世界が歪んだ日 作:マイナスマイナス
正直、人生詰みである。
目の前で力無く腕を垂らしてゆらゆらと揺れる、父親だったものを見ながらそんなことを思った。
俺はどうすればよかったのか。少し前まではそれなりに幸せな暮らしを送っていたはずだ。友達はいなかったが、一人で本を読んだりゲームをしたり、それなりに楽しい毎日を過ごしていたはずなのだ。それが、全てあの日に変わってしまった。
今からだいたい半年前の四月一日、父親が働いていた会社は嘘のように消えていたらしい。潰れたというわけではなく、会社のビルが跡形もなく消えていたというのだ。そして元々ビルが存在していた場所には、見覚えのない巨大な木があったのだとか。
そのような異変はそのビルだけでなく世界中でも起こっていた。突如出現した黒い館、無人の闘技場、天を衝く柱……数えればキリがない。
元々あったものを上書きするようにして現れたそれらは、世界の国家機関や交通機関などの重要な場所も含めた数多くを消し去った。そこにあった物や人は一体どこへ行ったのか。今でも判明していない。
まるで災害かのようなその事象は、人々の怒りや憎しみが込められて侵界《しんかい》と呼ばれている。
そんなことが起きてから、父親は一応新しい職を探していたみたいだ。ただ、理想が現状と比較して高すぎたことと、世界が大混乱していたこともあって受け入れてくれるところは見つからなかったらしい。
酒を飲んで、母親と喧嘩して、俺に愚痴をぶちまけて。そんなこんなで父親は自分の妻にも逃げられた。それからというもの、父親は化け物みたいになった。
俺や物に暴力を振るうだけではない。「どうせ世界は終わるから」と言って、どんな金だろうが借りまくり、金があれば使いまくった。酒、タバコ、ギャンブル、キャバクラ……俺が知っている金の使い道はそんなもんだけど、他にも何かやっていたかもしれない。
それで最近やばいヤツらがやってくるようになった。黒い服を着ていて強面の。多分ソイツらから金を借りたまま返していないんだろう。玄関から聞こえる怒鳴り声は、一度聞こえるとしばらく止まなかった。
その果てに、父親の逃げ場は一つしかなくなってしまったのだろう。
ただ、今更一人ぼっちになったところで涙の一つも出やしなかった。今俺の心にあるのは、何をすればいいのかという迷いだけだ。そうやって何も分からず父親の前で立ち尽くしていると、鐘の音が鳴った。一気に迷いは恐怖へと染められていく。
それはヤツらを呼ぶ鐘の音だ。決まって夕暮れの時間に鳴るそれは、この街のどこに逃げても聞くことを逃れられない。もうすぐヤツらが来る。父親がどこへ行っても逃さないヤツらが。職も、金も、妻も、尊厳も失った父親を執拗に追い立ててきたヤツらが。
忘れられない。二日前、家からいなくなったはずの父親が、酷く恐ろしかったはずの父親が、ヤツらによって家へ連れ戻されたとき俺を見て「ヒィ」と声を漏らしたこと。
俺はたまらず家から逃げ出した。少し冷え込んできた外の空気が肌を刺激するが、気にしている余裕などない。一刻も早く遠くへ行かなければならないのだ。
見つかれば父親が勝手にやった悪魔のごとき契約が、俺に引き継がれてしまうだろう。俺が隠れて必死に稼いでいたバイトの金すらも、ヤツらからすればはした金。もしそうなれば父親と同じかそれよりひどい末路をたどることになる。
とはいえ、どこに逃げれば見つからないかなんてまだ中学生の俺に分かりはしない。当てもなく、ただひたすらに走った。人ごみをかき分け、時に不審な目で見られながら、必死に周りへ目をやって、少しでも人の営みから外れた場所へと。
そしてふと、足を止める。今にも足から崩れ落ちそうで、息も絶え絶えになっていたが、それが原因で足を止めたのではない。
見つけたのだ。この絶望の中で身を隠せそうな闇を。
日を遮り、その中が影になっている森。更に、この小さな身程度なら隠してくれそうな木が立ち並んでいる。
そして足を向けたとき、森の方から湿ったような足音が聞こえた気がした。
この奥に誰かいるのか。
警戒してはみるが、ここからうかがうには何もいないように見える。
もし何かいたとしても、ヤツらではないだろう。それならば、早く身を隠すのが優先である。そう思い、痛む足を前へと押し出しながらその森へと入っていった。
辺りを見渡してみるが、やはり何もいないようだ。それどころか虫の一匹も見えず、鳴き声すらも聞こえやしない。さすがにおかしい。そう思うが、かといって戻る選択肢もない。結論は進むしかない。
森の奥へと行く中で、ふとなにか光のようなものが目に止まった。この暗い森の中で、光。ここまで来て少し気が緩んでいた俺は、好奇心でその場所へ少しずつ近づいてみる。するとその正体がわかった。一筋の糸だ。その白い輝きが俺に、まるで光であるかのように見せたのだ。
しかしおかしなことに、縦に張った一筋の糸は空中に浮いているように見える。糸の端から先に触れてみても、何の感触も残らない。感じられないほど細い糸があるのかと思い、それをちぎってやろうと腕を振る。しかし空を切るだけで、糸は変わらず浮いたまま。
実に不思議なその糸に、ひどく好奇心を刺激された。何としてもその謎を暴いてやろうと、ヤツらのことすら忘れるほど夢中になった。
仕組みを知るため、糸を至近距離で見ていた俺はあることを発見した。それが本当か確かめようと糸の中心へと指をかけて右へ寄せたとき、糸が二本の線へと分かれた。そしてそれだけではない。その間には見たことのない景色が広がっていたのだ。
それは菓子でできていると思うほど色鮮やかな森と、白い草原の景色だった。
それを見た瞬間、俺の熱は急速に冷めていった。ああ、これは異界だ。いつから生まれたのか、どこにあるのかすらもわからない、地球とは異なる世界。そしてこの線は糸などではなく、半年前に現れた地球と異界をつなぐもの。
俺はこんなものが見たかったのではない。現実とはまるでかけ離れているのに、現実を突きつけてくるものが見たかったのではないのだ。現実に溶け込んでいて、よく見れば些細な不思議に気づけるようなものが見たかったのだ。
とはいえ、ここへ身を隠せばヤツらに見つかることはなくなるだろう。さすがのヤツらも、こんなに深い森の奥に来て、たった一筋光る境目を見つけようなどと思うことはないだろう。ただ、ここへ隠れるべきではない。
もしこの先が、変な森だとか草原だとかが広がっているだけの平和な世界なら、俺は迷わず足を踏み入れたはずだ。
しかし俺は知っている。この先には魔物がいることを。
そいつらは人を殴り、刺し、食いちぎる。毒を持つやつや、電気を発するやつ、ずっと燃えてるやつもいるそうだ。そして攻撃方法だけでなく、その姿も多種多様。地球に存在する生物が変化したような姿から、空想上でしか見ないドラゴンのような理から外れた生物までいるらしい。
そんな魔物がいる場所に身を隠すのか。この森でも十分じゃないのか。さすがにこんな深い森の奥まで追ってくることはないだろう。
そう考えたところで、ふとあることを意識の外へ追い出そうとしていたことに気がついた。
それは俺の未来。もしここでヤツらから隠れられたとして、その後はどうする。ずっとここにいるつもりか。虫一匹すら見つからないこの森で、ただ飢え死にするのを待つのか。
それとも外へ出て、ヤツらに出会わないことを祈りながら、ずっと怯えたままバイトやらで食いつなぐのか。
もう、嫌だ。一筋の光すら見えない生活がこれからもずっと続いていくと考えただけで、心が折れそうになる。生きる意味が分からなくなる。父親のように終えてしまいたくなる。
それならば、俺が選ぶべきなのは力だ。思い返すのはバイトに行く途中で見たとある男のこと。その男は何かに怒っていて、叫びながら素手でコンクリートの地面を破壊していた。
それを遠巻きに見ていた人々の話を盗み聞きしたところ、異界に行って帰ってきた人間は、これまでの常識では考えられないような力を手にしているようだ。その力のせいで世界は更に荒れているのだが、俺にとってはチャンスと言えなくもない。
もし、俺がヤツらを片手で払いのけられるような力を得れば、怯えながら生きることはなくなる。
だが、だが、本当に行かなければいけないのか。他に良い方法があるのではないか。想像する。公的などこかの施設に入らせてもらおうとする。しかしすでに国という体制は崩壊しつつあり、そのような施設に俺を守る力などない。当然ヤツらは現れる。
空想する。優しい人に拾われて、幸せに暮らす。しかしヤツらが現れて、あの日のように全て壊されていく。
想像し、空想し、否定して、否定して、否定して、否定して。
気づけば、逃げるように異界へと足を踏み入れていた。