そんな叔母が彩葉の上京を機に東京に転勤してくるという。
「じゃ、母さん。行ってきます」
「はよ行きなはれ。どうせすぐ帰ってくるんやから」
玄関口で娘を見送りながら、いつものように発破をかけるつもりで口を開いた。
それを聞いた彩葉は傷付いたような顔を一瞬した後黙って出て行った。
「…つまらん子や」
あそこで一言も言い返さんでどうするんや。
アンタ、これから東京でホンマにやってけるんか?
「さて、折角静かになったんや。コーヒーでも飲もか」
重くなった足を無理やり動かし、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
濃いめに作られたエスプレッソの匂いに満足しながら、テーブルに着き、お茶請けにビスケットを取り出す。
何気なく天井を見詰め、次いで、部屋の四隅に視線を投げる。
無駄に静かになった家にため息を吐き出す。
しばらく無言で食べ進め、もうカップが空になったころに玄関が開く音がした。
さてはあの軟弱者がもう帰ってきたかと、勢い勇んで玄関まで走った。すると、よく見知った顔が笑顔で手を振っていた。
「や、姉さん。久しぶり」
「はよ帰り。ここはアンタの家やないで」
私の言葉を受けて、何が嬉しいのかニコニコと頷きながら靴を脱いで台所に向かう。
「…アンタついに耳までやられたか」
「相変わらず口悪いなあ。久しぶりに妹が帰ってきたんだから少しくらい歓迎してよ」
その背を追いかけ台所に入れば、慣れた手つきでコーヒーメーカーからコーヒーを淹れている。
舌打ちをすると、妹が不満げに眉を上げた。少しだけ溜飲が下がる。
「姉さんもお代わりいる?今なら作るけど」
「何家主の断りなく作っとんねん。アンタどういう教育受けてきたんや」
「まー家庭の事情ってやつでしょうなー」
何も気にした様子もなく、私の分のコーヒーまで勝手に作ってテーブルに置く。さも当然という顔で向かいに座り、ビスケットを齧りだした。
その手を遠慮なく叩き、私の手元にビスケットを引き寄せる。
「姉さん今日も絶好調やねえ」
「アホ抜かせ。アンタの所為でさっきから無駄に疲れるわ」
いくつになっても何も成長しとらんなコイツ。
「で、何の用や」
「もうちょっと思い出話とか…あー分かったから睨まんといてな」
諦めたように肩をすくめ、コーヒーをすすった。味に満足したのか、目を細める。
その姿に思わず手が出そうになる。私は拳を握りしめ、どうにか耐えた。
「梢。ええから話?」
「はいはい。ま、本題からいうと東京に出張が決まったよ」
「…ほう。何がええんか分からんがアンタら東京好きやもんね」
「まぁ、京都に比べたら利便性はあっちが上でしょ」
この子は郷土愛も何処かに放り出したらしい。
「で、彩葉のってか。あの子たちを近くで見れるとこに引っ越すから何かあったら連絡するね」
「いらんお世話やな」
妹が作ったコーヒーを啜り、本当に私と同じ機械で作ったものと思えない豊かな風味に思わず舌打ちが飛び出す。
「で、アンタの仕事で何で引っ越さなアカンねん。ちゃんと理由を言ってみ」
「まぁ、本来だと必要なかったんだけどねえ。向こうで欠員が出たらしくてそれの補充要員やって」
鞄から封筒を取り出し、机に無造作に置く妹を一睨みし、中身を確認していく。流石はお役所仕事といったところか、必要な書類はしっかり揃っている。
穴がないか隅々まで確認しつつ、妹を見ればふらりと立ち上がり仏壇に向かって歩いている。
「アホ。大事な書類ほっぽって何処いくねん」
「あー聞こえへん」
わざとらしく耳を塞ぎ聞こえないふりをして、さっさと部屋から逃げ出す妹の背中をもう一度睨み、転居先を確認すれば、二人の子どもの家のちょうど中間あたりであった。
「…何やこれ。こんなうまい話があるもんか」
軽く呆然としていると線香の匂いが鼻をくすぐり、ついで無駄に元気な声が響く。
「義兄さん。彩葉が今日東京の高校に行くためにアパートに行ったよ。私じゃ心配だろうけど後何日かしたら私も行くからね」
「…甘ちゃんが」
さっきまで感じていた部屋の静けさなどとっくのとうに消え失せていた。
◇◇
私の叔母はひどく優しい人だ。
お母ちゃん曰く甘ったれだそうだが、それでも私は随分と救われた。
私の記憶の中の彼女は、いつも楽しそうに笑ってこちらを真っすぐに見てくれていた。
「彩葉はえらいねえ」
そういいつつ頭を丁寧に撫でてくれる瞬間が好きだった。
いや、褒められたいわけではなく、彼女と一緒の空間にいるのが好きだった。
お陰で小さいときは何も用はなくとも彼女の家に行き、日がな一日相手してもらっていたのをよく覚えている。
随分と昔のことで理由は忘れてしまったが、泣きながら彼女の家に走っていったのを覚えている。
多分、兄と喧嘩したか何かだったのだと思う。
叔母はそんな私の顔を見るなり、抱き締めて家の中まで送ってくれた。
居間に案内され、膝を抱える私の横に座ってゆっくりと背中を撫でてくれた。
理由も聞かず、ただ隣にいてくれた。
いつの間にか涙は止まっていて、私はその温かさに身を預けていた。
「梢ちゃんはどうしたらウチに一緒に住んでくれるの?」
お母ちゃんもお父ちゃんも、梢ちゃんが来ると嬉しそうだった。私もお兄も、梢ちゃんが近くにいてくれると嬉しかった。
だから、ずっと一緒にいてほしいと思った。
四歳の子どもらしい、単純でわがままな願いだったのだと思う。
「そやねぇ。彩葉のお誘いなら受けたいけどなぁ。姉さんが割とちゃんと嫌がるからなぁ」
いつものような柔らかい笑みではなく何処か含みのあるような笑みを浮かべた叔母の顔は今でも覚えている。
この人はこんな顔もするのかと、子ども心に強く印象に残った。
「えー!ウチ一緒に住みたい!」
「彩葉がもっと大きくなったら考えてみよか」
その後もしばらくぐずっていた気がする。お父ちゃんとお兄が迎えに来てくれたんだったか。
私の叔母は私にとってそんな人だ。