キセキと子持ちトレーナー 作:Lagavulin
「キセキ、今日は一緒にお風呂入ろ」
夕食の皿を運んでいると、悠が着替えを抱えてやってきた。いつもは父親についていく時間だ。キセキが顔を上げると、台所のトレーナーもこちらを見た。
「キセキにも都合があるだろ。先に聞かないと」
「だから、聞いてるの」
「……それはそうだな」
キセキは笑って、皿を置いた。
「いいよ。あたしも着替え取ってくるから、待ってて」
「やった。船も出しておく」
悠が廊下を戻っていった。トレーナーはキセキから皿を受け取り、流しへ入れる。
「いいのか?」
「はい。悠くんと入るの、初めてですね」
「何でも自分でできるって言うけど、髪を流すのだけは、まだ少し手伝ってやってくれ」
「分かりました」
用意をして戻ると、悠は浴室の扉の前にいた。小さなプラスチックの船を片手に持ち、キセキを見るなり中を指さす。
「こっちがシャンプー。こっちは、パパの」
「ありがとう。案内してくれるんだ」
「椅子、2つあるよ」
知っている浴室だったが、悠の説明を聞きながら入ると、いつもと少し違って見えた。
悠は自分で髪を泡立てた。前のほうだけを何度もこするので、キセキが後ろも洗おうと言うと、今度はそちらばかりになる。
「そこはもう大丈夫。次、流そうか」
「自分でやる」
シャワーを渡すと、悠は勢いよく頭へ向け、すぐに顔を伏せた。額から流れた泡を両手で拭おうとする。
「待って。その手も泡ついてるから」
キセキはシャワーを受け取り、顔にかからないように角度を変えた。悠は目を閉じたまま、少しずつ顔を上げる。
「ここ、まだついてる?」
「もうちょっと。じっとしててね」
悠は目を閉じたまま、キセキがいいと言うまで待っていた。耳の後ろに残った泡まで流してから、タオルを渡す。
「はい、できた」
「キセキ、上手」
「ふふ。ありがとうございます」
悠は顔を拭くと、さっそく船を取りにいった。
湯船に浮かべると、船はゆっくりキセキのほうへ流れてきた。悠が横から手を出し、その前で大きく指を開く。
「これ、世界でいちばん大きいタコ」
「わあ。捕まっちゃう」
「もう食べられた」
「えっ。早くない?」
船が悠の手の下へ隠れた。
「パパのお話。海賊が宝物を探してたら、大きいタコに食べられちゃったの」
「トレーナーさんが作ったお話なんだ」
「うん。まだお腹の中にいる」
キセキは船を見た。小さな窓が並び、先端には赤い旗がついている。海賊たちは今ごろ、外が真っ暗になって騒いでいるのだろうか。
「じゃあ、どうやって出ようか」
「キセキ、続きを作って」
「あたしが考えていいの?」
悠は頷き、船を渡してくれた。
「それじゃあ……海賊たちが大砲を用意して」
「タコ、痛いよ」
「そうか。じゃあ、痛くない方法にしよう。船から降りて、みんなでお腹をくすぐるの」
「タコ、笑う?」
「笑うよ。あんまりおかしくて、口を開けたところを、船で逃げる!」
キセキが船を動かすと、悠が「あ」と声を上げた。
「くすぐってる人は?」
船を持つ手が止まった。
「……乗ってないね」
「置いてきちゃった」
「戻ります! 戻って、みんな乗せないと」
慌てて向きを変えると、悠が声を上げて笑った。今度は帆から長い紐を出し、先を筆みたいにして、お腹をくすぐることになった。悠が船の後ろを押し、キセキがタコの笑い声を担当する。
大きな口から飛び出した船は、湯船の反対側へ無事に着いた。
「出られた!」
「よかったあ。船長、全員乗ってますか?」
「乗ってる。宝物は?」
「あっ、まだ探してる途中だったね」
悠は船を引き寄せて考えた。それから、キセキへ真剣な顔を向ける。
「タコのお腹にあったら、どうする?」
2人で船を見つめたあと、キセキが先に笑い出した。
「せっかく出てきたのに!」
「もう1回、食べてもらう?」
その相談をしているところで、外から声がした。
「のぼせるぞー」
「今、出てきた!」
「出てきた?」
トレーナーの声が近づいた。キセキは笑いをこらえながら返事をする。
「タコのお腹からです。お風呂も、もう上がりまーす」
*
「パパ、海賊はタコから出てきたよ」
髪を乾かしてもらいながら、悠が父親へ報告した。キセキもタオルで髪の水気を取って、隣に腰を下ろす。
「出てきたのか。どうやって?」
「キセキと出てきたの。タコをくすぐって」
悠は振り向こうとして、頭を正面へ戻された。ドライヤーの音に負けない声で、船を戻して海賊を助けたところから説明する。
「……なるほど。俺が考えてたのより、ずいぶん大変なことになったな」
「トレーナーさんは、どうやって出る予定だったんですか?」
「食べられたまま、宝の島まで運んでもらおうと思ってた」
キセキは悠と顔を見合わせた。
「出ちゃったね」
「出しちゃいましたね」
トレーナーが笑った。悠も笑い、今度はタコに頼んで乗せてもらえばいいと言った。お願いを聞いてくれるかどうかは、また明日考えることになった。
「明日もキセキと入る」
悠が、振り向かずに言った。
「じゃあ、続き考えておくね」
「ぼくも考えるから、先に全部決めないで」
「はい。船長と相談して決めます」
ドライヤーが止まった。父親に頭を撫でられた悠は、船を片づけに立ち上がる。
キセキはその背中を見送り、自分の髪へタオルを当てた。明日は何時に原稿を切り上げようかと、もう考えていた。
*
悠が寝たあと、キセキがリビングへ下りると、トレーナーはテーブルで手帳を見ていた。彼女に気づき、手に持っていたペンを置く。
「ありがとう。すごく楽しかったみたいだ」
「あたしもです。トレーナーさんがお話を作ってるの、知りませんでした」
「気まぐれに始めたら、毎晩続きを聞かれるようになってな」
「タコの次、何が出てくるんですか?」
「まだ考えてない。今日は時間をもらえて助かった」
キセキは笑い、向かいの椅子を引いた。
「お仕事、まだ残ってます?」
「少し考え事をしてた。……キセキ、走ってたときのことを聞いてもいいか?」
「はい。どのレースですか?」
「特定のレースじゃないんだけど。負けて、俺のところへ戻ってくるとき、話しにくかったことってあったか?」
意外な質問だった。キセキは、テーブルへ置こうとしていた麦茶を手元へ戻した。
「……ありましたよ」
「そうか」
「でも、どうしたんですか?」
彼は手帳を閉じた。
「今の担当が、レースのあとに謝るんだ。前にもあったけど、今回はずっと引きずってる。俺に申し訳ないことをしたと思ってるらしくて」
勝てると思って、自分から前へ出た。最後に追いつかれて、抜かれてしまった。トレーナーは、予定より早く動いたことだけが敗因ではないと説明したらしかった。
「判断を任せたのは俺だし、狙いも分かる。あそこで勝ちたいと思ったことまで、悪かったことにしてほしくないんだ」
「それを伝えても、謝っちゃうんですか?」
「ああ。今日も、話がそこに戻った。俺のほうで、余計に背負わせてるところがあるのかもしれない」
キセキは麦茶をひと口飲み、グラスを置いた。
ゴールしたあと、彼の顔を探したことを思い出す。見つければ、すぐに駆け寄れた日もある。見つけてしまって、何と言おうか迷った日もあった。
「あたしも、トレーナーさんに喜んでほしかったです。勝って戻って、すごかったって言ってもらいたくて」
彼は黙って聞いていた。
「だから負けると、最初に何を言えばいいのか分からなくなるときがありました。怒られるとは思ってなかったですよ。でも、がっかりさせちゃったかなって」
「……うん」
「その子も、トレーナーさんのことを考えてるのかもしれませんね」
彼は手帳の表紙を指で押さえた。
「俺のために走ってくれなくてもいいんだけどな」
キセキは少し笑った。
「それは、走るほうが決めたいです」
彼が顔を上げた。
「あたしは、勝ったらトレーナーさんも嬉しいだろうなって、勝手に思ってました。あたしがいちばん勝ちたいのは、もちろんですけど」
リレーのゴールを越えたあと、彼は両腕を開いてくれた。悠もそこにいた。あの2人のところへ戻るのに、迷うことは何もなかった。
「この前も、そうでした。あたしが勝ってきたら、2人とも喜んでくれるって」
「喜んだよ。声が枯れるかと思った」
キセキは頷いた。彼も少し笑ったが、すぐに考え込む顔へ戻った。
「負けたときは、どうだった?」
キセキは指先でグラスを回した。正直に答えていいものか少し迷い、彼の顔を見てから口を開く。
「トレーナーさんが平気そうだと、それはそれで、寂しかったです」
「平気そうだったか?」
「ときどき。ちゃんと走れてたって言ってくれても、あたしは勝ちたかったのになあって」
言いながら、少し困って笑った。
「がっかりさせたくないのに、一緒に悔しがってほしいんです。わがままですよね」
トレーナーは、しばらくキセキを見ていた。
「俺も悔しかったよ。君が負けたときは」
「はい。知ってます」
覚えている顔がいくつもあった。悔しそうに唇を結んだ顔も、自分の話を聞いているうちに、だんだん熱くなっていく顔も。
「次は勝とうって、一緒に言ってくれましたから」
「先にキセキに言われてたからな。次は絶対、って」
「先に言わないと、あたしの反省会になっちゃうんですもん」
「そこは聞いてくれよ。次に勝つためなんだから」
2人で笑った。声を抑えたあとも、キセキは彼から目を離したくなかった。あの頃、自分が走っているあいだに、この人もこんなふうに1人で考えていたのだろうか。
今は向かいに座り、彼が言葉を探すのを待てる。
「今回は、俺が悔しがったら、ますます責任を感じさせるかと思ったんだ」
トレーナーが言った。
「平気なわけじゃないのに、謝らなくていいとばかり言ってたな」
「あたしだったら、一緒に悔しがってもらえたほうが、次の話をしたくなります。でも、その子がどうなのかは、聞いてみないと分かりませんけど」
「そうだな。まず、本人の話を聞きたい。俺がどう受け止めたかも、もう少しちゃんと伝えてみる」
彼は手帳を開き、短く書き留めた。ペンを止めてから、もう一度キセキを見た。
「聞いてよかった。ありがとう」
「お役に立てました?」
「うん。仕事をしてるときとは、少し違う考え方ができた」
彼が手帳を閉じた。さっきまでより、肩が下りているように見えた。
「……また、話してくださいね」
キセキは、グラスの水滴を指で拭った。
「あたし、今のトレーナーさんのお話も聞きたいです」
彼はキセキを見て、小さく頷いた。
「じゃあ、明日。帰ってきたら、どうだったか聞いてくれるか?」
「はい。待ってます」
答えると、明日の夕方に楽しみができた。彼も少し嬉しそうに笑い、手帳を鞄へ戻した。
*
翌日、キセキが描きかけのコマを仕上げたとき、玄関の鍵が回った。
「ただいま」
ペンを置いて顔を上げると、トレーナーがリビングへ入ってきた。工作をしていた悠が、今日作った紙の剣を見せにいく。
「見て、パパ。長くした」
「おお。格好いいな。振り回すときは気をつけろよ」
息子の相手をしながら、彼の目がキセキを見つけた。こちらも見ていたので、すぐに目が合う。
「おかえりなさい。……どうでした?」
「聞いてくれるか。先に手を洗ってくる」
少し急いで廊下へ戻っていくのを見て、キセキは笑った。原稿に紙をかぶせ、彼が座れるようにテーブルの端へ寄せる。
戻ってきた彼は、椅子を引くより先に話し始めた。
「俺も悔しかったって言ったら、『私のほうが悔しいです』って返ってきた」
キセキは顔を上げた。
「……強いですね」
「ああ。俺も、そりゃそうだと思って、そう言った」
彼は笑いながら腰を下ろした。
「そうしたら、どうしてあそこで前へ出たか話してくれた。もう謝るのは忘れて、あの子を抜けると思ったんです、って」
「走りながら見てたこと、教えてくれたんですね」
「うん。映像を見ながら話したら、俺が考えてたのと違うところもあった。まだ悔しそうだったけど、次に試したいことも聞けたよ」
キセキは頷いた。笑ったまま話す彼を見ていると、自分まで次のレースを楽しみにしたくなった。
「よかったですね」
「よかった。……帰り道で、早くキセキに話したいと思ってた」
不意打ちをされて、口をつぐんだ。
彼はもう、今日の練習であったことを話し始めていた。口にした言葉を、特別なものだとは思っていないらしい。キセキはその声を聞きながら、椅子を少し彼のほうへ向けた。
自分に話したいことを持って、この家へ帰ってきてくれた。
「それ、もう少し聞かせてください」
「うん。どこから話そうかな」
鞄へ手を伸ばした彼を待つあいだ、キセキは隣で工作を続けている悠を見た。剣の飾りを描いていた悠が、父親に聞こえないくらいの声で言う。
「タコに、お魚あげるのはどう?」
一瞬考えてから、キセキは笑って頷いた。宝の島へ運んでもらうお礼だ。
「いいね。お風呂で相談しよっか」
悠が満足そうに紙へ戻った。トレーナーは見せたい映像を開き、キセキの前へスマートフォンを置く。
どちらの続きを聞くのも、楽しみだった。