キセキと子持ちトレーナー   作:Lagavulin

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お城へ行こう

「キセキ、今度の土日、空いてるか?」

 

 冷蔵庫へ麦茶を戻しかけて、キセキは振り向いた。トレーナーが、テーブルの上でスマートフォンをこちらへ向けている。画面には、石造りの城が映っていた。

 

「ここ、前に行きたいって言ってただろ」

「……覚えてたんですか?」

「橋の上を歩いてみたいって。主人公を逃がす道を考えてるときに」

 

 城と昔の町並みを再現したテーマパークだった。漫画の背景を調べていて見つけたものの、少し遠い。いつか実物を見に行きたい、と話したのは、水漏れが起きるよりも前のことだ。

 

 キセキが画面へ近づくと、彼は予定を書いたページに切り替えた。近くの湖も、泊まるホテルも調べてある。

 

「せっかくだから、1泊してこようかと思って。悠も、ここの迷路へ行きたいって言うし」

「お泊まりですか?」

「うん。寝室が2つある部屋が空いてるから、キセキもゆっくり休めると思う。原稿の都合がよければ」

 

 ちょうどその原稿を描きに戻るところだった。残りは4ページ。キセキは頭の中で予定を並べ直し、金曜の夜までに終えられることを確かめた。

 

「行きたいです。原稿も、そこまでには仕上がるので」

「よかった。じゃあ、予約しておくな」

 

 廊下の向こうから、悠が駆けてきた。風呂上がりの髪が、まだ少し濡れている。

 

「キセキ、迷路もやろう。最後まで行くと、剣のバッジがもらえるんだって」

「えっ、欲しい。もちろん、やる!」

「ぼくが先頭ね」

「じゃあ、道を覚えるのは悠くんに任せようかな」

 

 悠は胸を張った。トレーナーがタオルを持って追いかけ、まだ乾いていない後頭部を拭く。

 

 その隣で、キセキは城の写真をもう一度見た。画面を拡大すると、高い塔と、そこへ渡る橋がよく見える。ずっと見たかった場所だった。そこへ、彼と悠が一緒に来てくれる。

 

「あたしが見たいところも、結構歩くかもしれませんよ」

「そのつもりだよ。悠には先に言ってある」

「キセキのお城を見て、ぼくの迷路に行くの」

 

 悠が指を折って教えてくれた。もう2人の予定の中に、自分の楽しみが入っていた。

 

  *

 

 土曜日の朝、キセキは髪を結びかけて、いったんほどいた。いつもの位置より少し低いところでまとめ、鏡を見てから、結局もう一度やり直す。

 

 動きやすい服も、歩き慣れた靴も、昨日のうちに決めてあった。原稿は予定どおりに仕上がり、鞄にはスケッチブックが入っている。それなのに、出かける間際になって髪だけが決まらなかった。

 

「キセキ、行ける?」

 

 下から悠の声がした。キセキは最後に顔の横の髪を整え、鞄を持ち上げた。

 

「今行く!」

 

 玄関では、トレーナーが悠のリュックを背負わせていた。普段と違う、明るい色のシャツを着ている。こちらを見て笑った顔に、さっきまで迷っていた髪型のことを忘れた。

 

「準備できたか?」

「はい。お待たせしました」

 

 彼が手を伸ばし、キセキの旅行鞄を受け取った。

 

 城へ向かう車の中では、悠がパンフレットの地図を広げていた。トレーナーが信号で止まるたびに、後ろから行きたい場所を伝える。助手席のキセキも一緒になって、城の門をくぐる順番まで相談した。

 

 ところが着いて早々、3人の足は別の建物の前で止まった。

 

「剣だ」

 

 悠が、ショーウィンドウへ駆け寄った。衣装を借りて園内を歩ける店だった。小さなマントと剣の並んだ棚の向こうに、大人用の服も掛かっている。

 

「着てみるか?」

「いいの?」

 

 父親が頷くと、悠はすぐに扉を開けた。キセキも続き、壁一面に並ぶ衣装を見上げる。魔法使いの帽子や、剣士の上着。その隣に、青いドレスがあった。

 

 腰から下がふわりと広がり、袖には白い飾りがついている。派手すぎないのに、着た人の動きに合わせて綺麗に揺れそうだった。

 

「キセキも、勇者になる?」

 

 赤いマントを選んだ悠に聞かれ、キセキはドレスと彼を見比べた。

 

「あたし、今日はお姫様にしようかな」

「戦わないの?」

「危なくなったら戦うかも」

「お姫様なのに?」

「逃げるのは、すっごく速いよ」

 

 悠が笑った。トレーナーは黒い上着を勧められ、少し困ったように肩へ当てている。悠が「パパも着て」と言うと、キセキもすぐに頷いた。

 

「見たいです。絶対、似合いますよ」

「2人とも着るなら、俺も着ないとな」

 

 試着室から出ると、彼は先に着替えて待っていた。肩に短いマントを留めた上着は、普段の服よりも身体の線がはっきり見える。キセキは自分のスカートを確かめるふりをしながら、彼の姿をもう一度見た。

 

「どうですか?」

 

 声をかけると、彼が顔を上げた。

 

 すぐには返事がなかった。キセキを見たあと、ドレスの裾まで目を向け、また顔へ戻ってくる。

 

「……似合ってる。綺麗だな」

 

 尻尾が、勝手に揺れた。

 

「ありがとうございます」

 

 思ったより小さな声になった。もう少し何か言いたかったが、悠が「剣、ここに入るよ」と腰のベルトを見せに来たので、しゃがんで確かめる。顔が熱いまま、留め具を一緒に押さえた。

 

  *

 

 城の中では、キセキのほうが何度も立ち止まった。塔の階段は写真で見たより狭く、窓の下には腰掛けられるほどの厚みがある。城壁の上へ出ると、外から見上げていた橋が、隣の塔まで続いていた。

 

「ここ、通れるんですね!」

 

 先に行きかけ、ドレスの裾を踏まないように持ち上げる。振り返ると、トレーナーが笑っていた。

 

「逃げ道、見つかったか?」

「でも、思ったより幅があるんです。これだと敵も並んで来られちゃうなあ」

「こっちの階段は?」

 

 示された先に、塔の内側へ降りる階段があった。覗き込んだキセキは、すぐにスケッチブックを取り出した。

 

「そうか。追いつかれそうになったら、ここから……」

 

 橋を走る主人公と、下から現れる仲間を描いてみる。今まで別々に考えていた場所が、1枚の絵の中でつながった。

 

 悠が背伸びをして、隣の窓から中庭を見ていた。トレーナーはそのそばへ行き、下に見える道を一緒に指さす。

 

「あれが迷路だな」

「上からだと、全部見えちゃう」

「先に見ておくか?」

「だめ。答え分かっちゃう」

 

 悠はすぐに窓を離れた。こちらへ来て、キセキの紙を覗く。

 

「その人は、迷路に逃げないの?」

「いいね、それ。追いかける人も迷っちゃいそう」

「じゃあ、キセキも上から見ないでね」

 

 キセキは笑い、スケッチブックを閉じた。

 

 中庭へ降りる途中、トレーナーが肩越しに言った。

 

「帰る前に、また来ようか。描き足りなかったら」

「いいんですか?」

「そのために来たんだろ。俺も、あの続きが読みたいし」

 

 階段を下りる彼の手に、思わず触れそうになった。キセキはスカートを持ち直し、隣へ並べるところまで急いだ。

 

 迷路に入ると、先頭は悠だった。高い生け垣の間を、赤いマントを揺らして進む。キセキも曲がり角の向こうを覗いたが、どの道もよく似ていた。

 

「右だと思う」

「あたしは左かなあ。塔が、こっちに見えるから」

 

 悠は少し考え、左へ進んだ。しばらく歩いて突き当たり、引き返して別の道へ入る。小さな広場に出たところで、真ん中の銅像を見て黙った。

 

「この人、さっきもいた」

「……いましたね」

 

 剣を掲げた騎士が、同じ顔で3人を迎えていた。キセキと悠が見上げていると、後ろからトレーナーの笑い声がした。

 

「お姫様。敵に追いつかれますよ」

「同じところをぐるぐる回って、惑わせる作戦です」

「先頭の勇者も困ってるけど」

 

 悠は銅像の前で腕を組んだ。

 

「今度は、ぼくの言ったほうにする」

「お願いします。ついていきます」

 

 キセキが頭を下げると、悠は得意そうに右の道を選んだ。今度は行き止まりでも慌てず、戻るたびに「ここは違う」と確かめていく。

 

 最後の角を曲がったとき、向こうから人の声がした。悠が足を速める。出口の看板が見えると、片手を高く上げた。

 

「あった!」

「ほんとだ。悠くん、すごい!」

 

 駆け出しそうになった悠が振り向き、キセキのスカートを見て止まった。

 

「キセキ、走れる?」

「今はちょっと、ゆっくりがいいかも」

「じゃあ、手」

 

 差し出された小さな手を取った。出口まで連れていってもらうと、悠は係員に3人分のバッジを頼んだ。自分の分を胸につけ、父親のマントと、キセキの袖にも順番に留めてくれる。

 

「これで、お姫様も強くなった」

「やった。もう迷っても大丈夫だね」

「迷うのはだめ」

 

 後ろでまた笑ったトレーナーを、キセキは少し睨んだ。彼は口を閉じようとして、結局こらえきれずに笑った。

 

  *

 

 衣装を返す前に、城を背景に写真を撮ってもらった。悠が真ん中に立ち、腰から剣を抜く。係員がカメラを構えたところで、キセキは彼の肩に手を置いた。

 

「剣、もう少し下げようか。お顔が隠れちゃう」

「こう?」

「そう。格好いい」

 

 トレーナーも反対側へ並んだ。カメラの向こうから声がかかる。

 

「ご主人、もう少し奥様のほうへ寄っていただけますか」

 

 キセキの手に、少し力が入った。

 

 彼が動くより先に、自分から距離を詰めた。悠の後ろで肩が近づき、マントの端が腕に触れる。

 

「これくらいですか?」

「はい。では、こちらを向いてください」

 

 隣で彼が姿勢を直した。何も言われなかった。キセキは悠の肩へ置いていた手をずらし、その背中を支える。すぐ近くに彼の手もあった。

 

 家族に見えている。

 

 嬉しくて、自然に笑えた。シャッターが切られても、しばらくそのままでいたかった。

 

 渡された写真を、3人で覗き込む。悠は剣の向きが気に入ったらしく、「もう1枚欲しい」と言った。トレーナーが追加を頼むあいだ、キセキは写真を持って待っていた。

 

 リレーの写真とは、服も場所も違う。それなのに、3人で並んだ姿には、もう見慣れたところがあった。

 

「キセキの分も、頼んでいいか?」

 

 顔を上げると、彼がこちらを見ていた。

 

「はい。欲しいです」

 

 答えてから、写真の中の彼を見た。自分と悠のそばで、穏やかに笑っている。これを自分の部屋へ持ち帰れることが、たまらなく嬉しかった。

 

 着替えを済ませても、キセキは彼から少し近いところを歩いた。悠が次に食べたいものを話し始めると、彼と一緒にパンフレットを覗く。店の前で並ぶときにも、さっきまで肩が触れていた距離へ戻った。

 

「このあと、湖のほうへ行くか。それとも、もう少し城を見ていく?」

 

 トレーナーが聞いた。キセキは少し考え、城壁の上に見える橋を指さした。

 

「あそこ、もう1回だけ歩きたいです」

「分かった。悠、付き合えるか?」

「うん。帰り道は、ぼくが知ってるから」

 

 3人で、もう一度城の門をくぐった。今度はスケッチブックを出さずに、彼と並んで橋を渡りたかった。

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