雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
宿の女将は、仕事場へ入る前に私の名を呼んだ。
私は返事をしなかった。手にあった木片が床へ落ちた。女将の口が「お姉さん」と動き、その続きを聞く前に外へ出ていた。
途中で荷がないことに気づき、戻りかけた。
陳絮が入口から怒鳴った。
「帰ってきたんだ! どこへ行く荷だ!」
私はまた向きを変えた。
姉は宿の部屋で立っていた。
戸が開くと笑った。以前より痩せたのか、髪のまとめ方のせいなのか、顔が違って見えた。知らない紐を腰に結んでいる。私は入口で止まってしまった。
「晴」
姉が一歩寄った。
その声で、身体が動いた。
腕を回しても足りず、肩へ顔を押しつけ、それでも服の向こうにいるのが姉なのか確かめたくて、首の後ろへ手を入れた。温かかった。旅の埃と、知らない石鹸の匂いがした。
「ただいま。待たせたわね。晴、ほら、私の顔を――」
上げられなかった。
姉は途中で言うのをやめ、私の頭を抱えた。ゆっくり椅子へ腰を下ろす。私はその膝へ乗りかけ、十六の身体では収まりきらず、横にずり落ちた。それでも腰を抱いた腕をほどかなかった。
第三香が部屋を出た。
戸が閉じると、私は姉の脇へ額を押しつけたまま、初めて長い息を吐いた。
「痩せた」
姉が私の頬をなぞった。
「ちゃんと、食べてた?」
責められたわけではないのに、首を振れなかった。姉の膝に置いた手だけが、勝手に強くなる。
女将が湯を持ってきた。私が取れないのを見て、姉が椀を受け取った。私の口元へ寄せる。私は二口飲み、三口目でむせた。
「ゆっくり。逃げないから」
逃げないという声が嬉しくて、私はまた飲んだ。
女将が粥もあると言った。ありますか、と今度は返事ができた。姉が目を丸くして私を見た。
「食べられるの?」
私はうなずいた。腹が空いていた。朝から空いていたはずなのに、その空腹が今になって一度に戻ってきた。
姉は私の手を自分の腿に残し、女将へ二人分を頼んだ。頬を撫でる指が、少し得意そうだった。
*
姉の旅の荷は、私が結び直した普段の荷とは違った。
布の端が焦げ、留めにしていた木片が欠けている。姉はそれを捨てずに持ち帰っていた。私が指で触れると、急に笑った。
「ああ、それ。解無塵が蹴ったの」
名は便りで読んでいた。口論の末に加わった男。
姉は自分の言ったことがおかしくなったのか、もう一度笑った。
「自分の荷だと思って蹴ったのよ。唐布衣に腹を立てて。違うと分かったら、私の結び方が悪いって」
「弁償は」
「させた。お金がないと言うから、紐を買ってこさせたわ。そうしたら、とんでもなく長いのを買ってきて」
姉は両腕を広げた。私は片方の腕を離せず、それに合わせて身体まで傾いた。
「晴、そんなに引かなくても」
笑って私を引き寄せ直した。私のせいで最後まで広げられなかった腕を、姉はもう試さなかった。
腰の紐は、別の町で自分で買ったものだという。祭りでも市でもない昼間、ただ通りかかった店で気に入った。姉はそれをほどき、指の上へ掛けて見せた。
「ここの結び方、習ったの。やってみる?」
私は首を振った。
姉が私の髪へ結ぼうとしたので、少し待ってと言い、ようやく顔を上げた。
「どうして連れていったのですか。あの男は」
姉の指が止まった。
「聞いたわ。何度も。答えるたびに、別の話を始めるの。風景がいいだの、食べ物がまずいだの、今それを聞いていないでしょうって、何度怒鳴ったか」
今も腹が立つらしく、紐が指へ食い込んだ。
「一度、寝ている間に出ようとしたら、窓が開かなかった。それで、留めを」
「曲げたのですね」
姉が私を見た。
私はうなずいた。川沿いの宿、二階の端、窓の下の擦り傷。ひとつずつ言うと、姉の顔から笑いが消えた。
「そこまで来たの……晴、一人で?」
足を見せてと言われた。私は姉の足こそ見せてほしかったが、先に履物を脱がされた。踵の新しい皮へ指が触れる。
姉は黙っていた。私は、その沈黙をもっと続けてほしかった。ここにいなかった間、姉が私だけを考えていたことにしてほしかった。
けれど荷の底から、派手な色の小さな袋が出てきた。
「これは、何ですか」
「お前に」
中には櫛があった。持つところに花が彫ってある。
姉は私の髪へ当てた。絡まって止まり、ひどいわねと呟いて、丁寧にほどいた。
前の自分なら女性から櫛を贈られても、自分の髪に使うことを考えなかった。今の私は、姉が妹のために選んだ花を見て、喜ぶより先に、それを買う余裕のあった一日へ嫉妬していた。
「買い物を、していたのですね」
言ってから、姉の手が止まるのが分かった。
「……していた」
櫛は私の髪に残った。引けば痛い位置だった。姉は絡まった髪を押さえ、ゆっくり抜いた。
「逃げられた日も、あったわ」
私は顔を上げた。
姉は欠けた留めを卓へ置いた。そこへ椀を二つ寄せ、一つを指で押した。
「極楽教の連中に追われて、ここで道を分かれたの。私は下へ行けた。止める人はいなかった」
話しながら、椀を元へ戻した。
「でも、女の人が残っていた。最初にお前を転ばせた、あの人。肩を傷めて、剣を上げられなかった。私に先へ行けと言ったのよ」
「それで、帰らなかった」
「腹が立った。先へ行っていいと言うなら、初めから――」
姉は言いかけ、自分で苦く笑った。
椀を指で押し返した。縁がもう一つへ当たり、こん、と鳴る。
「戻った。背後へ回ろうとした男がいたから、私が止めた。ひとりで勝てる相手ではなかったけれど、あの人が手を出す隙にはなった。その後、皆が来て」
姉の顔が上がった。
「強かったのよ、相手は。あんなのを倒せると思っていたのかと、終わってから唐布衣に言ってやった。思っていなかったと言うから、皆で怒ったわ。解無塵なんて、立てないくせに一番大きい声で」
姉は笑ってしまった。
私を見て、笑うのをやめようとした。その方が辛かった。
「その時、帰ればよかったですか」
私の言い方がおかしかった。帰ればよかったのは姉なのに、許しを求めるような声になった。
姉は椀から手を放した。
「……楽しかった」
小さかったが、聞こえた。
姉は紐を握り、私から目を逸らさずに続けた。
「怖くて、腹が立って、それでも、次に何をするか、私も口を出せた。帰りたいとも思った。でも、あの日は、そこにいたかった」
私は櫛を取った。
自分の髪へ入れ、うまく通らず、姉へ渡した。
姉は受け取って私を膝の間へ座らせた。私は顔を見られずに済む場所へ収まり、その手が髪をとかし始めるまで何も言えなかった。
*
その夜は、同じ寝床を取った。
姉が寝返りを打つと私もついて動き、二度目には姉が寝床の端へ押し出された。落ちる、と言われて戻したつもりが、私はまた袖をつかんでいる。
姉は私の腕を取り、自分の腰の前へ置いた。
「ここ。これで、お前が眠っても分かるでしょう」
私は指を曲げた。
姉がその上に自分の手を載せる。二人の重ねた手が温かくなるまで、私は目を閉じなかった。
翌朝、山へ戻ると菊が走ってきた。
姉を抱き、両肩をつかんで離し、顔を見た途端に怒鳴った。
「何をにやにやしてるんだい! 帰ったら知らせを寄越しな。下で一晩も寝て、こっちは――」
言葉が切れ、また抱いた。
姉も菊の背へ腕を回す。私は自分の手から姉の荷を下ろせず、二人を見ていた。
「菊ちゃん、苦しい」
「苦しくしてるんだよ!」
それで姉が笑い、菊の肩へ額を押しつけた。
小梅は土産をせがみ、小竹は姉の歩き方が変だと足を見た。第三香は荷を運び入れ、姉の新しい紐へ一度だけ目をやった。
姉が旅の話を始めると、菊は大声で聞いた。どこだい、何をしたんだいと、私には聞けなかったところまで先へ進めた。
第三香は途中で席を外した。
菊がその背中を見た。話の途中で、姉から目が逸れた。
私はその日、菊に尋ねた。
「留守の間、第三師兄と何を話していたのですか」
「蘭を捜すこと」
「それだけですか」
菊は私を見た。笑って問い返すかと思ったが、口を閉じた。
「あたしに何を聞いた」
「聞いていません。だから」
「なら、勝手に話を作るんじゃないよ」
強い声だった。
自分の記憶がどこまで正確か、私は分からなかった。だから、見ていない抱擁を見たとは言えない。菊は私が黙ると、一歩近づき、いつものように頭へ手を置きかけた。
私は避けた。
菊の手が下りた。
「蘭には、あたしが話す」
何を、と聞く前に呼ばれ、菊はそちらへ行った。
私は姉に、留守の間に二人が親しくしていたことだけを伝えた。姉は私の顔を長く見てから、第三香のところへ出かけた。
戸の外までついていった。
途中から声が大きくなった。
「帰ろうと思えば、帰れたのでしょう」
第三香の声だった。
姉の声はすぐには返らなかった。
「そんなこと、していません。誰かを好きになって、残ったのではありません」
私は立ち上がった。
菊が廊下の先で足を止めていた。姉の次の声が、戸を越えてはっきり聞こえた。
「信じてくださらないのですか」
菊は戸へ行かなかった。
姉が出てくると、菊は名前を呼んだ。姉は立ち止まり、何か言いかけて、私の方を見た。
「晴、先に帰って」
私は帰らなかった。姉が困った顔をして戻ってきたので、その腕を取った。菊は私たちを追わなかった。
*
数日後の朝、姉の寝床は空だった。
私は息を呑む前に戸へ走った。足が何かを蹴り、櫛が床へ落ちる。拾わなかった。廊下へ出て、姉の名を呼んだ。
階段から上がってきた姉が、私を見るなり走った。
「晴。待って、帰ってきたの。ここよ」
私は腕をつかんだ。
声が戻るまで、姉の名を何度も口の中で言った。姉は頬へ触れ、私の指をほどこうとしてやめた。そのまま部屋へ連れ、寝床に座る。
「昨日、言うつもりだったの。眠ってしまって……ごめんね」
姉の頬が赤かった。目は眠っていなかった。
私は袖を握り直した。
「第三師兄と、夫婦になる約束をした」
姉はそう言ってから、一度唇を結んだ。
「契りも。式は、掌派人が決まってからになるけれど」
私は手を離せなかった。
姉は私の頭へ手を置いた。私を宥めているのか、自分が立っているところを確かめているのか、分からない置き方だった。
「菊ちゃんとも話したわ。私があの人を好きなのは、知っていると」
私は床の櫛を見た。
姉が拾おうとすると袖を引いてしまう。姉は膝を戻し、もう一度私の頭を抱いた。
「晴。……何か言って」
姉の声は、旅から帰った時より弱かった。
私はその腰へ腕を回した。帰ってきた身体へ顔を寄せ、姉さまと言った。
姉は、ええ、と答えた。
それだけで私の喉は開いた。なのに、姉の欲しい祝いの言葉は、いつまで待っても出てこなかった。