シュピーゲル0 ~ 名無しの暗殺者と名有りの少女 ~ 作:氏家まさら
日の暮れた執務室の天井に、男の怒声が響いた。
「…ふざけてんのか!?オメエは!」
ドン…!
執務机の上に右拳が叩き落とされる。
拳を振るった男――キャスパーの目の前には、今しがた『仕事』を終えて帰還したばかりのジャックと、彼に連れられた少女の姿があった。
ジャックは左肩に浅い切り傷を負っており、それを手当もせずに放置していた。
傍らに立つカレンは、返り血こそいくらか拭われていたものの、血糊の跡がべったりと残っていた。
二人とも追い剥ぎにでも遭ったかのような風体だ。
奥の机では、この組織を束ねる団長――クラウスが、神妙な面持ちで視線を落とし、静かに葉巻をくゆらせていた。
時折、手元のショットグラスに注がれた強い蒸留酒を喉へ流し込む。その落ち着き払った佇まいは、さながら嵐の前の静けさを思わせた。
「手傷を負って帰ってきたと思ったら、道端で拾った奴隷を仲間に入れたい、だと?頭湧いてんのか――ええ!?」
キャスパーの怒りは収まらない。まくし立てるように怒声が響く。
「
ジャックはごく淡々と答えた。
カレンは、怒り狂う男と石のように冷淡な男が織りなす見事な
「いいや、分かってねえよ……!ウチはなジャック、教会の養護施設じゃねんだよ……!その肩口から慈愛の精神でも溢れちまったか…?『
キャスパーは青筋を浮かべて、目を見開きながら凄んだ。半ば顔が痙攣している。
「……ああ、『
カレンが平然とした口調で話しかけた。
「てめぇは黙ってろ!ガキィ……!!」
キャスパーが、怒声を上げた。
日の暮れた執務室がビリビリと振動するほどの音量が炸裂する。
「…へいへい。……おー、こわ」
カレンは両手をひらひらと左右に振って降参の
「見込みはあると思う。何しろ今回ハンスを殺ったのは、コイツだ」
沈黙を守っていたジャックが、会話に割って入った。
「……何が『ハンスを殺ったのは、コイツだ』だよ。
キャスパーはさらに額の青筋を隆起させ、ジャックに詰め寄った。
「それは面目次第もない」
ジャックは反論することなく、素直に己の非を認めた。
「……ぷ」
そんな二人のやり取りを目の当たりにしていたカレンが、思わず吹き出しそうになり、咄嗟に顔を背けた。
「…あ?」
キャスパーが、燻ぶった火種のような目を見開き、カレンを鋭く射抜いた。
「……失敬」
カレンは肩を小刻みに揺らし、左手で口元を押さえながら、ひょいと頼りなげに右手を上げた。
「しかし、見込みがあるのは本当だ。コイツは初めてなのに躊躇なく刺した。磨けば光ると俺は思う」
ジャックはそう言って、キャスパーの燻るような視線を遮るように、カレンの前にすっと割って入った。
「それに
ジャックは、平然とした口調で語り出した。
「おめえなあ……」
キャスパーが眉間に皺を寄せた。ジャックの熱弁に対して、さらに言葉を紡ぎかける。
「……もういい」
これまでずっと、奥の机で神妙に葉巻をくゆらせていた団長クラウスが、静かに言葉を発した。その一言だけでキャスパーの喚き声はピタリと止まり、室内の全員がクラウスへと視線を向けた。
執務室内に、肌を刺すような空気が流れる。
「そこまで言うなら、ジャック。お前が面倒を見ろ」
クラウスは、手元のショットグラスに視線を落とした姿勢のまま、静かにジャックを見やった。
「親父…!」
キャスパーが食い下がろうとしたが、クラウスはただ黙って右手を突き出し、息子の言葉を制止した。
「ただし、猶予は三ヶ月だ。それまでに使えるように仕込め――分かったな?」
クラウスは有無を言わせぬ冷徹な表情で、ジャックと、その後ろに佇むカレンを見つめた。
「承知した」
ジャックは即答した。
「…なら、行け。仕事が入ったら、また連絡する」
団長クラウスは、手元のショットグラスに視線を落としたまま、退出を促した。
「…行くぞ」
ジャックはそう言って、隣に佇む少女について来るように促した。
「ああ」
カレンが短く応じた。
ジャックが踵を返し、扉に手をかけた。
ガチャ…。
「……ジャック」
不意に、背後からクラウスの低い声が彼を呼び止めた。
「……面倒だけは起こすなよ」
冷めた視線で、ジャックを射抜く。
「…分かっている」
彼もまた、背後の団長に向けて、静かに視線を返した。
バタン…。
二人が執務室を退出する。
ふー……。
クラウスが葉巻の紫煙を吐いた。
「……良かったのかよ?親父」
キャスパーが半眼で問いかけた。
「……好きにさせろ。
クラウスは、更に蒸留酒を一杯呷る。
「ただ、この所アイツは働き詰めだったからなぁ。丁度良い
「そういやアイツ、女がいる気配もねえな…」
キャスパーが、視線を宙にやりながら漏らす。
「それに、
クラウスが冷徹な表情で、二人が去った入口を射抜く。
「…ちげえねえ」
キャスパーも一応納得はしたように頷いた。
ふー……。
クラウスの吐き出す紫煙が、静まり返った執務室の天井にゆっくりと立ち上っていった。