「マスター、これ、しまっておくね」
閉店後のカフェ。棚の奥から取り出した古い箱には、旅先の切符や写真が詰まっていた。
いちばん上にあったのは、夕日に照らされたローマの街並み。
「懐かしいな。そんな写真、まだ残ってたんだ」
厨房から顔を出したマスターが笑う。
「あたしは、簡単には懐かしいって言えないかな」
「......ああ、うん。まあ、そうだよね」
言ってから、マスターは少し申し訳なさそうに眉を下げた。あたしは慌てて首を振る。
「違うの。今は、嫌な思い出だけじゃないんだ。マスターと会った場所でもあるからね」
窓際のステンノが本を閉じ、酒呑がカウンターからこっちを見た。
「3度目の聖杯戦争ね。あのときのマスターは、ずいぶん不機嫌だったわ」
「ふふ。旦那はん、またかいな、言うて嘆いとったなぁ」
「2度も巻き込まれたら、3度目くらい勘弁してほしいと思うでしょ」
みんなが笑う。
あたしも笑いながら、写真の端をそっと撫でた。
あの頃のあたしは、マスターを守ってあげなきゃいけない年下の子だと思っていた。
本当の強さを知るのは、少し後になってからだった。
眩しい光が消え、冷たい石床が足の裏に伝わってきた。
石造りの地下室。古い樽と木箱が積まれ、壁のランプが揺れている。召喚陣の向こうには、右手に令呪を宿した少年が立っていた。
「──よかった。成功だ」
彼は心底ほっとした顔で息を吐く。
「あたしはブーディカ。ライダーとして来たみたい。あなたがマスター?」
「うん。僕は北条透。よろしくね、ブーディカ」
差し出された手を握ると、少年はまた少し安心した顔になった。
「そんなに緊張してたの?」
「ちょっとね。前に召喚した2人は、初対面から色々と大変だったから」
「あら。私のせいにするつもり?」
階段から涼やかな声がした。
見上げると、驚くほど美しい少女と、着物姿の小柄な女性が立っていた。どちらもただの人間じゃない。でも、英霊とも何かが違う。
「女神に向かって令呪で自害させるなどと言い放った方の言葉とは思えないわ」
「ステンノ、それはもう許してよ」
「旦那はんは、うちにも最初から釘を刺してきはったしなぁ」
「あれは必要だったでしょ、酒呑」
少年が困り顔で言い返す。あたしは思わず笑ってしまった。
「ふふ。大変だねぇ、マスター」
「分かってくれる?」
「うんうん。大丈夫。あたしはあんまり困らせないと思うよ。それより、ちゃんとご飯は食べてる?疲れた顔してるけど」
「え?うん、まあ。一応作って食べてるよ」
「それならよかった。でも睡眠も大事だから、あんまり無理しちゃ駄目だよ」
「......なんだか、母親に叱られてるみたいだ」
微妙な顔をする少年に、あたしは笑いながら謝った。
2人の少女は、ステンノと酒呑童子。以前の亜種聖杯戦争で彼が召喚し、勝利の後に受肉させた英霊なのだという。
「受肉って、聖杯に願ったの?」
「聖杯は魔力源として利用したんだ。あんな出来損ないの聖杯に英霊を受肉させる力はないからね」
さらりと言っているけれど、普通なら簡単にできることじゃないのはわかる。
「マスターって、すごい魔術師なんだね」
「そんなことより、今回の説明をさせて」
机にローマの地図が広げられた。
「今回の亜種聖杯戦争は5騎。ローマは霊脈の流れがいいから、縁のある英霊は力を十分発揮できるはずだ」
「マスターは聖杯が欲しいの?」
「全然。観光中に令呪が現れたんだ」
大きなため息が落ちる。
「これで3回目だよ。もう日本に帰って、のんびり暮らそうかな」
「それがいいよ。若いうちから戦ってばかりじゃ疲れちゃうもの」
「......そんなに子ども扱いしなくても」
「あはは。ごめんね。何だか放っておけなくて」
あたしは笑って答えた。
でも、机の上の地図だけは、笑って眺められなかった。
ローマ。
あたしから、家族と故郷の未来を奪った国の名前だった。
召喚から数日は、静かに過ぎた。
マスターは街を歩き、地図に人通りの多い道や逃げ道を書き込んだ。敵の工房らしい場所にも印をつけている。すぐには踏み込まないらしい。
「慎重なんだね」
「無駄な戦いはしたくないからね。魔術師が相手ならともかく、敵の英霊の正体が分からないうちは」
あたしは感心しながら頷いた。
市場の近くでは、転んだ女の子のために、一緒に散らばった果物を拾った。マスターは破れた袋の代わりまで探してきて、泣きそうだった子を笑顔にしてしまう。
「子どもには笑っていてほしいよね」
その言葉に、胸が痛んだ。
あたしにも、娘たちがいた。
あの子たちが安心して笑える未来を、守りたかった。
「......ブーディカ?」
「ううん。何でもないよ。さ、帰ろうか。夕飯、手伝おうかな」
「ありがとう」
そんな会話をしていた翌日、宿の周りで敵の使い魔が見つかった。
わざと姿を見せ、こっちを郊外へ誘導している。
「罠だろうね」
マスターはあっさり見抜いた。あたしも同感だ。
「向こうもこっちの戦力を測りたいはず。僕も敵を確認したい。準備をしてから行こう。ステンノと酒呑童子を呼ぶほどではないかな」
石壁に囲まれた古い貯水施設。その中庭で待っていたのは、杖を持った魔術師と、古代ローマの衣装をまとった中年の男だった。
中年の男が顔を上げる。
それだけで、身体が凍りついた。
「──カトゥス・デキアヌス」
忘れるはずがない。
夫の死後に財産を奪い、あたしと娘たちに屈辱を与える命令を下した男。あの惨劇の始まりにいた、憎むべきローマの役人。
「ほう。イケニの反逆女王ではないか。まさか英霊になっていたとはな」
その声も、笑い方も、何ひとつ変わっていない。
「あんた......どうして、ここに......」
「ここはローマだ。私の名も、この土地の歴史に刻まれている。おまえと違ってな」
手が震える。剣の柄を握る指に力が入った。
「ブーディカ」
マスターの声がした。
「生前に面識のある相手なんだね」
「......うん。あたしから、娘たちから、何もかも奪った男だよ」
マスターは一度だけ頷いた。
「戦いたい?」
「......戦いたい」
「分かった。カトゥスは君に任せる。あっちのマスターには邪魔させないから安心して一対一で戦うといい」
敵の魔術師が鼻で笑った。
「若造が!この工房の仕掛けを見ても、同じことが言えるか!」
杖が振られ、石床の刻印が光った。足元から石杭が伸び、周囲の柱からも魔術が起動する。
けど、マスターはもう動いていた。
風に背を押されるように間合いを外し、石杭を避ける。敵が再び杖を向ける前に懐へ踏み込み、その手首を掴んでひねった。
「ぐあっ......!」
杖が落ちる。敵の膝が折れた。
マスターは肩を押さえて相手を石床へ伏せさせ、空いた手も背後へねじり上げた。抵抗しようとするたびに関節を押さえられ、男は呻くばかりだった。
「工房を用意したのは悪くない。でも、僕と君の差を埋めるには足りないんじゃないかな?」
短く詠唱していた敵の唇を、マスターは殴って黙らせた
「観戦しようじゃないか、僕と君の英霊──どちらが優れているか」
それだけだった。
あたしが再びマスターを見る頃には、敵の魔術師は何もできなくなっていた。
「......マスター、すごいね」
「普通の魔術師が相手ならこんなものだよ。ほら、ブーディカ。君の番だ」
拘束した男から手を離さないまま、マスターが頷く。
あたしはカトゥスへ向き直った。
「待て!私は皇帝ネロ様に仕えた財務官だぞ!」
「知ってるよ」
剣を抜く。
「だから、忘れられないんだ」
こいつが短剣を抜いて振るった。遅い。あたしは弾き、返す刃で腕を傷つける。
「ぐっ......!」
「昔は、何人もの兵士を従えていたよね。自分は安全なところから命令するだけでよかったよね──でも、今は違う」
また一歩。カトゥスが逃げようとした先へ回り込み、肩を斬る。
「ひぎっ......!」
「あたしの娘たちが、何をしたっていうの......?」
「逆らう者には罰が必要だ!それがローマの秩序というものだ!」
その言葉で、胸の奥が冷たくなった。
何も変わっていない。自分が苦しめた相手が目の前にいるのに、少しも悪いと思っていない。
あたしは剣を振るい、男短剣を弾き飛ばした。
カトゥスが石床へ倒れる。刃を喉元へ向けると、男の顔が引きつった。
「───謝って。あたしにじゃない。あの子たちに、ブリタニアの人々に」
「ば、馬鹿な!蛮族に頭を下げるなど......!」
これ以上、聞きたくなかった。
剣を振り上げる。
今度こそ、終わらせる。
その瞬間。
轟音が貫いた。
石畳が砕け、巨大な槍があたしとカトゥスの間に突き立った。
「っ!?」
反射的に飛び退く。石の破片が頬をかすめた。
向こうからは、大きな体躯の男が現れた。恐ろしいほど堂々としている。何者か分からないのに、目を逸らせない。
その後ろには、別の魔術師もいた。
「何者......?」
男は胸を張り、大きく両腕を広げた。
「うむ!人の怒り、そして人の歩み。私はそれを見届ける」
声が中庭に響く。
「私はロムルス。そう、私こそがローマである!」
ロムルス。
ローマの建国者。
「......よりによって、ローマでこの英霊を召喚したのか。これは厳しい」
マスターの声は静かだった。でも、今まで以上に鋭い視線がロムルスへ向いていた。
カトゥスが顔を輝かせる。
「神祖よ!お助けください!我が陣営は、あなたの陣営に従っているのですから!」
「なるほど。同盟を結んでいたんだね」
マスターはそう言いながら、拘束した男をさらに深く石床へ押さえつけた。
「マスター......?」
「ブーディカ。カトゥスから離れて。すぐに退くよ」
「でも......!」
「分かってる。ただ、ここでロムルスと戦うのは得策じゃない」
マスターは一度だけ、足元の男へ視線を落とした。
「いいから、早く」
「や、やめろ......!」
男がようやく声を絞り出す。
次の瞬間、マスターの手から炎が燃え上がり、短く悲鳴が上がった。
ためらいはなかった。
マスターはその死を確かめると、静かに立ち上がった。
「......これで、カトゥスの魔力供給元はなくなった」
カトゥスの顔が引きつった。
「なっ......!?貴様、私のマスターを......!」
彼の身体から魔力が不安定に揺れる。契約が切れたからといって、すぐ消えるわけではない。それでも、このままでは長く戦えないことは分かる。
「神祖!どうか、どうかお力添えを!」
カトゥスがロムルスへ這い寄った。
「そのマスターに私との契約を!私も同じ陣営の英霊として仕えます!どうか、私を消滅させないでください!」
ロムルスの背後にいる魔術師が、露骨に顔をしかめた。
「2騎目を維持しろというのか?ただでさえ、こっちの負担は軽くない」
「お願いします!私は、こんな所で死にたくはないのです......!」
必死だった。
さっきまであたしを蛮族と呼んでいた男が、今は命乞いをしている。
ロムルスは、その男にもあたしのマスターにも、同じように視線を向けた。
「ふぅむ。ひとつの命が尽き、なおも人は歩まんとするか。受け入れよう」
そして、あたしへ目を向ける。
「女王よ。お前の怒りもまた、ローマへと至る歩みである」
「......やめて!」
思わず叫んだ。
「あたしをローマなんて呼ばないで!あたしの家族を奪った国と、一緒にしないで!」
「うむ。よい。拒む声さえも、私は聞こう──それも、ローマである」
マスターはあたしの横へ来た。
「ロムルスのマスター、もう夜明けが近い。今ここで戦っても、途中で終わることになるはず──今日はここまでにしないか?」
ロムルスの槍が、わずかに持ち上がった。あの槍の威力を、あたしはもう見ている──マスターを守れるだろうか。
ロムルスの背後の魔術師が、カトゥスを一瞥してから言葉を紡ぐ。
「......神祖。今は向こうの魔術師の言う通り戦うべきではありません」
ロムルスは槍を下ろした。
「うむ。去るがよい。道はひとつではない。進むも退くも、人の歩みはローマへと続くのだ」
マスターが呟くように声を発した。
「ブーディカ、行こう。警戒は続けて」
あたしは剣を下ろした。
カトゥスはまだ生きている。目の前にいたのに、討てなかった。
それでも、今はマスターの後ろを歩くしかなかった。
宿に戻ると、マスターは地図を広げた。
「カトゥスのマスターは殺した。これで魔力供給元を失ったけど、ロムルスの陣営へ再契約を頼んでいた。あの様子だと引き受けそうだったから、消滅しないだろうね──むしろ、その方がいい」
「そうすれば、二騎にパスが繋がるから向こうのマスターも弱る」
ステンノが本を閉じる。
「ローマを建国した英霊ね。あなたは普段の行いが悪いのかしら、マスター?」
「僕の普段の行いはステンノよりいいよ。て、このローマで正面からロムルスと戦っても、僕たちが勝てるとは思えない」
「旦那はん、切り札はあるやろ?」
酒呑が尋ねると、マスターは頷いた。
「グングニルの槍の破片。実家から10個持ち出したけど、君たちと会う前に7個使ったから残りは3個。破片を核に、僕の『無属性』で槍を体現して撃ち出す。これが僕の奥の手だね」
そのままマスターは言葉を続けた。
「でも、3個全部使っても、ロムルスは倒せないと思う。せめて、ローマじゃなかったらなぁ」
「でも、それでも戦いをやめたりしないよね....?」
あたしが不安を抱いてそう問いかければ、マスターは考えながらも頷いた。
「戦うよ、最後まで。途中で降りたとしても殺されるかもしれないし、それに──勝ち目がないとは思わない」
マスターはステンノを見た。
「ステンノが本気で力を貸してくれるなら、ロムルスだって男だからね。魅了が通れば、勝てる可能性はあると思う」
「あら。私に、あの男を相手にさせるつもり?」
「無理強いするつもりはないけど、助けてくれるとありがたいかな」
「まあ。考えておいてあげるわ」
ステンノが美しく、そして楽しそうに微笑む。
「まあ、一番確実なのはロムルスのマスターを殺すことだね。この方法がいいと思う」
マスターは地図へ目を落とした。
「カトゥスは単体だと驚異ではないけど、サポートに特化されてたりすると困るから、ロムルスとカトゥスは引き離してから倒したい」
その言葉に、あたしは俯いた。
カトゥスを、もう一度。
あの男の喉元へ届きかけた剣の重さが、まだ手に残っている。
夜になっても、休まる気がしなかった。
時間が経てば経つほど、あの男の顔が浮かぶ。そして、娘たちの声が聞こえる気がする。
廊下へ出ると、隣の部屋はまだ灯りがついていた。
「マスター、起きてる?」
「うん。どうしたの、ブーディカ?」
地図と相手の魔術師の情報が書かれた髪が机の上には置かれていた。
「もう。夜更かしは駄目って言ったでしょ?」
「あはは。見つかっちゃったか」
困ったように、誤魔化しながらマスターは笑った。
でも、今はその顔を見ても、子ども扱いする気にはなれなかった。
「......あのね、マスター」
「うん?」
「ロムルスは、最悪倒せなくてもいいの」
彼の手が止まった。
「どうしても許せないのは、カトゥスの方だから。あの男だけは......あたし自身の手で復讐したい」
言葉にした途端、涙がこぼれた。
「夫が死んだあと、あたしたちから全部奪って......娘たちまで傷つけて。それなのに、今でも、自分が正しいと思ってる。今日だって、あたしを見て笑ったんだよ」
マスターは何も言わず、聞いていた。
「復讐したって、あの子たちは帰ってこない。そんなこと、分かってる。でも、許せない。あいつだけは、あたしの手で終わらせたいの」
「......そっか」
マスターは椅子を引き、あたしの前へ来た。
「君が受けた苦しみを、僕が全部理解できるとは言わない。でも、許せないなら無理に許さなくていいと思う」
「マスター......」
「ただ、死ぬつもりで戦うのはやめてね。僕は君を連れて帰りたいから」
その言葉が、ひどく温かかった。
「あたし──もう一度、カトゥスと戦いたい」
「分かった」
マスターは静かに頷いた。
「カトゥスと再戦できる状況を作る。君が決着をつけるために、僕もできることをするよ」
「......ありがとう」
涙を拭って、笑う。
あたしは一歩近づいた。
「ねえ、マスター。あたしの魔力、今のままで足りると思う?」
「問題ないと思うよ。連戦とか宝具の使用となれば話は別だけど」
「戦っている最中に魔力が足りなくて終わりなんて絶対に嫌だ。ねぇ、マスター。魔力供給、お願いできるかな?」
マスターが顔を上げた。
「......カトゥスはブーディカが苦戦するような相手じゃない。無理に魔力供給する必要は無いよ」
「無理にじゃなくて、望んでる。あたしは、それを望んでる」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「復讐のためとあるけど、マスターを守れる力も欲しい。あなたがあたしのために戦ってくれるなら、あたしもマスターを守るために戦いたい」
マスターは、しばらく黙っていた。
あたしは目を逸らさなかった。
「だから......お願い。あたしに、魔力供給をしてくれないかな?」
窓の外では、ローマの夜が更けていく。
昔、あたしから何もかも奪った国の真ん中で。
あたしは今、今回も自分の意思で戦うことを選んだ。
「......分かった。ブーディカがそこまで覚悟しているなら、僕も応えるよ」
ブーディカだけ2話になってしまった。