雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
菊の部屋には、まだ何人分もの衣があった。
小梅の脚を診た医者が帰ると、小竹が戸を閉めた。私は濡らした布を畳み直し、腫れたところへ当てた。小梅は痛いと言わず、私の手を睨んでいた。
「もっと、そっと」
言われて力を緩めた。
小梅は菊の寝床へ顔を向けた。上掛けは朝、菊が出た時のまま捲れている。小竹が直そうとして、途中で手を止めた。
「見せなきゃよかった」
小梅が言った。
私は返事をしなかった。姉の泣き顔を思い出すと、そうだと言いたくなった。私ならもっと巧く言えたと、思いたくなった。
でも私は、姉が信じる男へ何も言わせられなかった。
「蘭姉ちゃん、アタシのこと」
小梅はそこで口をつぐんだ。
菊なら答えただろうか。答えずに叱ったかもしれない。その声を待つように三人で座っていて、私は突然、息が吸えなくなった。
姉へ会いに行くと言って立った。
もう夜だ、と小竹が言った。私の名をもう一度呼んだ。
小梅は私の腕をつかまなかった。
*
牢の戸は、その夜も翌朝も開かなかった。
食べ物は受け取られた。着替えも受け取られた。姉が食べたかと尋ねると、見張りは首を傾けた。食事を配る係は別だった。
私は配る人を待った。その人が出てくると、今度は洗濯の係だった。誰がどの部屋へ入れるのか聞き、知った名前を翌朝に使うと、当番が替わったと言われた。
同じ石段へ何日も座った。
小竹が椀を持って上がってきた。私の食事だという。蓋を取ると湯気が上がった。姉へ渡す分だと思って受け取り、違うと二度言われた。
「晴さんが倒れたら、僕、一度に二人分は運べないのだ」
小竹は怒っていた。
私は匙を取った。向こうの戸が開き、手が止まる。出てきたのは男だった。食べ直そうとして箸を探し、まだ匙を握っていることに気づいた。
小竹は椀を持って待った。
最後には、これは残していいから水だけ、と言った。
掌派人に呼ばれたのは、その数日後だった。
菊の父は廊下の窓辺に立っていた。娘を失ってから初めて近くで見る顔は、思ったより変わっていなかった。目の下だけが黒かった。
私の盆を指した。
「持っておいで」
私は立ち、痺れた足で転びかけた。盆が傾く。掌派人が受けた。蓋の隙間から汁が一筋、彼の袖へこぼれた。
私は謝った。
彼は何も言わず、そのまま歩き出した。
姉は牢の奥に座っていた。
私を見ると、晴、と言った。そこから動かなかった。私は盆を床へ置き、姉の前へ膝をついた。
頬へ触れた。
手を握った。
姉の肩へ顔を寄せた。抱き返されるまでの時間が怖かった。やがて指が背へ回ると、膝の力が抜け、そのまま姉へ崩れた。
「ご飯を。温かいうちに」
さっきまで言えなかった用事が、一度に口へ戻った。私は椀を並べ、蓋を取り、姉の膝へ指を残したまま箸を出した。
姉は掌派人を見ていた。
「私が、菊ちゃんに」
声が掠れた。
「ひどいことを言いました。あの子、言おうとしていたのに、私が」
「言わなくてよい」
掌派人は低く言った。
姉は止まらなかった。
「押したんです。来ないでって、触らないでって。なのに菊ちゃんは、私の前に――」
「分かっている!」
私の手が跳ねた。
掌派人も、自分の声に驚いたように口を閉じた。しばらく廊下の足音だけが聞こえた。
姉は顔を伏せ、待っていた。叩かれるのを待つ子供のようだった。
掌派人が手を上げると、姉の肩が縮む。
「恐れるな」
手は姉の頭へ置かれた。
掌派人は何か続けようとし、唇を動かした。娘の名は出なかった。代わりに、繰り返し姉の髪を撫でた。
「私が、もっと早く……いや。今からお前に言っても、仕方がない」
その声で、姉が泣いた。
父を亡くした時よりも大きな声が、狭い部屋に響いた。掌派人の衣へすがり、謝るのをやめられなかった。彼はもう、叱らなかった。
私は姉の背へ手を置いていた。
その手だけでは、こちらを向いてもらえなかった。
*
面会を許されてからも、戸が自由に開くわけではなかった。
私は事件の聞き取りへ何度も呼ばれた。小梅が投げられたことを話し、荊紅の刃を話し、閻羅生の筆を逸らしたところを図にした。自分が何をしたかより、菊がどこから来たかを確かめてほしかった。
机の向こうの男は、刀を受けた腕にどの程度の力が残っていたかと何度も聞いた。
「そこではありません!」
私は図の上を叩いた。
「菊さんはここです。ここに立っていた。どうして、そちらばかり」
男が眉を寄せた。別の人に座り直させられ、私はもう一度、最初から話した。
姉を守れなかった一撃を、紙の上で何度も動かした。
荊紅は見つからなかった。
顔を覆って山を下りた女がいたと、後から知らせが来た。付き添いの門人は、用状の受け渡しを待たせていた間に騒ぎになったと話した。私は彼の説明を最後まで聞き、姉の牢へ行った。姉を閉じ込める戸は、いつ来ても同じように閉まっていた。
その戸の前で、見知らぬ女に会った。
腕に書付を抱え、見張りと話している。服にまだ旅の埃があった。私は盆を持ったまま立ち、道が空くのを待った。
「受け取ったと書いてあります。それなら、受け取った方の名もあるはずでしょう」
「係の者が預かった」
「係の者という名の人を、お連れいただけますか」
女の声は穏やかだった。見張りは不愉快そうに、そんな名前ではないと言った。
女が少し首を傾げた。
「存じています。ですから、実際のお名前を」
別の門人が奥へ呼びに行った。
女は私の盆に目を留め、布をかけた方が冷えないと言った。私は黙っていた。今日も待たされると思ったら、返事をする気になれなかった。
「夏侯晴さんですね。わたくしは
その一字を聞いて、私は盆を持つ手を強くした。
女は構わず持っていた布を広げ、盆の端へ掛けた。
「掌派人に呼ばれて参りました。あなた方の差し入れが、どこへ渡ったかも確認しております。姉上へ届いたと分からないままでは、また明日も同じお話になるでしょう」
「私が、何度も聞くからですか」
少し嫌な言い方になった。
魏菊は笑わなかった。
「何度聞かれても答えられない方が、困ります」
奥から帳面が出てきた。
魏菊は頁を開かせ、その日の受取人と渡し先を書き足させた。私の盆にも、名前の紙がついた。彼女は私を慰めるより先に、隣の牢の分の記載も確かめた。
魏菊は掌派人の遠縁で、亡くなった娘の後を託されて来たのだと後で聞いた。玄功門の掌門と嫡伝女弟子を兼ねることになった。
菊の名が呼ばれて、別の人が顔を上げる。
私はそのたび、少し遅れて返事をした。
掌派人の訃報が来たのは、それからだった。
自ら功を散じて亡くなったという。病の進行を誰も告げてくれなかったのではない。後を託し、自分で命を終えたのだと聞かされた。
私は牢へ走った。
姉はもう知っていた。
「昨日、ここへ来られたの」
私を見るなり言った。
「寒くはないかって。私、いいえと答えた。だから、明日も来られると思った。菊ちゃんのお話も、今度は少しできるかもしれないと」
姉は私の腕を握った。
「どうして? 晴、誰か、止めなかったの。私のところには、あんなに人がいるのに!」
私は答えられなかった。
姉は戸を見た。出ていこうとして、私を引いた。見張りが動くと、その場で止まり、もう一度私を握り直した。
その日、姉は食べなかった。
私も、持ってきた椀を開けられなかった。
*
釈放の申し渡しには、先掌派人の名があった。
彼は生前、騒動を自分の不徳として引き受け、姉と第三香を解くよう各門へ求めていた。その申し入れが認められたと聞いた。姉は書付に頭を下げた。私は上着を持って横にいた。
戸の外へ出て、姉は第三香を探した。
私は先に姉の手を取った。帰りましょう、と言った。
姉は私を見なかった。
「剣を返して」
門人は上着を着るよう促した。姉は同じ言葉を、今度は大声で言った。
「私の剣を返して! あいつだけ、歩いて行かせるの!」
第三香が振り返った。
姉は前へ出た。私の手が引かれる。離さずにいると、姉はようやくこちらを向いた。
「晴。下がって」
私は首を振った。
姉は私の手を自分の指から一本ずつ外した。私がまた握ると、今度はその両手を包み、背中の門人へ預けた。
「見えるところにいて。お願い、今は邪魔しないで」
私は息を吸ったまま止めた。
姉は剣を受け取り、第三香へ向いた。
「戦え」
「蘭、今日でなくとも」
「今日だ。今だ。貴様を見たまま、明日の朝まで眠れというのか!」
第三香の顔が硬くなった。
姉はもう踏み込んでいた。
最初の一撃が肩を狙った。第三香が受け、姉はその刃へ剣を滑らせて喉へ返した。彼は首を逃がし、半歩退く。姉の次の踏み込みは、その退いた場所まで届いた。
衣が裂けた。
私は前へ出かけ、門人に腕を押さえられた。姉の目は剣の先しか見ていなかった。
第三香が打ち返した。姉は腕を引いて避け、同時に彼の膝へ蹴りを入れる。第三香が足を引き、空いた地面へ姉の踵が落ちた。
その一歩を戻す前に、彼が入った。
姉の剣はまだ振り切られていない。第三香は柄近くを打ち、刃を高く弾いた。姉が手首を返そうとした時には、胸へ掌が届いていた。
姉が滑り、膝をついた。
第三香は追い、立ち上がりかけた腕を押さえた。剣先が姉の前で止まった。
私は門人の腕を振りほどいた。
姉の肩に触れるより先に、第三香が言った。
「もう分かっただろう。今のお前では、私に届かない」
姉は彼を睨んでいた。
私が腕を取ると、立ち上がるために使った。私へ寄りかかるためではなかった。
「殺せ」
私は姉の名を叫んだ。
第三香が剣を引いた。姉はその刃を追おうとし、膝が崩れた。私は両脇を抱えた。
「菊はもう戻らない。お前までこうして何になる」
姉の唇が震えた。
第三香は、諭せば言葉が届くと思っている顔をしていた。
「まだ戦うなら、生きて力をつけろ。七年後だ。雪山の跡で、もう一度私と戦え」
姉が私の腕から身を起こした。
「七年あれば、同じ顔で私を見なくなる。少しは――」
「殺してやる!」
姉の声に、彼の言葉が消えた。
「第三香、貴様を殺す! 七年でも、何年でも、忘れると思うな! 菊ちゃんが死んだところを、貴様が、貴様が私に言ったことを!」
息が切れた。
それでも姉は彼から目を離さなかった。
「憎い。貴様が憎い。私が、私の手で――逃げるな、第三香!」
第三香は剣を納めた。
何か言いかけたが、姉がまた彼の名を叫んだ。彼は答えず、こちらへ背を向けた。
私は姉を抱いた。姉の身体は熱く、震えていた。
遠ざかる男へ、喉が潰れるまで声を投げ続けた。
*
数日後、姉は晴れた空の下で傘を開いた。
私は部屋の鍵を持って立ち止まった。雨の匂いはなかった。
姉は傘を少し自分の右へ傾けた。
「菊ちゃん、日が当たる」
私は何も言えなかった。
姉は足を止め、私を振り返る。傘の下へ入るよう顎を動かした。
私は左から入った。狭くはなかった。けれど姉の右側へ寄ることはできなかった。
部屋の食事も、三つの椀になった。
姉と私が食べ、残りの一つはいつまでも空だった。姉が箸を取らない日にも、その椀だけは出された。
私は姉の食事を作った。湯を冷まし、汁を運び、着物の袖を払った。働いている間も、姉が立つと手が止まった。棚へ行っただけなのに呼んでしまい、姉が戻ると、今度は自分の方から隣へ詰めた。
ある夕方、空の椀をしまった。
その場所へ、自分の椀を置いた。姉から一番近い席だった。
姉は座り、卓の上を眺めた。
「菊ちゃんのは」
私は返事をしなかった。姉の膝へ手を載せた。
姉が立とうとしたので、その手で袖をつかんだ。
「私が出します」
言ったのに、袖を放すまで時間がかかった。
姉は座り直し、私の髪を指で梳いた。早くしろとは言わなかった。それが嬉しくて、私はますます放しにくくなった。
結局、姉が片手を伸ばせるところまで、一緒に椅子をずらした。
空の椀が戻った。
私は自分の椀を姉の隣へ置き直した。そこは許された。
姉の手も、私の膝へ戻ってきた。私は指を絡め、温かくなった掌を確かめながら食べた。三日前には塩を入れ忘れた汁の味も、今日は分かった。
「少し、濃いわね」
姉が言った。
私は明日は薄くしますと答えた。姉は私を見て、小さく笑った。
その笑顔をもう一度見たくて、おかわりはと聞いた。
姉は空の席の方へ顔を向けた。
「菊ちゃんは、これくらいが好きだった」
私は差し出しかけた鍋を、卓へ戻した。
握った手は離されなかった。私は離されないことに安堵し、食べ続けた。
三つ目の椀に、湯気は立たなかった。