雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
夜を仕事にする娘
夜半に、仕事がなくなった。
壊れた椅子は四脚とも直り、戸棚は引っ掛からずに閉まる。明日返す道具も揃えた。陳絮さんから預かった帳面には、代金を書き込む空欄しか残っていなかった。
私は椅子をもう一度裏返した。
繕った脚を押す。動かない。置く。座る。立つ。裏返す。
五度目には、どちらを直したのか分からなくなった。
寝床へ入ったのは、それより前だった。
明日は姉に会える。夕方には森へ行ってよい。だから眠れば朝になり、朝になれば半日働けば済む。その順序は完璧で、私は灯を消し、横になり、暗い天井の下で順序を繰り返した。
隣の壁から、家主の咳が聞こえた。
姉の咳ではなかった。
寝返りを打つ。手を伸ばす。空いた布を押さえる。森の小屋の場所も、姉がそこにいることも、分かっている。三年の喪を終えて、姉は一人で暮らすと決めた。奪魄門の嫡伝である身分まで捨てたのではなく、町へも来るし、私を呼びもする。
何の事故も起きていない。
戸が鳴るたび立ち上がる自分へ、私はそれを言い聞かせた。戸は私の部屋の戸でさえなかった。
やがて、枕を抱えて工房へ戻った。
椅子の脚を、また押した。
「それ以上やったら、今度はお前さんの手間賃で買い取りだよ」
戸口に陳絮さんが立っていた。髪を包んだ布の端がほどけている。私の立てた音で起こしてしまったらしい。
「少し、確かめておこうと」
「少しを何度やったんだい」
私は答えようとした。
椅子を裏返した回数を思い出そうとして、四か五か、最後の一回を入れてよいのか分からなくなった。
陳絮さんは私から椅子を引き離した。何も言わず、作業台へ手を置く。そこへ道具を返せということだった。
「朝に来ます」
「朝はもう来る。お前さんは来るな」
「納める物が」
「あるよ。直った物は、私が納める」
叱られた仕事場を出るのは、久しぶりだった。
私は道具の代わりに枕を抱き、町の背後の山を見た。まだ黒かった。明るくなるまで待てば、もっと疲れた顔で姉に会うだけだ。
借りた部屋へ戻って荷を取り、大きな野太刀を背負った。
戸締まりだけは、三度確かめた。
*
「夕方、と言ったはずだが」
姉は木の上にいた。
四月の若葉を透かした朝日が、傘の縁を照らしている。二十三になった姉は、下の私と荷を見比べ、それから声を張った。
「お前、今夜はその枕を食え!」
「まだ何も申し上げておりません」
「荷が申し上げておるわ!」
枕の角が、包みから突き出ていた。
私は隠さなかった。二十になった女が寝具を抱え、夜明けの森へ押しかけている。それを隠すには、包みがもう一枚要る。
姉は下りてくるなり私の額へ手を当てた。私はその手のある方へ顔を傾けた。押されて戻される。
「眠っておらんな」
「椅子は直りました」
「誰が椅子の健康を聞いた」
姉は私の荷を取った。
私は肩から刀の背負い紐を外した。長い鞘を身体の前へ回し、刃を抜かず、幹へ立てかける。姉の小屋へ持ち込めば、私より刀の方が場所を取る。
上がると、棚には町へ返す本が包んであった。姉も外出着だった。
「本屋の主人に、話を聞きに行く」
「一緒に参ります」
「寝ろ」
「歩けます」
「歩ける死人を町へ連れていって、私が育てたと思われたらどうする」
姉は持参の枕を寝床へ投げ、私を座らせた。
その隣へ、自分も座る。近くで見れば、襟に縫った白い糸が少しだけ揃っていなかった。姉が自分で直したのだ。そんなところまで見えているうちに、私の肩は下がった。
差し出された湯を飲めた。
「何の話を、お聞きに」
「南の町だ。店先に鳥籠を並べておるそうだ」
「鳥は、売り物ですか」
「店番かもしれん。お前よりは客の話を聞くだろう」
姉は立った。
「水を足してくる。寝ておれ」
小屋のすぐ下だった。
木の葉の隙間から、水甕の縁まで見える。私は椀を持ったまま、姉の足が梯子を下りるのを数えた。最後の一段で足先が見えなくなった。
椀を置こうとした。
床に置いたつもりで、まだ持っていた。熱くもない湯が指にこぼれている。下から水の音がする。汲んでいる。それだけだ。私は戸口へ膝を向け、湯を飲み残した椀をまた持ち上げた。
何をしようとしていた。
姉さまは、下にいる。
その二つが、頭の中でつながらなかった。
「晴!」
戸の外へ出かけた私の腕を、上がってきた姉がつかんだ。
片足が床を外れていた。姉は水を脇へ置く間もなく、私を引きずり戻した。
「お前は本当に、少しは――」
私はその腰に腕を回した。
立ったままの姉へ顔を押しつける。服が濡れた。自分の手が濡れていたことを、そこで思い出した。
「手を、ください」
「つかんでおるだろう」
「こっちに」
自分で姉の手を頬へ運んだ。
息が入った。さっきまで舌の上にあった湯の味がして、喉が動いた。
姉は私の肩を一度押したが、離れないと分かると、押す手を背へ回した。
「……朝から大騒ぎをするな。私が悪いことをしたようではないか」
声が低くなった。
けれど私が顔を上げると、姉は口元をわずかに緩めた。その顔が見たくて、私はもう一度すり寄った。姉の指が、今度は頼む前に髪を撫でた。
「本は、明日にする」
「一緒に」
「それまで取るか」
叱る声のまま、姉は私を横へ倒した。
頭の下へ腕が入った。私は自分の枕を押しのけた。
目を閉じるより先に、眠ってしまった。
*
起きた時、姉は本を読んでいた。
私の髪が袖の下へ入り込んでいる。起き上がろうとすると、姉が顔をしかめた。
「待て。腕を返せ。私にも二本しかない」
痺れた腕を持ち上げ、私の肩へ置く。私は申し訳ないと思いながら、肩に載ったその重みを守るように座った。
前の人生なら、女の人の腕を枕にして寝たと知れば、まず離れただろう。今も、そういう自分が残っている。けれど姉にとっては、幼い時から髪へ櫛を通し、熱を測り、布を掛けてきた実の妹だった。
「襟が曲がっておる。こっちを向け」
私は襟を直すための手を止めた。
自分でできる。それを言うと、姉の手は戻る。
結局、顎を上げた。
「よろしい。人に戻ったな」
「最初から人です」
「では、その荷の山は何だ。行商人か」
姉は本の挿絵を見せた。大きな袋を背負った旅人が、細い脚で山を登っている。
私が笑うと、姉は急に紙を要求した。
「描いてやろう。今朝のお前だ」
私は紙と筆を取り出した。
顔を描くならもう少し大きい紙がよいかと聞き、姉に欲深いと言われた。襟を直されたばかりなのに、また襟を触った。髪も撫でつけた。
姉は私を見上げ、筆を止めた。
「何で今さら、よい顔をする」
「普通の顔です」
「ほう。では私は毎日、妹の特別ひどい顔を見せられていたわけか」
出来上がった絵には、巨大な荷物が描かれていた。
足が二本。頭らしき丸が、端から少し。
「顔はどこですか」
「そこだ。よく探せ」
「荷物の似顔絵ではありませんか!」
姉は筆を引いて笑った。
ならばこちらも、と私が筆を奪うと、逃げずに座ってくれた。細かい図なら描ける。職人に渡して使える程度には、線にも慣れている。それなのに、姉の顔を描こうとした途端、眉をどこへ置けばよいのか分からなくなった。
顎の線が長すぎた。
描き直せば、下へ一本残る。
「立派な髭だな」
「影です」
「この影は剃るのか、梳かすのか」
「黙っていてください!」
姉は腹を抱えて笑った。私は絵を伏せようとし、先に取られた。返してほしいと言えば、私が描いてあるから私の物だと言う。私の絵の荷物を指せば、それは全部やったと言い張る。
取り合ううち、筆が姉の手に当たった。黒い筋が一本できた。
姉はその手を眺め、絵と比べた。
「こちらの方が私に似ておる」
私は膝から崩れた。
笑いながら抗議したが、声にならない。姉は私の鼻先へ黒い手を突き出し、ほら、姉さまだぞ、と裏声を使った。ひどい。何も似ていない。そう言いたくて顔を上げるたび、そこに手があった。
小屋の外で、鳥が一羽、驚いて飛び立った。
*
午後、木の下で刀を抜いた。
鞘を外して傍らへ置き、大きな柄を両手で握る。姉は竹の棒を持ったまま、笑い残した顔で立っていた。
「その髭の達人へ打ち込んでこい」
「まだ、お忘れにならないのですか」
「一生忘れん」
私は踏み込んだ。
刃を正面から振り下ろすと、姉は横へ退いた。戻す前に棒が肩を打つ。続けて膝の外を打たれ、脚が崩れた。
刀が大きければ届く範囲も広い。その代わり、外せば、姉はもう懐にいる。
二度目は深く踏み込まなかった。棒が刀の腹を押す。融雪の勁を通し、押してくる力を流して刃先を戻す。姉の袖が揺れた。
当たると思った。
棒が私の手首を跳ね上げた。刃は空へ抜け、柄尻が胸を打つ。息を詰めたところへ、額をこつんと叩かれた。
「一度近づいただけで、勝った顔をするな」
「しておりません」
「しておった。私にそっくりだったぞ」
悔しくて、もう一度頼んだ。
今度は姉が押さずに引いた。私は前へ転びかけ、足で地面を掴んで止まった。そこから刀を返すと、姉は棒を引っ込め、初めて一歩下がった。
「今のだ」
その声で、腕の痛みまで嬉しくなった。
四年前にはできなかった。菊を助けられなかった私が、四年分稽古をして、ようやく姉に一歩退いてもらえる。
雪山と崆峒の技は、もう姉の手の中で一つになっていた。前に知っていた物語では、絶世へあと一歩と評された人だ。今の姉も、私を転がしては、自分の最後の一息が気に入らぬと稽古を続けた。
姉は、第三香と戦うために強くなっていた。
私は、その勝負を姉へ渡さずに済む手も、捨てていなかった。
*
今年の春からだったはずだ。
前の世界で遊んだ、あの物語が始まるのは。
夕暮れ、帳面の
その下に、
私が知る道では、彼は姉と出会った。姉にからかわれ、鍛えられ、あの人が勝った後にも手放そうとした命を、引き留めた。
その先の、唐門が滅びるところまでしか、私は知らない。
選ばなかった道は見えず、見たはずのことも欠けている。三歳の時、知っているというだけで父母を救えると思いかけた。その父母は、もう十七年いない。
今なら。
そう書きかけるたび、筆を止めた。
夜、私は姉の寝床へ自分の布を寄せた。
小屋の奥には、もう一本の傘が開いている。姉はその下に荷を置かない。灯を消してから、そちらへ向いた。
菊への、小さな声が聞こえた。
私は息を止めた。
昼にはあんなに笑ったのに、姉にはまだ、私の入れないところがある。私が笑わせた分だけ、そこが狭くなるのではなかった。
「姉さま」
呼んだ。
返事を待つ間に、もう一度呼びそうになった。
「何だ」
「腕を、貸してください」
「昼の続きか。寝すぎだぞ、お前」
「眠るまでで、よいので」
それが守れない約束なのは、私も姉も知っていた。
姉はしばらく来なかった。
布を握る私の指が痛くなる頃、床が軋んだ。頭を持ち上げられ、腕が差し入れられる。
「昼もそうして、返してくれんかった」
私はその腕へ頬を押しつけた。
姉は髪を撫でた。二度目には少し乱暴に撫で、三度目にはゆっくりになった。
奥の傘はそのままだった。
私の枕だけが、今夜も使われずに残った。