キセキと子持ちトレーナー 作:Lagavulin
「今日、走るほうじゃないですよね?」
待ち合わせた駅で、キセキが聞くと、トレーナーは声を出して笑った。
「出走登録はしてないな」
「よかった。ちゃんと、出かける服を着てきたので」
スカートの裾を少しつまんでみせた。歩きやすい靴にしたが、練習に行くときの格好ではない。彼も普段の仕事着とは違うシャツを着ていた。
「似合ってる」
「……ありがとうございます」
まだ、言われるたびに嬉しかった。目を合わせると、彼も少し照れたように笑う。
原稿を出し終えたあとの、3連休の真ん中の日曜日だった。2人でレースを見に行こう、と誘ってくれたのは彼のほうだった。悠は祖母の家へ泊まりに行き、今日は畑の芋を掘るのだと、前の晩から張り切っていた。
「悠くん、いっぱい持って帰ってきそうですね」
「帰りの荷物が増えるから、大きな袋を用意しておいてくれって言われた」
「全部、自分で食べるつもりかなあ」
「キセキにも分けるって言ってたよ」
キセキは笑った。悠がいない今日も、歩き始めると自然に悠の話になった。
人の流れが少し途切れたところで、彼の手が伸びてきた。
指に触れ、キセキが開くのを待つ。握ると、そのまま歩き出した。
外で手をつなぐのは、初めてだった。
腕を振るたび、彼の手が動く。誰かに見られているかもしれないと思ったが、ほどきたくはなかった。キセキは少し歩幅を変え、彼の隣に並んだ。
*
スタンドから見るコースは、広かった。走るときには目の前の芝や、前を行く背中を見ていた。今日はカーブの先も、直線へ出る場所も、一度に見渡せる。キセキは席へ着くと、さっそく身を乗り出した。
「ここからだと、こんなふうに見えるんですね」
「自分で走るときとは違うだろ」
「あたしがもう少しだって思ってたとき、こっちからはまだ結構あったんだろうなあ」
「あったな。そこで行くのかって、何度も思った」
隣を見ると、彼はコースの向こうへ目を向けたまま笑っていた。
「でも、行くんです」
「知ってるよ」
次のレースが近づいた。キセキは出走表を開き、気になっていたウマ娘の名前を指で追う。トレーナーも覗き込み、前のレースでの走りを教えてくれた。
「最後、すごかったんですよね。前が開いた瞬間に、ぐんって」
「今日は外を回すかもしれないな」
「でも、あの伸び方なら届きそう」
話していると、自然に熱が入った。発走が近づくにつれ、周りの声も大きくなる。
ゲートが開いた。
キセキはコースを目で追った。隣の彼も、前を向いている。道中で隊列が動くと、どちらからともなく短い声が出た。
最後のカーブで、気になっていたウマ娘が外へ出した。前を走る集団まで、まだ少しある。キセキは膝の上で手を握った。
「そこ、届く……!」
言ったとき、隣でも同じように彼が息を詰めた。直線へ向き、腕の振りが大きくなる。キセキはつられて身体を前へ出した。
先頭の肩が近づき、並ぶ。
線を越えた瞬間、キセキは彼の腕を掴んだ。
「今、出ましたよね!?」
「出た。最後、よく伸びたな」
顔を見合わせると、どちらも笑っていた。
勝ったウマ娘が、息を整えながら客席へ手を振っている。キセキも立ち上がり、両手で拍手を送った。
座り直しても、すぐには次の話にならなかった。走る姿が、まだ目の中に残っている。もう一度、ゴール前の数歩を見たくて、場内の画面へ顔を向けた。
「描きたくなった?」
彼に聞かれ、キセキは頷いた。
「すっごく。あの、追いつけるって思ったときの感じ、描きたいです」
「キセキも、ああいう顔してたな」
「あたしにも、見えてたんですよ。追いついた先が」
そう言うと、彼はキセキの顔を見た。
「うん。君が見てたものを、もっと読んでみたい」
キセキは、手元の出走表を畳んだ。原稿の結果は、まだ来ていない。次に何を描こうか考えていたところだった。
帰ったら、今日の直線を覚えているうちに描いておこう。見せたら、彼にも伝わるかもしれない。
隣を見ると、彼と目が合った。
「連れてきてよかった」
「はい。……誘ってもらえて、嬉しかったです」
膝に戻した手に、彼の手が重なった。指がつながる。
次のレースの案内が流れるまで、2人はそのまま座っていた。
*
昼食を済ませたあと、少し離れた静かな席へ移った。コースは見渡せるが、ゴール前ほど人は多くない。飲み物を置き、キセキが座ると、彼はスタンドの端へ目を向けた。
「悠が小さい頃、妻と3人で見に来たことがあるんだ。あの辺に座った」
キセキも同じ場所を見た。
「悠くんも、見てました?」
「最初は。途中で飽きて、妻の鞄を開け始めた。お菓子が入ってるのを覚えててな」
彼が笑った。
「妻はレースを見たいし、悠は袋を開けてほしいしで。俺が抱っこを代わったら、今度は俺の鞄を探し始めた」
「何か、入ってたんですか?」
「飲み物しかなくて、すぐ妻のほうへ戻っていった」
キセキも笑った。写真で見た、小さくて頬の丸い悠が浮かぶ。抱っこしている人の顔より、その人の持っている鞄を見ていたのだろう。
トレーナーは、懐かしそうに客席を見ていた。
「あの頃は、レースより抱っこしてる時間のほうが長かったな」
「今は、悠くんも走ってますね」
「ああ。バトンまで渡せるようになった」
彼はそう答え、しばらく黙った。
キセキは手を伸ばし、隣に置かれていた彼の手に触れた。彼が振り向く。指を開いてくれたので、その間へ自分の指を入れた。
妻の話が出たあとも、今日は離されなかった。
「来年のリレー、また練習しないとですね」
「悠は、この間より長く走りたいらしい」
「あたし、抜かれないようにしておかなきゃ」
「それは、まだ先だと思うけどな」
彼が笑った。キセキは、その手を握ったままコースを見た。
来年も、その先も、この人と話していたかった。悠が大きくなったら、どんな顔で走るのだろう。自分の漫画も、今とは違う話を描いているかもしれない。
そのときも彼が隣にいて、面白かったと言ってくれたらいいと思う。
*
帰りに少し歩こうと言い出したのは、トレーナーだった。駅へ向かう人の流れを離れ、競技場のそばの広場へ入る。植え込みの向こうでは、親子がボールを投げ合っていた。
ベンチに腰を下ろしてから、彼がキセキの手を握り直した。
「今日は、君と話したいことがあった」
キセキは彼を見た。いつもの仕事の相談を始めるときとは、声が違った。
「これからのことを、ちゃんと話したい」
指が少し強くなった。
「あの夜、俺は帰ってほしくないとしか言えなかった。君が言ってくれたことに甘えて、肝心なことを言わないまま、また会いに行った」
キセキは頷いた。
「来てくれて、嬉しかったです」
「俺も、会えて嬉しかった。抱きしめたかったし、キスもしたかった」
真っ直ぐに言われて恥ずかしくなり、思わず顔を下に向けた。彼も少し視線を落としたが、手は離さなかった。
「その先も考えるようになった。君が原稿を描いてるところや、悠と話してるところを、毎日見ていたいって」
キセキはつないだ手を見た。言ってほしかったことが、少しずつ言葉になって届いている。
「キセキは、これからどうしたい?」
彼が聞いた。
答えたいことは、ずっとあった。けれど、いざ聞いてもらえると、簡単な言葉から探さなければならなかった。
「一緒に暮らしたいです」
彼を見上げた。
「帰ってきたら、おかえりなさいって言いたいです。悠くんが話したいことも、トレーナーさんが話したいことも、聞きたい」
彼は黙って頷いた。
「あたしも漫画を描いて、できたら読んでもらって。忙しいときは、ちょっと待っててくださいって言って。……そういう毎日を、続けたいです」
言っていると、思い描く部屋がはっきりしてきた。3週間借りた机も、自分の部屋にある紙の山も、その先の生活に持っていきたかった。
「悠くんが大きくなって、あたしたちと出かけなくなっても。今日みたいに、2人で出かけたいです」
彼の目が、キセキを見つめた。
「奥さんのことを思い出す日も、そばにいたい。あたしの知らないこと、まだたくさんあると思うから。話したくなったら、聞かせてほしいです」
息を吸い、最後まで言った。
「一緒に人生を歩けるなら、それ以上は望みません」
彼はすぐには答えなかった。
キセキは待った。これがどれほど大きな望みか、自分でも分かっていた。時々呼んでもらえればいいという話には、もうできなかった。
彼が両手でキセキの手を包んだ。
「俺も、そうしたい」
低く、はっきりした声だった。
「キセキと、一緒に生きていきたい」
胸の奥が、きゅっと縮まった。彼の顔を見ていたかったのに、また目が熱くなった。
「妻を愛してる。今も、会いたいと思う」
キセキは頷いた。
「キセキのことも、愛してる」
指が止まった。
彼は目を逸らさなかった。
「君に会う理由を、寂しいからだとか、悠が喜ぶからだとか、それだけにしておけない。俺が、君といたいんだ」
キセキは唇を結んだ。頷こうとしても、うまく動かなかった。
「君があの家へ来る前から、知っていたところもある。面白そうなものを見つけると、すぐ夢中になるところ。勝ちたいときに、ちゃんと勝ちたいって言うところ」
彼は少し笑った。
「暮らしてみたら、もっと知りたくなった。描きながらどんな顔をしてるのか、明日は何をしたいのか。電話で話したあとも、顔が見たいと思ってた」
涙が落ちた。キセキが空いている手を目元へ持っていこうとすると、彼が片手を離して、指で頬をそっと拭ってくれる。
「妻への愛がなくなる日を待っていたら、君には何も言えないままだと思う」
彼の手が頬から下りた。
「これからも、戸惑う日があるかもしれない。でも、そのたびに君を遠ざけるのは、もうやめたい。俺は君を愛してるって、自分で言って、そばにいてほしいと頼みたい」
キセキは息を整えた。
「……はい」
彼が肩へ手を添えた。
「キセキ。俺と結婚してほしい」
声が出るまで、少しかかった。
「なりたいです」
キセキは彼の顔を見て、震える声でなんとか最後まで言った。
「本当は、トレーナーさんの、奥さんになりたい……」
彼が抱き寄せた。キセキは両腕を背中へ回し、シャツを握った。今度は、彼が何を望んでいるかを言葉で知っていた。
「あたしも、愛してます……」
胸元へ言うと、彼の腕が強くなった。
しばらくして顔を上げると、彼は少し目元を赤くしていた。キセキが手を伸ばすと、その指に頬を寄せる。
「悠には、俺から話す」
「はい」
「一緒に暮らしたいって、ちゃんと言う。悠がどう思うかも聞きたい」
キセキは頷いた。あの子が話したがることを、これからも聞いていたかった。嬉しいことばかりでなくても、聞いてから一緒に考えたかった。
*
駅へ着く頃には、顔の熱さも少し落ち着いていた。改札の手前で立ち止まると、彼がつないだ手を持ち上げた。
「今日は、ありがとう」
「……こちらこそ」
キセキは笑った。礼を言うことが多すぎて、何から言えばいいのか分からなかった。
「明日、悠を迎えに行ってくる。帰ってから、電話してもいいか?」
「はい。あたしも、その頃には家にいます」
「じゃあ、話そう」
あの夜は、聞けなかった次の約束だった。
彼の手が離れる。キセキは改札を通る前に振り向いた。彼はまだ立っていて、こちらへ手を上げた。
もう少し一緒にいたいと思った。その願いを、今日は明日にも持っていけた。