キセキと子持ちトレーナー 作:Lagavulin
「こっちは、トレーナーさんだけに読んでほしいんです」
キセキが鞄からもう1冊のファイルを出すと、彼はテーブルに残っていた紙を寄せた。昼間、悠に読んでもらった冒険漫画の原稿だった。橋の上から主人公が飛び降りる場面には、息子から何度も質問が飛んだ。
約束していた土曜日だった。夕食も一緒に食べ、悠とは風呂で海賊の続きを考えた。寝室へ上がる前に「また来週も来て」と言われ、キセキは頷いた。
今から見せるものを読んでもらったあとも、同じようにこの家へ来られるだろうか。
「描きかけなんですけど」
「うん。読ませて」
差し出すと、彼は両手で受け取った。透明な表紙をめくり、鉛筆で描かれた最初のページへ目を落とす。
キセキは向かいに座った。
あの夜から、電話では何度か話していた。彼からかけてくれた日も、自分からかけた日もある。原稿の話をして、仕事の話を聞く。切る前には、どちらも少し黙った。次はいつ話せるだろうと考えていることを、キセキは言わなかった。旅行先で頬に触れられたことも、口にしなかった。楽しく話せた夜を、それで終わらせるのが惜しかった。けれど、土曜日が近づくにつれ、今度こそ見せたいと思うようになった。
男は妻を亡くしていた。家には妻の写真があり、男は今も、その写真へ話しかけることがあった。そこへ通う女性は、妻を思い出して笑う男の顔を好きになっていた。
数ページめくったところで、トレーナーの指が止まった。
女性が、夜の部屋で帰り支度をしている。もっと話したいことがあるのに、鞄を持つ。男のほうを振り返り、何か言いかけて笑う。最後には、また来ますとだけ言って帰る。
キセキは、彼の顔を見ていた。
描いているあいだは、何度も自分の手を止めた。こんな顔を見せてもいいのだろうか。これを読んだあと、彼が今までどおりに笑ってくれるだろうか。
けれど、もっと明るい顔に描き直すことはできなかった。
ページが進んだ。女性の頬に、男が手を伸ばす。
最初に描いた場面は、最後のページになっていた。女性がその手に自分の手を重ね、男を見上げる。続きのコマには枠だけがあり、男の返事は空白だった。
トレーナーは、そこでしばらく動かなかった。
「……ここから先は、まだ描いてないんだな」
「はい」
キセキは膝の上で手を重ねた。
「どうしてほしいかは、決まってるんです。でも、男の人が何て答えてくれるかは、分からなくて」
彼が顔を上げた。紙を挟まず、目が合った。
「あたし、トレーナーさんが好きです」
言うと、息が少しだけ楽になった。
「このお話に描いた人と、同じ気持ちです。会えたら嬉しいし、帰るときには、もっと一緒にいたかったって思います」
彼はファイルを閉じた。返そうとはせず、手元に置いたままキセキを見ていた。
「分かってた」
静かな声だった。
「分かってて、電話した。今日、来てくれるのも楽しみにしてた」
胸の奥が温かくなりかけた。その途中で、彼の顔が曇った。
「でも、このままは、よくない」
キセキは動かなかった。
「もう、2人きりで会うのはやめよう。夜に電話するのも」
耳に入った言葉が、すぐには今の状況と結びつかなかった。彼の前には、自分の描いた漫画がある。少し前まで、昼間の悠の感想を思い出して、一緒に笑っていた。
「……どうして、ですか」
分かっていても、聞かずにはいられなかった。
彼は視線を落とした。
「君と話したい。帰ってきたら君がいてくれたらいいのにって、今も思う。でも、そう思うたびに、妻を裏切ってると感じるんだ」
指が、閉じたファイルの角に触れた。
「妻が恋しい日に、君にも会いたいんだ。君に会って、また幸せだと思ってしまう。それをどうしたらいいのか、分からない」
彼の声が少し掠れた。
「分からないまま、君がそばにいてくれることだけ、欲しがってた」
キセキは、テーブルの向こうにある彼の手を見た。あの夜、頬へ触れてくれた手だった。今はファイルの端を押さえ、動かない。
「奥さんを好きじゃなくなってほしいなんて、思ってません」
彼の目が戻ってきた。
「今も大事にしてるの、知ってます。あたし、そういうトレーナーさんのことも好きなんです」
「キセキ」
「でも、あたしもそばにいたい」
そこまで言うと、声が少し揺れた。キセキは息を吸い直した。
好きだと言えば、いつか答えてもらえると思っていた。今は、そのいつかを待つ時間までなくなろうとしている。悠が寝たあとに彼の声を聞くことも、翌日の報告を楽しみにすることも。
これ以上言えば、もっと困らせる。もう会えなくなるかもしれない。
けど、もうそれでもいい。
「奥さんの代わりでもいいです」
彼の指が止まった。
「奥さんに会いたい夜に、あたしを呼んでくれてもいいです。話を聞いて、一緒にいて……それで少しでも楽になるなら、あたしは嬉しい」
口にすると、そこへ自分の願いが重なってきた。
「あたしといるとき、奥さんのことを思い出しても、構いません。好きなままで、あたしにも会いたいって思ってくれるなら」
目が熱くなった。彼の顔が見えなくなる前に、瞬きをした。
「そういう理由でも、会いたいって言ってほしいです」
彼は何かを言おうとした。唇が動き、声になる前に止まった。キセキを見たまま、苦しそうに眉が寄る。
そんな顔まで、好きだった。すぐに頷けない人だと知っている。妻のことも、今ここにいる自分のことも、どうでもよくはできないのだと思った。
「……そんなふうに、君に言わせて」
「あたしが、言いたくて言ってます」
今度は、はっきり言えた。
「優しくしてあげたいだけじゃないです。あたしが、トレーナーさんといたいんです。お話しして、触ってもらって。また来てって言われたら、喜んで来ちゃいます」
彼の手が少し動いた。ファイルから離れかけ、また戻った。
キセキはその動きを見てから、顔を上げた。
「離れたくないんです」
返事はなかった。
時計の針の音が聞こえた。リビングの棚には、妻の写真がある。キセキと悠が片づけた紙の花も、その前に並んでいた。
あの写真の人を忘れてほしいわけではなかった。あの人を愛している彼の手に、自分の手も取ってほしかった。
キセキは、テーブルへ手を伸ばした。ファイルの端を指で押さえる。渡したときよりも、指先が冷えていた。
紙を引き寄せようとしたところで、その手に彼の手が重なった。
キセキは顔を上げた。
彼は手元を見ていた。指をゆっくり曲げ、キセキの手を包む。それから、一度だけ力が緩んだ。
離されると思った。
けれど、指は戻ってきた。さっきよりも深く握られ、キセキの手がテーブルから少し持ち上がった。
「帰ってほしくない」
彼はキセキを見た。
「……君に、帰ってほしくないんだ」
キセキは口を開き、何も言えずに閉じた。頷くと、こらえていた涙が落ちた。空いている手で拭ったが、彼の手は離したくなかった。
握り返すと、彼の親指が動いた。指の付け根を、確かめるようにそっと撫でる。
「君の言葉に、甘えてる」
彼は低い声で言った。
「そう言ってもらったら、離せなくなる」
「……はい」
キセキは、もう一度頷いた。
「あたしは、離してほしくなかったです」
笑おうとすると、また涙がこぼれた。トレーナーが立ち上がり、テーブルの横へ回ってくる。手はつながったままだった。
彼が隣の椅子を引くと、キセキも少し身体を向けた。向かい側にいたときより、声が近くなる。
「もう少し、くっついてもいいですか」
「うん」
彼が、つないだ手をそっと引いた。キセキは椅子を寄せ、肩に額を預けた。
彼の息が、すぐ上で止まった。やがて、空いている腕が背中へ回ってくる。強くはなかったが、離れずにいてくれた。
抱きついたときに受け止めてもらうのとも、写真に入るために近づくのとも違った。そばにいたいと言って、隣へ来られた。
キセキは彼の袖を掴んだ。
「……嬉しいです」
彼が小さく息を吐いた。肩に触れている頬へ、その揺れが伝わった。
彼が何かを言いかけ、やめる気配がした。キセキは顔を上げず、つないだ指に少し力を込めた。背中に回っていた腕が、もう一度抱き寄せてくれた。
テーブルの上には描きかけの漫画が残っていたが、続きを考える余裕はなかった。