雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
妹は返品できません
「弟じゃないの?」
それが、私の生まれて初めて聞いた苦情だった。
前の人生を数えなければ、だが。
「妹よ」
「弟って言った」
「父さんは、弟かもしれんと言ったんだ」
「弟が来るって、
近くで女の人が笑った。笑うと、私を支えているものまで揺れた。どうやら、この人が母らしい。
父らしい男は、たいへんまずい商談になった時の声を出した。
「阿秀には、父さんが間違えたと言っておけばよい」
「父さんが間違えたのに、どうして私が言うの?」
「……それもそうだな」
早くも父が負けた。
私は助け船を出そうとした。事情はよく分からないが、この場合はまず相手の要求を聞くべきだ。前の人生で、工場の故障について似たような押し問答をした覚えがある。
ところが口を開けると、へえ、とも、ああ、ともつかない音が漏れた。
そのうえ、ひどく眠い。
「泣いちゃう? 私が怒ったから?」
さっきの声が急に近づいた。
何も見えないわけではない。ただ、白いものも黒いものも、水の底から見上げたようにぼやけている。小さな影が、私の顔の上に来た。
「怒ってないよ。父さんに怒ったの。あんたじゃないからね」
指が頬へ当たった。おそるおそるというより、ちゃんと伝えるためにつついている。
私はまた、妙な声を出した。
「返事した!」
「梅、指を口へ入れないでちょうだい。お菓子を食べた手でしょう」
「まだ入れてない!」
まだ、は少し怖い。
父が私の手を取った。
「
「お外、雪だよ」
「明日は晴れる」
「晴れなかったら?」
「では、父さんが間違えたと言っておけ」
母は今度こそ声を立てて笑い、私の小さな姉もつられて笑った。
そうして私は、本人の返事を待たれないまま、夏侯家の次女になった。
*
前の人生で、私は男だった。
工学を学び、メーカーで設備保全や試験の仕事をしていた。妙な振動があれば調べ、止まった設備があれば呼び出される。休みの日にはゲームをした。寝る前にもう少しだけ、と思って朝にしたこともある。
そこまで覚えているのに、自分の首を支える方法は分からなかった。
これには参った。
知識を持って生まれれば何かと有利だろう、と考えたことはある。少なくとも、自分の口から流れた涎で肩を濡らす場面は想定していなかった。母に拭かれ、姉に笑われ、笑った姉も寝起きには口の横を拭かれていた。
私たちは、そういうところから仲良くなった。
姉の名は、
私は初め、よくある姓なのだろうと思おうとした。門派の名を知ってからも、まさか、と何度も考えた。
前に遊んだ物語には、
美しくて、物騒で、ひどく寂しい人だった。私はその人に恋をした。画面の向こうなのは承知していたが、承知しているだけで済むなら、世の中に夜更かしする人間はいない。
幼名は梅。雪山派の娘。
知っていることは、確かに重なっていた。
ただし、目の前の姉は、私の鼻へ豆を入れようとして母に叱られていた。
「入るかと思ったの!」
「入ったら、どうやって取るの」
姉は私の鼻を見た。それから、手に持った豆を見た。
「……晴が、ふんってする」
勝手に共同事業へ組み込まないでほしい。
私は豆を取り上げ、母に渡した。姉は裏切られた顔をした。
この子が、あの人になる。
その先に私の知る結末があるのだと、考えかけた時、姉が私の両頬を挟んだ。
「晴。私の味方でしょう」
違う、と言うべき場面だった。
言えなかった。口が、魚の形になっていた。
*
二歳になった冬、私は市へ出掛ける服について母と争った。
争ったというのは私の言い分で、母は笑いながら私の腕を袖へ通していた。
「こっち、姉さまのです」
「梅が小さかった頃のね。ほら、晴にもぴったり」
赤い縁取りの服だった。裾に小さな花が縫ってある。
前の私なら、店で手に取ることさえなかった服である。それを着た子を鏡に映されると、どこから見ても女の子だった。自分の顔だとは分かる。しかし、向こうの子と目が合うと、こちらが先に視線をそらしたくなる。
「いつものが、いいです」
「いつものは昨日、泥の池を作ったでしょう。晴の池も、晴の服も、まだ乾いてません」
その件については反論の余地がなかった。
姉が入ってきた。手には襟巻きが二本ある。
「あ、私の! 母さん、それ私の!」
返してほしい。私は内心で姉を応援した。
姉は駆け寄ってきて、私の肩へ両手を置いた。
「小さくなった!」
「晴が着ているからね」
「こっち向いて。晴、くるってして」
姉は私を一周させた。服の背を伸ばし、前へ戻ってきて、勝ち誇ったように言う。
「私の妹だねえ」
それは、知っている。
知らないのは、どうしてそんなに嬉しそうなのかということと、どうして私まで、この服を少し惜しく思い始めたのかということだった。
「このままで、いいです」
母が別の服を取る前に、私は言った。
姉は満足して襟巻きを巻いてくれた。二周目で、口が隠れた。三周目に入ろうとしたので、私は命の危険を訴えた。
「姉さま、もう、しゃべれません」
「しゃべってる」
なるほど。恐ろしい理屈だ。
市では父を前へ進めるのが大仕事だった。
酒屋の前で捕まり、粉屋の前で立ち話をし、何も売っていない道の真ん中でも止まる。人口五千ほどの山里で、父は知らない顔を探すほうが難しいらしい。
姉は右手を引き、私は左の袖を引いた。
父は二人に引かれたまま、畑の水の話を続けた。
「父さん、お凧が売れちゃう!」
「そんなに急には売れん」
「私の凧だけ売れたら、どうするの!」
父がようやくこちらを見た。
まだ買っていない凧が、すでに姉の所有物になっている。
「それは困るな。晴は、何を見たい」
「人形のお芝居です」
「よし、まず――」
「お酒は最後!」
姉が先手を取った。父はひどく傷ついた顔をした。
「まだ言っていないだろう」
「顔が言ってる」
これは母の口真似だった。実際、その隣にいる母も同じ顔を見ていた。
凧屋で、父はたいへん大きな鷲を気に入った。
姉も気に入った。二人で左右の翼を支え、飛ばせば鐘楼より高く上がるだの、隣の谷からも見えるだのと話し始めた。
母が店主に値を尋ねた。
値段を聞いた父は、鷲の翼をそっと戻した。
「子供には大きすぎるな」
「あなたが欲しいと言って買えばいいのに」
「置く所がない」
「私の箪笥を減らすと言った時は、何でも置けると言ってたでしょう」
父は黒い燕の凧を姉に持たせた。姉はそれを抱き、まだ鷲を見ていた。
私は父と姉を交互に見上げた。
似ている。まったく、よく似ている。
母はそのあと、南から来た布屋のおかみを見つけた。
父が財布を気にする暇もなく、店の奥へ座ってしまう。並んでいたのは布だけではない。見たことのない花の押し葉や、色の違う糸束もあった。
「雪が降らないのに、冬が来たってどうやって分かるの?」
母の声が弾んだ。家で「早く靴を履きなさい」と言うのとは、まるで違う。
父が私を抱き上げた。
「あれは長いぞ。芝居へ行くか」
私は父の顎の下から、その顔を確かめた。
さっきまで長かった人に、異論はないらしい。
*
人形の狐は、非常に頭が悪かった。
奥さんへ花を持って帰る途中、犬を見つけるたびに道を尋ねるのである。
『おや、そこのご親切そうな方』
「だめ! そいつさっきの犬!」
姉が叫んだ。
狐は耳に手を当てた。舞台の前の子供たちも、いっせいに叫ぶ。
『ええ? ご親切な犬?』
「噛むの! あんたを!」
狐はお辞儀をした。
犬は狐の鼻へ噛みついた。
私は吹き出した。姉が私の足を叩いた。
「笑わないでよ。こいつ、笑われるとまたやるんだから!」
見事な観客の理解である。狐は実際、鼻をさすりながら同じ犬へ近づいていった。
今度は犬の前に花を差し出す。仲直りでもするのかと思ったら、犬が匂いを嗅いだ隙に逃げようとした。
尾を噛まれた。
父の胸が揺れ、私も笑いすぎて襟巻きへ顔を埋めた。
犬がぶら下がったまま、狐が舞台を横切る。どうやって動かしているのだろう。目を凝らした途端、狐の尾だけがすっぽ抜けた。
『お返しくだされ! それでは、ただの細い犬になってしまう!』
もう仕掛けどころではなかった。
私は父の上着を叩いた。父は笑いながら、落ちるぞ、と私を抱え直した。
風が吹くと頬は冷えたが、抱かれた背中はぽかぽかしていた。父の胸の奥から、かまどに似た熱がゆっくり伝わってくる。
私はそれを当たり前に受け取り、狐が今度こそ帰れるかどうかを見守った。
狐は結局、花も尾もなくして家へ帰った。
奥さんは大変怒った。花がないからではない。
『そんなことだろうと思って、もうご飯を食べてしまいましたよ!』
狐が床へ倒れた。
姉は手を叩いて喜び、私は少しだけ狐に同情した。
隣の父は、妙に神妙な顔をしていた。
*
帰宅すると、姉が自分でもお芝居をすると言い出した。
父は狐。姉は犬。私は狐の奥さん。
配役に対する異議は、開演前から受け付けられていなかった。
「私も、犬にします」
「犬は私」
「では、狐を」
「晴が狐だと、父さんの奥さんがいないでしょう」
私は父を見た。父はもう、帯に布の尾を挟まれていた。交渉に加わる意欲は感じられない。
前には男で、今度は娘で、ついに父のお嫁さんである。少しは私の都合を聞いていただきたい。
ところが姉は、母から借りた花柄の布を私の肩へ掛けると、髪を両手で撫でつけた。
「晴はここ。かわいい奥さんにしてあげる」
頬の横を指が滑った。私が避けると、姉は追いかけて直した。何の遠慮もない、妹への手だった。
いい歳をして、五歳の子の着せ替え人形にされて喜ぶものではない。
そう思ったのに、手が離れると、私は布の端を差し出した。
「こちらも、してください」
姉は忙しそうに結び直した。
私は、その間だけきちんと座っていた。
芝居が始まると、父は思いのほか役に入り込んだ。
手拭いの花を高々と掲げ、戸口から現れる。
「これはこれは、美しい奥さん」
「まだ帰っちゃだめ!」
姉に追い戻された。
父は廊下を一周し、再び現れた。
「命からがら、戻ったぞ」
「私が噛んでから!」
姉が父の腰へ飛びついた。尾が抜けた。予定より早い。
父は姉ごとくるりと回り、今度は姉が笑って足をばたつかせた。
私はお芝居の規則を忘れて、二人のそばへ行った。
「私も」
「奥さんは、おうち!」
「おうちが、来ました」
父が笑い、両脇へ私たちを抱えた。
床が遠ざかった。姉の肘が私の肩へ当たり、私はその袖をつかんだ。父は大股で部屋を歩き、犬と奥さんを一緒に運んだ。もはや狐に残された設定は尾のないことだけだった。
母が戸口に立った。
「その家ごと、こっちへ来てちょうだい。ご飯にするわよ」
父は卓の前で私たちを下ろし、晴れやかな顔で自分の椀を探した。
母は私の椀を出し、姉の椀を出した。
父の前には、空の皿を置いた。
「美しい奥さんを二人も持つ狐さんは、もう召し上がったでしょう?」
「これは配役であって、俺の希望ではない」
姉が即座に父を指した。
「美しいって言ったのは、父さん!」
私は母に頼まれる前に、父の尾だった布を拾った。
明日は私が狐をやる。
犬役の姉に、今のうちにそれを予約しておかなければならなかった。