シュピーゲル0 ~ 名無しの暗殺者と名有りの少女 ~ 作:氏家まさら
絶え間なく降り注ぐ灰色の雪が、重工業の煙に汚れた
ザ…ザ…
雪を踏みしめるその足取りはどこか空虚で、霞が揺れているかのようだった。くすんだ灰世界を抜けながら、空虚な男――ジャックは、つい先日の出来事を反芻していた。
「今回の標的はコイツだ――」
キャスパーがボロボロの羊皮紙を取り出して、ジャックに見せた。
「奴隷商人ハンス――元々は、
キャスパーは右手に持った羊皮紙を左手でパンパンと叩いた。
乾いた紙の音が静かな室内で高く響く。
「それについて、先日ウチの猟犬が挨拶回りに行ったんだが――」
キャスパーは言葉を詰まらせる。
「野郎も手練れの番犬を飼ってたらしくてな、こっぴどくやられて帰ってきやがった」
彼は露骨に顔をしかめた。
「奴には落とし前をつけさせなきゃならねえ…。分かるよな?ジャック――」
キャスパーの据わった視線がジャックへと向けられた。
「…承知した」
ザ…ザ…
「くだらん……」
気づいた時には心の声が漏れていた。自分たちが決めた
「早く終わらせよう――」
ザ…ザ…
ジャックが人気の無い路地裏にたどり着いた。そこは標的が運営している商会の裏手にあたる場所だった。
彼の視線の先には趣味の悪い成り金風の衣装を纏った肥満体の髭面男――奴隷商人ハンスの姿が見えた。ハンスは路地裏に自分の
ス……。
ジャックは冷徹な瞳で獲物を見据え、ゆっくりと剣を抜いた。
ザシュッ―――!
「……ッ」
不意な斬撃がジャックの左肩を浅く斬り裂いた。
ド…
ジャックが片膝をつく。
標的の傍らに潜んでいた護衛の剣が、彼の肩を裂いたのだ。
それを合図にするように、更に前方と背後から一人ずつ護衛が現れた。
前に二人、後ろから一人――またたく間に三人の護衛がジャックを包囲した。
カチン……。
ジャックの指先から力が抜け、その手に握られていた剣が灰雪に落ちた。
ガ…!
地に落ちた剣を、一人の護衛が逃さず足で踏みつける。
シャッ…!
そのまま護衛は剣を背後へと蹴り飛ばし、滑らせた。ジャックの手が届かない範囲まで、得物が遠のいていく。
「はあぁ…。また躾のなってねえ狂犬が湧いてきやがったか」
護衛の背後から肩越しに、肥満体の商人が顔を覗かせる。奴隷商人ハンス――その醜い顔には、歪んだ笑みが浮かんでいた。
「……はぁ」
ジャックは、自らの境遇を他人事のように見つめ、小さく溜め息をついた。
護衛の気配には、最初から気づいていた。
ただ――面倒だった。
「…ふ」
ジャックの唇が、自嘲気味に歪んだ。冷たい雪の上に膝をつき、疲れたように肩を落とす。
「前の狂犬は躾ただけだったが――見せしめだ」
ハンスが、目の前の手負いの犬を見下ろしながら冷酷に言い放つ。
パチン……。
続けて右手の指が鳴った。
「――殺れ」
命令が下される。同時に、護衛の剣が鈍い光を放ちながら頭上へと振り上げられた。
ドクン…
ジャックはその様子を、どこか他人事のような表情で見つめた。
ドクン…
意識の混濁か、周囲の動きが極端に遅くなり、まるで走馬灯のように映り始める。
ドクン…
ジャックの脳裏に誰かの姿が映りかけた。
―― …つ…れ……ろ? ――
一瞬、声が聞こえたような気がした。
ドクン…
しかし、その姿見の影は、降りしきる灰雪に紛れるように段々と薄くなっていく。
ドクン…
護衛の剣が、今まさに振り下ろされようとしていた―――
ズドッ―――――!!
「…は?」
ぽた……ぽた……。
冷たい石畳に、どろりとした赤が滴る。
その場にいた全員が、時間が止まったかのように固まった。
そしてその背後――異変の元凶へと、吸い寄せられるように視線を移していく。
ジャックの目が見開いた。
趣味の悪い成り金衣装に身を包んだハンスの胸元から、鋭い鉄の切っ先が飛び出していたのだ。それは先ほどジャックが奪われた剣の先端だった。
「……はぁっ!…はぁっ!」
ハンスの背後――。
肩を激しく上下させ、目を血走らせた少女の姿が露わになる。
少女は、その細い腕で剣の柄を握りしめ、ハンスの背中から刃を突き立てていた。
「……て、てめぇ」
ハンスが視線だけ少女に向けて呪詛を吐く。
「ぐふぉ…」
奴隷商人は激しく吐血し、白目を向いて絶命した。
ブシャッ……!
「……んぬ!」
少女が乱暴に背中の剣を引き抜く。返り血が激しく吹き出し、少女の顔を鮮血で染めた。
ドサ……。
醜い肉塊と化したハンスが、うつ伏せに倒れる。その死体から溢れ出した赤い輪が、灰色の雪面を濡らしていった。
「……」
少女は荒い呼吸で肩を揺らしながら、
剣を握る細い腕は、まだ震えている。
「……あ」
ジャックは食い入るように少女を見つめていた。
灰色の雪の中で、少女だけが鮮烈な赤に濡れていた。
「……うあ」
ザン…
少女は緊張の糸が切れたように、へなへなと膝から崩れ落ち、その場で尻もちをついた。
「野郎……!」
それを合図に護衛達が我に返った。
ヒュン――――!
先ほどまで死人のような顔をしていたジャックが、一転して俊敏な動きで護衛の懐に潜り込み、その剣を奪い取った。
「……な!?」
武器を奪われた護衛が、動揺に目を見開く。
ザシュッ―――!!
ドサ……。
ジャックは返す刀で護衛を一人切り伏せた。
「……この野郎!」 「……ぶっ殺す!」
残った護衛たちもジャックに殺意を向けた。
ザシュッ―――!!ドシュッ―――!!
乾いた灰雪の路地裏に鋭い剣閃の音が響き渡った―――。