「旦那はん。ほんまに、もうおしまい?」
閉店後のカフェ。空になったお猪口を指先で転がすと、カウンターの向こうにいる旦那はんは、酒瓶を棚に戻しながら頷いた。
「おしまい。明日も店を開けるんだから、このくらいにしておきなよ」
「一杯くらい、誤差やと思うけどなぁ」
「その一杯を、さっきから3回も飲んでるでしょ」
ああ、よう覚えとるお人やこと。
旦那はんと戯れていると、窓際からさらりと声がした。
「酒呑。マスターが困っているわ。いい加減になさい」
本を閉じたステンノが、上品に微笑んでいる。うちが旦那はんの袖を引いてみせると、その視線がほんの少しだけ鋭うなった。
「女神はん、昔から変わらへんねぇ」
「何のことかしら?」
「ふふ。こっちの話やよ」
初めて顔を合わせたときから、この女神はんはうちを警戒していた。もちろん、鬼を警戒するのは間違いやない。
でも、警戒しとる理由はそれだけやなかった。
「なにか考え事?」
「旦那はんと出会うた頃。まだ、ただの『マスター』やと思うとった頃を思い出してただけやよ」
旦那はんが、少しだけ意外そうに目を瞬かせた。
思い浮かぶのは、あの夜、闇を照らした恐ろしいほど綺麗な炎や。
最初に感じたのは、古い葡萄酒の匂いやった。
召喚陣の光が薄れ、目を開ける。石造りの地下室には樽が積まれ、燭台の灯りが揺れている。酒蔵で呼ばれるなんて、なかなか洒落た趣向やないの。
陣の向こうには若い魔術師がひとり。右手に令呪を宿し、こちらの様子を静かに窺っていた。その少し後ろには、息を呑むほど美しい女が立っている。
「──召喚はできた、みたいだね」
「うちを呼んだんは、あんたはん?」
「そうだよ。僕は北条透。君のマスターになる。君の真名を聞いてもいいかな?」
「ふふ。礼儀正しいこと。うちは酒呑童子。アサシンとして呼ばれたみたいや。よろしゅうな、マスター」
その名を聞いて、少年の表情に初めて明確な警戒が浮かんだ。
「酒呑童子か......」
「あなたの運はどうしてこんなに悪いのかしら?」
後ろの女が口を開く。完璧な微笑みなのに、その目は笑っていない。
「そう言わないでよ、ステンノ」
「まあ、女神はんやったん?こんなべっぴんさんがそばにおるんやねぇ」
うちはマスターへ近づき、袖に手を伸ばしてみた。触れる前から、女神はんの視線が一段冷える。
ああ、そういうこと。
この人間は、女神のお気に入りなんや。
「酒呑童子。先に言っておくよ」
マスターの声がした。
「一般人に勝手に手を出さないこと。街中で派手に暴れないこと。守れないなら令呪を使うから、覚悟しておくといい」
「ずいぶん、はっきり言わはるんやね」
「後で聞いてないとか言われたら困るからね。でも、協力してくれるなら必要以上の命令はしないつもりだよ」
脅しながら媚びるでも、鬼のうちを無条件に信じるでもない。危険だと理解して、必要な境界だけ引いてくる。
「ええよ。しばらくは、ええ子にしたげるわ」
女神はんは、ちっとも安心した様子を見せへんかった。
聞けば、マスターはこの街の聖杯を求めて来たわけではなかった。
最初の聖杯戦争で女神はんを受肉させ、そのまま2人で世界を旅していた。ある港町に立ち寄ったところ、突然右手に令呪が現れたらしい。
「放棄するつもりだったんだけど、教会を探してる途中に襲われてね」
「襲われた?」
「令呪を持った外から来た魔術師なんて、早めに潰したかったんだろうね。こうなった以上危ないから参加することにした」
「聖杯も根源も要らんのに?」
「そもそも、あんな継ぎ接ぎの聖杯で根源へ辿り着けるとは思えない。僕は旅を続けたいだけ」
机の地図には、街を走る霊脈と魔術工房の候補が書き込まれていた。今回の亜種聖杯戦争は4騎という話やけど、土地の力は弱い。うちも生前の力を好きに振るえるわけやない。
さらに厄介なんが、地元の3陣営やった。3人のマスターが最初から徒党を組み、その配下にいる大勢の術師が共同工房を維持している。
「数では負けてる。だから、相手がまとまっていることを逆に利用したい」
「まとめて殺すん?」
「必要ならね。でも、何も知らない住人まで巻き込むつもりはない」
「優しい魔術師やねぇ」
「神秘を露見させないのは最低限のことだよ。無益なことはしたくないし」
それでも『殺さずに済むならそのほうがいい』と言う声には、損得勘定だけではない色もあった。
うちは、人を殺す時にその色がどんなときに変わるのか、少し気になった。
最初の襲撃は、召喚の翌々日の夜に来た。
宿の窓が砕け、鳥の姿をした使い魔がなだれ込んでくる。甘いわ。こんなん、一発で吹き飛ばせる。
「酒呑、強い攻撃は使わないで!」
「何言ってるん?」
「宿を壊せば騒ぎになるし、下には客がいる。敵が僕を誘い出したがっているなら、なおさら乗る必要はない。すぐに引くはずだ」
マスターが乗らんのを見て、外で待っていた術師たちは引き上げた。
「追わへんの?」
「相手の準備した場所で戦うつもりはないよ」
窓の向こうへ視線を向けたあと、マスターは階下に怪我人がいないことだけ確かめた。宿を移る手配を始める横顔は、驚くほど平静やった。
「臆病なんやねぇ、マスター」
「そうだよ。あいにく、僕は痛いのが嫌いだからね」
おかしな人間やと思うた。けど、つまらんとは思わへんかった。
なにより、うちがマスターに近づくたび、女神はんの視線が追ってくるんやもの。それが面白くて面白くて仕方ないなぁ。
「マスター、ちょっと手ぇ貸してくれはる?」
「何に使うの?」
「ふふ。握ってみたいだけやよ」
「その程度のことなら、我慢なさい」
すかさず女神はんが割って入る。
「女神はん、妬いとるん?」
「まさか。あなたが無作法なだけよ」
ああ、揶揄うんがおもろいなぁ。
戦争が続くにつれ、うちの霊基は少しずつ消耗していった。多勢に無勢、パスから流れ込む魔力だけでは足りず、マスターも連戦で疲労が溜まっている。
そんなある夜、奥の寝室からかすかな声が聞こえた。
気配を消して覗けば、女神はんがマスターの頬に手を添えていた。そのまま2人は唇を重ねている。
なるほど。受肉している女神はんには魔力供給は必須やあらへん。つまりこの行為は──そういうことや。
面白いものを見せてもろた。
うちは迷わず扉を開いた。
「──うちだけ仲間外れなん?」
「酒呑!?」
「......覗き見なんて、どこまでも無作法な鬼ね」
女神はんの声は、薄氷みたいに冷たかった。
「ふふ。お邪魔やった?」
「見れば分かるでしょう?」
うちはマスターの隣へ歩み寄り、その袖を引いた。
「なあ、マスター。うちにも魔力、分けてくれはる?もう、身体の奥がすかすかなんよ」
「今?」
「今がええ。うちのほうが供給は必要やろ?」
女神はんが目を細めた。
「魔力だけが目的ではないのでしょうね」
「そらそうや。女神はんの大切な時間、うちが奪うたらどんな顔をするんか、見てみたかったんやもの」
「......本当に、性質の悪い鬼」
マスターはため息をつき、それでもうちから目を逸らさへん。
「足りないのは本当だね。僕も供給する必要があると思う。でも、酒呑が望まないなら無理はしないよ」
「望んどるよ。マスターは嫌?」
「必要なことではある、か........ステンノ。悪いけど、今夜は酒呑を優先させて」
「まあ。随分と素早い判断ですこと」
うちはマスターの手を引いた。
「ほな、ちょっとお借りしますえ、女神はん」
「貸した覚えはなくてよ」
背中へ刺さる冷たい視線が、たまらなく楽しかった。
その夜は、別室でマスターから魔力を受け取った。
翌朝には消耗もずいぶん軽くなったけれど、胸の中に残った興味は、ますます大きくなるばかり。
女神はんが大事にする人間。少しばかり面白みのある人間。
この時はまだ、それだけやった。
街で人が消え始めたのは、それから数日後。
港で働く男、夜道を歩いていた娘、宿を転々としていた旅人。共通するのは、いなくなっても大騒ぎになりにくいことやった。
マスターが調べると、街外れの古い修道院に辿り着いた。
地下では地元の魔術師たちが、誘拐した一般人から生命力を吸い上げていた。マスターはんに勝つために、それぞれの身体に術式を刻んで使い潰すつもりらしい。
マスターは報告を聞き終えると、珍しく表情を消した。
「......魔術使いにも劣る外道だ」
低く、はっきりした声やった。
「魔術師が人を犠牲にするのは珍しくない。でも、一般人を攫って使い潰すのは許されない行為だ」
「あら。怒っとるん、マスター?」
「怒ってるよ。僕のような魔術使い寄りの人間でも、魔術師として行ってはいけない最低限のことは知ってる」
隠そうともせえへん。
「どうするん?」
「人質を救出する。全員を外へ出してから、工房を焼く」
「焼く?」
「建物ごと。中の魔術師は1人も逃がさない」
女神はんが静かに尋ねた。
「もっと簡単に終わらせる方法もあるでしょう?」
「ある。でも、今回はそうしない」
机には見取り図が広げられていた。地下の儀式場、礼拝堂、裏口、そして人質を逃がす通路。マスターは、ひとつずつ指で確認していく。
「工房を維持している魔術師は72人。外には出さない。一般人を全員逃がしたのを確かめてから、火をつける」
うちは、思わず笑みを深めた。
決行したのは、夜明け前やった。
うちが外の使い魔を引きつけ、女神はんが見張りの注意を逸らす。その隙にマスターが地下へ降り、人質に刻まれた術式をひとつずつ解除していった。
魔術師たちが駆けつければ、うちが阻む。女神はんは逃げる人間を出口へ導き、追ってくる術師を寄せつけへん。
助けられた人々は、何が起こっているのかも分からず震えていた。中には歩けない者もおったなぁ。
なんでも、この人間たちを助けたあとの管理はこの土地の管理者がやるべきなんだとか。うちには、ようわからんなぁ。
「慌てなくていい。ステンノの案内に従って外へ出て」
誘導する時の声は落ち着いとった。けど、話しながらも作業の手は一度も止まらへん。最後の人質が修道院の外へ出たとき、空はまだ暗かった。
「ステンノ、人数は?」
「全員揃っているわ。周囲にも、もう一般人はいないわ」
「酒呑、中に残っているのは?」
「術師が72人。何人かは裏口から逃げようとしとるよ」
「分かった。ここから先は僕がやる」
マスターは修道院へ歩み寄り、その周囲へ風の力を巡らせた。炎が外へ広がらないよう、周囲の空気の流れを制御する。地面へも術式を刻み、熱が隣の建物へ伝わらないよう備える。
ここまで徹底して巻き添えを防ぐお人が、今から72人を焼き殺すんや。
「マスター。中から降参する言うてる声もするえ」
「聞こえてる」
「助けてやらへんの?」
「助けない」
短い返事。
「逃げる者を止めるんは分かる。せやけど、殺すだけならもっと早い手もあるやろ?」
「あるよ」
マスターは、まっすぐ修道院を見据えた。
「でも、あの連中には自分が何をしていたのか、骨の髄まで理解する必要がある」
その瞬間、空気が変わった。
指先に、小さな火が灯った。
燭台ほどの橙色の炎。やけど、マスターが掌を開いた次の瞬間、細い炎が無数に分かれ、修道院の四方へ伸びていく。
朱色の線が地面を走り、金色の炎が壁を這い上がる。その中心で青い火が透き通るように揺れた。
炎が、花のように開いた。
幾重もの花びらが、夜空へ向かってゆっくり立ち上がる。建物を包む炎は、風に乱されることもなく、まるで初めからそこに咲くはずだった花のように、完璧な形を保っていた。
「......まあ」
うちは思わず息を呑んだ。
美しい。
炎はただ大きいんやない。一筋ごとに流れが違い、それでいて互いを邪魔せえへん。炎が生んだ熱を風が運び、土が周囲への広がりを抑えている。
マスターの魔術は、途方もない規模の炎を、ひとつの作品みたいに仕上げていた。
扉を叩く音。窓を割ろうとする音。打ち破ろうとした魔術の光が、次々に炎へ呑まれていく。
うちはちらりとマスターを見た。
表情は静かやった。炎の温度と広がりを確かめる目には、狂乱も陶酔もない。
だからこそ、背筋がぞくりとした。
「......もっと苦しまんように、殺せたんやろ?」
こんな大虐殺、普通は行えん。行えたとしても、ただの人間が平常心であることは無理や。
「うん」
「それでも、焼き殺すん?」
「そう決めたから」
マスターは炎から目を離さなかった。
「他人を苦しませて平気だった人間が、自分だけ苦しまずに終わろうとする。僕は、それを許したくない」
炎がさらに高く伸びる。
逃げ道はない。外へ熱を漏らさないための風が、内側では火の勢いを保っていた。
魔術であるからこそ、マスターはもっと早く命を奪えた。眠らせるように、一瞬で終わらせることも選べたはずや。
それをせずに、焼くことを選んだ。
ただ殺すのとは違う。苦痛を与えることまで含めて、本人が選んだんや。
ああ、うちが見ている炎は、恐ろしいほど綺麗やった。
やがて悲鳴が途切れた。屋根が炎の中で崩れ、建物が花の中心へ沈んでいく。最後の壁が落ちるまで、炎の輪郭は崩れへんかった。
マスターが手を閉じる。
幾重もの光がふっと消え、残ったのは黒く焼けた瓦礫と、夜明け前の冷たい空気だけ。
72人の魔術師は、ひとりも生き残らへんかった。
「......綺麗なもん、見せてもろたわ」
「褒められることじゃないよ」
マスターが淡々と言う。
「僕は、あの連中を苦しめて殺した。もっと早く終わらせられたのに、そうしなかった」
無関係な人々は逃がし、巻き込まれないようにまで気を配った。その同じ手が、敵を苦しませるために炎を操った。
善良であろうとする気持ちと、ぞっとするような残虐性。
どちらも、この人間の本当の顔や。
ああ。
──なんて、なんて美味しそうなお人やろ。
うちはマスターの手を取った。
「......なぁ、旦那はん」
「え?」
「今日から、そう呼ばせてな」
「旦那はん?急にどうしたの?」
「うち、あんたはんのこと、気に入ってしもたんよ。今までより、ずっと」
マスターは戸惑ったように眉を寄せた。
「今のを見て?」
「今のを見たからや」
うちは笑って、指を絡めた。
「ただ優しいだけの人間やったら、いずれ飽きてしもたやろ。でも、あんたはんは違う。あんな綺麗な炎で、あんな残酷なことができる。しかも、正しい人間の顔をして言い訳したりせぇへん」
「......変わったところを気に入られたね」
「ふふ。鬼やもの」
背後から、女神はんの視線が刺さった。
分かっとるよ。壊してしもうたら、もう見られへん。
うちは、この人間の次の顔を、もっと近くで見ていたいんやもの。
聖杯戦争はほどなく決着し、不完全な聖杯がうちらの手へ渡った。旦那はんは器を調べ、しばらく考えてからうちを呼んだ。
「酒呑。受肉する気はある?」
「あらぁ。女神はんと同じように?」
「うん。聖杯を魔力源にして、僕の魔術で肉体を作る。ただし、条件がある」
「聞かせて、旦那はん」
「僕のもとに残ること。これからも一緒に旅をして、暮らす場所が決まったらそこで生活する。それと、勝手に人を襲わないこと」
うちは微笑んだ。
「鬼を、飼い慣らすつもりなんかなぁ?」
「野放しにするつもりがないんだよ」
はっきりした答えやった。
「君がどういう存在か分かっている。僕が受肉させて、その後で好き勝手に人を殺されたら、責任は僕にもある。だから、僕の目が届くところにいてほしい。必要なら止める」
「うちが拒んだら?」
「その場合は受肉させない。これは譲れない条件だよ」
女神はんが、少しだけ満足そうに笑った。
「マスターにしては、筋の通った判断ね」
「ステンノのときと事情が違うからね」
そうやろうね。女神と鬼は違う。旦那はんは、その危険を区別して考えている。
やけど、それでうちの気持ちは冷めへんかった。
「ええよ、旦那はん。うち、あんたはんのそばにおる。勝手に人を襲わんとも約束するわ」
「本当に守ってね」
「ふふ。約束やなぁ」
旦那はんは聖杯へ手をかざした。流れ出した魔力を『無属性』で形に変え、『調和』によってうちの霊基と肉体を結びつける。
足の裏に石の冷たさが伝わる。胸の奥で、確かな鼓動が響く。
うちは指を開いたり閉じたりしてから、旦那はんを見上げた。
「これで、ずっと一緒やねぇ」
「約束を守ってくれるならね」
「ほんま、厳しいお人」
女神はんが小さくため息をついた。
「この先が思いやられるわ」
「ふふ。仲良うしましょ、女神はん」
「あなた次第ね」
うちは笑い、旦那はんの耳元へそっと顔を寄せた。
あの炎をもう一度見せてほしいなんて、今は言わへん。そんなことを言えば、この人間に嫌われるかもしれへんから。
でも、いつか。
穏やかな顔も、冷たい顔も、怒りも、弱さも、何もかも見てみたい。
「うふふ、『しばらく』は大人しゅうしとるわ。でも、いつかな──旦那はん、あんたはんのぜぇんぶ、うちが美味しくいただくで?」
「酒呑。聞いてる?」
旦那はんの声に、記憶が今のカフェへ戻った。
「聞いとるよ」
「じゃあ、今夜はもう飲まないってことで」
「......そっちの話やったん?」
「ほかに何があるの?」
うちは笑い、空になったお猪口を差し出した。
窓際の女神はんが、昔と同じ目でこちらを見ている。旦那はんは相変わらず、酒瓶一本にまで細かい。
今の優しい旦那はんは誰もが知ってるけど、あの夜、修道院を火の海にした旦那はんのことは、この店の客は誰も知らへん。
「ふふ。今日は、大人しゅうしとくわ」
「今日は、ね」
そのの声に、うちはにっこり笑い返した。
ステンノ
酒呑童子