シュピーゲル0 ~ 名無しの暗殺者と名有りの少女 ~ 作:氏家まさら
執務室での騒動から数日後。
カレンが身にまとっているのは、あの町娘の衣服ではない。
組織からあてがわれた、黒装束――幼い少年から剥ぎ取ったような、男物の服だった。彼女は女にしては背が高かったが、少しサイズが合っていない。
二人は右手に
「これから三ヶ月でお前を仕上げなきゃならん。ボスに使い物にならないと判断されたら、お前はまた売られるか、最悪ハムズ川に浮かぶ塵の一部になる」
ジャックは不動の姿勢のまま、淡々と物騒な事実を告げた。
「へ、本当にアンタが言った通り、奴隷よりもひでえや」
カレンは黒装束を乱暴に翻し、構えを取る。
「御託はいい。……さっさと来い」
ジャックがそう言い放った。
ヒュッ――!
カレンが鋭く踏み込む。
右手から突きが放たれる。
荒削りだが、鋭い一撃。
ドス……!
「…う!?」
鈍い衝撃音が響いた。
気づいた時にはカレンが床に膝をついていた。
ジャックは彼女の突きを無造作に躱すと同時に、その
「…うあぁっ…げふ!」
あまりの衝撃にカレンは腹を抱え、その場で悶絶した。
「…立て」
ガッ…。
ジャックは倒れ込むカレンの黒装束の裾を掴むと、強引に引きずり立たせた。
「…こ、この野郎」
カレンは顔を歪めながらも、弱々しくそう応じた。
「立てるか…!馬鹿野郎!」
カレンは毒づいた。
しかし、身体は小刻みに震え、声は弱々しい。
ジャックは身体を背け、冷ややかな視線を横に投げた。
「まるで駄目だな。…俺の見込み違いだ。今からでもハムズ川に捨てに行くか」
「……っ!」
ぞわ……
その言葉に反応したように、カレンの黒髪が怒りで総毛立つ。
カレンは無意識に動いた。
黒装束の裾がはためく。
ヒュンッ――!
右手の
ガキンッ!
「……ぐっ!」
ジャックが弾いた。
重い金属音が響く。
カレンの右手が弾かれる。
ナイフが宙を舞う―――。
態勢を崩すカレン。
ジャックの容赦のない追撃。
刃が襲いかかる。
「……!」
シャ……!
カレンが咄嗟に動く。
瞬間―――
構えが逆になった。
ジャックの斬撃が空を切る。
紙一枚で回避するカレン。
同時にナイフが掴まれる。
カレンの左手――。
懐に踏み込む。
低い姿勢からの突き―――。
「……!」
ジャックの目が、僅かに見開く。
予測を超えた一撃。
しかし、軌道が甘い。
ガキンッ!
「うわ――!」
再び、弾かれる。
ナイフが宙を舞う。
尻餅をつくカレン。
落下するナイフ。
シュパッ!
ナイフが掴まれる。
ジャックの左手。
「…今のは悪くなかった」
両手でナイフを持ったジャックが、不動の構えで、地べたに座り込んだカレンを見下ろした。
「…はぁ、…はぁ」
カレンは、激しく肩を上下させていた。
「……実戦で左構えの奴は少ない。闇討ちとなれば尚更だ」
ジャックは左手で掴み取ったナイフをヒュンと回転させ、刃の腹を指先で摘まんだ。
「お前は
彼は淡々と告げながら、ナイフの柄頭をカレンの目の前へと突き出した。
バッ!
カレンは乱暴な動作でその柄をひったくった。
「うるせえよ」
ジャックを睨みつけ、彼女は悪態をついた。
ジャキン…!ガキン…!シャキン…!
薄暗い訓練場に、無機質な金属の衝突音が激しく響き渡る。
「ふむ…。まるで駄目だな」
ジャックは変わらず不動の構えのままだ。一方カレンは疲労が蓄積し、石畳の上に立膝をついている。
「はぁ…、はぁ…、仕方ねえだろ…!左なんて普段使ってねえんだからよぉ…!さっきは咄嗟に出ただけだ」
カレンが言い返した。肩が激しく上下し、呼吸は荒い。
「第一、左構えが有利だってんなら、なんでアンタは右構えなんだよ?そんなに有利なら自分でやってるハズだろ?」
「俺は右で全て対応できるので問題ない。だが、お前は違う。未熟な上に時間も限られている。なら下駄を履くしかない」
ジャックは淡々と言い放った。
「今日から日常レベルで馴染ませろ。あたかも生来の左利きであるかのようにな」
虚無の視線が、真っ直ぐにカレンの瞳を射抜いた。
「うるっせえ…!指図すんな!」
カレンは石畳を蹴り、ジャックの懐へと突進した。
ジャキン…!ガキン…!シャキン…!
薄暗い訓練場の静寂を切り裂くように、再び激しい刃物の衝突音が響き渡った。
ばしゃーん…!
視界一面に冷たい水がかけられる。
「げほ…っ!げほ…っ!うぅほぉ…っ!」
気絶して床に大の字に倒れていたカレンが、激しく咳き込んだ。着込んだ黒装束がピタリと肌に張り付いている。
ジャックは無表情のまま、空になった木桶を彼女へと向けて佇んでいた。
コン…。
ジャックは空になった桶を床に放り投げた。投げ出された桶が石畳の上で乾いた音を立てて跳ね、やがて転がって静止する。
彼はそのまま、カレンに見向きもせず出口へと向かった。
ガチャ…
扉を開き、右手でドアノブを掴んだ状態で、ジャックは振り返る。
「…明日続きをやる。今日は飯を食って寝ろ」
バタン…。
ジャックが退出していった。
「…はぁっ…!…はぁっ…!」
カレンは床に大の字になったまま、荒い呼吸を繰り返した。
「ったく、とんでもねえ
大の字のまま、冷たい床に向かって吐き捨てる。
「…けど、明日はぶっ殺す…」
薄暗い訓練場には、カレンの荒い息遣いと、下品な悪態だけがこだましていた。
「ところで…今日の晩飯は何だ……?」
ぐぅぅぅ……!
室内にカレンの腹の虫が混ざりだした。