シュピーゲル0 ~ 名無しの暗殺者と名有りの少女 ~   作:氏家まさら

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プロローグ
【第1話】切り裂きジャック


 神聖(しんせい)ファブリカ帝国(ていこく)の北端。

 

 重工業を司る――アイゼンシュタイン家の領地境界付近。工場の煙突が吐き出す煤煙(ばいえん)と白雪(しらゆき)が混ざり合い、空からは絶え間なく灰色の雪が降り注いでいた。

 

 ザ…ザ…

 

 不純な雪を踏みしめる乾いた足音が、冷え切った灰鉄街(たんてつがい)『ルスト・ブロート』に響く。

 

 

―― おい。ハンス ――

 

 ザ…ザ…

 

―― いたのか。マルクス ――

 

 ザ…ザ…

 

―― オットー!聞いてんのか… ――

 

 ザ…ザ…

 

―― あんたは…ヴィクターだったか? ――

 

 耳を掠めては消えていく呼び声が聞こえる。

 

 ザ…ザ…

 

 目の前には、灰色の雪が降り注いでいる―――。

 

 まるで、頭の中で響く無数の存在(なまえ)が、虚しく地に堕ちていく様を見せつけるかのように。

 

 ザ…ザ…

 

「…俺は今、『誰』だったか――」

 

 誰に語るでもなく、男は静かに独りごちた。

 

「…まあいい。また適当に決めよう」

 

 視線を落とし、男は再び灰色の道へと踏み出した。

 

 

 

 

        

 

 

 

 

「な、何だ!?てめえは―――」

 

 ザシュ―――――――――!

 

 唐突に放たれた一閃。

 

 ボトっ……。

 

 物言わぬ肉塊へと成り果てた標的が床の上に崩れ落ちる。

 

「…」

 

 男が目の前に横たわる物を見下ろす。その顔には返り血が僅かに着いている。

 

「……まだまだ『下手』だな」

 

 男は左手で顔の血を拭い、納得がいかないように呟いた。

 

 ぶちッ!

 

 動かなくなった標的の懐から、金袋をふんだくる。

 

「……次は、もっと『上手く』、もっと『速く』、もっと『静寂(しずか)に』―――」

 

 男は取り憑かれたように呟き、近場に買い付けでも行くかのような足取りで踵を返した。

 

 バタン…。

 

 扉の閉まる音が、冷え切った灰鉄街(たんてつがい)の路地裏に響いた。

 

 

        

 

 

 ザ…ザ…

 

「…もっと金がいるな」

 

 男が灰色の道を歩く。

 

 何かを思い出したように、ふと足を止めて僅かに天を仰いだ。

 

「……なぜ金がいるんだったか?」

 

 ザ…ザ…

 

―― げほ…げほ… ――

 

 耳の奥で、誰かが激しく咳き込む声が聞こえたような気がした。

 

「……まあいい。きっと大した理由じゃない」

 

 再び視線を落とすと、男は安酒と琥珀茶(カウフィ)の匂いが漂う場末の酒場になだれ込んだ。

 

 

        

 

 

 チャリン、チャリン…

 

 入口のベルが、寒々しい音を鳴らして客の来訪を告げる。

 

 男はカウンター席に腰を下ろした。

 

「…注文は?」

 恰幅の良い髭面のマスターが、背中を向けたまま低い声で尋ねた。

 

「強いやつを―」

 

 マスターが無言で了承し、慣れた手つきで酒の準備を始める。

 

「アンタ、この区画(エリア)の人間じゃねえな?」

 マスターが背中を向けたまま、顔だけ男に向けて尋ねる。

 

「なぜそう思う?」

 

「ここの野郎だったら、そんな『陰気』な返しはしねえよ」

 マスターが呆れたように鼻を鳴らした。

 

「…そうか。少し買い付けにな」

 

「はん、琥珀茶(カウフィ)を混ぜたヤツで良いかい?」

 

「…ああ」

 男が静かに頷く。

 

 コツ…。

 

 目の前にショットグラスが置かれた。

 

「まあ、別になんでもいいがな」

 

 ポンッ――。

 

 小気味良い音を立てて酒瓶の蓋が開く。

 

「ひとつ忠告してやるよ」

 

 ドボドボ……。

 

 琥珀色に染まった酒が、波打ちながらグラスを満たしていく。それは、労働者たちが『生命の水』と呼ぶ液体だった。

 

 マスターの視線は手元に落ちたままだ。

 

「今この辺には近づかねえ方がいいぜ」

 

 ちび…

 

 男はマスターから差し出された濁った酒を、音もなく呷(あお)った。

 

「何かあったのか?」

 酒をちびちびと口に運びながら、男が尋ねる。視線は手元のグラスに落ちたままだ。

 

「ここ一ヶ月で5人殺られてる。多分組織の人間じゃねえ。野良のイカれ野郎の仕業だ」

 

「……」

 男の視線が、グラスに落ちたまま止まる。

 

「全員似たような手口で殺られてたらしい。心臓か首を一突き―――」

 恰幅の良い髭面のマスターが、自分の胸元を指さす身振りを交えて説明を続ける。

 

「しかもその後、片手か片足が切断――『まるで食肉(くいもの)の下処理をしてるような切り口』、とか言ってるやつも居たぜ。傑作だろ? 犯人は酒浸りの肉屋かもしれねぇな」

 

 マスターの語りを聞きながら、男は再びちびちびと酒を口に運びだした。

 

「だもんで――最近じゃ、奴(・)のことを『切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)』とか呼ぶやつもいるよ」

 

 その名を聞いた瞬間、男の動きが完全に止まった。

 

「…ジャック」

 

 その名を頭の中でもう一度反芻する。

 

「へっ!傑作だろ?」

 

 マスターがお手上げだと言わんばかりの仕草をして鼻で笑った。店の外では、変わらず灰色の雪が降り続いていた。

 

「だからアンタも気をつけな。こんな場末のゴミ溜めで、汚物の仲間入りはしたかねえだろ?」

 

 ドボドボ……。

 

 マスターがショットグラスに酒を注ぎ足した。

 

「…奇遇だな」

 

 男が静かに口を開いた。

 

「へ?」

 

 マスターが間の抜けた声で聞き返す。

 

「実は、俺の名前も『ジャック』なんだ」

 

 男が視線を上げ、カウンター越しにマスターを射抜いた。

 

 ぐい……

 

 男は迷いなくショットグラスを一気飲みした。琥珀色の苦味が、男の乾いた喉を焼いていく。

 

 トン…。

 

 空になったグラスを置く。

 

 ジャラ…。

 

 続いて、数枚の銅貨をカウンターに置いた。

 

「美味かったよ」

 

 椅子から降り、男は迷いのない足取りで踵を返した。

 

 退店する男の背中を、マスターは言葉を失ったまま、ただ凝視し続けていた。

 

「俺は、今日から『ジャック』―――『切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)』だ」

 

 扉を開けると、そこには再び灰色の雪が降り注いでいた。

 男は、新たな器(な)を口の中で転がす。

 

 

 ザ…ザ…ザ…ザ……

 

 

 時は教皇歴927年。

 降り積もる灰雪の上には、等間隔の足跡が刻まれ、そのまま路地の奥へと伸びていった。

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