キセキと子持ちトレーナー   作:Lagavulin

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バトンの先

 朝の広場で、トレーナーがゴールの目印にした縄の上を駆け抜けた。少し先まで走ってから振り向くと、悠が両腕を大きく振ってみせる。

 

「パパ、こうだよ。後ろも」

「ちゃんと後ろに引いてたと思うんだけどな」

「キセキ、どうだった?」

 

 並んで見ていたキセキは、笑いをこらえながら答えた。

 

「最後、ちょっと小さくなってたかも」

「2対1か。厳しいな」

 

 そう言う彼は、息を整えると自分から元の位置へ戻った。次に走ってきたときには、腕も脚もよく伸びていた。悠が「今の速い!」と声を上げる。

 

 父親が練習するところを見るのは、悠にとっても新鮮らしい。キセキの説明を聞く彼の隣で、同じように頷いていた。2人分の頷きが揃うたび、キセキは少しおかしくなった。

 

「次、ぼく」

 

 悠がバトン代わりの短い棒を受け取る。今日は走るところだけでなく、キセキへ渡すところまで続けて練習することになっていた。

 

 最初は上手くいかなかった。悠はキセキの顔を見上げてしまい、手を探しているうちに脚が止まる。渡したあとも、勢いが余って彼女の腰にぶつかった。

 

「止まっちゃう」

「あたしも少し前に進むから、一緒に走ってみよっか。悠くんが近づいたら、合図して」

「何て?」

「何でも。あたしに聞こえればいいよ」

 

 考え込んだ悠は、キセキの後ろへ回り、そこで小さく呼んだ。

 

「キセキ、いって」

「うん、聞こえた!」

 

 顔を振り向けずに手を伸ばす。悠の歩幅に合わせて進むと、掌に棒の先が触れた。受け取って離れたキセキを、悠は目を丸くして見ている。

 

「止まんなかった!」

「ね。今度は、もう少し速くやってみよう」

 

 何度か繰り返すうちに、悠は渡したあともそのまま走れるようになった。トレーナーが見ている位置まで走り抜け、「今の見た?」と何度も確かめる。

 

「見た。最後まで速かったぞ」

「もう1回やる」

「今日はここまで。朝ごはんがなくなる」

「誰が食べるの?」

「パパだな」

 

 悠は少し迷い、棒をキセキへ預けにきた。

 

「明日も、待っててね」

「もちろん。ちゃんと受け取るから」

 

 その日から、悠は渡すときに必ずキセキの名前を呼ぶようになった。声を聞いて手を出す。小さな掌から、バトンが移る。日曜までに、そのやり取りを何度も繰り返した。

 

  *

 

 当日の競技場には、朝から様々なチームが集まっていた。学校の友達を誘った子もいれば、近くの学園から助っ人として来たウマ娘と組んでいる親子もいる。揃いのシャツを着たキセキたちが受付に並ぶと、後ろから「あ、キセキさん」と声がした。

 

 振り向いた先に、見覚えのない短髪のウマ娘がいた。胸のゼッケンには別のチーム名が書かれている。

 

「同じ組ですね。あたし、普段は短距離を走ってるんです。今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ。……速そうですね」

「勝ちにいきますよ」

 

 楽しそうに言われ、キセキも笑った。

 

「あたしたちも、そのつもりです」

 

 彼女が戻っていったあと、悠がキセキのシャツの裾を引いた。

 

「あの子、速い?」

「うん。たぶん、かなり」

「キセキより?」

「それは走ってみないと分からないなあ」

 

 悠が少し黙った。キセキはしゃがみ、子どものゼッケンを直しながら顔を見る。

 

「あたしが早く走り出せるように、バトン持ってきてくれる?」

「うん。止まらないで渡す」

「頼んだよ」

 

 悠は頷き、今度は父親のほうへ行った。

 

「パパも速く来てね」

「任せろ。転ばない程度に頑張る」

 

 トレーナーは笑っていたが、ウォーミングアップは念入りだった。腿を上げ、足首を回し、ときどきコースを見ている。自分の準備を終えると、悠の靴紐を結び直し、最後にキセキの隣へ来た。

 

「どうだ?」

「ちょっと、そわそわしてます」

「緊張?」

「それもありますけど。悠くん、ちゃんと走れるかなって」

 

 彼も悠を見た。息子は少し離れたところで、バトンを受け取る形を1人で確かめている。

 

「あれだけ練習したんだ。大丈夫だよ」

「はい」

「キセキも、自分のレースを楽しんでくれ。俺たちがつなぐから」

 

 まっすぐに言われ、キセキは顔を上げた。何度もスタートへ送り出してくれた声だった。けれど今日は、同じ絵のついたシャツを着ている。

 

「じゃあ、あたしはゴールまで持っていきます」

「よろしく頼む」

 

 差し出された拳に、自分の拳を軽く合わせた。見つけた悠が走ってきて、下からもう1つ、小さな拳を入れる。

 

「ぼくも」

「よし。3人で勝ちにいこう」

 

 トレーナーの言葉に、キセキと悠は一緒に頷いた。

 

 集合のアナウンスが流れ、3人はそれぞれの持ち場へ分かれた。ウマ娘の待機位置からは、子どもたちの区間がよく見える。その向こうに、大人の走者が並んでいた。

 

 キセキが片手を上げると、悠も大きく振り返してきた。トレーナーはこちらを見て頷き、それから前を向く。

 

 スタートの合図が鳴った。

 

 彼はよく走った。隣の走者が出ても脚を緩めず、少しずつ前へ出ていく。3番手で悠へ近づく頃には、キセキまで身体が前に出そうになっていた。

 

「悠!」

 

 父親の声で、悠が動き始める。伸ばした手へバトンが渡った。手元を確かめたのはほんの一瞬で、すぐに顔を上げる。

 

 キセキは両手を口の横へ添えた。

 

「悠くーん!」

 

 悠がこちらへ走ってくる。少し大きいゼッケンが胸で跳ね、腕が懸命に前後する。途中で後ろの子が並び、そのまま前へ出た。悠の顔が一瞬だけそちらを向きかけたが、すぐに戻った。

 

 先頭のチームがウマ娘へバトンを渡す。続いて2人目、3人目。キセキは悠を見ていた。苦しそうに口が開いているが、最後の数歩も脚を緩めなかった。

 

「キセキ、いって!」

 

 声に合わせて走り出す。後ろへ出した手に、バトンが触れた。握ると、悠の指がすぐに離れる。

 

 受け取った。

 

 身体が前へ伸びた。地面を蹴った分だけ、景色が後ろへ流れていく。悠と走っていたときには抑えていた力を、今度は遠慮なく使えた。

 

 前には3人いた。最初の背中へ追いつき、外から抜く。次の走者が近づいてきたところで、前方のウマ娘も速度を上げた。先ほど声をかけてきた短髪の彼女が、先頭へ出る。

 

 やっぱり速い。その背中を追うのが、嬉しくなった。

 

 カーブを抜けるあいだに、もう1人をかわす。握ったバトンは、普段のレースにはない重さだった。悠が持って走ってきたものが、今、自分の手の中にある。

 

 残りの直線へ出ても、前との差はまだあった。相手の腕もよく動いている。キセキは目を逸らさず、もう一歩、強く踏み込んだ。

 

「キセキ!」

 

 聞き慣れた声がした。その近くで、悠も何かを叫んでいる。

 

 肩が並んだ。相手がこちらを見る。キセキはゴールだけを見て、最後まで脚を伸ばした。

 

 線を越えた先で、ようやく息を吐いた。横のウマ娘も速度を落としながら顔を上げる。

 

「あー……追いつかれた!」

 

 悔しそうな声と笑顔に、キセキも笑い返した。係員が順位を確かめ、ドラゴン流星隊の名を呼ぶ。1着だった。

 

 悠がコースの外で跳び上がった。トレーナーも両手を上げている。キセキはバトンを係員へ渡すと、2人のほうへ駆けた。

 

「勝ちました!」

 

 キセキが両腕を伸ばすと、彼も腕を開いた。

 

 勢いのまま胸へ飛び込むと、彼の足が半歩下がった。それから背中に腕が回り、しっかり抱き留められる。耳のすぐそばで、笑った声がした。

 

「勝ったな。よくやった、キセキ」

 

 嬉しくて、何度も頷いた。彼のシャツを掴んだ手に力が入る。笑った頬が彼の肩に触れ、背中を支える手の大きさが分かった。顔が熱くなったが、腕をほどくことは思いつかなかった。

 

「ぼくも!」

 

 下から声がして、2人とも顔を向けた。悠が両腕を伸ばして待っている。

 

「悠くんも、すっごくよかった!」

 

 キセキがしゃがむと、今度は悠が飛びついてきた。トレーナーも隣で膝をつき、息子の背に手を置く。

 

「バトン、ちゃんと渡せたな」

「止まんなかったよ」

「うん。ちゃんと走ったまま渡してくれたから、あたし、すぐ行けた」

 

 悠は何度も頷いた。父親とキセキの顔を交互に見て、最後に2人の首へ片方ずつ腕を回す。

 

 彼の肩が、また近くなった。

 

  *

 

 優勝した3人には、首にかけるメダルと、お菓子の詰め合わせが渡された。悠はメダルをシャツのドラゴンの上に重ね、何度も胸元を見下ろしていた。

 

 写真を撮るとき、真ん中に立った悠が2人の手を引いた。

 

「キセキも、パパも、これ見せて」

 

 揃ってメダルを持ち上げる。撮影を頼んだ悠の友達の父親が、笑いながらスマートフォンを構えた。

 

「いい顔だね。もう1枚、撮るよ」

 

 その声で、トレーナーが少しキセキのほうへ寄った。肩が触れ、彼の腕がすぐ隣にある。さっきまでその腕に抱かれていたことを思い出して、キセキはカメラを見るのが一瞬遅れた。

 

 昼食の唐揚げは、練習のときに数えた分より多く入っていた。3人とも、よく食べた。悠は卵焼きを飲み込むたびに誰かの走りを思い出し、箸を持ったまま身振りを始める。そのたびに父親に止められた。

 

「パパ、渡すとき、こんな顔だった」

「どんな顔だよ」

 

 悠が眉を寄せ、口を大きく開ける。キセキが吹き出すと、トレーナーもつられて笑った。

 

「必死だったんだ。悠に追いつかないと、バトンを渡せないからな」

「ちゃんと来た」

「それはよかった」

 

 食べ終わった悠は、約束の場所から離れないように言われて、友達のところへ走っていった。疲れたと言っていたはずなのに、メダルを見せ合い始めると、また元気になっている。

 

 キセキが空の弁当箱を重ねると、トレーナーが横から蓋を渡してくれた。

 

「ありがとう。おにぎりも、美味しかった」

「トレーナーさんの唐揚げ、あたしのほうがたくさん食べちゃいましたね」

「走った距離がいちばん長いから、いいんじゃないか」

 

 彼は残しておいた麦茶を紙コップへ注ぎ、キセキの前に置いた。それから、子どもたちが遊んでいるほうを見る。

 

「楽しかったな」

「……はい。すっごく」

 

 そう答えると、彼がキセキへ顔を向けた。

 

「最後、笑って走ってただろ」

「えっ。そうでした?」

「ああ。追いつけるって思ったんだろうな」

 

 自分では気づかなかった。けれど、前を走る相手の肩が近づいたときの気持ちは覚えている。もう少し速く走れる。まだ届く。勝って、彼と悠のところへ戻れる。

 

「見てたんですね」

「見てたよ。思わず声が出た」

 

 キセキは紙コップを両手で包んだ。さっき、彼に飛びついた自分の姿を思う。いつもの自分なら、あんなふうに近づく理由を簡単には見つけられなかった。

 

 彼は、少しも困った顔をしなかった。腕を回して、喜んでくれた。

 

 また抱きしめてもらいたい。今度は、もう少し長く。

 

 麦茶を飲むと、冷たさが喉を通った。

 

「今の写真、あたしにも送ってくださいね」

「もちろん。悠が、部屋に飾りたいって言ってたから、何枚か印刷しておくよ」

「あたしも1枚、欲しいです」

 

 彼は頷き、スマートフォンを取り出した。届いていた写真の中から、3人とも笑っているものを開く。悠がメダルを高く持ち上げ、その両側で、キセキと彼の肩が触れていた。

 

 見るために近寄ったあとも、キセキは身体を戻さなかった。彼の袖が、自分の腕に触れている。彼もそのまま、次の写真を見せてくれた。

 

 友達と別れた悠が、遠くから走ってくる。

 

「パパ、キセキ! 来年もこれで出ようね!」

 

 トレーナーが顔を上げた。キセキは、彼がこちらを見るのに合わせて頷いた。

 

「うん。同じチームで出よう!」

 

 悠を待ちながら、キセキはまだ、彼の隣に座っていた。

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