雪山の娘   作:雪山派外姓弟子

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第一章 雪山の家
妹は返品できません


「弟じゃないの?」

 

 それが、私の生まれて初めて聞いた苦情だった。

 前の人生を数えなければ、だが。

 

「妹よ」

「弟って言った」

「父さんは、弟かもしれんと言ったんだ」

「弟が来るって、阿秀(あしゅう)に言っちゃった!」

 

 近くで女の人が笑った。笑うと、私を支えているものまで揺れた。どうやら、この人が母らしい。

 父らしい男は、たいへんまずい商談になった時の声を出した。

 

「阿秀には、父さんが間違えたと言っておけばよい」

「父さんが間違えたのに、どうして私が言うの?」

「……それもそうだな」

 

 早くも父が負けた。

 私は助け船を出そうとした。事情はよく分からないが、この場合はまず相手の要求を聞くべきだ。前の人生で、工場の故障について似たような押し問答をした覚えがある。

 ところが口を開けると、へえ、とも、ああ、ともつかない音が漏れた。

 そのうえ、ひどく眠い。

 

「泣いちゃう? 私が怒ったから?」

 

 さっきの声が急に近づいた。

 何も見えないわけではない。ただ、白いものも黒いものも、水の底から見上げたようにぼやけている。小さな影が、私の顔の上に来た。

 

「怒ってないよ。父さんに怒ったの。あんたじゃないからね」

 

 指が頬へ当たった。おそるおそるというより、ちゃんと伝えるためにつついている。

 私はまた、妙な声を出した。

 

「返事した!」

「梅、指を口へ入れないでちょうだい。お菓子を食べた手でしょう」

「まだ入れてない!」

 

 まだ、は少し怖い。

 父が私の手を取った。

 

「夏侯晴(かこうせい)。晴れた日の晴だ」

「お外、雪だよ」

「明日は晴れる」

「晴れなかったら?」

「では、父さんが間違えたと言っておけ」

 

 母は今度こそ声を立てて笑い、私の小さな姉もつられて笑った。

 そうして私は、本人の返事を待たれないまま、夏侯家の次女になった。

 

     *

 

 前の人生で、私は男だった。

 工学を学び、メーカーで設備保全や試験の仕事をしていた。妙な振動があれば調べ、止まった設備があれば呼び出される。休みの日にはゲームをした。寝る前にもう少しだけ、と思って朝にしたこともある。

 そこまで覚えているのに、自分の首を支える方法は分からなかった。

 これには参った。

 知識を持って生まれれば何かと有利だろう、と考えたことはある。少なくとも、自分の口から流れた涎で肩を濡らす場面は想定していなかった。母に拭かれ、姉に笑われ、笑った姉も寝起きには口の横を拭かれていた。

 私たちは、そういうところから仲良くなった。

 

 姉の名は、夏侯梅(かこうばい)。

 雪山(せつざん)派の掌門を父に持つ、三つ年上の女の子だった。

 私は初め、よくある姓なのだろうと思おうとした。門派の名を知ってからも、まさか、と何度も考えた。

 前に遊んだ物語には、夏侯蘭(かこうらん)という人がいた。

 美しくて、物騒で、ひどく寂しい人だった。私はその人に恋をした。画面の向こうなのは承知していたが、承知しているだけで済むなら、世の中に夜更かしする人間はいない。

 幼名は梅。雪山派の娘。

 知っていることは、確かに重なっていた。

 ただし、目の前の姉は、私の鼻へ豆を入れようとして母に叱られていた。

 

「入るかと思ったの!」

「入ったら、どうやって取るの」

 

 姉は私の鼻を見た。それから、手に持った豆を見た。

 

「……晴が、ふんってする」

 

 勝手に共同事業へ組み込まないでほしい。

 私は豆を取り上げ、母に渡した。姉は裏切られた顔をした。

 この子が、あの人になる。

 その先に私の知る結末があるのだと、考えかけた時、姉が私の両頬を挟んだ。

 

「晴。私の味方でしょう」

 

 違う、と言うべき場面だった。

 言えなかった。口が、魚の形になっていた。

 

     *

 

 二歳になった冬、私は市へ出掛ける服について母と争った。

 争ったというのは私の言い分で、母は笑いながら私の腕を袖へ通していた。

 

「こっち、姉さまのです」

「梅が小さかった頃のね。ほら、晴にもぴったり」

 

 赤い縁取りの服だった。裾に小さな花が縫ってある。

 前の私なら、店で手に取ることさえなかった服である。それを着た子を鏡に映されると、どこから見ても女の子だった。自分の顔だとは分かる。しかし、向こうの子と目が合うと、こちらが先に視線をそらしたくなる。

 

「いつものが、いいです」

「いつものは昨日、泥の池を作ったでしょう。晴の池も、晴の服も、まだ乾いてません」

 

 その件については反論の余地がなかった。

 姉が入ってきた。手には襟巻きが二本ある。

 

「あ、私の! 母さん、それ私の!」

 

 返してほしい。私は内心で姉を応援した。

 姉は駆け寄ってきて、私の肩へ両手を置いた。

 

「小さくなった!」

「晴が着ているからね」

「こっち向いて。晴、くるってして」

 

 姉は私を一周させた。服の背を伸ばし、前へ戻ってきて、勝ち誇ったように言う。

 

「私の妹だねえ」

 

 それは、知っている。

 知らないのは、どうしてそんなに嬉しそうなのかということと、どうして私まで、この服を少し惜しく思い始めたのかということだった。

 

「このままで、いいです」

 

 母が別の服を取る前に、私は言った。

 姉は満足して襟巻きを巻いてくれた。二周目で、口が隠れた。三周目に入ろうとしたので、私は命の危険を訴えた。

 

「姉さま、もう、しゃべれません」

「しゃべってる」

 

 なるほど。恐ろしい理屈だ。

 

 市では父を前へ進めるのが大仕事だった。

 酒屋の前で捕まり、粉屋の前で立ち話をし、何も売っていない道の真ん中でも止まる。人口五千ほどの山里で、父は知らない顔を探すほうが難しいらしい。

 姉は右手を引き、私は左の袖を引いた。

 父は二人に引かれたまま、畑の水の話を続けた。

 

「父さん、お凧が売れちゃう!」

「そんなに急には売れん」

「私の凧だけ売れたら、どうするの!」

 

 父がようやくこちらを見た。

 まだ買っていない凧が、すでに姉の所有物になっている。

 

「それは困るな。晴は、何を見たい」

「人形のお芝居です」

「よし、まず――」

「お酒は最後!」

 

 姉が先手を取った。父はひどく傷ついた顔をした。

 

「まだ言っていないだろう」

「顔が言ってる」

 

 これは母の口真似だった。実際、その隣にいる母も同じ顔を見ていた。

 

 凧屋で、父はたいへん大きな鷲を気に入った。

 姉も気に入った。二人で左右の翼を支え、飛ばせば鐘楼より高く上がるだの、隣の谷からも見えるだのと話し始めた。

 母が店主に値を尋ねた。

 値段を聞いた父は、鷲の翼をそっと戻した。

 

「子供には大きすぎるな」

「あなたが欲しいと言って買えばいいのに」

「置く所がない」

「私の箪笥を減らすと言った時は、何でも置けると言ってたでしょう」

 

 父は黒い燕の凧を姉に持たせた。姉はそれを抱き、まだ鷲を見ていた。

 私は父と姉を交互に見上げた。

 似ている。まったく、よく似ている。

 

 母はそのあと、南から来た布屋のおかみを見つけた。

 父が財布を気にする暇もなく、店の奥へ座ってしまう。並んでいたのは布だけではない。見たことのない花の押し葉や、色の違う糸束もあった。

 

「雪が降らないのに、冬が来たってどうやって分かるの?」

 

 母の声が弾んだ。家で「早く靴を履きなさい」と言うのとは、まるで違う。

 父が私を抱き上げた。

 

「あれは長いぞ。芝居へ行くか」

 

 私は父の顎の下から、その顔を確かめた。

 さっきまで長かった人に、異論はないらしい。

 

     *

 

 人形の狐は、非常に頭が悪かった。

 奥さんへ花を持って帰る途中、犬を見つけるたびに道を尋ねるのである。

 

『おや、そこのご親切そうな方』

「だめ! そいつさっきの犬!」

 

 姉が叫んだ。

 狐は耳に手を当てた。舞台の前の子供たちも、いっせいに叫ぶ。

 

『ええ? ご親切な犬?』

「噛むの! あんたを!」

 

 狐はお辞儀をした。

 犬は狐の鼻へ噛みついた。

 私は吹き出した。姉が私の足を叩いた。

 

「笑わないでよ。こいつ、笑われるとまたやるんだから!」

 

 見事な観客の理解である。狐は実際、鼻をさすりながら同じ犬へ近づいていった。

 今度は犬の前に花を差し出す。仲直りでもするのかと思ったら、犬が匂いを嗅いだ隙に逃げようとした。

 尾を噛まれた。

 父の胸が揺れ、私も笑いすぎて襟巻きへ顔を埋めた。

 犬がぶら下がったまま、狐が舞台を横切る。どうやって動かしているのだろう。目を凝らした途端、狐の尾だけがすっぽ抜けた。

 

『お返しくだされ! それでは、ただの細い犬になってしまう!』

 

 もう仕掛けどころではなかった。

 私は父の上着を叩いた。父は笑いながら、落ちるぞ、と私を抱え直した。

 風が吹くと頬は冷えたが、抱かれた背中はぽかぽかしていた。父の胸の奥から、かまどに似た熱がゆっくり伝わってくる。

 私はそれを当たり前に受け取り、狐が今度こそ帰れるかどうかを見守った。

 

 狐は結局、花も尾もなくして家へ帰った。

 奥さんは大変怒った。花がないからではない。

 

『そんなことだろうと思って、もうご飯を食べてしまいましたよ!』

 

 狐が床へ倒れた。

 姉は手を叩いて喜び、私は少しだけ狐に同情した。

 隣の父は、妙に神妙な顔をしていた。

 

     *

 

 帰宅すると、姉が自分でもお芝居をすると言い出した。

 父は狐。姉は犬。私は狐の奥さん。

 配役に対する異議は、開演前から受け付けられていなかった。

 

「私も、犬にします」

「犬は私」

「では、狐を」

「晴が狐だと、父さんの奥さんがいないでしょう」

 

 私は父を見た。父はもう、帯に布の尾を挟まれていた。交渉に加わる意欲は感じられない。

 前には男で、今度は娘で、ついに父のお嫁さんである。少しは私の都合を聞いていただきたい。

 ところが姉は、母から借りた花柄の布を私の肩へ掛けると、髪を両手で撫でつけた。

 

「晴はここ。かわいい奥さんにしてあげる」

 

 頬の横を指が滑った。私が避けると、姉は追いかけて直した。何の遠慮もない、妹への手だった。

 いい歳をして、五歳の子の着せ替え人形にされて喜ぶものではない。

 そう思ったのに、手が離れると、私は布の端を差し出した。

 

「こちらも、してください」

 

 姉は忙しそうに結び直した。

 私は、その間だけきちんと座っていた。

 

 芝居が始まると、父は思いのほか役に入り込んだ。

 手拭いの花を高々と掲げ、戸口から現れる。

 

「これはこれは、美しい奥さん」

「まだ帰っちゃだめ!」

 

 姉に追い戻された。

 父は廊下を一周し、再び現れた。

 

「命からがら、戻ったぞ」

「私が噛んでから!」

 

 姉が父の腰へ飛びついた。尾が抜けた。予定より早い。

 父は姉ごとくるりと回り、今度は姉が笑って足をばたつかせた。

 私はお芝居の規則を忘れて、二人のそばへ行った。

 

「私も」

「奥さんは、おうち!」

「おうちが、来ました」

 

 父が笑い、両脇へ私たちを抱えた。

 床が遠ざかった。姉の肘が私の肩へ当たり、私はその袖をつかんだ。父は大股で部屋を歩き、犬と奥さんを一緒に運んだ。もはや狐に残された設定は尾のないことだけだった。

 母が戸口に立った。

 

「その家ごと、こっちへ来てちょうだい。ご飯にするわよ」

 

 父は卓の前で私たちを下ろし、晴れやかな顔で自分の椀を探した。

 母は私の椀を出し、姉の椀を出した。

 父の前には、空の皿を置いた。

 

「美しい奥さんを二人も持つ狐さんは、もう召し上がったでしょう?」

「これは配役であって、俺の希望ではない」

 

 姉が即座に父を指した。

 

「美しいって言ったのは、父さん!」

 

 私は母に頼まれる前に、父の尾だった布を拾った。

 明日は私が狐をやる。

 犬役の姉に、今のうちにそれを予約しておかなければならなかった。

 

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