シュピーゲル0 ~ 名無しの暗殺者と名有りの少女 ~   作:氏家まさら

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【第7話】売れ残り《レフトオーバー》

 執務室での騒動から数日後。

 

 剥離の鴉(スクラップ・クロウ)のアジトに併設された、薄暗い訓練場にはジャックとカレンの姿があった。

 

 カレンが身にまとっているのは、あの町娘の衣服ではない。

 組織からあてがわれた、黒装束――幼い少年から剥ぎ取ったような、男物の服だった。彼女は女にしては背が高かったが、少しサイズが合っていない。

 

 二人は右手に短剣(ナイフ)を握りしめ、冷たい石畳の上でじりじりと向かい合っていた。

 

「これから三ヶ月でお前を仕上げなきゃならん。ボスに使い物にならないと判断されたら、お前はまた売られるか、最悪ハムズ川に浮かぶ塵の一部になる」

 

 ジャックは不動の姿勢のまま、淡々と物騒な事実を告げた。

 

「へ、本当にアンタが言った通り、奴隷よりもひでえや」

 

 カレンは黒装束を乱暴に翻し、構えを取る。

 

「御託はいい。……さっさと来い」

 

 ジャックがそう言い放った。

 

 ヒュッ――!

 

 カレンが鋭く踏み込む。

 

 右手から突きが放たれる。

 

 荒削りだが、鋭い一撃。

 

 ドス……!

 

「…う!?」

 

 鈍い衝撃音が響いた。

 

 気づいた時にはカレンが床に膝をついていた。

 

 ジャックは彼女の突きを無造作に躱すと同時に、その心窩部(ミゾオチ)へとナイフの柄頭を突き立てていた。

 

「…うあぁっ…げふ!」

 

 あまりの衝撃にカレンは腹を抱え、その場で悶絶した。

 

「…立て」

 

 ガッ…。

 

 ジャックは倒れ込むカレンの黒装束の裾を掴むと、強引に引きずり立たせた。

 

「…こ、この野郎」

 

 カレンは顔を歪めながらも、弱々しくそう応じた。

 

「立てるか…!馬鹿野郎!」

 

 カレンは毒づいた。

 しかし、身体は小刻みに震え、声は弱々しい。

 

 ジャックは身体を背け、冷ややかな視線を横に投げた。

 

「まるで駄目だな。…俺の見込み違いだ。今からでもハムズ川に捨てに行くか」

 

「……っ!」

 

 ぞわ……

 

 その言葉に反応したように、カレンの黒髪が怒りで総毛立つ。

 

 カレンは無意識に動いた。

 

 黒装束の裾がはためく。

 

 ヒュンッ――!

 

 右手の短剣(ナイフ)が、ジャックを捉える――

 

 ガキンッ!

 

「……ぐっ!」

 

 ジャックが弾いた。

 

 重い金属音が響く。

 

 カレンの右手が弾かれる。

 

 ナイフが宙を舞う―――。

 

 態勢を崩すカレン。

 

 ジャックの容赦のない追撃。

 

 刃が襲いかかる。

 

「……!」

 

 シャ……!

 

 カレンが咄嗟に動く。

 

 瞬間―――

 

 構えが逆になった。

 

 ジャックの斬撃が空を切る。

 

 紙一枚で回避するカレン。

 

 同時にナイフが掴まれる。

 

 カレンの左手――。

 

 懐に踏み込む。

 

 低い姿勢からの突き―――。

 

「……!」

 

 ジャックの目が、僅かに見開く。

 

 予測を超えた一撃。

 

 しかし、軌道が甘い。

 

 ガキンッ!

 

「うわ――!」

 

 再び、弾かれる。

 

 ナイフが宙を舞う。

 

 尻餅をつくカレン。

 

 落下するナイフ。

 

 シュパッ!

 

 ナイフが掴まれる。

 

 ジャックの左手。

 

「…今のは悪くなかった」

 

 両手でナイフを持ったジャックが、不動の構えで、地べたに座り込んだカレンを見下ろした。

 

「…はぁ、…はぁ」

 

 カレンは、激しく肩を上下させていた。

 

「……実戦で左構えの奴は少ない。闇討ちとなれば尚更だ」

 

 ジャックは左手で掴み取ったナイフをヒュンと回転させ、刃の腹を指先で摘まんだ。

 

「お前は左手(こっち)を使えるようにしろ。それが出来れば、女(どれい)としての不利を多少は覆せるかもしれん」

 

 彼は淡々と告げながら、ナイフの柄頭をカレンの目の前へと突き出した。

 

 バッ!

 

 カレンは乱暴な動作でその柄をひったくった。

 

「うるせえよ」

 

 ジャックを睨みつけ、彼女は悪態をついた。

 

 

        

 

 

 ジャキン…!ガキン…!シャキン…!

 

 薄暗い訓練場に、無機質な金属の衝突音が激しく響き渡る。

 

「ふむ…。まるで駄目だな」

 

 ジャックは変わらず不動の構えのままだ。一方カレンは疲労が蓄積し、石畳の上に立膝をついている。

 

「はぁ…、はぁ…、仕方ねえだろ…!左なんて普段使ってねえんだからよぉ…!さっきは咄嗟に出ただけだ」

 

 カレンが言い返した。肩が激しく上下し、呼吸は荒い。

 

「第一、左構えが有利だってんなら、なんでアンタは右構えなんだよ?そんなに有利なら自分でやってるハズだろ?」

 

「俺は右で全て対応できるので問題ない。だが、お前は違う。未熟な上に時間も限られている。なら下駄を履くしかない」

 

 ジャックは淡々と言い放った。

 

「今日から日常レベルで馴染ませろ。あたかも生来の左利きであるかのようにな」

 

 虚無の視線が、真っ直ぐにカレンの瞳を射抜いた。

 

「うるっせえ…!指図すんな!」

 

 カレンは石畳を蹴り、ジャックの懐へと突進した。

 

 ジャキン…!ガキン…!シャキン…!

 

 薄暗い訓練場の静寂を切り裂くように、再び激しい刃物の衝突音が響き渡った。

 

 

        

 

 

 ばしゃーん…!

 

 

 視界一面に冷たい水がかけられる。

 

「げほ…っ!げほ…っ!うぅほぉ…っ!」

 

 気絶して床に大の字に倒れていたカレンが、激しく咳き込んだ。着込んだ黒装束がピタリと肌に張り付いている。

 

 ジャックは無表情のまま、空になった木桶を彼女へと向けて佇んでいた。

 

 コン…。

 

 ジャックは空になった桶を床に放り投げた。投げ出された桶が石畳の上で乾いた音を立てて跳ね、やがて転がって静止する。

 

 彼はそのまま、カレンに見向きもせず出口へと向かった。

 

 ガチャ…

 

 扉を開き、右手でドアノブを掴んだ状態で、ジャックは振り返る。

 

「…明日続きをやる。今日は飯を食って寝ろ」

 

 バタン…。

 

 ジャックが退出していった。

 

 

「…はぁっ…!…はぁっ…!」

 

 カレンは床に大の字になったまま、荒い呼吸を繰り返した。

 

「ったく、とんでもねえ所(トコ)に来ちまったぜ」

 

 大の字のまま、冷たい床に向かって吐き捨てる。

 

「…けど、明日はぶっ殺す…」

 

 薄暗い訓練場には、カレンの荒い息遣いと、下品な悪態だけがこだましていた。

 

「ところで…今日の晩飯は何だ……?」

 

 ぐぅぅぅ……!

 

 室内にカレンの腹の虫が混ざりだした。

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