キセキと子持ちトレーナー 作:Lagavulin
「抱き留めるところを、描きたいんです」
キセキが原稿を見せると、トレーナーは小さく笑った。
「この前のリレーみたいに?」
「はい。……あのとき、自分の背中は見えなかったので」
レース漫画の主人公が、勝った勢いで相手へ飛びつく場面だった。身体を支える腕を何度か描き直したが、どこに力が入るのか、どうも落ち着かない。
彼に自室へ来てもらうのは、荷物を運んでもらった日以来だった。今日は悠はいない。祖母と動物園へ出かけることになったと、トレーナーが電話で教えてくれた。
翌週の日曜の午後、会えるかと聞かれたときには、返事の前に立ち上がってしまった。彼は、今度は俺がそっちへ行くよと言ってくれた。
あの夜、手を取ってもらったあとも、翌朝になれば不安になった。夜中の嬉しさだけで、何もかも変わったと思いたくはなかった。
けれど、彼のほうから会いに来てくれる。
その日にこの原稿を用意しておいたのは、描くのに困っていたからだけではなかった。
「写真、撮らせてもらってもいいですか? あとから、見ながら描きたいので」
「いいよ。どうすればいい?」
キセキは本棚にスマートフォンを立て、画面へ2人が入るように角度を変えた。タイマーを設定して、彼の前へ戻る。
「じゃあ、こんなふうに……」
腕を伸ばしかけ、途中で止まった。
リレーのあとは、考えるより先に飛び込めた。今日は彼が目の前で待っている。抱きつこうとしている自分を、ちゃんと見ている。
「飛びつかなくても、大丈夫です。立ったままで」
「それは助かる。この前は、少しびっくりしたからな」
「でも、受け止めてくれたじゃないですか」
「そりゃ、嬉しそうに来てくれたから」
彼が腕を開いた。
キセキは近づき、肩のあたりへ手を置いた。背中に腕が回る。身体を預けた瞬間、あのときと同じ手の大きさが分かった。
シャッターの音がした。
「撮れた?」
「……はい。たぶん」
離れると、思ったよりも空気が冷たかった。スマートフォンを取りにいき、画面を確かめる。キセキの背を支える手と、その上に回ったもう片方の腕が、きちんと映っていた。
けれど、いちばん長く見てしまったのは、自分を抱き留めている彼の顔だった。
「どうだ?」
後ろから覗かれて、キセキは慌てて画面を拡大した。腕のところだけを大きくする。
「こっちの肘が、思ったより下だったんですね。あたし、もう少し高く描いちゃってました」
「高いと、こうなるからかな」
彼が片腕を上げてみせた。キセキも自分の腕で確かめ、原稿と写真を見比べる。
「なるほど。……もう1枚、反対側からもいいですか?」
「うん」
今度は立つ向きを変えた。タイマーが動き始めると、キセキは先ほどよりも早く彼の腕へ戻れた。
「もう少し、こっち?」
背中に添えた手の位置を、彼が変えた。キセキは頷き、シャツの袖を軽く掴む。
シャッターが鳴った。
顔を上げると、彼と目が合った。見上げたまま、キセキは手を離さなかった。
「……キセキ?」
「もう、撮れました」
言ってから、もう一度袖を握った。
「写真は、もう大丈夫です」
彼は待っていた。
「でも、まだ抱きしめていてほしいです」
口にした途端、胸がいっぱいになった。
トレーナーの腕が動いた。
手の位置を確かめるための力が緩み、今度は身体ごと近くへ引き寄せられた。彼の胸元へ頬が触れる。キセキは目を閉じ、息を吐いた。
「俺も、もう少しこうしていたい」
頭の上で声がした。
キセキは、背中へ回していた手に力を込めた。彼も抱き返してくれる。撮影が終わったら終わりになるはずの時間が、そのまま続いていた。
「……お願いして、よかったです」
「写真を?」
少し笑った声だった。キセキは胸元から顔を上げる。
「両方です」
彼が笑った。その顔が近くて、キセキもつられて笑った。どんな顔で抱きしめてくれるのか、今日はちゃんと見られた。
彼の手が、背中から肩へ移った。キセキは動かずに待った。彼もこちらを見ていた。
「いいですよ」
彼の顔が近づいた。キセキは見ていたくて、目を閉じるのが少し遅れた。
唇が触れた。
短い口づけだった。離れたあとも、彼の手は肩にあった。キセキが見上げると、照れたように笑う。
さっきまで言いたかったことが、全部どこかへ行ってしまった。
「……もう1回、してほしいです」
代わりに、そんな言葉が出た。
彼が息を漏らして笑った。キセキも自分で恥ずかしくなったが、取り消そうとは思わなかった。
「うん」
今度は、近づいてきた彼の肩へ自分から手を伸ばした。
*
買っておいた焼き菓子を出したのは、ずいぶんあとになってからだった。2人で小さなテーブルにつき、キセキが原稿を手元へ戻す。描きかけの腕を消して、位置を直す。彼は隣から見ていた。
「早いな」
「今なら、分かるので」
答えたあと、自分の声が少し弾んでいることに気づいた。さっきのことを思い出して、線まで浮かれてしまいそうだった。
主人公の手を描き直した。相手の服を、もう少し強く掴ませる。
「離れたくなさそうだな」
彼に言われ、鉛筆を止めた。
「……勝って、嬉しいところですから」
「そうだな」
彼はそれ以上何も言わず、笑っていた。キセキも笑みを隠せなくなった。
焼き菓子を1つ取って食べると、思っていたより甘かった。袋に書いてある味の説明を、今日初めてちゃんと読んだ。
「これ、美味しいですね」
「自分で買ったのに?」
「選ぶとき、ちょっと急いでたんです」
彼が来るまでに部屋へ戻っていたかった。お茶も用意して、原稿も出して、どんなふうに抱きしめてもらうか考えていた。その話までは、今は言えなかった。
トレーナーが、キセキの手から原稿へ視線を移した。
「次は、これを出すのか?」
「はい。今月の締切に間に合わせたいので。まだ直したいところはあるんですけど」
「楽しみにしてる」
その言葉に、キセキは頷いた。好きな人に抱きしめてもらえたあとも、描きかけの原稿はそこにあった。帰ってからも読んでくれる人が、今日は隣で手元を見ている。
「できたら、また読んでください」
「もちろん」
彼が、テーブルに置いていたキセキの手に触れた。
鉛筆を持っていないほうだった。キセキは指を開き、彼の手を握る。片手が空いていれば、原稿は描ける。そう思って線を引きかけたが、彼が少し指を動かしただけで、手元まで気になってしまった。
「……ちょっと、休憩します」
「邪魔したな」
笑った彼の手を、今度は両手で包んだ。
「してほしい邪魔です」
彼はそのままキセキへ身体を寄せた。
*
悠を迎えに行く時間が近づくと、トレーナーは時計を見て立ち上がった。キセキも玄関までついていく。
帰したくないと思った。けれど、今日は次に会える日を聞きたかった。
「トレーナーさん」
「キセキ」
声が重なり、2人で笑った。
「先にどうぞ」
「今度、2人で出かけないか。君の締切が終わってから」
キセキの耳が立った。
「……行きたいです」
「じゃあ、日を決めよう。悠を預かってもらえる日も聞いておく」
キセキは頷いた。自分と会うために、彼が予定を作ろうとしてくれている。
「あたしも、それを聞きたかったんです。また、いつ会えますかって」
「そうか」
彼は靴を履いてから、もう一度キセキを見た。
「原稿、頑張って」
「はい。ちゃんと終わらせます」
そう答えると、彼が手を伸ばした。キセキの指を短く握り、それから頬へ軽く口づける。
扉が閉まったあとも、キセキは少し玄関にいた。手を当てると、触れられたところも、自分の手のひらも温かかった。彼の温かさがまだ全身に残っているようだった。
部屋へ戻って写真を開いた。2枚とも、腕の形はよく分かる。けれど写真を撮り終えたあとのほうが、描きたいものは増えていた。
キセキはスマートフォンを立てかけ、原稿の前へ座り直した。