね」
「......ったく。愛想のいい店員だと思ったのによ」
はぁ、負け犬は何故か捨て台詞を言わないと気が済まないらしい。僕は火を弱め、布巾で手を拭いてから厨房を出た。
「ねえ、お兄さんたち」
声を掛けると、男性たちが振り返った。
「何だよ?」
「さっきから聞こえてたけど、迷惑行為はやめてね」
「あ?何だよ、あんた」
「ここの店主」
「店主?だったら店員の教育くらいしっかりしろよ。客の誘いを断るにしても、言い方ってもんがあるだろ」
「へえ。僕には十分丁寧に断ってたように聞こえたけど?」
「は?」
「そもそも、食事を提供するのが僕たちの仕事であって、お客さんの誘いに応じるのは仕事じゃないからね」
「だからって、客に向かってあんな態度はないだろ!」
「じゃあ、どんな態度なら満足だったの?断らずに付き合ってあげればよかった?」
「いや、そういうことじゃ......」
「なら、何が不満なの?」
僕は首を傾げた。
「お兄さんたちが誘った。ブーディカが断った。それで終わりの話でしょ?」
「......っ」
「もちろん、食事を楽しみに来てくれたなら歓迎するよ。でも、女の子を口説きたいだけなら、ほかを当たってくれるかな」
少しだけ笑って、僕は続けた。
「うちはカフェだからね。そういうサービスはやってないんだ」
男性たちは顔を見合わせた。
「......分かったよ。もう誘わねえって」
「うん。それならいいよ。注文が決まったら声を掛けてね」
お客さんとのやり取りを終え、ブーディカへ向き直る。
「大丈夫?」
「もちろん!あれくらい、あたし1人でも何とかできるよ」
「知ってる。むしろ、ブーディカが本気で怒らないか心配だったくらい」
「あははっ!さすがにお客さん相手にそこまではしないって!」
いや、どうだろう。
彼女が本気で怒ったところは何度か見ているけど、あの迫力は相当なものだ。
「でも、ありがとね、マスター。わざわざ出てきてくれて」
「気にしないで。僕も、うちの店員にしつこく絡まれるのは嫌だからね」
「ふふっ。それだけ?」
「......ほかに何かある?」
「さあ、どうだろうね?」
いたずらっぽく笑うブーディカ。
そのままブーディカは僕の背中を軽く叩いた。
「さっ、マスターは厨房に戻って!ホールのことは、あたしに任せておけば大丈夫だから!」
「はいはい。頼りにしてるよ、ブーディカ」
「任せて!」
笑いながら持ち場へ戻っていく彼女を見送る。
そのまま厨房へ戻ろうとした、そのときだった。
「せやったら、お兄さん。うちに一杯ご馳走してくれはる?」
今度はカウンターのほうから、酒呑の甘い声が聞こえてきた。
「いいよいいよ!好きなの飲みなよ!」
「まあ、太っ腹なお人。ほんなら、遠慮なく......」
視線を向けると、酒呑が店でいちばん高い日本酒に手を伸ばしていた。
......ああ、もう。
「酒呑」
「ん?なんやの、旦那はん?」
「そのお酒、一杯いくらするか分かってる?」
「もちろん。せやけど、こちらのお兄はんがおごってくれはるんやて」
「なるほどね」
僕は男性客へ視線を向けた。
「ちなみに、それ一杯で結構な値段するよ。本当にいいの?」
「えっ、そんなにするの?」
金額を伝えると、男性の笑顔が固まった。
「......いや、ちょっと高すぎるかな」
「そっか。じゃあ、こっちのお酒は?」
「うん。それで頼むよ」
「了解」
酒呑が不満そうに僕を見上げた。
「旦那はん、いけずやわぁ」
「値段も知らない人に高いお酒をおごらせようとしないの」
「ふふ。せっかくの厚意やったのに」
「だったら、もう少し安いお酒にしてあげなよ」
「......ほんま、旦那はんは真面目なお人やねぇ」
そう言いながらも、酒呑はどこか楽しそうだった。
夕方。閉店まで少し余裕ができたところで、僕は新作のデザートを4つ並べた。
柚子の香りを移したホワイトチョコレートのムース。底には白味噌と砕いたナッツを合わせたクランブルを敷いてある。
甘さの中にかすかな塩気が残り、最後に柚子の爽やかさが抜けるようにした。互いに邪魔をしそうな味が、きちんと順番を守って現れる。それが『調和』の面白いところだ。
「みんな、試食してくれる?」
真っ先に現れたのはステンノだった。
「まあ。ようやく私のためのお菓子ができたのね」
「ステンノのためだけではないけど」
「ふふ。細かいことはいいわ」
ひと口食べたステンノは、わずかに目を細めた。
「......悪くないわ」
酒呑はスプーンをくるりと回した。
「へぇ。甘いのに後味がすっきりしとる。これ、食後酒にも合いそうやわぁ」
「それなら、今度合わせる飲み物も考えようかな」
「旦那はん、分かっとるやないの」
ブーディカはひと口食べてから、じっくり味わうように目を閉じた。
「美味しい。これに白味噌が入ってるなんて、言われなきゃ分からないかも。意外性もあっていいと思う」
「そう、意外性を狙ったんだよ」
「えへへ。当たった?」
「大正解」
思わず笑うと、ブーディカも嬉しそうに笑った。
店には、今日もいろいろな人が来た。料理を楽しんでくれる人もいれば、困ったことを言い出す人もいる。働かない女神も、酒を勝手に飲む鬼もいる。
本来
僕らが一緒にいること自体、本当ならあり得ない話なのだ。
僕は亜種聖杯戦争に3度参加し、3度とも勝った。その戦いで出会った彼女たちを、戦争が終わるたびに受肉させた。
亜種聖杯戦争で召喚した順番は、1回目はステンノ、2回目は酒呑童子、3回目はブーディカだ。
聖杯に受肉を願ったわけじゃない。
不完全な聖杯を大量の魔力を供給する動力として使い、僕の無属性の魔術で現世に存在する肉体を成立させ『調和』で英霊の霊基とその肉体を結びつけた。
だから3人は、僕から魔力をもらわなくても生きていける。どこへ行くのも自由だ。
──それでも、こうして同じ屋根の下に暮らしている。
受肉させた理由なんて、大げさなものじゃない。別れるのが寂しかったから。それだけだ。
「マスター?どうしたの?」
ブーディカが顔を覗き込んできた。
「ううん。みんながいてよかったなって」
「......もう。急にそんなこと言われると、照れちゃうよ」
「旦那はん、口説くんは上手どすなぁ。そない口が上手くないのに」
「まあ。感謝が足りないのでは?」
3人の声が重なって、僕は笑った。
閉店後、ブーディカが最後のテーブルを拭き、僕が厨房の火を落とす。酒呑には酒瓶の数を確認してもらい、ステンノには......何も頼んでいない。頼んだところで、きっと微笑んで終わりだから。
「今日もお疲れさま。先に2階に上がってて。僕は明日の仕込みを少しだけ済ませるよ」
「駄目だよ、マスター」
ブーディカが腰に手を当てた。
「今日はもうおしまい!夜ご飯、まだ食べてないでしょ?」
「そうだった。じゃあ、何を作ろうか」
「手伝うよ!」
「うちはお酒に合うもんがええ」
「私はお昼の鶏料理をもう一度いただきたいわ」
「それぞれ好き勝手言うんだから......」
文句を言いながらも、僕は笑ってしまう。
1階ではお客さんのために料理を作る。2階では、同じ料理を今度は家族のような3人のために作る。
階段ひとつを隔てて、僕たちには仕事の時間と、ただ一緒に暮らす時間がある。
そのどちらも、僕は気に入っていた。
「じゃあ、今夜は鶏肉の香草焼きにしよう。お酒にも合うし、付け合わせに野菜もたっぷり使える」
「ふふ。楽しみにしとるよ、旦那はん」
「ええ。期待しているわ、マスター」
厨房の明かりを消し、僕は3人と一緒に階段を上がった。
魔術とは何か。
やっぱり、僕にとっては便利な道具だ。
僕と彼女たちとの縁を繋げてくれた、とても大切な──ね。
ステンノ
酒呑童子
ブーディカ