キセキと子持ちトレーナー 作:Lagavulin
「結婚おめでとう、キセキちゃん!」
玄関を開けると、アーモンドアイが大きな紙袋を差し出した。その隣でラッキーライラックが会釈し、カレンブーケドールは小さな花籠を両手で持っている。
「お招きおおきに。今日はゆっくりお祝いさせてな」
「これ、作ってきたんです。どこかに飾ってもらえたら」
「ありがとう! ちょっと待ってね、今、スリッパを――」
キセキが振り返る前に、悠が3足並べ終えた。背筋を伸ばして、客を見上げる。
「こんにちは」
「こんにちは。悠くんね」
アイが膝を曲げ、目線を合わせた。悠は少し照れた顔で頷き、それから、ずっと聞きたかったらしいことを口にした。
「ママに勝ったことある?」
「あるわ!」
「そこ、そんなに即答しなくてもいいでしょ!」
アイが笑った。ララまで肩を揺らすので、キセキは花籠を受け取り、全員をリビングへ案内した。
結婚してから、1か月ほどが経っていた。レースを離れた今も連絡は取り合っていたが、こうして家に集まれる日が、ようやく決まったのだ。
トレーナーが人数分のお茶を運んできた。ブーケの花籠をテーブルの中央へ置くと、悠が覗き込み、花の名前を尋ねる。ブーケは1つずつ教えてから、触っても大丈夫な葉をそっと持ち上げて見せた。
「ママも、この花、好き?」
「うん。すっごく好き」
「じゃあ、ここに置こう。ママの席から見える」
悠が花籠の向きを変えた。キセキが礼を言って顔を上げると、向かいの3人がこちらを見ていた。
「……何?」
「だって、すっかりママなんだもの!」
アイが嬉しそうに笑った。キセキもカップを持ったが、ブーケにまでにこにこされて、なかなか口へ運べなかった。
ひとしきり話したあと、トレーナーが悠へ声をかけた。父子は図書館へ返す本をまとめ、出かける支度をする。
「じゃあ、行ってくる。みんな、ゆっくりしていって」
「ママ、ぼくの漫画、あとで見せるから」
「うん。帰ってきたら、みんなに読んでもらおうね」
悠が手を振り、彼と並んで玄関を出ていく。見送って戻ると、アイが階段のほうを指さした。
「仕事部屋も見たいわ! 案内してもらっていい?」
「もちろん! まだ片づいてないところもあるけど」
*
「本、増えたんやねえ」
部屋へ入ったララが、本棚を見上げた。キセキは少し胸を張る。
「資料も増えたからね。お城の写真集とか、服の本とか。こっちは悠くんと一緒に描くときの――」
「これは?」
アイが机の上のファイルへ目を向けた。透明な表紙の下には、ソファに並んだ男女が描かれている。
キセキは伸ばしかけた手を止めた。
「……恋愛もの」
「恋愛ものも? 読みたい! 見せてもらえる?」
彼に渡した原稿は、あれから少しずつ描き足し、結末までつながるように直していた。まだ鉛筆のページも残っているが、ペンを入れ始めたところもある。新しい読者に見せてみたらどうかと、彼にも勧められていた。
せっかく3人が来てくれたのだ。読んでもらうには、いい機会だった。
そう思って表紙を持ち上げると、いちばん上のページで、女性が男の手を離したくなさそうに見ていた。
いったん閉じた。
「……あのね。あたしたちのことも、少し参考にはしてるんだけど」
3人の顔が上がった。
「全部そのままってわけじゃないからね。お話として読んでほしいの」
「分かったわ」
アイの返事は早かった。ララも頷き、ブーケは楽しみにしていますと言ってくれた。
キセキはファイルを胸に抱え、階段へ向かった。今の説明で、かえって興味を持たせてしまった気もしたが、もう戻れなかった。
リビングのテーブルへ原稿を広げると、3人はソファに並んで座った。中央のララが紙をめくり、その左右からアイとブーケが覗き込む。キセキは向かいの椅子に座り、お茶のおかわりを注いだ。
すぐには感想が来なかった。
紙が1枚めくられる。ブーケが少し身を寄せ、アイはカップを置いたまま、次のページを待っている。
キセキは自分のお茶をひと口飲んだ。もう1枚進むまでに、カップが半分空いた。
「……ど、どう?」
「待って、今、いいところなの!」
アイに言われ、口を閉じた。
読んでくれている。とても真剣に。そのことは嬉しいのに、今は少しくらいお喋りしてくれてもよかった。
夜の部屋で、女性が帰り支度をするページになった。男は玄関まで送ってくれる。女性は鞄の持ち手を握り直し、もう1つ話題を探している。
ララが顔を上げた。
「キセキさん」
「うん」
「思うてたより、じっとりしたお話なんやね」
キセキはカップを置いた。
「心理描写です!」
「うん。それはよう伝わってくる」
「この子、すごく帰りたくないんですね」
ブーケが原稿を見たまま言った。
「でも、また来ていいよって言ってもらえたから、笑って帰るんだ……」
キセキは頷いた。そこは、何度か表情を描き直したところだった。
「そう。ここで、もうちょっとだけ引き留めてもらえたらって思ってるんだけど、自分からは言えなくて」
「ここで?」
アイが次のページを覗いた。
「この人、もう少し話そうって言ってるじゃない」
「それは、お話をしたいだけかもしれないでしょ」
「この顔で?」
指さされた男の顔を、キセキも見た。
……今なら、そう思う。
「そのときには、分からないんだよ」
「キセキちゃんも、分からなかったの?」
「今は、この子の話!」
言い直すと、ララが何も言わずに頷いた。頷き方が優しかったので、キセキは余計に落ち着かなかった。
ページが進むにつれ、3人とも原稿の近くへ寄っていった。アイが次をめくろうとし、ララがその手を押さえる。
「待って。まだ下のコマ読んでる」
「あ、ごめんなさい。続きが気になっちゃって」
キセキは、少しだけ背筋を伸ばした。早く続きを読みたくなるなら、そこはうまく描けたのかもしれない。
やがて、男が女性の頬へ手を伸ばす場面になった。女性の顔が上がり、唇が少し開く。目を閉じる前に、彼の指が止まった。
アイが思わず背筋を伸ばした。
「えっ、そこでやめちゃうの!?」
ララも黙って次の紙をめくった。さっきより少し速かった。
男が妻を想う言葉を、3人は静かに読んだ。ブーケの指が紙の端に触れ、しばらくそこに留まる。キセキもお茶を置いて待っていた。
女性の手が、男の手に重なる。
「もう、好きなら言ってあげて!」
先に声を出したのは、アイだった。
「言えないんだよ。好きって言っちゃったら、もう自分でも、なかったことにできなくなるから」
「でも、手は離さないのね」
「離したくないから」
「なら、そう言ってほしいわ」
キセキは大きく頷きかけ、途中で止めた。
ララと目が合った。
「……この子も、そう思ってると思う」
「せやろね」
ララが紙をめくった。ブーケは前のページをもう一度見せてもらい、それから女性の顔を指で示した。
「わたし、ここ、好きです」
男の肩へ頬を寄せる、小さなコマだった。
「この子、優しくしてあげたかったんですよね。でも、自分もこうしてもらいたくて。抱きしめてもらえて、やっと嬉しいって顔ができたんだなって」
キセキは口を開き、閉じた。
「……うん」
「すごく大好きなんだなって、伝わってきます」
ブーケが笑った。からかう顔ではなかった。キセキは原稿のほうへ視線を戻し、指先で紙の角をそろえた。
「あ、ありがとう。じゃあ、このへんで――」
「まだ! ここから先が読みたいの!」
アイが紙の反対側を押さえた。ララも残りの枚数を確かめている。
「最後まで読ませてくれへんの?」
それを言われると、引き取れなかった。キセキは手を引っ込め、お茶を注ぐふりをした。自分のカップには、まだ十分に残っていた。
*
「それにしても、手、よう描いてあるね」
読み終えたララが、途中のページへ戻った。
指が重なり、少し曲がって、相手の服を掴む。描き足した抱擁の場面には、背中へ回る腕も入れていた。キスを交わしたあと、女性がもう1回と頼む場面も、今は描いてある。
「ここも、こっちも。手が触れてから、まだずっと手や」
「大事なところだから!」
「顔もよく見えるわね。抱きしめられてるほうの」
アイに言われ、キセキは少し身を乗り出した。
「そうなの。こっちの角度から描くと、肩が邪魔になるかと思ったんだけど、実際はもう少し低いところに腕が来るんだよ。だから、顔も入れられて」
「実際?」
「資料を撮ったから」
3人が顔を上げた。
キセキは止まった。今のは、説明しないほうがよかったかもしれない。
「……作画の参考にね」
「誰と?」
アイに聞かれ、キセキは口を結んだ。ほかの誰かを答えるわけにもいかない。
「トレーナーさんと」
「抱きしめてもろて、写真撮ったん?」
「腕の形を確かめたかったの」
ララは原稿へ目を戻し、もう一度キセキを見た。
「そのときも、こんな顔してはったんやね」
「顔の資料じゃないから!」
アイが笑った。キセキは原稿を指さし、描くために必要だった箇所を示そうとした。ところが、指を置いたすぐそばで、女性が男のシャツを握っている。
離れたくない顔は、我ながらよく描けていた。
「……キセキさんって、意外とむっつりなんやね」
「ララちゃん!?」
ララが自分の口元を押さえた。少し遅かった。
「あ、ごめんなさい。つい」
「ついって何!? 服も着てるでしょ!」
「服の話はしてへんよ」
言い返そうとしたところで、ブーケがそっと口を挟んだ。
「でも、描くために頑張ったんですよね。自分からお願いするの、勇気がいったと思います」
キセキはブーケを見た。助けてくれる人がいた。
「うん。そうなんだよ。お願いしたときは、まだ……」
「まだ?」
そこで止まった。
「……何でもない」
キセキは両手をテーブルへ置き、はっきり言った。
「あのね。あたし、漫画の感想が聞きたいの」
「面白かった!」
すぐにアイが答えた。キセキは少し勢いを失った。
「……ほんと?」
「ええ。最後まで、早く読ませてって思ったもの。途中は、もう少しはっきり言ってほしかったけど」
「うちは、帰ろうとしてるところが好きやった。次の話題、何とか見つからへんかなって、一緒に考えてしもた」
ララの言葉に、キセキは頷いた。ブーケも原稿へ目を落とす。
「最後、男の人から手を取ってくれるのが嬉しかったです。この子がずっと、そうしてほしかったのを見てきたから」
キセキは、自分も最後のページを見た。
ちゃんと読んでくれていた。恥ずかしくなって途中で引っ込めなくてよかったと思う。机へ戻って描き直したいところも、少し浮かんでいた。
「……ありがとう」
今度は顔を上げて言えた。
「それじゃ、写真の話も聞かせて! 何枚撮ったの?」
「感想の続きは!?」
アイは悪びれずに笑った。
玄関の鍵が回る音がした。続いて、悠の声が飛び込んでくる。
「ただいま!」
キセキは反射的に原稿へ手を伸ばした。ララも紙をそろえるのを手伝ってくれたが、その途中でトレーナーがリビングへ入ってきた。
「おかえりなさい!」
「ただいま。……それ、読んでもらってたのか」
彼の目が原稿へ向いた。キセキは頷き、ファイルを少しだけ自分へ寄せる。
「はい。今、ちょうど読み終わって」
「みんな、終わった? ぼくのも持ってくる!」
悠が図書館の袋を父親へ渡し、階段を上がっていった。ブーケがその背中へ、楽しみにしていますと声をかける。
トレーナーは袋を棚の横へ置いた。
「どうだった?」
「とても面白かったです。それで今、作画のお話を聞いていて」
ブーケが答えた。キセキはその先を止めようとしたが、間に合わなかった。
「抱きしめる場面の参考に、写真を撮ったんですね」
「ああ。レース漫画のほうだな」
ララの手が止まった。アイはぱっと顔を上げ、原稿とキセキを交互に見た。
ブーケは手元の原稿を確かめた。
「……こちらにも、抱きしめるところがあって」
「ああ、そっちにも使ったのか」
彼は何でもないことのように頷いた。
キセキは背筋を伸ばした。
「身体の構造は、ジャンルで変わりませんから!」
「ええ。理屈は分かるわ」
アイの声が、さっきより楽しそうだった。
トレーナーはキセキの顔と、3人の顔を順に見た。少し間を置いてから、困ったように笑う。
「余計なこと、言ったか?」
「……ちょっとだけ」
「悪い」
謝ってくれたので、キセキもそれ以上は言えなかった。彼がお茶のポットを取り、空になっていたカップへ注いでいく。
「でも、絵の参考になったならよかったよ。結構、描き直してたからな」
その言葉には、キセキも頷いた。どうしても腕の形が決まらなかった原稿は、彼に来てもらった日に進んだ。そこは、本当だった。
アイが、ファイルへ視線を戻した。
「このお話も、最初から読んでいたんですよね」
「うん。まだ、結末がなかった頃から」
「読んで、どうでした?」
彼は少し考え、キセキの横へ来て原稿を覗いた。
「俺のこと、格好よく描きすぎな気はするけど」
「そんなことないです!」
思わず答えてから、キセキは口を閉じた。
アイの眉が上がった。ララはお茶を飲み、ブーケは頬を緩めている。
彼もキセキを見た。
「……そうか。ありがとう」
笑って礼を言われ、キセキは原稿へ視線を戻した。返事の代わりに、読み終えた紙をそろえる。
彼がアイへ向き直る。
「最後まで描けて、よかったと思ってる。見せてもらえて嬉しかったし、今も時々、読ませてもらってるよ」
キセキは隣を見た。
「……今も?」
「うん。君が出かけてるときとか」
知らなかった。3人のほうを向き直るまで、少し時間がかかった。
ララが手元に残っていたページをそろえて、キセキへ返してくれた。
「大事にしまっとき。お茶、こぼしたら大変や」
珍しく、それ以上は何も言わなかった。代わりにアイと目を合わせて、2人で小さく笑った。
階段から悠が戻ってきた。両手に持った紙をテーブルへ置き、空いている場所を探す。
「次、ぼくの番」
「うん。どうぞ」
キセキは原稿をファイルへしまい、悠に場所を譲った。彼の描いたドラゴンは、今度は大きな滝の上に立っていた。
ブーケが身を乗り出し、ララが紙を見やすい向きへ回す。アイは最後のページを先に見ないように、両手を膝へ置いた。
「うわ、大きな滝! ここから飛ぶの?」
「飛ばないよ。下に、隠れてるのがいるから」
「何がいるんでしょう?」
悠は得意そうに、次の紙をめくった。滝の下から顔を出したカエルは、ドラゴンよりも大きかった。そこで今日の分は終わりらしく、3人に続きを頼まれると、悠は嬉しそうに頷いた。
トレーナーが隣へ椅子を寄せて座った。キセキは、カップへ伸びた彼の手を一度だけ握った。さっきの言葉に、まだ礼を言えていなかった。
向かいで、アイが顔を上げた。
キセキは手を戻した。
「……何?」
「次も絶対に読ませてね!」
「次は冒険ものだからね」
「それも読むわ。恋愛ものは?」
ララまでこちらを向いた。ブーケも、悠の絵を丁寧に重ねながら頷いている。
また読んでもらえる。それは、とても嬉しかった。
「恋愛ものも描くけど、まだ次のお話は決めてないの」
「じゃあ、今のうちにもう1つ、感想いい?」
アイが指を1本立てた。キセキは頷いた。
「キスのあと、この子が『もう1回』って頼むでしょう? あそこ、よかったわ! あの台詞は、言う前から考えてたの?」
キセキは首を横に振った。
「ううん、もう少ししてほしくて、気づいたら言っちゃって――」
隣で、トレーナーの手が止まった。カップが、口へ届く少し前にある。
キセキも止まった。
アイがにっこり笑った。ララはゆっくり頷き、ブーケの頬が少し赤くなる。
「やっぱり、そのままやったんやね」
キセキは3人の顔を見た。それから、アイへ向き直る。
「大成功ね!」