キセキと子持ちトレーナー   作:Lagavulin

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笑っている顔

「キセキ、ママも描ける?」

 

 客間の入口で、悠が写真立てを持っていた。キセキはペンを紙から離し、時計を見る。午後の5時を少し過ぎていた。区切りのいいところまで描き進めた原稿に紙をかぶせ、椅子ごと悠のほうを向いた。

 

「似顔絵?」

「うん。笑ってるところ」

 

 持ってきたのは、リビングの棚に飾ってある写真だった。妻が幼い悠を抱き、隣にトレーナーが立っている。キセキにも見慣れた写真だが、こうして近くから眺めると、悠の頬がずいぶん丸い。

 

「悠くん、小さかったねえ」

「これは3歳。パパが言ってた」

 

 リレーの写真を印刷してもらってから、悠はときどき家にある写真を見ていた。優勝メダルを持った自分の写真は、机の上に置いてある。その前には、キセキが描いたドラゴンの絵も並んでいた。

 

「ママも、いっぱい笑ってる絵が欲しいの?」

「うん。こういうの」

 

 悠は自分の頬を両手で引っ張った。口が横へ広がり、目も細くなる。

 

「ふふ。それじゃ、悠くんの顔しか分からないなあ」

「ママも、こんなふうになるんだよ」

 

 キセキは写真の中の女性を見る。口元に優しい笑みを浮かべ、カメラに目を向けている。彼女には生前、何度か会っていた。迎えに来たトレーナーと話しているところや、まだ小さい悠へ手を振る姿は思い出せる。けれど、思いきり笑ったときの顔までは、はっきり浮かばなかった。

 

「描いてみるね。違ったら、教えて」

「いいの?」

「うん。あたしも見てみたいから」

 

 スケッチブックを持って、リビングのテーブルへ移った。悠は隣の椅子を引き、自分の色鉛筆を並べ始める。

 

「塗るのはぼくがやってもいい?」

「いいよ。じゃあ、色は悠くんにお任せね」

 

 顔の形と髪の流れを取っていると、悠は黙って見ていた。目を描き、鼻を描く。口の両端を少し上げてみると、すぐに指が伸びてきた。

 

「もっと」

「もっと笑ってる?」

「うん。歯が見える」

 

 線を消し、口を開いた形に直した。すると、今度は悠が首を傾げる。

 

「これ、あくびしてるみたい」

「えっ、ほんと? ……ほんとだ」

 

 キセキも首を傾げ、2人で紙を見つめた。目を変えると、少しよくなる。けれど悠はまだ、写真と絵を行き来していた。

 

「ママはもっと、目がなくなるんだよ」

「なくなるくらい、細くなるんだね」

 

 もう一度描き直しかけたところで、玄関の開く音がした。

 

「ただいま」

「パパ、見て! ママ描いてもらってる」

 

 鞄を置き、手を洗ってきたトレーナーが、2人の後ろに立った。スケッチブックへ視線を落とし、写真立てを見て、それからキセキを見る。

 

「悠が頼んだのか?」

「はい。笑っているところを描きたいんですけど、ちょっと苦戦してて」

「ママ、目がもっと細くなるよね」

「そうだな。大笑いするときは、ほとんど閉じてた」

 

 悠はほら、と言うようにキセキを見た。彼女は頷き、目の形を直す。今度は悠も嬉しそうになったが、まだ何かを探すように眉を動かしていた。

 

 トレーナーは隣の椅子に座り、しばらく絵を見ていた。

 

「何を見て笑ってる顔にする?」

「何を……ですか?」

「悠の顔を見てるときと、テレビを見てるときとでも、少し違ったから」

 

 キセキは鉛筆を止めた。悠も考え込んで、それから父親の袖を引く。

 

「パパが卵捨てたとき」

「その話をするのか」

 

 トレーナーが顔をしかめる。悠はもう、キセキのほうへ身体を向けていた。

 

「パパ、卵割ったら、ゴミ箱に捨てたんだよ」

「傷んでたの?」

「違うの。中のやつを捨てて、外のだけ入れた」

 

 キセキは卵を割る仕草をして、想像した。片手に殻を持ち、中身はゴミ箱へ。残った殻を、ボウルへ。

 

「……それで、どうしたんですか?」

「もう1個、割った」

 

 答えがあまりにも真面目だったので、キセキは吹き出した。悠が机に手をついて笑う。

 

「ママも、そこで笑ってた!」

「何かおかしいと思って、ボウルを見たら殻しかなくてな。止めてくれればよかったのに」

「奥さん、見てたんですか?」

「ああ。『あんまり真剣だから、何か考えがあるのかと思った』って」

 

 言いながら、彼も笑っていた。キセキは口を押さえたまま、頭を下げる。止めようとすると、殻の入ったボウルがまた浮かんできた。

 

「すみません、ちょっと……」

「いいよ。あのときも、2人にこんなふうに笑われたから」

 

 悠は椅子の上で身体を揺らしていた。父親が背もたれを押さえ、危ないぞ、と言う。その声まで笑っている。

 

 キセキは目元を拭き、絵へ戻った。さっきまで紙の上にあった笑顔に、ようやく声がついた気がした。

 

「そのとき、奥さんはどんなふうに笑ったんですか? 最初から、こんなに?」

「いや。最初は笑わないようにしてた。こっちは朝ごはんを作ってるから、悪いと思ったんだろうな」

 

 彼は唇を結んでみせた。けれど、目元には笑いが残っている。

 

「こんな感じで黙ってたんだけど、我慢できなくなると、先にここが緩む」

 

 指で口の端を示す。悠が隣から覗き込み、「そうだった」と何度も頷いた。

 

「それで、ぼくが笑ったら、ママも笑った」

「そうそう。悠につられて、とうとう我慢できなくなったんだ」

 

 トレーナーは、隣に妻がいるような顔で笑った。

 

 キセキの鉛筆が、紙に触れたまま止まった。リレーに勝ったときにも、こんなに柔らかい顔をしていただろうか。嬉しさに夢中で、あのときは近すぎて、ちゃんと見られなかった。

 

 今の顔を、もう少し見ていたい。

 

「口、こっちのほうが上がる?」

 

 悠に呼ばれ、キセキは紙へ目を戻した。細くなった目を描き、頬の丸みを直す。大きく開けていた口は、少しだけ小さくした。笑いがこぼれてしまった瞬間を、線で探していく。

 

 悠が見ている。トレーナーも、何も言わずに手元を見ていた。

 

 最後に眉の形を直して、キセキはスケッチブックを2人のほうへ向けた。

 

「……どうかな」

 

 悠が身を乗り出した。

 

「これ。ママ、こうやって笑ってた」

 

 トレーナーは紙へ手を添え、少し角度を変えて見つめた。すぐには何も言わなかったが、やがて口元がゆっくり緩んだ。

 

「そうだな。こういう顔をするんだよ」

 

 その声を聞いて、キセキもほっとして笑った。

 

「よかったあ。最初、あくびになっちゃって」

「あれも見たことあるけどな。悠が寝たあと、テレビの前でよくしてた」

「パパもしてるよ」

「パパは今もしてるな」

 

 悠が色鉛筆を取った。母親の服を水色にしたいと言って、写真とは違うシャツを選ぶ。キセキはその形を描き足し、塗りやすいように服の輪郭を少し濃くした。

 

 父親と息子が水色を探しているあいだに、キセキはスケッチブックをもう1冊取りにいった。原稿のそばに置いてある、小さなものだ。戻ってくると、悠は慎重に服の色を塗り始めていた。

 

 キセキは隣で、先ほどのトレーナーの顔を描いた。鉛筆だけの、短いスケッチだった。目元と口の形を忘れないうちに描き留めたくて、何度か彼の横顔を確かめる。

 

「パパ、これ、ぼくの部屋に置いていい? ママの写真のところ」

「いいよ。立てられるように、額を買おうか」

「今日は置けない?」

 

 トレーナーがキセキを見る。彼女は机の端にあった空き箱を指した。

 

「段ボールで後ろを支えたら、立つと思います。絵を袋に入れて、汚れないようにすれば」

「じゃあ、先にそうしよう。材料、取ってくる」

 

 彼が席を立ち、悠もついていった。キセキは2冊のスケッチブックを見比べた。片方に妻の笑顔があり、もう片方に、妻を思い出している彼の顔がある。

 

 その人を好きでいることが、顔に出るのだと思った。

 

 リレーの日に自分を抱き留めてくれた腕を思い出す。あの腕の中にいるあいだ、彼がどんな顔をしていたのか、今さら知りたくなった。

 

  *

 

 厚紙の支えがついた絵を、悠は両手で持ち上げた。少し離して眺め、それから、父親のほうへ向ける。

 

「できた」

「うん。いいな」

 

 トレーナーが受け取り、もう一度絵を見た。キセキは色鉛筆をしまいながら、その横顔を見ていた。

 

「会いたいな」

 

 低い声だった。キセキの手が止まる。

 

 悠も絵を見上げていた。

 

「ぼくも。リレー勝ったって、言いたい」

「そうだな。見せたいもの、たくさんあるな」

 

 トレーナーが息子の頭を撫でた。悠は少しのあいだ父親の腕に寄りかかり、それから絵を返してもらった。

 

「キセキ、ありがとう。置くの、手伝って」

「うん。どこがいいか、一緒に見よっか」

 

 階段を上がる悠を追いながら、キセキは胸の奥に残った声を聞いていた。

 

 会いたいな。

 

 あんなふうに言ってもらえる人になりたかった。今、隣にいる自分のことを、帰ってきたら会える人として、彼に待っていてほしかった。

 

 悠の机にあった本を少しずらす。リレーの写真と母親の絵が、並んで置かれた。悠は向きを直し、椅子に座って眺めてから、満足そうに頷いた。

 

「キセキも、見て」

 

 隣から覗くと、部屋の入口にいたトレーナーが近づいてきた。3人で机の上を見る。悠がここを青く塗ったのだと説明し、彼が上手くできたと褒める。嬉しそうな子どもの声を聞きながら、キセキは少しだけ、彼のいるほうへ身体を寄せた。

 

 この人の妻になりたい。

 

 そう思うと、胸の中でばらばらに膨らんでいた願いが、急にはっきりした。悠と何かをして笑うことも、彼と夜に話すことも、抱きしめてもらうことも。この家で過ごす時間を、3週間で終わりにしたくなかった。

 

「今度、友達が来たら見せてもいい?」

 

 悠に聞かれ、キセキは笑って頷いた。

 

「もちろん。折れないように、大事にしてね」

 

  *

 

 夕食の支度を始める前に、トレーナーがテーブルの上を片づけに戻ってきた。キセキは消しゴムのかすを集め、使った紙を重ねていた。

 

「キセキ」

 

 呼ばれて顔を上げると、彼は椅子のそばに立ったまま、真面目な顔をしていた。

 

「ありがとう。俺も、すごく嬉しかった」

「……はい。喜んでもらえて、よかったです」

 

 キセキは、素直にそう答えた。悠が見たがった笑顔を描けたことも、彼が懐かしそうに見てくれたことも、嬉しかった。その気持ちの中に、自分も彼に愛されたいという願いが一緒にある。

 

 彼が手元へ視線を落とした。小さなスケッチブックを、開いたままにしていた。

 

「これ、俺?」

 

 キセキは紙を隠しかけ、途中でやめた。

 

「さっき、描きました」

「いつの間に。俺、こんな顔してたのか」

「してましたよ。卵の話をしてるとき」

 

 彼は絵を見て、少し照れたように笑った。キセキはその顔も見上げる。

 

「そういう顔してるトレーナーさん、好きです」

 

 彼の目が、絵からキセキへ戻った。

 

 言ってしまってから、自分の言葉が思ったより真っ直ぐだったことに気づいた。けれど、冗談にする言葉は足さなかった。彼も何かを言いかけて、やがて小さく笑う。

 

「……今日は、キセキのおかげだな」

 

 真っ直ぐの言葉を受け取ってもらえた。描いてよかったと、さっきよりも強く思った。

 

 彼が椅子を戻し、台所へ向かう。キセキはスケッチブックを閉じる前に、もう一度、自分の描いた顔を見た。彼が妻を思い出して笑う、愛の込められた素敵な顔。

 

 小さなスケッチブックは、自分の部屋へ持っていくことにした。

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