雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
姉は針に負けた。
剣ではあれほど自由になる指が、細い針を持つと急に不器用になる。袖を縫いつけるつもりで下の布まで縫い、一生懸命引き離そうとして、荊紅に手を叩かれた。
「引くなってば。せっかく刺したところが歪むでしょう」
「私は、いま取り返しのつかないことを?」
「まだね。貸して」
窓の下で二人が笑った。
私は反対側で長刀の紐を替えていた。まだ背から抜くことには慣れず、稽古場で下ろしてから構えることが多い。姉はそのたび、九つの頃の泳ぐ腕を持ち出す。今日は仕返しに針の話を覚えておこうと思った。
荊紅は縫い目をほどき、姉へやり直させた。
「そう。今度は揃った」
「本当? さっきより、いい?」
姉が袖を持ち上げた。荊紅はすぐには答えず、その袖を着た姉の姿を眺めていた。
戸が開いた。
「蘭姉ちゃん、靴屋が来たのだ。菊姉ちゃんが、今でなければまた足が伸びるって」
小竹だった。小梅も後ろから顔を出し、あんたの足じゃないのにと笑った。姉は針を置き、すぐに行くと答えた。
荊紅は布の端を持ったままだった。
「まだ終わってない」
「戻ってから続きを。待っていただくわけにいかないでしょう」
姉は荊紅にも一緒に来ないかと誘った。荊紅は返事をしなかった。姉が立つと、その袖の糸を急に引いた。
布が縮む。
「……ほら。動くから」
姉は座り直した。荊紅がゆっくり糸を切る間、小竹と小梅は戸の外へ追い出されるように下がった。
私も紐を結び終え、長刀を脇へ置いた。
荊紅の指は器用だった。自分が作った皺を、姉の知らない間に綺麗に伸ばした。
*
川へ行ったと聞いたとき、初めは安心した。
小竹は水辺の丸い石を集めることがある。仕事で使うのか、眺めるのか、聞いても曖昧に笑う。昼の仕事へ戻ってこないと小梅に言われ、私は空き籠を取りに行きかけた。
「荊紅姉ちゃんが、割った紙の代わりに綺麗なのを教えるって」
籠をつかみ損ねた。
小梅の顔が変わった。
「何」
「姉さまを呼んで。川へ行ったと」
走り出すと、木の鳥が背で跳ねた。長刀は仕事場に置いてある。戻って取ることは考えなかった。
細い川だった。水量も多くなく、縁の石から底が見える。それなのに、曲がり角を越えた先で小竹は顔を上げられずにいた。
膝を岸につき、頭だけを水の中へ押し込まれていた。
荊紅の手が、濡れた髪の上にあった。
「何をしているのですか!」
荊紅はこちらを向いた。小竹の背が跳ねても、腕をどけなかった。
私はその肩へ飛びついた。横から押し倒そうとしたが、彼女の膝が私の腹へ入った。石に手をついて転ぶのを止め、そのまま小竹の襟をつかむ。
「邪魔。あんたまで汚い手で触らないで」
荊紅の爪が手首へ食い込んだ。
私は噛みついた。武功にも型にもならないことをした。荊紅の叫び声に押さえつける手が緩み、小竹が顔を上げた。吸おうとして咳き込み、また前へ崩れる。その肩を抱えて引いた。
「晴、何のつもり! その子、自分で――」
「手を放せ!」
誰の声か、一瞬分からなかった。
姉だった。
私の襟をつかんでいた荊紅の手が外へ捻られ、身体ごと川から引き離された。荊紅が姉の名を呼ぶ。姉は答えず、その腕をいっそう背へ回した。
「折れる、蘭、痛い!」
「頭を押さえていたでしょう。何をさせていたの!」
「転んだから、助けようと」
私は小竹を抱いた。腕の中で水を吐いている。何か言いたいのに、一語もまとまらない。
菊が追いついた。私と小竹を見て、まず荊紅を殴った。
乾いた音がして、荊紅の顔が横を向く。
「お父様の前でもう一度言いな。今の話を、同じ口で!」
姉が荊紅を突き放し、小竹のそばへ来た。小梅は自分の上着を脱ぎ、何も言わず小竹へかぶせる。私は立とうとして膝が笑った。
姉の手が私の顎を上げた。怪我を見つけたかったのだろう。私はその腕へすがりかけて、後ろにいる荊紅を見た。
「そっちを。逃がさないで」
菊が荊紅の帯をつかんでいた。
「逃がすもんか。あんたらは先に戻れ!」
荊紅は唇の端から血を拭い、私たちを睨んだ。小竹を抱き上げた姉へ、もう一度だけ声をかける。
「蘭。そんなものの話を聞くの?」
姉は振り返らなかった。
私が代わりに見た。荊紅は私の顔に気づくと、吐き捨てるように舌打ちした。
*
小竹は着替えを嫌がった。
私の袖を握ったまま、放せばまた水へ落とされるように指を固くしていた。医者が胸の音を聞く間も離れない。姉が袖口の糸を切り、布だけを残した。
小梅は、私の裸になった腕へ自分の別の衣を押しつけた。
「返すとき、洗って。川の匂い、嫌」
私がうなずくと、初めて顔を背けた。
菊が戻ったのは、湯が冷める頃だった。門人を二人連れていた。これから梅竹の往復にはこの二人のどちらかがつく、と顔を確かめさせる。
「知らない奴が迎えだと言っても行くな。あたしが呼んだと言っても、こいつら以外なら呼んでないよ」
小竹が布の中から目を出した。
「仕事へは?」
「行かせる。泊まるのは当分こっちだ。文句はあたしが言う」
菊の右手はまだ赤かった。
私は掌派人の前で、見たことを話した。荊紅は、私の来る前に小竹が足を滑らせたのだと言い張った。手首に残る爪の傷を見せると、先に噛まれたからだと怒鳴った。
菊が口を挟み、父に叱られ、また口を挟んだ。
結局、荊紅には謹慎が命じられた。教える役も外され、梅竹に近づくことを禁じられた。世話をする門人の名が書き留められるまで、菊は部屋を出なかった。
その後、荊紅をまったく見なくなったわけではない。
謹慎を解かれてからは、奪魄門の物置の出納や、用状を運ぶ仕事に回された。行き先は帳面に残り、付き添いもいた。私たちは使いを頼まれなくなった。廊下で出会うと、荊紅は付き添いの男が話す横で、姉の袖だけを見た。
刺繍は外してあった。
私が糸を切った。布まで切りそうになると、姉が鋏を取り上げた。捨てるかと尋ねる前に、姉はそれを畳み、箱の底へ入れた。
*
冬が過ぎ、戸を開けておいても手が凍えなくなった頃、姉がいなくなった。
机の上に四日目には帰ると書いてあった。
私は紙を持って菊の部屋へ入った。菊は一目見ただけで、ああ、と言った。第三香もそこにいた。
「どこへ行ったのですか」
菊は私の足を見た。裸足だった。
「まず履いてきな」
「行き先を」
「晴」
「私を、また、ここに置いて」
紙を握る手に力が入った。第三香が立ちかけ、菊が顎で止めた。
「蘭が自分で決めた。父親を殺した男が見つかったんだ。あの子が行きたいと言った。止めなかったよ、あたしは」
私は菊を睨んだ。
知っていた。第三香も。二人は知っていて、朝の戸が開くところを見ていたのかもしれない。
「妹は私です」
「だから連れていきたくなかったんだろう。あたしに怒鳴るなら怒鳴りな。でも行き先は言わない。言わないと約束した」
菊は机を指で叩いた。私が何を言っても、その指は止まらなかった。
私は踵を返した。靴を履き、町まで下りた。どちらの道かを知る人はいなかった。四日で往復できる場所は、私が知るより多かった。
その夜、菊の部屋へ連れ戻された。
小梅と小竹が床を空けてくれた。姉の衣も持ってきたと言われ、私はそれを広げた。置いていった普段着だった。袖へ腕を入れると少し長い。手が隠れるまで引き、戸の方を向いて座った。
菊は自分の支度を終え、灯を低くした。
「四日目だろう。今から見張っても、山が縮むわけじゃない」
私は返事をしたつもりだった。菊が二度目には何も言わず、寝具を投げた。
小竹の寝息が聞こえた。ときどき咳が混じった。川から戻った後には、その音だけで飛び起きていた。今夜も心配だった。けれど身体は小竹の方へ向かず、戸の木目の同じ節を見ていた。廊下を歩く者がいる。足音が近づき、遠ざかる。戸が開く一瞬前の気配を、何度でも待ってしまった。
眠ったのは短い間だったと思う。
姉が水を取りに行った音で起きた。立ち上がり、戸を開ける。水差しを持っていたのは菊だった。
「晴! 踏むよ、そんなところに寝てたら」
自分が寝床から戸口へ移っていたことを、初めて知った。
菊は水差しを置き、私の手を取った。温かい。私はその手を両手で包み、同じように呼吸をしようとした。菊が背を撫でる。優しくない速さだったが、痛くはなかった。
胸は下りなかった。
「こっち向きな。ほら、あたしだよ」
そうだった。
姉ではなかった。
菊は私の顔を見て、舌打ちした。私に向けてか、自分に向けてか分からない。腕を外さず、そのまま壁にもたれた。
朝まで、私は姉の袖を噛んでいた。
二日目の粥は途中で冷えた。三日目には、小梅が勝手に砂糖を足した。甘くなったのは分かった。飲み込むと胸につかえた。小竹が木の鳥を持ってきて、嘴を直すかと聞く。私は直さないと答えた直後、同じことをもう一度聞かれたと思って顔を上げた。
小竹は口を閉じ、鳥を私の手へ押し込んだ。
四日目、私は朝から門にいた。
*
姉の姿が坂に見えた時、靴を片方脱いでいた。
門人に座れと言われ、痺れた足を揉んでいたのだ。履き直せなかった。片足のまま走った。
姉が何か叫んだ。私はその声の中へ飛び込み、腰へ両腕を回した。二人でよろめく。姉の背にあった荷が地面へ落ちた。
「晴、足! 石、踏むでしょう!」
抱き返された。
私は顔を上げ、姉の頬を両手で挟んだ。目、口、耳の下。次に手首を裏返し、袖をたくし上げた。姉は好きにさせていたが、襟へ指をかけるとさすがに押さえた。
「部屋で。今ここで全部調べるつもり?」
前の自分なら、女性の襟へ勝手に触れるなどしなかった。けれど姉は私を妹としか思わず、私は妹だから許される手を引けなかった。
姉が私の額へ唇を当て、ずいぶん冷たいと言った。
途端に腹が鳴った。
部屋へ戻る間、私は三日目の砂糖の話をした。木の鳥を直してほしいと言われたのではなかったことも、話しながら分かった。姉は私の言葉の速さに何度か聞き返した。
粥が来ると、私は椀を空にした。もう一杯頼んだ。姉が取ってこようと腰を上げると、袖をつかんでしまった。
「……ここから届くわね」
姉は盆を自分へ引き寄せた。私の手が服に残っているのを見て、困った顔で、少し笑った。
「食べる時まで忙しい子」
私はその笑顔を見ながら、二杯目を飲んだ。
夜になって、姉は男を殺したことを話した。
首を折り、軒へ吊るしてきたという。
姉の手は洗ってあった。私が昼に確かめた指と同じだった。
「逃げられると思ったら、待てなかった。あの男が、あんな所で、普通に食べていたの」
姉の声が硬くなった。
「父さんはもう、何も食べられないのに」
私は手を伸ばした。姉はその手を取り、自分の両膝の間へ置いた。
「私も、お父さまの娘です」
「知ってる」
「見ても、嫌いになりません」
「そういう話をしているんじゃない!」
大きな声だった。
私は固まった。姉は口を閉じ、しばらく私の手だけを握っていた。謝る代わりに、握り方を変えて爪が当たらないようにした。
「私が、したかったの。晴に見ていてもらうためじゃない」
私はうなずけなかった。
姉が一人で望み、一人で果たして帰ってきた四日間を、ここから消すことはできなかった。
それでも今の手だけはつかめた。私が肩へ顔を寄せると、姉は抱き直した。
「明日は、師父に話すことがある。朝早いから」
私は顔を上げた。
何も言っていないのに、姉の方が先に言葉を止めた。
やがて寝床の脇の私の靴を拾い、自分の靴と並べた。
「起こすわ。一緒に行こう。……今度は、靴をちゃんと履くのよ」
私は返事をした。
姉が笑ったので、もう一度した。
灯を消すと、部屋には二人分の寝息がなかなか揃わなかった。私は姉の肩へ手を置き、眠れた後も落ちないよう、袖を握り込んでいた。