キセキと子持ちトレーナー 作:Lagavulin
「明日も、お姫様になる?」
ホテルのソファに寝転がった悠が、キセキを見上げた。風呂で温まった頬に、枕代わりのクッションが食い込んでいる。
「明日は、いつものキセキかな。ボートに乗るんでしょ?」
「うん。ぼくがこぐ」
「パパにも少し代わってくれよ」
隣の寝室から、トレーナーが出てきた。ベッドを整えていたらしく、悠の小さなタオルを持っている。
「交代にする。ぼくと、パパと、キセキ」
「じゃあ、明日も3人で頑張ろっか」
キセキが言うと、悠は頷いた。そのまま目を閉じかけ、慌てて身体を起こす。
「バッジ、どこにしまった?」
「悠のリュックの、小さいほうのポケット」
「写真は?」
「折れないように、パパの鞄に入れてある」
1つずつ答えを聞いてから、ようやくソファを下りた。キセキに手を振り、父親と寝室へ入っていく。
「おやすみ、キセキ」
「おやすみ。明日、寝坊しないでね」
扉が閉まると、キセキは湖に面した窓へ目を向けた。外はすっかり暗く、対岸の明かりが水面に映っている。
2つの寝室の間に、小さな居間と浴室がある部屋だった。キセキは自分の寝室へ戻り、鞄から柔らかい部屋着と、薄手のカーディガンを出した。
風呂を済ませて鏡の前に座ると、髪と尻尾を乾かすだけで、いつもより時間がかかった。ここで部屋へ戻れば、そのまま眠れる。けれど、居間に彼がいたら、少し話したかった。
最後に髪を指で整えてから、扉を開けた。
トレーナーはソファの前で、城でもらった写真を見ていた。こちらに気づくと、伏せていたもう1枚をテーブルへ並べる。
「悠、すぐ寝たよ」
「今日は、たくさん歩きましたもんね」
「風呂の中でも寝そうになってた。キセキは疲れてないか?」
「あたしは、まだ大丈夫です」
彼は小さく笑い、窓際の冷蔵庫を開けた。
「よかったら、少し付き合ってくれないか。売店に、これがあったから」
持っていたのはビールと、桃のチューハイだった。見慣れた桃の絵に、キセキも笑った。
「はい。喜んで」
テーブルの向こうへ腰を下ろすと、彼がグラスを渡してくれた。缶から半分ほど注ぐと、細かな泡が浮かび、桃の匂いがした。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかった」
グラスを軽く合わせた。寝室の扉の向こうは、もう静かだった。
「キセキが迷路で迷うとは思わなかったな」
「あの塔が、ずっと見えてたんですよ。絶対そっちに行けば出られると思って」
「橋では逃げ道を見つけてたのに」
「あたしが描いた迷路なら、迷いません」
「それなら、俺も迷わないよ」
笑う彼に、キセキも言い返せずに笑った。悠に手を引かれ、出口まで連れていってもらった感触を思い出す。歩幅を合わせてくれる小さな背中が、今日は少し頼もしく見えた。
「悠くん、最後、あたしを待っててくれたんです。スカートで走れないと思ったみたいで」
「見てた。助けに戻る勇者みたいだったな」
「ちゃんと守ってもらっちゃいました」
トレーナーは写真の中の悠を見て、嬉しそうに笑った。キセキも同じ写真を見ながら、あの場で奥様と呼ばれた声を思い出していた。
彼の横に立った自分は、本当に嬉しそうだった。
*
グラスが空になる頃、明日のボートの話も、帰りに寄る店の相談も済んでいた。キセキが缶とグラスをまとめると、トレーナーは窓の外へ目を向けた。
「こういう部屋、前の遠征でも泊まったな」
「湖の近くですか?」
「いや、夜に川が見えてたところ。キセキが翌日の地図を持ってきて、帰るまでにどこへ寄れるか相談したとき」
キセキは立ちかけた腰を下ろした。
「覚えてます! あたし、お城に行きたかったんですよ」
「あのときも城だったな」
「でも、閉まる時間が早くて」
「レースのあとに寄るには厳しかったからな。結局、次の日に朝から行った」
予定を詰めようとするキセキと、移動時間を確かめる彼で、地図を挟んで何度も相談した。勝ったら行こう、と約束した場所も、思うように走れなかった翌日に連れていってもらった場所もある。
「あのとき、階段を上った先が全部見渡せて。帰りたくなくなっちゃったんですよね」
「そう。降りようって言ってから、また半周した」
「そんなに回りましたっけ」
「回ったよ。こっちからの景色も見たいって」
キセキは少し肩を縮めた。今日も、帰る前に橋をもう一度渡っている。彼もそれを思い出したらしく、同じところで笑った。
「あたし、変わってないですねえ」
「俺は、君と出かけるの、好きだよ」
顔を上げた。
彼は湖のほうを見ていたが、キセキの視線に気づくと、こちらへ向き直った。
「一緒にいると、自分だけなら通り過ぎるところで立ち止まるから。今日だって、あの橋を2回も渡るとは思わなかった」
「……楽しかったですか?」
「楽しかった。キセキが何を描きたくなるのか、少し分かったし」
キセキは膝に置いていた手を、そっと重ねた。
「また、どこか行きたいです」
「ああ。行こう」
答えは、あまりに自然だった。胸の中で次の旅行を思い浮かべたが、行き先はすぐには決まらなかった。今は、この部屋にいる時間のほうを長くしたかった。
トレーナーが、スマートフォンに残っている写真を開いた。城壁の上で絵を描いているキセキが映っている。少し離れたところから撮られたらしく、彼女はカメラに気づいていなかった。
「これ、撮ってたんですか?」
「悠と窓のところにいたときに。送ってもいいか?」
「欲しいです」
手元の画面に届いた写真を開く。青いスカートを揺らし、スケッチブックに目を落としている。いつも描く側にいるので、自分がこんな顔をしていることは知らなかった。
「すっごく楽しそう」
「楽しそうだったよ」
彼はキセキの顔を見て答えた。
昼間、ドレスを着て出てきたときの目を思い出す。すぐに言葉が出ず、顔まで視線が戻ってきてから、綺麗だと言ってくれた。
キセキはスマートフォンを伏せた。
「トレーナーさん。2人でも、写真を撮りませんか」
彼の手が止まった。ほんの少しの間を置き、頷く。
「ああ。いいよ」
キセキは立ち上がり、彼の隣へ移った。ソファが少し沈み、肩が触れる。画面に2人が収まるように彼が腕を伸ばすと、キセキも顔を寄せた。
近すぎるかもしれない、と思った。けれど、離れなかった。
「これくらいか?」
「はい。……トレーナーさん、ちょっと真面目な顔になってます」
「写真を撮るほうに気がいってた」
彼が苦笑した。キセキも笑い、その瞬間にシャッターが切れた。
画面を近くへ戻してもらうと、肩を寄せた2人が映っていた。彼の笑みも、自分の顔も、昼間とは少し違う。悠の後ろで並んでいるときより、ずっと近かった。
「……これ、あたしにもください」
「うん」
彼が写真を送るあいだ、キセキは肩を離さずに待っていた。短い操作が済む。画面が暗くなり、スマートフォンはテーブルに置かれた。
隣にいる理由は、もうなくなっていた。
「今日、奥さんだと思われたの、嬉しかったです」
彼の腕に触れたまま言った。顔を見上げると、トレーナーは笑っていなかった。キセキも笑ってごまかすのをやめた。
「悠くんと一緒にいて、トレーナーさんが隣にいて。……ああいうふうに見えるんだって」
言葉にしてみると、写真を撮ったときよりも胸が熱くなった。楽しかった1日を、それだけでは済ませられなくなる言葉だった。
彼は目を逸らさなかった。キセキが膝に重ねていた指をほどくと、その手元へ一度視線を落とし、また顔を見た。
「キセキ」
呼ばれて、小さく頷いた。
彼の手が上がった。顔の横に垂れていた髪を指がよけ、そのまま頬に触れる。キセキは息を止めかけ、ゆっくり吐いた。手のひらへ顔を預けると、彼の親指が頬をそっと撫でた。
もっと近づきたい。
彼の肩へ触れ、少し身体を寄せる。顔を上げると、彼の唇がすぐそばにあった。
トレーナーも、こちらへ顔を近づけた。
キセキは目を閉じた。触れていた手が、途中で強張った。
待っても、それ以上は近づいてこなかった。目を開くと、彼はキセキを見たまま、苦しそうに眉を寄せていた。
「……ごめん」
頬から手が離れかけた。キセキはその手の甲に、自分の手を重ねた。引き留めるほど強くは握れず、指先だけが触れた。
「妻を、今も愛してるんだ」
低い声だった。
「はい」
知っていた。あの笑った顔を、一緒に描いたばかりだった。
彼は自分の手を見下ろした。キセキの指を受け止めるように、少しだけ向きが変わる。触れているところが増え、すぐにまた動かなくなった。
「なのに、こうしていたくなる」
独り言のような声だった。キセキは彼の手を見たあと、顔を上げた。
「あたしは、嬉しかったです」
声は震えなかった。
「触ってもらえて、嬉しかった」
彼は目を閉じた。長く息を吐いてから、もう一度キセキを見た。
「……ごめん。今日はもう、休もう」
キセキは少し待ち、それから頷いた。指を離すと、彼の手がゆっくり下りた。膝の上へ戻っていくのを、最後まで見ていた。
グラスを片づけようとした彼に、自分の分は自分で持つと言った。2人でテーブルの上を空け、窓際に残っていた写真をそれぞれの鞄へしまった。
「おやすみなさい、トレーナーさん」
「……おやすみ、キセキ」
寝室の扉を閉めてから、キセキは頬に触れた。
離れていった手を思い出すと、胸が痛んだ。けれど、その前の手つきも、近づいてきた顔も、はっきり覚えていた。
彼も、触れたいと思ってくれた。
ベッドに座ってスマートフォンを開くと、さっきの写真が届いていた。隣で笑う彼に、キセキは肩を寄せている。撮り終えたあとも、自分からは離れなかった。
奥さんを愛していると知ったまま、もっと近くへ行きたかった。彼にも、自分を離したくないと思ってほしかった。
写真の画面を閉じて、明かりを消した。横になると、隣の居間で椅子を動かす音がした。まだ彼も、眠っていないらしい。
キセキは頬に添えていた手を枕の上へ下ろし、その音が途切れるまで耳を澄ませていた。