翌朝、ローマの空は雲ひとつない晴天だった。
宿の窓から見える街並みは、昨日と少しも変わらない。市場へ向かう人々が笑い、馬車が石畳を鳴らして通り過ぎる。
「最後に、手順を確認しておこう」
マスターが机へ地図を広げた。地下水道の先にある古い神殿。敵が工房へ作り替えた場所は既に特定できている。
「残る敵はロムルス陣営だけ。カトゥスは昨日マスターを失ったけど、まだ現界している。ロムルスのマスターが再契約したんだろうね」
「そのマスターは奥に隠れとるんやろ?」
「たぶん。戦闘向きの魔術師ではないみたいだから、もう表には出てこないだろうね。酒呑、お願いできる?」
「ふふ。旦那はんの頼みなら、しゃあないねぇ」
酒呑はお猪口でも持つように指を揺らした。これから命を奪いに行くとは思えない、いつもの笑みだった。
「僕とステンノはロムルスを引き離す。ブーディカはその間にカトゥスを。酒呑が敵マスターを見つけるまで、何とか持ちこたえれるよう頑張るよ」
マスターがあたしを見る。
「......本当に、カトゥスと戦っていいの?」
「君に任せるって約束したからね。ただ、なるべく早く戻ってきてくれると嬉しい。僕たちも君を待ってるから」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
「うん。マスターも、あたしが合流するまで無茶しないでね」
「努力するよ」
「そこは約束してほしいなぁ」
笑うと、マスターも困ったように笑い返した。
怒りが消えたわけじゃない。あの男の顔を思い出すだけで、今も手が震える。それでも昨夜のように、悲しみで息が詰まることはなかった。
あたしには、帰る場所がある。
神殿へ続く地下水道は、ひんやりと湿っていた。
マスターが扉の術式へ指を触れて解除する。そうすると、閉ざされていた石扉が重い音を立てて開いた。
広間を囲む石柱。床には浅い水が流れ、天井の裂け目から落ちる光が古い碑文を照らしている。
その奥に、2人の英霊がいた。
「ほう!また来たか、イケニの女王!」
カトゥス・デキアヌス。
昨日と同じ顔、同じ声。あたしと娘たちから平穏を奪った男が、何事もなかったように笑っている。
隣には槍を肩に担いだロムルス。こちらを見ただけで、威圧感が凄い。ローマという土地そのものが、ロムルスの背中を押しているかのようだった。
「うむ!再び歩み来たか、ブリタニアの女王よ!」
「あたしが会いたいのは、あんたじゃない」
剣を抜き、カトゥスに向ける。
「今度こそ、あたしの手で終わらせる」
「蛮族風情が!神祖の情けで逃げ帰ったことを忘れたか!」
「逃げたんじゃない。一時撤退も戦略だよ──今日は引かないけど」
答えたあたしの横で、マスターが懐から小さな金属片を取り出した。
残り3個しかない、グングニルの槍の破片。
「ステンノ、頼むよ」
「まったく。女神を使うなんて躾がなってないわね」
『──set』
破片を核に魔力が渦を巻く。『無属性』で編まれた輪郭が、光り輝く長槍へと変わった。
『欠けし神槍よ、無より形を結べ。標を定め、空を穿て──!』
放たれた槍が、超高速で一直線に走る。
ロムルスは笑った。
「うむ!よき一撃である!」
ロムルスの槍と光が激突し、広間が揺れた。石床が捲れ、水しぶきが天井まで跳ね上がる。盾を構えたあたしの腕にさえ、衝撃が響く。
煙の向こうで、ロムルスが肩を回す。腕に浅い傷。それだけだった。
「......カルナにも通じたんだけど。予想どおりだけど、少し傷つくなぁ。ローマじゃなかったら....はぁ」
マスターは苦笑し、すぐに駆け出した。
ステンノがその身体を抱き上げ、ふわりと宙へ浮かぶ。
小柄な女神が自分より大きなマスターを軽々と運んでいる。
「神祖!僕の相手をしてくれるなら、こっちへ!」
「ほう!我を誘うか!」
「もっと広い場所があるんだ。ここでは思い切り槍を振れないだろ?」
「うむ、よかろう!」
ロムルスが地面を蹴る。
ステンノはマスターを抱えたまま回廊へ飛び込んだ。
「マスター。重たいわ」
「ごめん!でも、今言うことじゃなくない!?」
「私が運んでいるのよ。感想くらい許されるでしょう?」
「帰ったら食事を減らすよ......」
「あら、それは困るわ。美味しいお菓子を作る人が痩せて倒れてはね」
「どうすればいいのさ......」
2人の会話が遠ざかる。直後、追いかけたロムルスの槍が柱を砕き、笑っていられる状況じゃないことを思い知らされた。
「......お願い。無事でいて」
「ふふ。ブーディカはんは心配性やねぇ」
酒呑が隣で笑った。
「うちはどこぞに隠れたマスターを探してくるわ。旦那はんが時間を稼いでるうちに終わらせんとなぁ」
「気をつけてね」
そう伝えた途端、酒呑の姿が消えた。足音も気配も残らない。
あたしは剣を握り直した。
「ま、待て!神祖!私を置いていくな!」
カトゥスが回廊へ走ろうとする。
その行く手へ踏み出すと、ぎょっとして止まった。
「どこに行くの?」
「き、貴様......!」
「あたしたちの話は、まだ終わってないよ」
カトゥスの魔術で床から石杭が突き出す。
盾で受け流し、横へ跳ぶ。続いて頭上の隙間から仕掛けられていた矢が降り、濡れた石畳へ次々と突き刺さった。
「近寄るな!私はローマ皇帝に仕えた財務官だぞ!」
「知ってるよ。何度も聞いた」
あたしは盾を上げ、落ちてくる矢の中を進む。
「貴様らが法に従っていれば、あのようなことにはならなかった!反逆の責任はおまえたちにある!」
胸が締めつけられた。
夫を失った日のこと。娘たちの泣き声。焼けた家々と、逃げ惑う人々。忘れられない光景が、濁った水のように心へ流れ込んでくる。
それでも、足は止めなかった。
「ねえ。あたしの娘たちの名前、覚えてる?」
「何だと?」
「命令ひとつで傷つけた、あの子たちのこと。せめて、名前くらいは覚えてる?」
「反逆者の娘の名など、知るものか!」
ああ。
そうなんだね。
あたしは、どこかで期待していたのかもしれない。せめて、自分が傷つけた相手のことくらいは覚えていてほしいと。
罪を認めて、あの子たちに謝ってほしいと。
でも、この男にとっては、あたしたちを辱めたことは──取るに足らない出来事だった。
「......もういいよ」
「何を......!」
カトゥスが短剣を抜いた。
振りかぶる腕を盾で弾き、剣の柄で手首を打つ。短剣が水へ落ちた。逃げようとした膝を斬ると、男は情けない声を上げて倒れ込む。
「ひっ......!やめろ!私はまだ死にたくない!」
喉元へ剣を向けた。
震える顔を見ていると、憎しみの向こうから、別の感情が湧いてきた。
あたしだって、死にたくなかった。
娘たちが大人になるのを見守りたかった。何でもない朝に笑い合って、帰ってきたあの子たちを抱きしめたかった。
それを奪った男が、今は自分の命だけを惜しんでいる。
「──あたしも、あの子たちと生きたかった」
「た、助けてくれ......!」
「ごめんね。あんたを許すことは、できない」
剣を振り下ろした。
短い悲鳴が途切れ、身体が淡い光へ変わっていく。光の粒は水面に触れる前に消え、そこにはもう誰も残らなかった。
「......終わった、んだ」
肩から力が抜ける。
喜びはなかった。胸の中にできた空洞から、冷たい風が吹き抜けるようだった。
復讐を成しても、娘たちが帰ってこないことを、あたしは最初から知っている。
「会いたいよ......」
小さく呟いた途端、涙が落ちた。
だけど、立ち尽くしているわけにはいかない。
遠くで轟音が響いた。水面が震え、天井から細かな砂が降ってくる。
マスター。
あの人は今も、あたしのためにロムルスと戦っている。
昨夜、約束した。復讐を果たしても、死んだりしない。マスターを守るために戦うんだと。
涙を拭い、剣を握り直す。
──すぐに行くよ、マスター。
槍の先端が、僕の頬を掠めた。
遅れて背後の石柱が砕け、破片が雨のように降ってくる。
「......っ、危なかった!」
風を足元へ叩きつけ、身体を横へ滑らせる。
「うむ!よき足運びだ、若き魔術師よ!」
「褒めるくらいなら、手加減してくれないかな!」
「ははは!それではお前の歩みを見届けられぬ!」
悪意がないのが、かえって厄介だ。
こっちは一撃でもまともに受ければ終わる。向こうは楽しそうに槍を振るっていて、息ひとつ乱れていない。
「マスター、左よ」
ステンノの声で膝を折る。頭上を槍が通り抜け、風圧だけで髪が乱れた。
「助かった!」
「感謝するなら、もう少し慎重に動きなさい」
ステンノがロムルスへ微笑む。
「ねえ、神祖様。そんな物騒なものを振り回して、私を怖がらせるつもり?」
ロムルスの視線が引き寄せられた。ほんの一瞬、槍が鈍る。
「......長くは持たないわよ」
「分かってる!」
次の瞬間、ロムルスが笑った。
「うむ!美しき女神よ!されどローマの歩みは止まらぬ!」
石が弾け、水が散った。
「......今ので何秒?」
「10秒ほどかしら」
「やっぱり短いな......」
「私の魅力が足りないと?」
「違う!ローマにいるロムルスが強すぎるんだよ!」
次に放たれた槍は速かった。
壁へ風を当てて跳び上がる。着地したところへ柄が迫り、避けきれない。
「ぐっ......!」
脇腹に衝撃が走る。身体が宙を舞い、背中から石壁へ叩きつけられた。
肺の空気が一気に抜ける。呼吸のたびに肋骨が軋み、足へ力が入らない。
「マスター!」
「来ないで、ステンノ!」
駆け寄ろうとしたステンノの前に槍が落ちる。僕はどうにか風をぶつけ、軌道を逸らした。石が抉れ、額へ温かい血が流れる。
「......生きてる。まだ平気だよ」
「どこが平気なのかしら」
冷たい声とは裏腹に、ステンノは僕の腕を取って支えてくれた。その指に、いつもより強く力がこもっている。
「無理に笑わないで。そんな醜い笑顔、見ているこちらが不愉快よ」
「......ごめん」
僕が死ねば、ブーディカは魔力供給を失う。ステンノと酒呑童子は受肉しているから生き残れるけれど、ここで無事に逃げられる保証はない。それに、酒呑童子を野放しにしてしまうことにもなる。
「ステンノ。少しだけ時間を作ってくれる?」
「何をするつもり?」
「2つ目を使う」
残った破片へ手を触れると、彼女の目が細くなった。
「勝てるの?」
「分からない。でも、何もしなければ、もっと早く負ける」
「なら、試してみなさい」
ステンノがロムルスへ向き直る。
「私を見なさい」
魅了に揺らいだ一瞬を逃さず、破片を掲げた。
『──set』
『欠けし神槍よ、無を纏いて姿を結べ。虚空を裂き、我が標を穿て──!』
光の槍が走った。
ロムルスに直撃し、工房全体が揺れる。天井から落ちてきた瓦礫を風で押し返し、僕はステンノを抱き寄せた。
煙が晴れる。
ロムルスは立っていた。肩の鎧は割れ、血が流れている。それでも、槍を握る手は揺らいでいない。
「うむ!実に見事な神槍よ!それもまた、ローマである!」
「......そう言ってもらえて光栄だよ」
笑ったつもりが、顔が引きつった。
あと1つ。残された切り札を使っても、この男を倒せる気がしない。
「マスター。そんな顔をするものではなくてよ」
ステンノが僕の前へ出た。
「宝具を使うわ」
「でも、普通の魅了でも数秒しか......」
「試す前から私の限界を決めるの?」
彼女が振り返った。優雅で、少し腹立たしいほど自信に満ちた微笑みだった。
「私は女神よ。諦めるには、まだ早いわ」
「......分かった。頼むよ」
ステンノは水の流れる床を、花園でも歩くように進む。
「ねえ、神祖様。こちらをご覧なさい」
ロムルスの目が彼女を捉えた。
女神は静かに微笑む。
「──『
眩い光も、衝撃もない。
ただ、その微笑みを見た瞬間、空気の中心が彼女へ移ったように感じた。水音さえ遠ざかり、ロムルスの大槍がゆっくりと下がる。
「......おお。なんと、美しい......」
それでも、ここはローマだ。ロムルスを支える土地の力と、その強靱な意志が、女神の理不尽に抗っている。
ステンノの指が、ほんの少し震えた。
「......1分も持てば上出来ね」
「十分だ!」
僕は柱の根元を崩し、ロムルスの周囲へ瓦礫を落とす。水路を塞いで水を溜め、追撃しにくい足場へ変えていく。
倒すためじゃない。酒呑が敵マスターを見つけ、ブーディカが戻るまで生き延びるための準備だ。
だが、石の向こうでロムルスの指が動いた。
「......もう抗っているのか」
「ええ。神祖というのも、なかなか無粋ね」
魅了が解けるまで、ちょうど1分だった。
「うむ!女神よ、その微笑み、確かに受け取った!」
大槍が一閃し、積み上げた瓦礫が砕けた。溜めた水が押し寄せ、風で逸らそうとした僕の身体ごと吹き飛ばす。
「......っ!」
左肩が裂け、膝が床へ落ちた。痛みで手が震え、うまく息が吸えない。
ロムルスが静かに槍を持ち上げる。
「若き魔術師よ。お前の歩み、しかと見届けた──お前の最期も、ローマへ通ずる」
......ここまで、なのか。
死にたくなかった。もっと旅をしたい。ステンノと酒呑とブーディカと、いつか日本へ帰って、くだらないことで笑いながら暮らしてみたかった。
僕は隣の女神を見た。
「......ステンノ。君は逃げていいよ」
「何を言っているの?」
「君は受肉してる。僕が死んでも消えない。だから、ここに残る必要はないんだ」
なるべく明るい声を出そうとした。
「最初の戦争が終わったとき、自由にしていいって言ったよね。あの約束は今も変わらないよ」
「......そう」
「君と旅ができて、楽しかった。ありがとう」
彼女はしばらく何も言わなかった。
やがて、僕の前へ膝をつく。血で汚れた頬を指先で拭うと、ひどく静かな声で告げた。
「あなたは、私を置いていくつもりなのね」
「......できれば、一緒に帰りたいよ」
「なら、どうして私に別れを告げるの?」
怒っているのが分かる。だけど、その奥には、見たことのないほど傷ついた色があった。
「受肉させるとき、あなたは私に自由をくれたわ。どこへ行くのも、誰といるのも、私が決めていいと」
「......うん」
「だったら、ここに残るかどうかも私が決めることよ」
彼女の指が、僕の手を握った。
「ステンノ......」
「それなのに、あなたは私の気持ちを聞きもしないで、勝手に別れようとするのね」
僕は返す言葉を失った。
これが、ステンノにとって最善だと、僕は勝手にそう決めつけていた。
「......ごめん」
「謝罪はいらないわ」
ステンノはようやく微笑んだ。
「代わりに約束なさい。私と一緒に帰るの。あなたには、今生を私に尽くす義務があるでしょう?」
「......いつ決まったの、そんな義務」
「今よ。異論があって?」
おかしくて、痛む胸を押さえながら笑ってしまった。
「......ないよ。帰ろう、ステンノ。一緒に」
「ええ。それでこそ私のマスターね」
握った手が、強く握り返された。
ロムルスの槍が落ちる。
僕は風を重ね、必死に軌道を逸らした。肩の傷が熱く疼き、肋骨が悲鳴を上げる。それでも、もう諦めようとは思わなかった。
ステンノが視線を引きつけ、僕が足場を崩す。ほんの一瞬を拾い集めるように、2人で攻撃を凌いだ。
それでも、限界は確実に近づいていた。
ロムルスが踏み込む。
防ぎきれない。僕はせめてステンノの前へ出ようとした。
そのとき。
「──マスター!」
聞き慣れた声が、回廊の向こうから響いた。
赤い髪が翻り、女王が盾を掲げて飛び込んでくる。
「ブーディカ!」
槍と盾が激突した。凄まじい衝撃に石床が震え、それでも彼女は足を踏ん張って耐えた。
「遅くなってごめん!」
ああ。
「マスターは約束を守ってくれた──今度は、あたしがマスターを守る番!」
胸の奥が熱くなった。
「......おかえり、ブーディカ」
ステンノが隣で、小さく息をつく。
「ようやく戻ったのね。少し遅いけれど──ここからは、あなたに任せるわ」
「うん!任せて!」
ロムルスは笑みを浮かべ、槍を構え直した。
まだ戦いは終わっていない。
ああ、劣勢なのは変わらないのに、心は軽くなった。
ステンノ
ブーディカさんが一人で3話も取るから、ステンノがウォーミングアップを始めた。