雪山の娘   作:雪山派外姓弟子

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隠していた人たち

 姉は、第三香とここを出たかった。

 契りを交わして幾日か後、私にもそう言い、三人で暮らせそうな町の名を挙げた。私の仕事はどこでもできるかと尋ねた時の姉には、旅の荷を開いた時に似た明るさがあった。

 私はできると答えた。

 できない仕事も多かったが、それは言わなかった。

 

 第三香は、姉が話し終わるまで座っていた。

 私も同じ部屋にいた。荷を取りに行く場所、道にかかる日数。姉はまだ彼の返事を待たず、思いつくことを話していた。菊や梅竹には会いに戻れる。父母の眠る方へも、いつか三人で行ける。

 第三香が杯を置いた。

 

「今、山を離れるつもりはない」

 

 姉は言葉を止めた。

 

「式を急いでほしいのではありません。ただ、一緒に――」

「掌派人を選ぶ時が近い。知っているだろう。私がここまで何をしてきたか」

 

 姉の指が、膝の布を畳んだ。

 

「私たちを助けてくださったことも、分かっています。それでも、どこかで」

「それでも恩を捨てろと? お前が旅を楽しかったと言うたび、皆が同じように荷を背負うと思わないでくれ」

 

 私は前へ出た。姉に腕を押さえられた。

 

「晴は、何も言っていません」

「今から言う顔をしていた」

 

 第三香は私を見た。私はその視線を受け、すぐ返せる言葉をいくつも選んだ。姉の手が強くなった。

 

「少し考えてください。今日、決めろとは申しません」

 

 姉が立った。私も立った。

 戸を出る時、第三香が名前を呼んだ。姉は振り返った。

 

「蘭。ここだって、お前の家だろう」

 

 姉はすぐには否定しなかった。

 部屋に戻ると、畳んであった旅の布を広げ、式の支度に使う衣をその上へ載せた。菊が来るかもしれないからと、戸は開けたままにした。

 

     *

 

 私は翌日、第三香を廊下で待った。

 彼は私を見ると道の端へ寄った。通り過ぎようとする前へ出る。

 

「菊さんに何を約束したのですか」

 

 第三香は左右を見た。門人が二人、廊下の向こうから来ていた。

 

「蘭に聞け」

「姉さまは、あなたを信じています」

「なら、お前も余計なことをするな」

 

 私の肩へ手がかかった。

 どかされる前に、その手首を取った。指の下で内勁が固まった。私はほどこうとしたが、彼は別の手で私の肘を押さえ、壁へ寄せた。

 

「女同士で何を言い合ったか知らないが、私と蘭のことへ入り込むな」

「姉さまに潔白を求める前に、ご自分のことを」

「誰から聞いた」

 

 声が変わった。

 私は答えなかった。見ていない場面を記憶から取り出して殴りつけることはできなかった。第三香は私が黙ると、鼻で息を吐いた。

 

「何も知らずに騒ぐな。お前が毎日しがみつくから、蘭はお前を宥めることばかり考えている。自分の意見も、落ち着いて言えない」

 

 私は彼の手を振り払った。

 言い返したくて、姉が一人で出ていった四日間まで持ち出しかけた。それを知っている男へ、何を証明するつもりだったのか。

 

「姉さまが何を言っても、あなたが聞かないだけです」

「お前の欲しい答えを、私に言わせたいだけだろう」

 

 第三香が横を抜けた。

 私は追いかけた。背の刀が柱へ当たり、音が響いた。向こうの門人が振り返り、第三香も足を止めた。

 

「抜くのか」

 

 私は抜かなかった。

 彼は笑わなかった。ただ、私が道を空けるまで待った。それから、姉に話す用があると言って歩いていった。

 

     *

 

 密会を見た日は、朝から人の出入りが多かった。

 各門の書付を集めるため、奪魄門の廊下には荷と人が詰まっていた。荊紅も用状を持って来ていた。付き添いの門人が帳場で受け渡しを記す間、彼女は入口の柱に寄りかかり、私たちを見ないふりをした。

 梅竹へ近づくなという命令は、まだ生きていた。小梅はその前を通る時だけ私の袖を取った。

 姉の部屋へ入ると、すぐその手を離す。

 

「蘭姉ちゃん。来て」

 

 いつものふざけた声ではなかった。

 姉は衣を畳んでいた。小梅が呼んでもしばらく手を動かし、何を見せるのと尋ねた。

 

「姉ちゃんが、知らないもの」

 

 私は先に立った。

 

「ここで話してください」

「晴姉ちゃんには言ってない」

 

 小梅は姉の袖を引いた。姉が手を止め、ついていく。

 私は二人の後ろを歩いた。廊下のざわめきが一度遠ざかり、横の通路へ曲がる。小梅は途中から喋らなかった。

 半ば開いた戸に、手を置いた。

 

 第三香が、菊を抱いていた。

 菊はその胸に顔を寄せ、口元に笑いを残していた。私たちの足音に気づいた時、その笑いだけが取り残された。

 小梅が姉を見上げた。

 

「ほら、姉ちゃん。アタシ、嘘を――」

 

 姉の手が小梅の襟をつかんだ。

 小さな身体が浮き、戸口を越えて部屋の中へ飛んだ。床に落ちて滑り、壁へ脚が当たる。私は遅れて腕を伸ばし、開いた戸を押しただけだった。

 

「何を、見せるの!」

 

 姉が叫んだ。

 小梅は壁際で口を開いた。声が出なかった。

 菊が第三香を突き放し、小梅へ行こうとした。

 

「その子に当たるんじゃない、蘭!」

「当たる? 私が? 私が何をしたの、菊ちゃん!」

 

 姉は菊の前へ踏み込んだ。

 菊も退かなかった。第三香が二人の間へ腕を入れ、姉はその手を叩いた。

 

「触らないで。今、あなたに触られたら――」

「蘭、声を落とせ」

「落とさない!」

 

 その声に、廊下の人が止まった。

 姉は戸の方へ振り向き、こちらを見る人たちへ、二人が何をしていたか叫んだ。菊と約束をしていたのか、留守の間からか、今でもか。質問が重なり、誰も一つ目へ答える暇がなかった。

 第三香が戸を閉めようとすると、姉がそこへ手をついた。

 

「閉めないで! 聞かれたくないの? 私には言わせたでしょう! どこにいた、誰といた、何をした、全部、全部!」

 

 菊が姉の名を呼んだ。

 姉は振り返った。涙が頬を伝っていた。

 

「話したよね。私、菊ちゃんに話した。三香と行きたいって。一緒に暮らしたいって。あんた、聞いてたでしょう。どんな顔で、聞いてたの!」

「言おうとしたんだよ」

「いつ!」

「帰ってきたら――」

「帰ってきた! 私、帰ってきたじゃない!」

 

 菊が息を吸った。何か言い、声にならず、腹を立てたように自分の袖を握った。

 

「最初から、こうするつもりじゃなかった。あんたが帰らない間に、あたしたちは」

 

 姉の顔が変わった。

 菊も気づいた。違う、と言いかけたが、姉の方が先だった。

 

「私が帰らなかったから? ああ、そう。私のせい。あの人たちと笑った私が悪くて、二人が抱き合ったのも私のせい!」

「そんなことは言ってない!」

「今、言った!」

 

 姉の手が菊の肩を押した。菊はその腕を取り、すぐ離した。触ったことまで後悔するように、指を開いたままでいた。

 第三香が前へ出た。

 

「二人とも落ち着け。今ここで何を言っても、皆の前で恥をかくだけだ」

 

 姉が笑った。

 笑いながら、涙が落ちた。

 

「まだ、私の恥なの」

「誰の恥とも言っていない」

「私を見て言った!」

 

 私は小梅のそばへしゃがんだ。脚へ触れると、彼女の肩が跳ねた。立てるかと聞いた。小梅は姉を見ていて、答えなかった。

 廊下で男が困ったように笑った。

 

「掌派人になれば四門の娘を迎える。同じ相手へ嫁ぐのだから、そう騒がずとも」

 

 菊が戸を蹴った。

 男は慌てて下がった。

 

「お前は口を出すんじゃない!」

 

 姉は菊の背へ叫んだ。

 

「あんたは、それでよかったのね。私と一緒なら? 同じ家なら? 私が嫌だと言ったら、また誰かが説得するの!」

 

 菊は振り向けなかった。

 第三香が姉の手を取ろうとした。姉はその顔を打った。

 乾いた音の後、人垣の向こうで別の男が声を上げた。

 

「誰が、もう掌派人だと決めた!」

 

     *

 

 閻羅生(えんらしょう)だった。

 玄功門(げんこうもん)の若い達人で、第三香と掌派人の座を争う男だった。彼が誰より強いと信じている者を、私はほとんど見たことがない。けれど、今の本人の顔には、負けを認めるものが何もなかった。

 腰へ差した二本の判官筆(はんがんひつ)が、歩くたびに揺れた。

 

「第三香。まだ勝負も済まぬうちに、褒美を取ったつもりか」

 

 第三香が姉から目を離した。

 

「ここでする話ではない」

「ここでしたのは貴様だろうが!」

 

 閻羅生が筆を抜いた。

 私は小梅を抱え上げた。姉へ、裏へ行きましょう、と叫ぶ。部屋の奥に戸があり、その先は厨房へ続く細い通路だった。

 姉はまだ第三香を見ていた。菊を見た。どちらにも、言い足りないことが残っている顔だった。

 

「姉さま!」

 

 私の声に、ようやくこちらを向いた。

 閻羅生の筆が第三香の剣へ当たった。卓が横へずれ、椀が砕けた。戸口の人たちがいっせいに退こうとして、後ろから来た人とぶつかる。

 小梅を裏の戸へ押した。

 長刀を抜くには、彼女が離れる必要があった。柄を肩越しに引き、刃を頭の上へ逃がす。振り下ろせるだけの場所がない。私は刀を身体の前で斜めに置き、退路に立った。

 

「行って。外の人を呼んで!」

 

 小梅は片脚を引きずって戸を開けた。

 閻羅生の筆が、第三香に弾かれてこちらへ回った。流れた勢いを変え、姉の方へ向き直る。

 

「お前もか。私を見くびって――」

 

 姉が小梅の前へ出た。

 私は刀を押し上げた。筆の先が刃へ当たり、耳の中が鳴った。内息を腕から刀へ押し込み、横へ流す。受け止めきれず、壁に肩を打ったが、筆は姉の胴ではなく棚を砕いた。

 小梅が外へ出た。

 その後ろを姉も出せればよかった。

 

 通路に、荊紅がいた。

 用状の包みを手にしていた。帳場から戻る途中、人の流れに押されてこちらへ来たらしかった。背後で付き添いが名前を呼んだ。戸口へ集まった人が間を塞ぎ、彼だけが通路に残された。

 

「何をしているの。少しはみっともないと――」

「来るな!」

 

 姉が遮った。

 荊紅の口元が歪んだ。小梅がその脇をすり抜けると、肩を引いて避けた。梅竹への接近を禁じられていた女は、その隙に部屋へ足を入れた。

 

「私は止めに来たのよ。泣き喚いて、男を叩いて。そんな顔をしていたら、誰だってよその女へ」

 

 姉の腕を取ろうとした。

 私は刀を戻したが、長い刃の向こうに姉がいた。振れなかった。

 荊紅の袖から光が出た。短い刃だった。

 姉はすぐにその腕を払った。

 刃が戸枠へ突き立ち、返った姉の手が荊紅の顔を掻いた。頬に赤い線が走る。荊紅は悲鳴を上げ、両手で顔を覆った。

 

「顔! 私の、顔を――あんた、よくも!」

 

 姉がその肩をつかもうとすると、荊紅は乱暴に手を振った。血が姉の袖へ飛んだ。

 私は姉へ近づき、刀の柄を持ち直した。

 背後で卓が倒れた。

 

 閻羅生が第三香との間へ卓を蹴り入れ、姉へ踏み込んでいた。

 私は長刀を上げようとした。さっき受けた腕が痺れ、刀の先が床を擦った。

 姉も振り返った。袖の中から掌を返し、筆へ向ける。

 その二人の間へ、菊が入った。

 

「蘭!」

 

 呼ぶ声だけが、やけに大きかった。

 菊は筆を両手で押し外そうとした。閻羅生が手首を返し、片方の手を外した。それでも菊は横へ逃げなかった。

 姉を後ろへ押した。

 筆の先が、菊の胸元に消えた。

 

 床の音が聞こえなくなった。

 菊は立っていた。いつものように、私たちの前へ立っていた。

 第三香の叫びが、部屋を裂いた。

 彼は卓を飛び越え、閻羅生へ体当たりするように入った。筆を引き抜こうとする腕を弾き、その腹を抉った。男が床へ折れても、第三香は手を止めなかった。

 私はそちらを見ていられなかった。

 姉が菊を抱き止めた。

 

「菊ちゃん。菊ちゃん、何を」

 

 菊の膝が折れた。

 私は刀を落とし、その脇へ手を入れた。服を押さえる。どう押さえればいいか分からず、姉の手に自分の手を重ねた。

 

「医者! 誰か、早く!」

 

 私が怒鳴ると、人がやっと動いた。

 第三香は閻羅生のそばで押さえられていた。死んだ相手へまだ行こうとし、何を言っているか分からない声を出していた。

 荊紅が通路へよろめいた。小梅が人を連れて戻り、その顔を見て止まった。

 

「見るな!」

 

 荊紅が叫んだ。

 小梅は逃げなかった。荊紅の方が顔を覆い、通路の暗い方へ消えた。付き添いの門人が追った。その足音を、私は途中で聞けなくなった。

 

 菊が姉を呼んでいた。

 姉はいると答えた。何度も答えた。

 

「喋らないで。大丈夫、だから、いま――晴、何をしているの。もっと、押さえて」

 

 押さえていた。

 私の指も姉の指も、同じ場所にあった。

 菊が息を吸おうとして顔を歪めた。私は少し力を弱め、すぐに戻した。

 

「蘭、あたし」

「後で聞く。後で、いくらでも。だから今は」

 

 姉の声が上ずった。

 菊はその袖をつかもうとした。指が届かない。姉が自分から手を持っていき、握らせた。

 

「本当の……姉妹に、なりたかった」

 

 私は菊を見た。

 いま姉を抱いている腕の、もう片方が私の頭へ伸びてくることを待っていたと、そこで気づいた。こんな時にまで。

 姉は菊だけを見ていた。

 

「なろう。なればいい。だから、菊ちゃん、私を置いて――」

 

 医者が入ってきた。

 私の手を外し、姉にも場所を空けるよう言った。姉は菊を抱いたまま身体を動かそうとした。医者が、そうではないと言った。

 菊の手から、袖が落ちた。

 姉は拾って、また握らせた。

 握り返されなかった。

 

     *

 

 夜になっても、姉の爪には血が残っていた。

 第三香と姉は別々に捕らえられ、奪魄峰の牢へ連れていかれることになった。閻羅生が死に、掌派人の娘が死に、荊紅が傷を負って姿を消した。見ていた者の話を聞き、各門で処分を決めるのだと言われた。

 私は姉の袖を取った。

 門人の手が間へ入った。外される前に握り直す。姉は一度だけ振り返った。

 

「小梅は」

 

 私は姉の顔を見ていた。

 

「脚を、見てあげて。私が、あの子を」

 

 続かなかった。

 私は首を振った。今は姉のことしかできなかった。姉は私の手へ自分の手を重ね、やがて門人に促されて歩き出した。

 手が離れた。

 

「妹です」

 

 戸の前で言った。

 知っている、と返された。

 私はもう一度、同じことを言った。

 後ろから小梅の声がした。菊を呼ぶような、細くつぶれた声だった。

 私は閉まった戸へ掌を当て、姉さまと呼んだ。誰かに答えられるまで、名前の方を変えられなかった。

 

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