──本当に、愚かな人ね。
窓際に置かれた小さな皿から、桃をひと切れ摘まむ。
冷たく、甘く、ほどよく柔らかい。果汁が舌に広がるのを楽しみながら顔を上げれば、厨房ではマスターが次の注文に取りかかっていた。
北条透。
3度も聖杯戦争を勝ち抜いた魔術師が、今はエプロンを着けて鶏肉の焼き加減を真剣に見つめている。
「ステンノ、桃はどう?」
「悪くないわ。もう少し冷たい方がよかったけれど」
「そっか。次はそうするよ」
本当にそうするつもりなのでしょう。
私が何気なく口にした言葉を覚えていて、次には当たり前のように直してくる。そういうところは、昔から少しも変わらない。
でも、最初からこんなふうに親しかったわけではないのよ?
むしろ、初めて顔を合わせたときのことを思い出せば、今でも笑ってしまう。
あれほど無礼な挨拶をした人間を、私はほかに知らないのだから。
「呼び出しておいて悪いけど、僕を害そうとした場合は令呪で自害させる」
召喚の光が消えた直後、私を召喚したマスターはそう告げた。
まあ。
女神たる私を前にして、最初の言葉がそれ?
愛を乞うでも、美しさを讃えるでも、勝利を約束してほしいと願うでもなく。
自害ですって。
「随分と勇ましいのね。私が、その令呪とやらを恐れるとでも?」
笑いかけてあげると、マスターは肩をすくめた。
「恐れてほしいわけじゃない。ただ、僕も死にたくないからこの程度は許して欲しい」
その顔に、虚勢はなかった。
私が自分よりはるかに高位な存在だと理解していて、それでも言うべきことは言う。強がりでも、無邪気な信頼でもない。
でも、それがいつまで続くかしら?
人間は簡単に舞い上がるものよ。私が微笑みさえすれば、理性を置き忘れ、都合のよい夢を見始める。
「では、あなたを害さなければ、何をしてもよろしいのかしら?」
「それは内容によるかな」
「あら。曖昧なのね」
「全部を最初に決められるほど、僕たちはまだお互いを知らないでしょ」
......生意気。
本当に、生意気な人間。
それが、マスターに対する最初の評価だった。
召喚からしばらく、私はマスターを観察していた。
聖杯戦争中だというのに、特に焦燥した様子はない。食事は喉を通っているみたいだし、睡眠も取れている。
その他には、意外と俗人であることもわかったわ。そして、意外と善良な人間であることも。
私が何かを望めば、できることはできると言い、できないことはできないと言う。私が不満を口にすれば、困ったように笑いながら理由を説明する。
そういう応対は、正直なところ退屈だった。
だから、少し遊んであげることにしたのよ。
ある日、食後の片づけをしていたマスターに、私はそっと微笑みかけた。
ほんの戯れ。
特別な理由なんてないわ。
ただ、この人間が私の魅了に囚われたら、どんな顔をするのか知りたかった。
結果は、期待したとおり。
マスターの瞳から警戒が消え、私の言葉ばかりを待つようになった。
「ねえ、マスター。私のことは好き?」
「うん。好きだよ」
あまりにも素直な返事。
「では、あなたのデザートもいただいてよろしいかしら?」
「もちろん。全部あげる」
「まあ。優しいのね」
私が褒めれば嬉しそうにする。近くへと招けば全力で走ってためらわずにそばに来る。普段なら一言二言は返してくるお願いにも、すぐ頷いてしまう。
なんて簡単。
なんて滑稽。
そして、なんて──つまらない。
ほどなくして、私は魅了を解いた。
それ以上続けても、同じ反応しか返ってこないでしょうから。
正気を取り戻したマスターは、しばらく黙っていた。
自分が何を言い、何をしていたのか確かめるように、考え込む。
ふふ。
さあ、どうするのかしら。
怒る?泣く?令呪を使って、約束どおり私を殺す?
少しくらいは面白い反応を期待したのだけれど。
「......ステンノ。今回のはさすがにひどくない?」
マスターが浮かべたのは、呆れたような笑みだった。
「ひどい?私は少し遊んだだけよ」
「うん。たぶんそうなんだろうね。でも、僕は嫌だったよ」
その言葉には、取り繕った遠慮がなかった。
「僕に何かさせたいなら、普通に頼めばいい。できることなら、ある程度聞くからさ」
「......令呪は使わないの?」
思わず、尋ねてしまった。
まったく。こちらから聞くなんて、どうかしているわ。
「僕を害そうとしたら使うって言ったでしょ。気分はよくないけど、この程度で令呪を使うほど僕の心は狭くない」
「次は、もっと危険な命令をするかもしれないわよ?」
「そのときは、そのとき考えるよ。まあ、まずは次が無いことを祈ってるけど」
それだけ言って、マスターは食器を洗いに戻ってしまった。
......まあ。
本当に、それで終わり?
私を恐れることも、媚びることもなく。まして、私を罰して自分の力を見せつけることもしない。
ただ嫌だったと告げ、次はやめてほしいと言う。
女神の魅了を受けた人間が、女神に向かってそんな当たり前のことを。
私は少し、腹が立った。
そしてそれ以上に、興味を惹かれてしまった。
魅了してしまえば、言いなりの人形にすることは簡単だ。
けれど、それには何の面白みもなかった。
私の力を知らないわけでもないのに、自分の意思で私に向き合うマスターのほうが、ずっと不可解で、ずっと退屈しなかったのよ。
それから私は、マスターに魅了をかけなくなった。
別に、約束を守ってあげたわけではないわ。
必要がなかっただけ。
困った顔が見たいなら、少しわがままを言えばいい。優しくさせたいなら、手を差し出せばいい。
そうすればマスターは、自分で考え、自分で選んで、私に付き合う。
そのほうがお人形さんと遊ぶよりも、ずっと楽しいでしょう?
──聖杯戦争は遊びではなかった。
そう実感させられたのは、戦いが続くようになってから。
ひとつの戦闘が終わる前に、次の敵が現れる。休息の時間は削られ、傷を癒やす暇さえない。
ひ弱な女神である私でさえ、常に戦い続けた。
その結果は言うまでもないわ。
どれほど完成された女神であろうと、英霊として現界した以上、霊基を維持し、戦うための魔力は必要になる。
繋がっているパスからの魔力供給では、到底追いつかなかった。
その事に、マスターも気づいていた。
「ステンノ、もう無理しないで」
そう言って、自分の傷を隠すように笑うの。
本当に愚かな人。
私を気遣う前に、自分の身体を見なさいな。あなたの指だって震えているのに。
ただ、あのときの私は、それを口にしなかった。
口にすれば、何かが変わってしまいそうだったから。
やがて、私の魔力はほとんど底をついた。
次の戦闘に耐えられる保証はなく、マスターのほうも余裕を失っていた。
そこでマスターは、私にひとつの提案をした。
パスからの魔力供給が追いつかないのなら、もっと直接的な魔力供給の方法を取るしかない、と。
言いながら、ひどく慎重な顔をしていた。
「嫌なら断って。別の方法を考えるから」
......ほら、また。
私を呼び出したマスターであり、令呪を持つ人間が、最後の最後でも私の意思を尋ねる。
何でも命じてしまえばいいのに。
私を守るためだと言い張り、協力を強いてしまえばいいのに。
そんなことをしたら、きっと私は笑ったでしょう。
ようやく人間らしい醜い本性を見せた、と。
でも、マスターはしなかった。
私が断れば、本当に別の手段を探すつもりだったのでしょうね。
自分が死ぬかもしれないのに。
「......マスター」
「なに?」
「あなた、本当に愚かなのね」
「それ、今言うこと?」
「ええ。今だから言うのよ」
私は笑って、手を差し出した。
「許してあげるわ。魔力供給を」
マスターはすぐには触れなかった。
「......いいの?」
「同じことを何度も言わせないでくださる?」
ようやく伸びてきた手は、私のものよりずっと熱かった。
その温かさを感じながら、私は少しだけ不思議に思った。
どうして、許したのかしら。
勝つため?
消えてしまわないため?
ええ、もちろん。それもあったでしょう。
でも、たぶんそれだけではない。
もし私がここで退場したら、この人間はどんな顔をするのか。
その顔を想像したとき、妙に面白くなかったのよ。
せっかく手に入れた退屈しのぎを、こんなところで終わらせたくなかった。
......そう。きっと、それだけ。
マスターは必要以上に踏み込まなかった。
私が許したことだけを受け取り、自制心を持ち自分を見失わなかった。
だからこそ、私はもう一度思ったの。
本当に、この人間は愚かだと。
そして、その愚かさを、私はどうやら嫌いではないのだと。
聖杯戦争が終わったとき、マスターは勝利を喜ぶより先に、私との別れを惜しんだ。
「ステンノと、もう少し一緒にいたいな」
それを聞いて、思わず笑ってしまったわ。
聖杯を手にして、望むものがそれ?
いくらでも野望を抱けるでしょうに。失ったものを取り戻したい、届かぬものを手に入れたい。人間の願いなんて、いくらでもあるはずよ。
それなのに、マスターは私と過ごす時間を望んだ。
しかも、ただ願うだけでは終わらなかった。
聖杯を魔力源として使い、自分の『無属性』と『調和』によって、私が現世に在り続けるための肉体を作り上げた。
魔力を供給されなければ消える、儚い召喚のままではなく。
自分の足で歩き、自分の意思で行く先を決められるように。
「これで、ステンノは自由だよ」
マスターは、そんなことを言った。
「私があなたのもとを去っても?」
「寂しいけど、もちろん」
......ああ、本当に。
自分と一緒にいてほしいから、ここまでしたのでしょう?
なのに、選ぶ権利を私に差し出してしまう。
もう私を繋ぎ止める令呪はない。
私が気まぐれに姿を消せば、それで終わるかもしれないのに。
だから私は、少し考えてから答えたの。
「では、しばらくあなたのそばにいてあげましょう」
マスターは、驚くほど嬉しそうに笑った。
その顔を見たとき、胸の奥に何かが落ちたような気がしたけれど......気のせいでしょうね。
それからマスターと世界を旅していると、2度目の聖杯戦争に参加することになり、酒呑童子が加わった。
まったく、次は鬼ですって。
あの甘ったるい声でマスターを『旦那はん』と呼ぶのを初めて聞いたときは、少々呆れたわ。
もっとも、酒呑は酒呑で面白い鬼よ。気まぐれで、危険で、人間の常識を笑ってしまう。私とは違うけど、退屈な相手ではない。
3度目にはブーディカ。
今度は面倒見のいい女王様。
マスターは本当に、妙な縁ばかり結ぶのね。
彼女が来てからは、暮らしがずいぶん整ったわ。マスターが料理を作れば、ブーディカが片づけを手伝う。酒呑が酒をねだれば、ブーディカが小言を言う。
私?
もちろん、見守っているわ。
女神がそこにいるだけで場が華やぐのだから、十分でしょう?
ただ、マスターが誰のためにも同じように笑うのを見ると、たまに思うことはあるのよ。
最初にあなたの無礼な挨拶を聞いたのは、私。
魅了されて、それでも令呪を使わなかったあなたを知っているのも、私。
魔力が尽きかけた戦場で、震える手を差し出してきたあなたを覚えているのも、私。
それは、あとから誰かがやってきたところで変わらない。
ふふ。
別に、誇っているわけではなくてよ。
ただ、事実を確かめているだけ。
「ステンノ?」
顔を上げれば、いつの間にかマスターが私の席のそばに立っていた。
「考え事?」
「ええ。少し昔のことを」
「昔?」
「最初の聖杯戦争のことよ」
その途端、マスターは気まずそうに笑った。
「......ああ。最初はひどい挨拶だったね」
「自覚があって何よりだわ」
「でも、あのときは本気だったよ。君が僕を殺そうとしたら、令呪を使うつもりだった」
「知っているわ」
そう。知っている。
だからこそ、マスターの言葉には価値があるのよ。
初めから何もかも許していたのなら、ただの愚かな人間だったでしょう。
マスターは怖いものを怖いと知り、嫌なことを嫌だと言い、それでも私と一緒にいることを選んだ。
だから、私も選べた。
魅了せずに言葉を交わすことを。
力が尽きかけたとき、マスターに魔力供給を許すことを。
聖杯戦争が終わっても、そばに残ることを。
「ねえ、マスター」
「うん?」
「あなたは今でも、私があなたを害そうとしたら自害を命じるのかしら?」
少し意地悪く、尋ねてみた。
マスターは困ったように眉を下げた。
「今は令呪もないよ」
「仮の話です」
「......そうだね。本当に僕を殺そうとするなら、止めると思う。でも、ステンノがそうしたくなる理由は、まず聞きたいかな」
まったく。
以前より、さらに面倒な答えになったわね。
「ふふ。相変わらず、愚かな人」
「それ、褒めてる?」
「さあ。どうかしら」
マスターは笑って、空になった桃の皿を持ち上げた。
「また明日も冷やしておくよ」
「ええ。楽しみにしているわ」
マスターが厨房へ戻っていく。
その背中を見送りながら、私は頬杖をついた。
マスターと出会ってから、どれほどの時間が過ぎたのかしら。
今では朝になれば食事が用意され、昼には紅茶が運ばれる。
そんな日々を、私は当たり前のように受け取っている。
でも、当たり前ではないのよね。
本来、私たちは聖杯戦争が終われば別れるはずだった。
マスターが少しでも違う選択をしていたら、今ごろ私はここにいなかったでしょう。
私が戯れに魅了をかけたとき、マスターが令呪を使っていたら。
魔力が尽きたあのとき、私が差し出された手を拒んでいたら。
聖杯を手にしたマスターが、もっと違う願いを抱いていたら。
いくつもの『もしも』の先に、今の食卓はない。
そう考えると、少しだけ不思議な気分になる。
人間とは、本当に儚い生き物。
今日笑っていた人が、明日も同じように笑っているとは限らない。
ましてマスターは、たびたび命を危険に晒してきた人間なのだから。
だからといって、心配しているわけではないわ。
ただ、私の許しもなくいなくなられたら、困るというだけ。
せっかく気に入った場所を見つけたのに、また退屈な日々へ戻るなんて、まっぴらだもの。
それに。
マスターが料理を作り、酒呑がつまみ食いをして、ブーディカが笑いながら注意する。
その様子を眺めながら、私は紅茶を飲む。
そんな時間は、思っていたよりもずっと心地いい。
この暮らしが続くのなら、少しくらいはマスターのわがままにも付き合ってあげましょう。
たとえば、明日の朝も一緒に食卓を囲んでほしい、なんていう願いなら。
......もっとも、迎えに来るのはマスターの役目だけれど。
「ステンノ、そろそろ上に行くよ」
階段のほうから、呼ぶ声がした。
ええ。聞こえているわ、マスター。
でも、すぐには立ち上がらない。
もう一度、名前を呼んでくれるかしら。
迎えに来て、手を差し出してくれるかしら。
マスターが自分の意思で私のところへ来る、その一瞬があればいい。
......あら。
私はいつから、そんなことを楽しみにするようになったのかしら。
ふふ。
──本当に、愚かな人ね。
女神を呼び出し、命を脅し、魅了され、それでも信じることをやめなかった人。
私のために危険を冒し、自由を与え、何ひとつ見返りを求めなかった人。
そんなあなたを、私は今も眺めている。
そして、たぶん明日も。
私がここにいるのは、あなたに命じられたからではない。
ほかに行く場所がないからでもない。
私自身が、あなたのそばを選んだから。
......このことだけは、いつか教えてあげてもいいわ。
もっとも、そのときはきっと、あなたはまた愚かな顔で笑うのでしょうけれど。
──それを見るのも、悪くないわね。
次回は酒呑童子回やんね。