ひんぬー女神と鬼と人妻   作:Mr.♟️

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ステンノとマスター

 

──本当に、愚かな人ね。

 

窓際に置かれた小さな皿から、桃をひと切れ摘まむ。

 

冷たく、甘く、ほどよく柔らかい。果汁が舌に広がるのを楽しみながら顔を上げれば、厨房ではマスターが次の注文に取りかかっていた。

 

北条透。

 

3度も聖杯戦争を勝ち抜いた魔術師が、今はエプロンを着けて鶏肉の焼き加減を真剣に見つめている。

 

「ステンノ、桃はどう?」

 

「悪くないわ。もう少し冷たい方がよかったけれど」

 

「そっか。次はそうするよ」

 

本当にそうするつもりなのでしょう。

 

私が何気なく口にした言葉を覚えていて、次には当たり前のように直してくる。そういうところは、昔から少しも変わらない。

 

でも、最初からこんなふうに親しかったわけではないのよ?

 

むしろ、初めて顔を合わせたときのことを思い出せば、今でも笑ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれほど無礼な挨拶をした人間を、私はほかに知らないのだから。

 


 

「呼び出しておいて悪いけど、僕を害そうとした場合は令呪で自害させる」

 

召喚の光が消えた直後、私を召喚したマスターはそう告げた。

 

まあ。

 

女神たる私を前にして、最初の言葉がそれ?

 

愛を乞うでも、美しさを讃えるでも、勝利を約束してほしいと願うでもなく。

 

自害ですって。

 

「随分と勇ましいのね。私が、その令呪とやらを恐れるとでも?」

 

笑いかけてあげると、マスターは肩をすくめた。

 

「恐れてほしいわけじゃない。ただ、僕も死にたくないからこの程度は許して欲しい」

 

その顔に、虚勢はなかった。

 

私が自分よりはるかに高位な存在だと理解していて、それでも言うべきことは言う。強がりでも、無邪気な信頼でもない。

 

でも、それがいつまで続くかしら?

 

人間は簡単に舞い上がるものよ。私が微笑みさえすれば、理性を置き忘れ、都合のよい夢を見始める。

 

「では、あなたを害さなければ、何をしてもよろしいのかしら?」

 

「それは内容によるかな」

 

「あら。曖昧なのね」

 

「全部を最初に決められるほど、僕たちはまだお互いを知らないでしょ」

 

......生意気。

 

本当に、生意気な人間。

 

それが、マスターに対する最初の評価だった。

 


 

召喚からしばらく、私はマスターを観察していた。

 

聖杯戦争中だというのに、特に焦燥した様子はない。食事は喉を通っているみたいだし、睡眠も取れている。

 

その他には、意外と俗人であることもわかったわ。そして、意外と善良な人間であることも。

 

 

 

私が何かを望めば、できることはできると言い、できないことはできないと言う。私が不満を口にすれば、困ったように笑いながら理由を説明する。

 

 

 

 

 

 

 

そういう応対は、正直なところ退屈だった。

 

だから、少し遊んであげることにしたのよ。

 

ある日、食後の片づけをしていたマスターに、私はそっと微笑みかけた。

 

ほんの戯れ。

 

特別な理由なんてないわ。

 

ただ、この人間が私の魅了に囚われたら、どんな顔をするのか知りたかった。

 

 

 

 

結果は、期待したとおり。

 

マスターの瞳から警戒が消え、私の言葉ばかりを待つようになった。

 

「ねえ、マスター。私のことは好き?」

 

「うん。好きだよ」

 

あまりにも素直な返事。

 

「では、あなたのデザートもいただいてよろしいかしら?」

 

「もちろん。全部あげる」

 

「まあ。優しいのね」

 

私が褒めれば嬉しそうにする。近くへと招けば全力で走ってためらわずにそばに来る。普段なら一言二言は返してくるお願いにも、すぐ頷いてしまう。

 

なんて簡単。

 

なんて滑稽。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、なんて──つまらない。

 

ほどなくして、私は魅了を解いた。

 

それ以上続けても、同じ反応しか返ってこないでしょうから。

 

正気を取り戻したマスターは、しばらく黙っていた。

 

自分が何を言い、何をしていたのか確かめるように、考え込む。

 

ふふ。

 

さあ、どうするのかしら。

 

怒る?泣く?令呪を使って、約束どおり私を殺す?

 

少しくらいは面白い反応を期待したのだけれど。

 

 

「......ステンノ。今回のはさすがにひどくない?」

 

マスターが浮かべたのは、呆れたような笑みだった。

 

「ひどい?私は少し遊んだだけよ」

 

「うん。たぶんそうなんだろうね。でも、僕は嫌だったよ」

 

その言葉には、取り繕った遠慮がなかった。

 

「僕に何かさせたいなら、普通に頼めばいい。できることなら、ある程度聞くからさ」

 

「......令呪は使わないの?」

 

思わず、尋ねてしまった。

 

まったく。こちらから聞くなんて、どうかしているわ。

 

「僕を害そうとしたら使うって言ったでしょ。気分はよくないけど、この程度で令呪を使うほど僕の心は狭くない」

 

「次は、もっと危険な命令をするかもしれないわよ?」

 

「そのときは、そのとき考えるよ。まあ、まずは次が無いことを祈ってるけど」

 

それだけ言って、マスターは食器を洗いに戻ってしまった。

 

......まあ。

 

本当に、それで終わり?

 

私を恐れることも、媚びることもなく。まして、私を罰して自分の力を見せつけることもしない。

 

ただ嫌だったと告げ、次はやめてほしいと言う。

 

女神の魅了を受けた人間が、女神に向かってそんな当たり前のことを。

 

私は少し、腹が立った。

 

そしてそれ以上に、興味を惹かれてしまった。

 

魅了してしまえば、言いなりの人形にすることは簡単だ。

 

けれど、それには何の面白みもなかった。

 

私の力を知らないわけでもないのに、自分の意思で私に向き合うマスターのほうが、ずっと不可解で、ずっと退屈しなかったのよ。

 

それから私は、マスターに魅了をかけなくなった。

 

別に、約束を守ってあげたわけではないわ。

 

必要がなかっただけ。

 

困った顔が見たいなら、少しわがままを言えばいい。優しくさせたいなら、手を差し出せばいい。

 

そうすればマスターは、自分で考え、自分で選んで、私に付き合う。

 

そのほうがお人形さんと遊ぶよりも、ずっと楽しいでしょう?

 


 

──聖杯戦争は遊びではなかった。

 

そう実感させられたのは、戦いが続くようになってから。

 

ひとつの戦闘が終わる前に、次の敵が現れる。休息の時間は削られ、傷を癒やす暇さえない。

 

ひ弱な女神である私でさえ、常に戦い続けた。

 

 

 

その結果は言うまでもないわ。

 

どれほど完成された女神であろうと、英霊として現界した以上、霊基を維持し、戦うための魔力は必要になる。

 

繋がっているパスからの魔力供給では、到底追いつかなかった。

 

 

 

 

 

その事に、マスターも気づいていた。

 

「ステンノ、もう無理しないで」

 

そう言って、自分の傷を隠すように笑うの。

 

本当に愚かな人。

 

私を気遣う前に、自分の身体を見なさいな。あなたの指だって震えているのに。

 

ただ、あのときの私は、それを口にしなかった。

 

口にすれば、何かが変わってしまいそうだったから。

 

やがて、私の魔力はほとんど底をついた。

 

次の戦闘に耐えられる保証はなく、マスターのほうも余裕を失っていた。

 

そこでマスターは、私にひとつの提案をした。

 

パスからの魔力供給が追いつかないのなら、もっと直接的な魔力供給の方法を取るしかない、と。

 

言いながら、ひどく慎重な顔をしていた。

 

「嫌なら断って。別の方法を考えるから」

 

......ほら、また。

 

私を呼び出したマスターであり、令呪を持つ人間が、最後の最後でも私の意思を尋ねる。

 

何でも命じてしまえばいいのに。

 

私を守るためだと言い張り、協力を強いてしまえばいいのに。

 

そんなことをしたら、きっと私は笑ったでしょう。

 

 

 

 

 

ようやく人間らしい醜い本性を見せた、と。

 

でも、マスターはしなかった。

 

私が断れば、本当に別の手段を探すつもりだったのでしょうね。

 

自分が死ぬかもしれないのに。

 

「......マスター」

 

「なに?」

 

「あなた、本当に愚かなのね」

 

「それ、今言うこと?」

 

「ええ。今だから言うのよ」

 

私は笑って、手を差し出した。

 

「許してあげるわ。魔力供給を」

 

マスターはすぐには触れなかった。

 

「......いいの?」

 

「同じことを何度も言わせないでくださる?」

 

ようやく伸びてきた手は、私のものよりずっと熱かった。

 

その温かさを感じながら、私は少しだけ不思議に思った。

 

 

 

 

 

 

 

どうして、許したのかしら。

 

勝つため?

 

消えてしまわないため?

 

ええ、もちろん。それもあったでしょう。

 

でも、たぶんそれだけではない。

 

もし私がここで退場したら、この人間はどんな顔をするのか。

 

その顔を想像したとき、妙に面白くなかったのよ。

 

せっかく手に入れた退屈しのぎを、こんなところで終わらせたくなかった。

 

......そう。きっと、それだけ。

 

マスターは必要以上に踏み込まなかった。

 

私が許したことだけを受け取り、自制心を持ち自分を見失わなかった。

 

 

だからこそ、私はもう一度思ったの。

 

本当に、この人間は愚かだと。

 

そして、その愚かさを、私はどうやら嫌いではないのだと。

 


 

聖杯戦争が終わったとき、マスターは勝利を喜ぶより先に、私との別れを惜しんだ。

 

「ステンノと、もう少し一緒にいたいな」

 

それを聞いて、思わず笑ってしまったわ。

 

聖杯を手にして、望むものがそれ?

 

いくらでも野望を抱けるでしょうに。失ったものを取り戻したい、届かぬものを手に入れたい。人間の願いなんて、いくらでもあるはずよ。

 

 

それなのに、マスターは私と過ごす時間を望んだ。

 

しかも、ただ願うだけでは終わらなかった。

 

聖杯を魔力源として使い、自分の『無属性』と『調和』によって、私が現世に在り続けるための肉体を作り上げた。

 

魔力を供給されなければ消える、儚い召喚のままではなく。

 

自分の足で歩き、自分の意思で行く先を決められるように。

 

「これで、ステンノは自由だよ」

 

マスターは、そんなことを言った。

 

「私があなたのもとを去っても?」

 

「寂しいけど、もちろん」

 

......ああ、本当に。

 

自分と一緒にいてほしいから、ここまでしたのでしょう?

 

なのに、選ぶ権利を私に差し出してしまう。

 

もう私を繋ぎ止める令呪はない。

 

私が気まぐれに姿を消せば、それで終わるかもしれないのに。

 

だから私は、少し考えてから答えたの。

 

 

 

 

「では、しばらくあなたのそばにいてあげましょう」

 

マスターは、驚くほど嬉しそうに笑った。

 

その顔を見たとき、胸の奥に何かが落ちたような気がしたけれど......気のせいでしょうね。

 


 

それからマスターと世界を旅していると、2度目の聖杯戦争に参加することになり、酒呑童子が加わった。

 

まったく、次は鬼ですって。

 

あの甘ったるい声でマスターを『旦那はん』と呼ぶのを初めて聞いたときは、少々呆れたわ。

 

もっとも、酒呑は酒呑で面白い鬼よ。気まぐれで、危険で、人間の常識を笑ってしまう。私とは違うけど、退屈な相手ではない。

 

3度目にはブーディカ。

 

今度は面倒見のいい女王様。

 

マスターは本当に、妙な縁ばかり結ぶのね。

 

彼女が来てからは、暮らしがずいぶん整ったわ。マスターが料理を作れば、ブーディカが片づけを手伝う。酒呑が酒をねだれば、ブーディカが小言を言う。

 

私?

 

もちろん、見守っているわ。

 

女神がそこにいるだけで場が華やぐのだから、十分でしょう?

 

 

 

 

 

ただ、マスターが誰のためにも同じように笑うのを見ると、たまに思うことはあるのよ。

 

最初にあなたの無礼な挨拶を聞いたのは、私。

 

魅了されて、それでも令呪を使わなかったあなたを知っているのも、私。

 

魔力が尽きかけた戦場で、震える手を差し出してきたあなたを覚えているのも、私。

 

それは、あとから誰かがやってきたところで変わらない。

 

ふふ。

 

別に、誇っているわけではなくてよ。

 

ただ、事実を確かめているだけ。

 


 

「ステンノ?」

 

顔を上げれば、いつの間にかマスターが私の席のそばに立っていた。

 

「考え事?」

 

「ええ。少し昔のことを」

 

「昔?」

 

「最初の聖杯戦争のことよ」

 

その途端、マスターは気まずそうに笑った。

 

「......ああ。最初はひどい挨拶だったね」

 

「自覚があって何よりだわ」

 

「でも、あのときは本気だったよ。君が僕を殺そうとしたら、令呪を使うつもりだった」

 

「知っているわ」

 

そう。知っている。

 

だからこそ、マスターの言葉には価値があるのよ。

 

初めから何もかも許していたのなら、ただの愚かな人間だったでしょう。

 

マスターは怖いものを怖いと知り、嫌なことを嫌だと言い、それでも私と一緒にいることを選んだ。

 

だから、私も選べた。

 

魅了せずに言葉を交わすことを。

 

力が尽きかけたとき、マスターに魔力供給を許すことを。

 

聖杯戦争が終わっても、そばに残ることを。

 

「ねえ、マスター」

 

「うん?」

 

「あなたは今でも、私があなたを害そうとしたら自害を命じるのかしら?」

 

少し意地悪く、尋ねてみた。

 

マスターは困ったように眉を下げた。

 

「今は令呪もないよ」

 

「仮の話です」

 

「......そうだね。本当に僕を殺そうとするなら、止めると思う。でも、ステンノがそうしたくなる理由は、まず聞きたいかな」

 

まったく。

 

以前より、さらに面倒な答えになったわね。

 

「ふふ。相変わらず、愚かな人」

 

「それ、褒めてる?」

 

「さあ。どうかしら」

 

マスターは笑って、空になった桃の皿を持ち上げた。

 

「また明日も冷やしておくよ」

 

「ええ。楽しみにしているわ」

 

マスターが厨房へ戻っていく。

 

その背中を見送りながら、私は頬杖をついた。

 


 

マスターと出会ってから、どれほどの時間が過ぎたのかしら。

 

今では朝になれば食事が用意され、昼には紅茶が運ばれる。

 

そんな日々を、私は当たり前のように受け取っている。

 

でも、当たり前ではないのよね。

 

本来、私たちは聖杯戦争が終われば別れるはずだった。

 

マスターが少しでも違う選択をしていたら、今ごろ私はここにいなかったでしょう。

 

私が戯れに魅了をかけたとき、マスターが令呪を使っていたら。

 

魔力が尽きたあのとき、私が差し出された手を拒んでいたら。

 

聖杯を手にしたマスターが、もっと違う願いを抱いていたら。

 

いくつもの『もしも』の先に、今の食卓はない。

 

そう考えると、少しだけ不思議な気分になる。

 

人間とは、本当に儚い生き物。

 

今日笑っていた人が、明日も同じように笑っているとは限らない。

 

ましてマスターは、たびたび命を危険に晒してきた人間なのだから。

 

だからといって、心配しているわけではないわ。

 

ただ、私の許しもなくいなくなられたら、困るというだけ。

 

せっかく気に入った場所を見つけたのに、また退屈な日々へ戻るなんて、まっぴらだもの。

 

 

 

それに。

 

マスターが料理を作り、酒呑がつまみ食いをして、ブーディカが笑いながら注意する。

 

その様子を眺めながら、私は紅茶を飲む。

 

そんな時間は、思っていたよりもずっと心地いい。

 

この暮らしが続くのなら、少しくらいはマスターのわがままにも付き合ってあげましょう。

 

たとえば、明日の朝も一緒に食卓を囲んでほしい、なんていう願いなら。

 

......もっとも、迎えに来るのはマスターの役目だけれど。

 

「ステンノ、そろそろ上に行くよ」

 

階段のほうから、呼ぶ声がした。

 

ええ。聞こえているわ、マスター。

 

でも、すぐには立ち上がらない。

 

もう一度、名前を呼んでくれるかしら。

 

迎えに来て、手を差し出してくれるかしら。

 

 

 

マスターが自分の意思で私のところへ来る、その一瞬があればいい。

 

......あら。

 

私はいつから、そんなことを楽しみにするようになったのかしら。

 

ふふ。

 

──本当に、愚かな人ね。

 

女神を呼び出し、命を脅し、魅了され、それでも信じることをやめなかった人。

 

私のために危険を冒し、自由を与え、何ひとつ見返りを求めなかった人。

 

そんなあなたを、私は今も眺めている。

 

そして、たぶん明日も。

 

私がここにいるのは、あなたに命じられたからではない。

 

ほかに行く場所がないからでもない。

 

私自身が、あなたのそばを選んだから。

 

......このことだけは、いつか教えてあげてもいいわ。

 

もっとも、そのときはきっと、あなたはまた愚かな顔で笑うのでしょうけれど。

 

 

 

──それを見るのも、悪くないわね。

 


 

 

 

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次回は酒呑童子回やんね。
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