キセキと子持ちトレーナー 作:Lagavulin
「パパ、先に帰ってていいよ」
大きな鞄を床へ置いたところで、トレーナーが息子を見た。
「まだ着いたばっかりなんだけど」
「ぼく、キセキとここで漫画描くから」
「悠も今日は帰るんだぞ」
悠はもう、窓際の机を見つけていた。椅子の高さを確かめるように背もたれへ手をかけ、紙の積んである場所を覗いている。
キセキは笑いながら、買い物袋を小さな台所へ運んだ。
「お昼、3人分頼んでますから。トレーナーさんも、もう少しいてください」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」
部屋の修繕が終わり、キセキは今日、自分のアパートへ戻ってきた。借りていた客間を片づけると、3週間前より荷物が増えていた。リレーのメダルと、城の写真。悠が描いてくれた絵も、原稿の間に挟んである。
旅行の翌日は、予定どおり湖でボートに乗った。悠のこぐ方向が揃わず、岸がなかなか遠ざからなくて、3人で笑った。帰りの車でも、トレーナーはいつもと同じように話した。
けれど家へ戻ってから、悠が寝たあとの話す時間は短くなった。今日どうだったか聞けば答えてくれたが、前のように話が長くなることはなかった。彼は仕事の残りを片づけに行き、ある夜は、今日は早く休むと言った。キセキも原稿を進めながら、その背中を見送った。
旅行先の夜のことを話せないまま、荷物をまとめる日になった。
「ここで、いつも描いてるんだな」
トレーナーが机の前に立っていた。紙の山を勝手に動かさないように、空いているところへペンケースを置いてくれる。
「はい。描いて、疲れたらベッドに倒れて、また起きて描きます」
「すぐ届くな」
「たまに、戻ってくるまで時間がかかりますけど」
机のすぐ後ろに、ベッドがあった。小さな本棚と折り畳みのテーブルを置くと、それでほとんどいっぱいになる部屋だ。そこに彼が立っているのが、少し落ち着かなかった。彼の家では、同じテーブルにつくことにも、隣で食器を片づけることにも慣れた。けれど、自分が眠る場所のすぐそばにいる姿は、初めて見た。
「キセキ、これ、描いていい紙?」
悠が持ち上げた紙束を見て、キセキは慌てて手を伸ばした。
「そっちは原稿用紙。こっちにお絵描きの紙があるから、待ってね」
「線、いっぱいある」
「それに合わせて描くんだよ」
「ぼくも、それで描きたい」
キセキは少し迷い、それから1枚だけ抜いて渡した。悠は嬉しそうに両手で持ち、折り畳みのテーブルへ運んでいく。
「じゃあ、今日はそこに1ページ描こうか」
「うん。ドラゴンのやつにする」
大きく四角を描き、その中へ頭から描き始める。身体を足し、翼を広げると、紙の半分が埋まった。キセキが後ろから覗くと、悠は空いているところに小さな人を描き足した。
「この人は、誰?」
「勇者。ドラゴンと友達なの」
「じゃあ、背中に乗って冒険に行けるね」
「今日はお昼食べるところ」
トレーナーが、横から絵を見た。
「勇者が食べられそうに見えるな」
「お友達だから、食べない」
「そうか。それは安心した」
悠は勇者の前に、大きな肉を描き始めた。キセキは笑いながら、そのための皿をどこへ置くか相談に乗った。
チャイムが鳴り、頼んでいたピザが届いた。絵を机へ移すと、悠は自分で紙皿を並べた。トレーナーが飲み物を注ぎ、キセキが箱を開ける。狭いテーブルは、それだけでいっぱいになった。
「今日は、あたしからのお礼です。3週間、ありがとうございました」
「こちらこそ。こっちも楽しませてもらったよ」
「ぼく、もう食べていい?」
「待って、悠。熱いから」
彼が1切れ取って皿へ移した。悠は伸びたチーズをどうにか切ろうとして、フォークを持ち上げる。キセキが手伝うと、今度はそちらにも絡まった。
「あれっ。増えちゃった」
「キセキも捕まった」
トレーナーがもう1本のフォークを差し出した。3人で手元を見つめ、ようやく切れたところで笑った。
自分の部屋で、彼と悠が食事をしている。彼が箱を寄せてくれたので、キセキも同じ具の載ったところを取った。
片づけが済んでも、このまま2人にいてほしかった。
*
悠の漫画には、食事のあと、ドラゴンが昼寝をする場面まで描き足された。勇者は腹の上に乗っている。
「続きは、今度来たときに描く」
「じゃあ、その紙は持って帰ろっか。おうちでも描きたくなるかもしれないし」
「キセキの続きも、読んでいい?」
「うん。次に行くとき、持っていくね」
トレーナーがカレンダーを開き、次の土曜日なら家にいると言った。悠はそこまで何日あるか数え、紙を折らずに持って帰れる袋を欲しがった。
キセキが入れ物を探すあいだ、彼は空き箱をまとめてくれた。忘れ物がないか部屋を見渡し、最後に、机の脇へ飾った城の写真を見た。
「もう置いてくれたんだ」
「描きながら見えるところがいいなって」
言ってから、いつも写真を見てることが伝わってしまいそうで、少しだけ顔が熱くなった。
トレーナーはしばらく眺め、やがてキセキへ顔を戻した。
「また、どこか行こうな」
「……はい」
すぐに頷いた。夜の話はしない彼が、昼の約束はくれる。そのことを、今は嬉しいと思いたかった。
玄関へ出ると、悠が靴を履いていた。キセキは鞄のポケットから、小さな鍵を取り出した。
「これ、お返しします」
3週間、借りていた家の鍵だった。彼は開いた手のひらで受け取り、指を閉じた。
「うん」
金属の触れ合う音がして、彼自身の鍵と一緒になった。
自分はもう、あの家へ帰る人ではなくなる。
キセキは手を戻し、悠の袋へ目を向けた。持ち手が長すぎるので、少し短く結ぶ。悠は床につかなくなった袋を持ち上げ、満足そうに頷いた。
「来週ね、キセキ」
「うん。またね」
トレーナーが扉を開けた。悠を先に通し、振り返る。
「落ち着いたら、ゆっくり休んでくれ。原稿も頑張ってな」
「はい。できたら、また読んでください」
「楽しみにしてる」
いつもの声だった。その声をもう少し聞きたくて、キセキは2人が階段を下りるところまで見送った。
部屋へ戻ると、椅子は机の前から出たままだった。トレーナーが座っていたものだ。向きを戻し、悠の使った鉛筆を拾って、ペン立てへ入れる。
まだ帰ってほしくない。
窓の外で車のドアが閉まった。キセキは手を止め、エンジンの音が遠ざかるのを聞いていた。
*
夕食のあと、悠はドラゴンの漫画を机に広げた。トレーナーが覗くと、勇者の寝顔を描き直しているところだった。
「ドラゴンは起きたのか?」
「まだ。勇者も寝ちゃった」
「じゃあ、冒険は明日だな」
「明日は、山に行く」
次のページに使う紙を渡すと、悠は張り切って山を描き始めた。しばらくして、トレーナーは鉛筆を置かせ、風呂へ連れていった。
寝る時間になると、息子はいつものように明日の予定を確かめた。朝はゆっくり起きて、公園へ行く。絵の続きも描く。ベッドへ入る前に、机の上の母親の絵に手を伸ばし、傾いていた向きを少し直した。
「おやすみ」
「おやすみ、悠」
部屋の明かりを消して廊下へ出ると、隣の客間の扉が開いていた。中の机には、スタンドだけが残っている。
トレーナーは足を止めた。
昨夜は、ここにキセキの原稿が広がっていた。息子を寝かせたあとに声をかけると、彼女はペンを止め、こちらへ顔を向けた。荷物をまとめる前に、最後の数本だけ線を引いていた。
あのとき、少し話そうと言えばよかった。
階下へ戻り、冷蔵庫を開けた。ビールの隣に、桃のチューハイが1本残っていた。自分の分を取り出し、テーブルへ持っていく。
テレビをつけかけて、リモコンを戻した。城の橋でキセキが描いていた絵を思い出した。今日、部屋へ運んだ紙の中には、あの場面の続きもあったのだろうか。
見せてもらえばよかった。昼の食事が終わってからも、聞く時間はあった。
スマートフォンを取った。メッセージの履歴には、3人で撮った写真と、旅行の予定が並んでいた。その先に、2人だけの写真があった。
キセキは、こちらへ肩を寄せて笑っている。
画面を閉じかけたが、親指が動かなかった。頬へ触れたとき、彼女は少し顔を傾けた。手のひらへ預けられた重さを、今も覚えていた。
あそこでやめてよかった。そう思おうとするたび、その続きを望んだ自分のことまで思い出した。
息子の部屋にあった妻の絵が浮かんだ。会いたいと言ったときの気持ちは、今も変わっていない。妻と話したかった。今日の悠の絵も、一緒に見たかった。
キセキの声も聞きたかった。
連絡先を開き、しばらく名前を見ていた。それから、通話のボタンを押した。
「……はい。トレーナーさん?」
思っていたより早く声が返ってきた。キセキの後ろで、何かを机へ置く音がする。
「今、大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」
「部屋、片づいた?」
「もう終わって、原稿を描いてました。今日は、ありがとうございました」
そうか、と答えてから、次の言葉を探した。用事があるわけではなかった。片づいたかどうかも、本当は昼のうちに見ていた。
「悠くんは、もう寝ました?」
「ああ。山の絵を描いてから寝た。ドラゴンと冒険に行くらしい」
「進んでる。お昼寝、終わったんですね」
キセキが笑った。久しぶりに聞いた気がして、トレーナーは椅子へ深く座り直した。
「……少し、話したくなって」
向こうが静かになった。やがて、小さく息を吸う音がした。
「あたしもです」
その声を聞いて、目を閉じた。
「邪魔じゃなかったか?」
「全然。ちょうど休憩したかったので」
紙を重ねる音がした。ペンを置いて、こちらを向いてくれたような気がした。
「今、どの辺を描いてた?」
「お城の橋です。やっと、主人公を逃がせそうなんですけど」
「何かあった?」
「逃がすほうに夢中になってたら、追いかける人を置いてきちゃって。これじゃ、もう急がなくても帰れちゃうなあって」
トレーナーは声を出して笑った。キセキも笑いながら、橋を描いた紙を探しているらしかった。
「せっかく見てきたのに、橋の上で立ち話を始めそうなんです」
「主人公も、もう半周するかもしれないな」
「それ、迷路のあたしじゃないですか」
笑いが重なった。彼女がどんな顔をしているのか、見なくても浮かんだ。実際に見たいと思って、昼間までそこにいたことを思い出した。
キセキは、橋を上手く使って追っ手を遠回りさせたいと言った。トレーナーはあの場所の写真を開き、入口になっていた階段の話をした。説明の途中で自分たちも道が分からなくなり、結局、迷路で悠に案内された話へ戻った。
飲もうと思っていたビールは、開けないままだった。
時計を見て、トレーナーは身体を起こした。
「ずいぶん引き留めたな。原稿の途中だったのに」
「大丈夫です。どう描くか、ちょっと分かってきましたし」
もう少し、という言葉が喉元まで出かかった。今夜はそれを飲み込み、代わりに言った。
「声が聞けて、よかった」
返事まで、少し間があった。
「……あたしも。かけてくれて、嬉しかったです」
電話が切れてからも、スマートフォンをしばらく耳に当てていた。下ろした手の中で、画面が暗くなる。
明日の夜も話したいと思った。その約束を、さっきは言えなかった。
*
キセキは、切れた電話を机の端へ置いた。
時計を見ると、彼の家で夜に話していた時間を、もう少し過ぎていた。電話が鳴る前まで、部屋は妙に静かだった。今はその静けさの中でも、彼の笑った声を思い出せる。
引き出しから、新しい紙を取り出した。
冒険漫画の続きは、横へよけた。橋の場面も進めたい。けれど、今は別のものを描きたかった。
最初に、男の手を描いた。女性の頬に触れ、指先が髪をよけている。そこから大きさを決めて顔を入れ、2人が座っているソファを描き足した。
彼に触ってもらったとき、自分はこんな顔をしていただろうか。口元を描き直し、上がりすぎていた眉を少し下げる。
次のコマでは、女性がその手へ頬を預けた。
背景にある棚には、男が亡くした妻の写真を描いた。妻を今も愛している人と、その人に恋をしている女性の話だった。
口に出したら、彼を困らせると思っていたことがある。帰るときに言ってほしかった言葉も、触れたあとにしてほしかったことも、次々に浮かんできた。
女性の手を、男の手に重ねた。
ここで離れてほしくない。
鉛筆を動かしていると、迷っていた線が決まった。彼女は自分から、その手を握る。男の指がどう動くかは、まだ描けなかった。
1ページ目の終わりで手を止め、最初のコマへ目を戻した。冒険もレースも始まらない。2人が座り、手に触れるだけで、紙が埋まっていた。
悠に見せる原稿とは、別のファイルを出した。描きかけの紙を入れ、机の引き出しにしまう。
キセキは、彼だけに読んでもらう漫画を描き続けた。