キセキと子持ちトレーナー 作:Lagavulin
「キセキ、パパを速くして」
玄関でキャリーケースを持ち上げたところへ、悠が紙を差し出してきた。挨拶より先に頼まれたキセキは、紙と、その向こうにいる父親の顔を見比べた。
「えっ。悠くんじゃなくて?」
「ぼくは練習してる」
「パパだって走ってるぞ。毎朝」
「でも、キセキのほうが速いでしょ」
「それと比べられたら、困るな」
トレーナーは苦笑しながら、キセキの手から荷物を受け取った。悠はもう彼女の靴が脱げるのを待っている。キセキは玄関の段差に腰を下ろし、靴紐をほどく前に、渡されたチラシを開いた。
来週の日曜日に開かれる、地域のスポーツ祭だった。悠の指は、下のほうにあるリレーの案内を押さえている。人間の大人が100メートル、子どもが50メートル、最後にウマ娘がトラックを1周。家族や友人同士で、3人のチームを組んで申し込めるらしい。
「ぼくが走って、キセキに渡すんだよ」
「じゃあ、あたしがアンカー?」
「うん。出てくれる?」
キセキは案内を最後まで読み、顔を上げた。
「せっかく出るなら、勝ちましょうよ」
悠の顔が、ぱっと明るくなった。廊下を歩きかけていたトレーナーが振り向く。
「もう出ることになってるのか」
「申し込み、まだ間に合います?」
「金曜までだから、大丈夫だけど」
「よしっ。悠くん、作戦会議しよ!」
「その前に荷物を置いて、手を洗う。靴もまだ脱げてないぞ、キセキ」
言われて足元を見ると、片方の靴紐は結ばれたままだった。
*
借りた部屋には、窓際に小さな机があった。椅子を引くと、原稿を広げるのにちょうどいい。
「ここ、使っていいんですか?」
「そのために空けたんだ。足りなかったら、下のテーブルも使ってくれ」
トレーナーは机の上のスタンドを点け、手元が明るくなるように傾けた。
キセキのアパートで水漏れが起きたのは、3日前だった。天井と壁を直すため、3週間ほど部屋を空けなければならない。原稿は助かった、と近況を伝えた彼女に、彼は「うちの客間が空いてる」と言ってくれた。
学園を卒業し、様々なレースを走って引退した今も、呼び方はトレーナーさんのままだ。漫画家を目指して描き続けているものの、まだ掲載には届いていない。ときどき持ってくる冒険漫画やレース漫画を、彼と悠は読んでくれる。悠は面白くないところを遠慮なく飛ばすので、感想を聞く前から冷や汗をかくこともあった。
「管理会社から連絡が来たら、また日程をお伝えします。いろいろ、お世話になります」
「こちらこそ。原稿の邪魔になるときは、悠にちゃんと言っていいからな」
「はーい!」
返事をしたのは、廊下で待っていた悠だった。ドアの隙間から、スケッチブックの入った鞄を見ている。
「今はじゃまじゃない?」
「うん。作戦会議用の紙、出すから待ってて」
悠が階段を駆け下りていく。トレーナーも続こうとして、扉のところで立ち止まった。
「本当にいいのか? 引っ越してきた日に、いきなりリレーまで」
「楽しそうですし。悠くんと同じチームで走るの、初めてですから」
「そうか。じゃあ、俺も少し練習しないとな」
その言い方に、キセキは笑った。出るからには、彼だって勝ちたいらしい。
スケッチブックを持って階下へ戻ると、悠はテーブルを拭いて待っていた。リビングの棚には、トレーナーの妻の写真が飾られている。3年前に妻を亡くしてから、彼は悠と2人でこの家に暮らしていた。写真の前にあった小さな紙の花は、前に来たときから1本増えている。
「キセキ、ここにチームの名前、書くんだって」
悠が、父親の持ってきた申し込み用紙を叩いた。キセキは隣に腰を下ろし、鉛筆を取る。
「何にする?」
「ドラゴン」
「強そう! でも走るチームだし、流れ星みたいに速い感じも欲しいなあ」
「じゃあ、ドラゴン流星隊」
台所へ向かいかけていたトレーナーが、足を止めた。
「両方入った」
「トレーナーさん、どうですか?」
「呼ばれたら、絶対に聞き逃さないな」
悠はそれを賛成と受け取ったらしい。用紙を自分のほうへ引き寄せ、慎重に名前を書き始めた。キセキは隣のページに、星を引き連れて走るドラゴンを描く。頭は悠に決めてもらい、足は3人分で6本にした。
「それだと、虫みたい」
「えー。じゃあ足は4本で、背中に3人乗る?」
「ぼく、いちばん前」
「あたしは後ろで、こう、旗を持って……」
描き足していくと、ドラゴンの首にしがみつく悠と、大きな旗を振るキセキの間に、1人分の隙間ができた。そこへトレーナーを乗せる。悠が覗き込んだ。
「パパ、落ちそう」
「2人を支えてるの。ほら、ここの腕」
「あ、ほんとだ」
キセキは中央の人物の腕を、少し太く描き直した。
絵ができると、次はコースだった。3人の走る場所を矢印でつなぎ、バトンを渡すところに丸をつける。悠は自分の区間が短いのを不満そうに見つめた。
「ぼくも、ぐるっと走っちゃだめ?」
「ここは決まってるからね。でも、この50メートルを走ってバトンを届けるのは、悠くんの役目だよ。あたしも手伝えない」
「速く来たほうがいい?」
「もちろん。あたし、早く受け取りたいもん」
悠は鉛筆を借りると、自分の走る矢印を太くした。
「じゃあ、止まらないで渡す」
「いいね。受け取る練習も、渡す練習もしよっか」
試しに丸めたチラシを渡してみると、悠は勢いよく振りかぶった。キセキが手を差し出すより早く、チラシの先が指に当たる。
「あっ、ごめん」
「大丈夫。急ぐとね、あたしの手も動くし、渡しにくいんだ。ここへ、ぽんって置いてみて」
もう一度やってみる。今度はゆっくりすぎて、渡し終えたあとも2人でチラシを持ったままになった。
「離していいよ」
「あ、そっか」
笑ってやり直しているうちに、台所から呼ばれた。返事をして、あと1回だけと構える。悠の手からチラシがすっと収まったところで、頭上から声がした。
「監督。選手の食事時間です」
トレーナーが、両手に皿を持って立っていた。
「……はい。休憩にしまーす」
机いっぱいに広げていた紙を、2人で慌てて片づけた。
*
夕食のあいだも、悠は何度もリレーの話に戻った。トレーナーが仕事へ出る前の時間なら、近所の広場で少しずつ練習できる。日曜は早めに会場へ行こう。弁当には卵焼きを入れてほしい。決まることが増えるたび、来週の景色がはっきりしていく。
「キセキ、お弁当、何がいい?」
「唐揚げ!」
「ぼくも」
「走る前に全部食べるなよ」
トレーナーが言うと、悠は「終わってから食べる」と約束した。キセキも一緒に頷き、それから、彼が当然のように自分の分も作ろうとしていることに気づいた。
「あたしも手伝いますね」
「じゃあ、おにぎりを頼もうかな」
買うものをメモする彼の横で、悠が唐揚げを何個食べたいか数えている。キセキは味噌汁の椀を持ち上げながら、向かい側にいる2人を見た。いつもの食事に混ぜてもらっているだけなのに、来週のお弁当まで3人分になっていた。
風呂を済ませた悠が寝室へ上がると、家の中は急に静かになった。キセキはリビングのテーブルで、チームの絵に色をつけていた。清書したものを、3人のシャツに貼れるようにしたい。ドラゴンの色は悠に任されたので、いちばん格好よく見える緑を探している。
階段から下りてきたトレーナーが、絵の上へ視線を落とした。
「俺、ずいぶん頑張ってるな」
「悠くんが前に行きたがるので、落ちないように」
「なるほど。キセキも少し座ってくれればいいんだけど」
「旗は高いほうが目立ちますから」
彼が笑い、キセキもつられて笑った。窓の外はもう暗い。これまでなら、悠が寝る前には鞄を持ち、彼に玄関まで送ってもらっていた。
「俺、1本飲もうと思うけど、キセキも飲む?」
「何があります?」
「ビールと、桃のチューハイ」
「あ、じゃあ桃のほうください」
彼が台所へ戻ったあと、キセキは無意識にスマートフォンを見た。帰りの電車を調べようとしていたことに気づき、画面を消す。今日は、その必要がない。
トレーナーが缶を2本持ってきて、桃の絵がついたほうをキセキの前に置いた。向かいの椅子に座り、ビールの缶を開ける。キセキもプルタブを起こした。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
缶を軽く合わせると、小さな音がした。ひと口飲むと、冷たい桃の甘さと炭酸が口に広がった。
「久しぶりだな。キセキと、こうやって次の勝負の話をするのは」
「あたしも、ちょっと懐かしくなってました」
「最初にチラシを見たときは、悠が楽しめればいいと思ってたんだけどな」
「今は?」
「できれば、勝ちたい」
思っていたよりきっぱりした答えに、キセキの耳が立った。
「ですよね!」
「ああ。それに、君が走るところを近くで見られるのも楽しみだ」
鉛筆の先が止まった。彼は何気なく缶を持ち上げている。キセキは色を確かめるふりをして、紙へ目を戻した。
いくつものレースで、彼を探した。走る前にも、走り終わってからも。今度は彼も同じチームで、自分の前を走る。そのことが、急に楽しみになった。
「じゃあ、しっかり見ててください。引退したからって、がっかりさせませんから」
「それは心配してない。俺のほうこそ、悠に叱られないようにしないとな」
「明日、練習しましょう。腕の振り方から」
「そこからか」
キセキは笑いながら、彼の腕を見る。現役の頃、何度も自分の動きを確かめてくれた人に、明日は自分が教えるのだ。
缶が空になっても、彼は席を立たなかった。合宿のときの話になり、キセキが忘れていた失敗を持ち出されて、今度は彼の失敗を探す。そうしているうちに、使っていない色鉛筆が指の間で温まっていた。
「そろそろ寝ようか。明日、2人とも起きられなくなる」
時計を見た彼に言われて、キセキはようやく筆箱を閉じた。いつもより1時間以上、長く話していた。
「おやすみなさい、トレーナーさん」
「おやすみ。明日の朝もよろしくな、監督」
キセキは客間へ向かいかけ、振り返った。
「ごちそうさまでした。……明日も、少し付き合ってくださいね」
「ああ。楽しみにしてる」
部屋に戻ると、まだほとんど荷物の入ったままのキャリーケースが、壁際に置かれていた。滞在は3週間。ひとまず明日着る服を出し、その次の日の服も出す。机の引き出しには、原稿用紙とペンを並べた。
机に原稿を広げると、途中のページに目が留まった。今夜もう少し進めるつもりだったのを、すっかり忘れていた。
明日は、悠が寝る前にこのページを終わらせておこう。