ポケットに入った携帯が小刻みに揺れ始める。
廃ホテルに向かう時間がやってきた。
行きたくないと思っていても、森沢さんと一緒に来ているのだから行くしかない。
明るかった太陽はとっくに沈み、街並みはさらに人気がなくなり、自分の足音だけが響くほど静かだった。
何も起きないといいなと考えていると、廃ホテルが見えてきた。
廃ホテルの前に立って気づいた、夜になったからか雰囲気が変わったように感じる。
昼見たときは窓から視線を感じる以外はただの古い建物って印象だったが、夜になると、まるで昼間に見た建物とは別物のように空気が変わっていた。
しかし、その違いをうまく言葉にできなかった。
ただ昼間見ていた窓から視線を感じることはなくなった、それが良いか悪いかはわからない。
そんなことを考えていると、駐車場の車のドアが開く音がした。
「早いね、楽しみだった?」
「楽しみよりも恐怖のほうが強いですね」
「大丈夫だよ、さあさっそく入ろうか」
この人はホテルを見てもなんとも思わないのか、懐中電灯を片手に軽い足取りでホテルに入っていく。
月明かりも届かないホテル内部はどんよりとした空気を漂わせる。
足音が反響して大きく聞こえる、懐中電灯の光によって動く影にはまるで意思があるようにも感じられる。
散乱したごみや壁の落書きから、誰かが出入りしている気配があった。
しかし、かつて使っていたであろうロビーと思われるところにあったソファーや案内カウンターを指でなぞると、厚い埃が跡を残した。
「いろんなもの触るのはいいけど、とげや破片には気を付けてね」
森沢さんはこの場所を知り尽くしているかのように、あまり置いてある物に興味がないように感じる。
むしろ壁の落書きのほうをよく見ていた、すぐに興味をなくしたのか奥に向かって歩いて行く。
そんな迷いのない姿が、逆に不気味に見えた。
「森沢さんってあんまり怖がっていないですけど、ここに来たことあるんですか?」
「来たことあるよ、とは言っても昼間にだから夜は初めてかな」
「え、来たことあったんですか?」
「ちょっと前にね、木下さんと運よく知り合って、ホテルの中を見してもらったんだよ」
この人思ったよりアグレッシブだな……あれ俺が心霊スポットに行ったこと笑ってたような気がする。
「夜来たのは初めてだけど、昼間だと何も起きなかったしここも取り壊しになるって聞いてね、心霊スポットに行ってるって聞いたから呼ばないとなってね」
「そうなんですか、ありがとうございます」
さっさと取り壊されてくれたらよかったのに、まあなにも起きてないならいいか……。
どこに向かっているのか分からないが、今のところ特に変な音や今まで襲ってきたようなものは出てこない。
今までの経験のせいか、怖い場所ではあるが命の危険がない、その事実が鼻歌を歌いたくなるほど嬉しかった。
ホテルの内部や割れた窓、響く足音、転がる瓦礫。
当初の目的だった嫌な雰囲気を存分に味わいながら、それをどう言葉にしようか考える余裕まで出てきていた。
「じゃここからは分かれて探索しようか、こっちは4階から回るから好きに回るといいよ」
「え、別れるんですか」
「そうだよ、せっかくなんだから1人で回らないとね」
森沢さんはそんなことを言うと階段を昇って行った。
この感謝と迷惑が混じったような気持ちを、どうすればいいのかわからなかった。
気持ちを何とか抑え、ホテルを探索することにした。
ホテルの1階にはロビーのほかにロッカーや食堂と思われるものがあった。
食堂には食器や箸など当時使われていたであろう物がそのまま置いてある。
このホテルは社長が自殺したから片付ける人なんていなかったのだろう。
窓や壁が壊れているのに食器などは古そうなだけですぐに使える、そんなちぐはぐな空間が異様に思えた。
1階を見ていたら2階からドタドタと廊下を走っているような足音が聞こえた。
森沢さんに何かあったのかと思って急いで階段を上り、廊下を照らす。
しかし、そこには誰もいなかった。
廊下を走っているような音は階段を上っている時も聞こえていたにも関わらずだ。
「気のせいなのか?……」
懐中電灯でいくら廊下を照らそうとも人影は映らなかった。
もしかしたら森沢さんが脅かすために隠れているかもと思い慎重に近くの扉がない客室を覗き見る。
だが目に映るのは壊れた部屋だけだった。
部屋の窓は外から見て分かっていたが枠しか残っていない、窓は畳に散らばっていて、畳は雨のせいか腐食しボロボロ、襖には穴が開いている。
ぱっと見で森沢さんはいそうになかった、そのうえここまで汚れ腐敗している部屋にいろんな意味で探索といえ入りたくはなかった。
カコン…………カコッ……。
どこからかまた音が聞こえてきた。
耳を澄ませると同じ階の奥に進んだ場所から聞こえる。
歩く音ではない、なにかが板に当たっているような乾いた音が聞こえる。
音をたどると字は薄くなっているが娯楽室と壁に書かれた部屋だった。
今更かもしれないがもしものことを考えて懐中電灯の光を消して部屋をのぞき込む。
わずかな月明かりが部屋に差し込んでいるおかげで暗闇に慣れていない目でも部屋を確認することができた。
ガラス面がなく液晶もないパチンコ台。
アームが力なく垂れ下がっているクレーンゲーム。
冊子と一緒に地面に転がっているマイク。
様々な娯楽設備が放置され置かれていた。
しかし俺の目には動く何かが映っていた。
目を凝らしているとだんだんと目が慣れてきたのかはっきりと見えるようになった。
部屋の入り口から奥の方にある卓球台の方で何かが動いていた。
顔や服装は見えないが、大まかな体の動くだけは分かった。
そいつが腕を振るとカコンと音が鳴る、まるで卓球をしているかのようだった。
部屋に電気なんて通っていない、卓球台の近くに窓なんてないから月明かりが照らしているわけでもない。
考えないようにしていたが、俺の体は震えが止まらなくなってしまった。
あそこにいるなにかは人ではない。
逃げないとそう考えても体はその場で震えることしかしない。
力が抜けその場に座り込んだ時、ガッチンと足元から金属音が響いた。
足元には懐中電灯が転がっているどうやら手から零れ落ちたようだ。
どうして、何をしてるんだ、音を聞かれた、響いた、バレた、頭の中をいろんな言葉がぐちゃぐちゃに渦巻いた。
すぐに立ち上がり逃げることもできず、足元を見たまま固まっていた。
もうだめだと目を閉じていると、カコンとまた音が聞こえた。
カコン……カコン、一定のリズムを刻み続けている。
俺は覚悟を決めてゆっくりと卓球台を見るとその影は、ずっと腕を振っていた。
どうやら俺に興味なんてないようだ、いや俺だけじゃない、周囲そのものに興味がないのかもしれない。
少し眺めていたがずっとカコンと音が鳴り続けていた。
理由は分からないけど助かった。
今まで会ってきた化け物たちと一緒で人間を襲うものだと思っていたけど、全員そういうわけではないのかも。
「森沢さんはこいつが見えるのかな……」
俺しか見えない、そんな可能性を考えながら探索を続ける。
こんなものを見ても探索を続けている。
慣れたくはなかったが、慣れてしまったらしい。
足が勝手に前に進んでいくようだった。
娯楽室を超えた先にあったのは大浴場だった。
中に入ろうか考えたが、もし水が浴場に張ったままで変な病気になる可能性もあるから入るのはやめることにした。
3階に行こうと来た道を戻っている時に、目の前の通路からドタドタとさっき聞こえた音が聞こえてきた。
やがて暗闇の廊下から光が照らすところに小さい足跡が映り始めた。
足そのものは見えない、まるでスタンプを押しているかのように、足跡だけがはっきりと浮かび上がっていた。
それがまっすぐ俺の方に向かってやってくる。
俺は大浴場に向かって全力で走った。
何か考えがあったわけじゃない、ただその場から逃げたかった。
やがて大浴場にたどり着く、でも後ろから足音は鳴り続けていた。
ふと横を見ると、壁がへこんでできたようなが小さなスペースがあった。
急いでその隙間に身を滑り込ませる、何秒後かは分からないが、足音が近くまで来た。
大浴場前まで来たくらいの時、足音はしなくなった、足音だけではない、足跡も光で照らしてみたが映ることはなかった。
何だったのか、頭には疑問が残り続ける。
「襲われないだけいっか……」
今までの経験のせいでおかしな発想になっていそうである。
「隙間があって助かったけどここってなんだ」
怖いのか独り言が口からもれてしまう。
周りを見たがよくわからなかった、自販機が置いてあったところなのかもしれない。
そこまで奥には続いていない通路、気になって奥まで歩いてみる。
すると通路の奥には扉があった。
扉の前に立って初めて気づいた。薄れた文字で関係者専用と書かれていた。
「こういう普段入れないところって入りたくなるよね」
扉が錆びついているのか、重たくなった扉に体を押し当てる。
扉からギーっと悲鳴のような音が鳴り響く、開いた先は真っ暗な空間だった。
光で照らすと下に続く階段が目の前に広がる。
階段の踊り場には窓があるのは見えるが、どうやら月の光は入ってきてないようだ。
「綺麗……だな」
ホテルの1階はごみや落書きがいたるところにあるくらい荒らされているのに、この場所は荒らされた形跡がない。
誰も来ていないのか、階段や手すりに埃が積もっているだけだった。
そのうえ、その階段には誰かの足跡のようなものもなかった。
「誰も来てないのか?」
なぜここだけ荒らされていないんだ、気が付けば体は鳥肌がたち、足は少し震えている。
急に冷たい風が吹いたんじゃないのかというほどの悪寒が体を駆け巡った。
この場所は誰もが無意識に避けてきたのか、それとも俺は招かれたのかもしれない。
本当は急いでここを出たい、でもこんな思いをして何も見ず、なにも得られないまま帰ることは今日来た意味をなくすことになりそうだった。
「はは……いいじゃん、次の話は、このホテルで決定だな……!」
覚悟を決めて階段を降りることにした。
支えがなくなり後ろで扉の閉まるギギギッという音がなぜか笑い声に聞こえた。
2階へ上った時と同じくらいの距離を降りていくと1階とらしき場所についた。
そこにはさらに下に進む階段と1階用の関係者専用扉、その横には奥に進む通路があり、どうやら部屋があるようだ。
憶測だけど、ここは従業員が泊まり込みで使っていた場所なのかもしれない。
襖を開けて中を確認すると布団が畳んだ状態で3つほど畳に並べられているだけだった。
ここも窓はなく真っ暗で、3人が川の字で寝れば隙間がなくなってしまいそうなほど狭かった。
襖には当時使っていたのか、作業割を書いたような紙がついていた。
作業内容、時間、作業者の文字が薄いながらでも読むことができた。
「仕事量に対して、人少なすぎない?」
名簿に並ぶ苗字の数に対して、仕事内容はやけに多かった。
昔はブラックが当たり前って考えると当時は普通だったのかもしれない。
他は電灯が埃をかぶっていることくらいしか確認ができなかった。
あまり物が置いていない、仮眠だけに使われていたのか、ここを出ていくときに持って行ったのかはわからない。
仮眠室らしきところから、地下に行くため階段を下ることにした。
踊り場まで歩き、その先を照らすと、どこにでもありそうなドアがあった。
目の前に立つと劣化しているのが分かる、木製ドアは色褪せ、丸いドアノブはくすんだ真鍮色になっている。
意を決して冷たいドアノブを回す。
ぎぃ……と蝶番は軋み、重たいドアがゆっくりと開く。
そこは何個も引き出しのついた収納棚が並ぶ大きな部屋だった。
備品や消耗品を管理していたのか、人の背丈ほどある棚には、小さな引き出しがびっしりと並び、それぞれ商品名らしき紙が貼られていた。
働いていた人たちはここから物を運ぶなんて大変だったのだろうと変なことを考えていた時だった。
ぎし……ぎし……。
規則的に何かがきしむ音が部屋の奥から聞こえてきた。
音を頼りに部屋の奥に行くと扉があった。
こんな場所にぽつんとある扉、昔の建物の常識は良く分からないが、倉庫だろうか、それとも従業員用の物置か。
そう考えていると音が聞こえなくなっていた。
「気のせいだったのか……」
そんなはずはない確かに音が聞こえたからこの扉に気づいた。
この扉は見なかったことにしようかと思ったが、覚悟を決めてドアノブを回した。
開いた扉から中を覗いたがこの部屋に明かりがなく全く中の様子が分からなかった。
部屋の中を照らすと、子供部屋かと思うくらい狭く奥の壁側に机と椅子、机の上に小さな仏像があるくらいの何もない部屋だった。
よくよく壁を見ると昔は何か飾ってあったのか、木の枠のようなものが壁についている。
昔ここで誰かが作業していたのか、明かりはどうしていたのか、扉の横にはスイッチのようなものはなく、中央の天井にはなにやら引きちぎれたように紐のようななにかがぶら下がっていた。
ロープのように見えて、一瞬背筋が冷えたが、近づいてみるとコードだった。
「照明器具かな?電気関係は取り外したのかな」
コードの先には取付金具がついている、外したわけではないのか、上を見ながら歩いていると足を乗せた床が沈んだ。
転ばないよう必死にバランスを取り、なんとか転ばなかった。
穴なんて開いてたっけと床を照らすと、部屋の中央だけ床板の色が違った。
黒く変色した痕が円になるように染み込んでいた。
そのせいで床が腐って力を込めたせいで沈んでしまったのだろう。
気づかないふりも限界だった。
流石にこの部屋で何が起きたか頭では気づいている。
これ以上踏むことがないように気を付けながら奥に進む。
仏像に頭を下げてこの部屋を出ることにした。
「……もう音ならないでよ」
祈るように閉じた扉を見つめる。
また音が鳴りだす前に、ここを出ようと扉を開けた時だった。
ギシッギシッ。
誰かが床を踏み軋むような音だった。
この地下まで聞こえる音の発生源なんて従業員の部屋らしきところしかありえなかった。
森沢さんがやってきたのだろうか、このホテルにいるのは2人しかいないのだから当たり前かもしれない。
でも2階で見た化け物を考えると、嫌な予感が頭によぎる。
動けず固まっていると、足音が階段を降りている音に変わった。
最悪のことを考え、急いで光を消して部屋の奥にある棚の影に隠れる。
光がなくなったせいで、辺りは暗闇に変わる。
何も見えない部屋になにかが近づく音。
俺の手先が冷たくなり、まるで耳元で鳴っているかのように心音が響き始める。
ぎぃ……と蝶番は軋み、重たいドアがゆっくりと開いた。
コツン……コツン……。
足音が明かりもつけずにだんだん近づいてくる。
おかしい、この部屋は光がなければ棚のせいで歩きづらいはずなのに、まるでこの部屋の配置を知っているように迷わず歩いている。
森沢さんが脅かすためにわざとやっている?。
そんなわけがない、ここに来ているなんて伝えていない。
じゃあ今聞こえている足音は誰のものなのか、必死に声を我慢し音でバレないように体の震えを押さえつける。
コツン……コツン……。
音はすぐそばまで迫ってきた、どこ行ってくれ、そう願い目を閉じて頭を伏せる。
ギィ……バタン……。
扉が閉まった。
足音が聞こえない。
もしかしてさっきの部屋に入ったのか?
ゆっくりと腕の隙間から辺りを見回して確認する。
足音を出していたような何かはどこにもいなかった、やっぱり部屋に入っていったのだろう。
逃げよう、震える足に力を入れるが全然いうことを聞いてくれない。
しかたなく這いずるように出口に向かう、不格好でも足を止めないそう思っていた。
ぎし……ぎし……。
何かが入った部屋から気になる音が聞こえる。
さっきとは違い、どんな音なのか何が起きているのか頭で理解できる、だからなぜその音がするのかとても気になった、気になってしまった。
逃げないといけない。
なのに目が離せない。部屋の中を見ないと、そんな考えが頭を離れない。
気が付けばドアノブを俺の手は回していた。
音を立てないように扉を少し開けて中を覗く。
目に映った光景はある意味期待を裏切っていないが、後悔するには十分だった。
なにかが部屋の真ん中で首を吊るようにぶら下がっている。
人か、そう思ったが違う。
そいつは全身が白かった、まるで白いペンキを塗ったように白い人型のなにかだった。
そのうえ発光しているかのように真っ暗な部屋なのにそいつを確認することができる。
そんな異質な光景を見て俺は固まってしまった、それがいけなかった。
ゆっくりと顔らしき部分がこちらを向いた。
目や鼻なんて顔のパーツはない、切り落とされたように平らな面がそこにはあった。
それでも目があった、そう思わずにはいられなかった。
直後、そいつは何かから解放されたように地面へ落下した。
ドン!っという音がそいつの存在を教えてくる。
やばいかも。急いで扉を閉め全力で逃げる。
地下の階段を駆け上がる最中後ろから扉が開く音がした。
踊り場で後ろを振り返ると、さっきの白いなにかが体をぐにゃぐにゃと体を揺らしながら追いかけてきた。
声にならない悲鳴が口から出たような気がする。
1階へ2階へ来た道を全力で戻る、もう後ろを振り返っている余裕はなかった。
重たい関係者専用の扉を開け、急いで扉を閉め離れる。
火事場の馬鹿力というのか重たかった扉をすぐに開けられてよかった。
ここで探索している時にアイツは見ていない、だからこっちには来られないだろう。
そんな自分に都合がいいことを考えていた。
ガシャーン。
そいつは扉を簡単に開けた。
周りのことを気にせず、俺の方に向かって走ってくる。
2階から飛び降りても死なないよな。
本気で飛び降りることまで考え始めていた。
全力で走るが、体力はいつまでも続かない、後ろの足音が近づいてくるのが分かる。
もう終わりなのか、そう考えた時、前方に光が見えた。
「どうしたー?」
光でよく見えないが声でわかった、森沢さんだ。
「逃げてください!」
巻き込むわけにはいかない、今までのことを考えると、どうなるかなんて分からない。
しかし、森沢さんは逃げようとしなかった。
見えてないのかも、見えていてもらえた方がよかった。
せめて森沢さんは巻き込まないようにしないと、そんな思いの力か、体が少し軽くなったような気がする。
ドゴォッ!
俺の後ろで重たい音が鳴り響いた。
バギャッ!
何が起きているのか分からない音が鳴り続けている。
代わりに足音が聞こえなくなった。
どうなっているかは分からない、でも助かるかもしれない。
「逃げます!」
森沢さんの手を掴み、階段を駆け下りる。
後ろを振り返る勇気はもう残っていなかった。
廃ホテルの入り口まで戻り、外に出ることができた。
もう追われている音はしない、助かった。
荒くなった呼吸や疲労感からか体は動かせないほど重たくなる。
これが生きているってことなのだろう。
「大丈夫か?! 何があったんだ?」
森沢さんは俺とホテルの方を交互に見ながら、困ったような顔をしている。
「水を……先飲ませてください」
質問に答えられる気がしなかった。
ホテルの近くで話をする気にもなれず、少し歩いたところにあったカラオケに入った。
さっきまでの重たい空気から一変して、軽快なBGMが流れている。
日常に戻ってきた、全身から力が抜け、倒れるようにソファーに倒れこんだ。
「そんなことがあったのか……」
俺はホテルであったことすべてを打ち明けた。
森沢さんは信じがたいような顔をしている。
当然だろう、俺もこんな話をしても信じられる気がしない。
「信じなくても大丈夫です、俺だってこんなこと言われても信じられませんし、今まで通り接してもらえると助かります」
「走って逃げてきたとき後ろを見てない?」
「見てませんね、逃げるのに必死でした。もしかして何か見えました?」
森沢さんは何かを言いづらそうに口を開けたり閉じたりしていた。
「君の後ろにいた白いなにかは、近づいたときに見えた」
「本当ですか?! あいつはどうなりました? 大きな音が聞こえてからは足音が聞こえなくて」
「君の影のようなものに食われたよ」
「……え?」
この人は何を真顔で言っているんだ、俺の影が食べた?
「そんな顔になるのはよく分かる、僕もよく分かっていないんだ」
「何が起きたんですか?」
「白い何かが君に追いつきかけた時、君の足元から突然なにかが絡みつくように飛び出し下に引きずり込んだんだ」
「それってまた……僕のところに戻ったってことですか?」
「……わからない」
何を思えばいい、俺の影は強い?俺は特別だ? そんなわけがない、でも答えなんて分かるはずがなかった。
そこからは特に会話は続かなかった。
明日帰るから寝られるなら寝た方がいいと言われ、寝ることにしたからだ。
起きたら朝の7時だった。
安くないカラオケ代を払い、ホテルに入れてもらったお礼を言い、あとは車で帰るだけになった。
朝日が差し込む廃ホテルは夜とは違い、重たい空気なんて感じられなかった。
「ありがとうございました」
森沢さんにお礼を伝え、車に乗り込もうとした。
「ごめんな、僕じゃこの手の話は相談にのってあげられない、佐々木さんならなにか知っているかもしれないから話してみて」
森沢さんは申し訳なさそうな顔をしていた。
ここに連れてきてしまったことの後悔だろうか、それともなにもできないことからか、そんなことを考えてくれるだけで俺には十分だった。
「そんな顔しないでください、きっと問題ないですよ、連れてきてくれてありがとうございました」
「……またカフェでよろしくね」
「はい!」
車を止め家に入る前、自分の影を見たが特におかしく感じるところはなかった。
今度佐々木さんに相談しよう。
重くなった体を休ませるために、深く考えるのはやめて寝ることにした。
思い当たることから逃げるように目を閉じた。