雪山の娘   作:雪山派外姓弟子

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第五章 知っている男、知らない未来
夜を仕事にする娘


 夜半に、仕事がなくなった。

 壊れた椅子は四脚とも直り、戸棚は引っ掛からずに閉まる。明日返す道具も揃えた。陳絮さんから預かった帳面には、代金を書き込む空欄しか残っていなかった。

 私は椅子をもう一度裏返した。

 繕った脚を押す。動かない。置く。座る。立つ。裏返す。

 五度目には、どちらを直したのか分からなくなった。

 

 寝床へ入ったのは、それより前だった。

 明日は姉に会える。夕方には森へ行ってよい。だから眠れば朝になり、朝になれば半日働けば済む。その順序は完璧で、私は灯を消し、横になり、暗い天井の下で順序を繰り返した。

 隣の壁から、家主の咳が聞こえた。

 姉の咳ではなかった。

 寝返りを打つ。手を伸ばす。空いた布を押さえる。森の小屋の場所も、姉がそこにいることも、分かっている。三年の喪を終えて、姉は一人で暮らすと決めた。奪魄門の嫡伝である身分まで捨てたのではなく、町へも来るし、私を呼びもする。

 何の事故も起きていない。

 戸が鳴るたび立ち上がる自分へ、私はそれを言い聞かせた。戸は私の部屋の戸でさえなかった。

 

 やがて、枕を抱えて工房へ戻った。

 椅子の脚を、また押した。

 

「それ以上やったら、今度はお前さんの手間賃で買い取りだよ」

 

 戸口に陳絮さんが立っていた。髪を包んだ布の端がほどけている。私の立てた音で起こしてしまったらしい。

 

「少し、確かめておこうと」

「少しを何度やったんだい」

 

 私は答えようとした。

 椅子を裏返した回数を思い出そうとして、四か五か、最後の一回を入れてよいのか分からなくなった。

 陳絮さんは私から椅子を引き離した。何も言わず、作業台へ手を置く。そこへ道具を返せということだった。

 

「朝に来ます」

「朝はもう来る。お前さんは来るな」

「納める物が」

「あるよ。直った物は、私が納める」

 

 叱られた仕事場を出るのは、久しぶりだった。

 私は道具の代わりに枕を抱き、町の背後の山を見た。まだ黒かった。明るくなるまで待てば、もっと疲れた顔で姉に会うだけだ。

 借りた部屋へ戻って荷を取り、大きな野太刀を背負った。

 戸締まりだけは、三度確かめた。

 

     *

 

「夕方、と言ったはずだが」

 

 姉は木の上にいた。

 四月の若葉を透かした朝日が、傘の縁を照らしている。二十三になった姉は、下の私と荷を見比べ、それから声を張った。

 

「お前、今夜はその枕を食え!」

「まだ何も申し上げておりません」

「荷が申し上げておるわ!」

 

 枕の角が、包みから突き出ていた。

 私は隠さなかった。二十になった女が寝具を抱え、夜明けの森へ押しかけている。それを隠すには、包みがもう一枚要る。

 姉は下りてくるなり私の額へ手を当てた。私はその手のある方へ顔を傾けた。押されて戻される。

 

「眠っておらんな」

「椅子は直りました」

「誰が椅子の健康を聞いた」

 

 姉は私の荷を取った。

 私は肩から刀の背負い紐を外した。長い鞘を身体の前へ回し、刃を抜かず、幹へ立てかける。姉の小屋へ持ち込めば、私より刀の方が場所を取る。

 上がると、棚には町へ返す本が包んであった。姉も外出着だった。

 

「本屋の主人に、話を聞きに行く」

「一緒に参ります」

「寝ろ」

「歩けます」

「歩ける死人を町へ連れていって、私が育てたと思われたらどうする」

 

 姉は持参の枕を寝床へ投げ、私を座らせた。

 その隣へ、自分も座る。近くで見れば、襟に縫った白い糸が少しだけ揃っていなかった。姉が自分で直したのだ。そんなところまで見えているうちに、私の肩は下がった。

 差し出された湯を飲めた。

 

「何の話を、お聞きに」

「南の町だ。店先に鳥籠を並べておるそうだ」

「鳥は、売り物ですか」

「店番かもしれん。お前よりは客の話を聞くだろう」

 

 姉は立った。

 

「水を足してくる。寝ておれ」

 

 小屋のすぐ下だった。

 木の葉の隙間から、水甕の縁まで見える。私は椀を持ったまま、姉の足が梯子を下りるのを数えた。最後の一段で足先が見えなくなった。

 椀を置こうとした。

 床に置いたつもりで、まだ持っていた。熱くもない湯が指にこぼれている。下から水の音がする。汲んでいる。それだけだ。私は戸口へ膝を向け、湯を飲み残した椀をまた持ち上げた。

 何をしようとしていた。

 姉さまは、下にいる。

 その二つが、頭の中でつながらなかった。

 

「晴!」

 

 戸の外へ出かけた私の腕を、上がってきた姉がつかんだ。

 片足が床を外れていた。姉は水を脇へ置く間もなく、私を引きずり戻した。

 

「お前は本当に、少しは――」

 

 私はその腰に腕を回した。

 立ったままの姉へ顔を押しつける。服が濡れた。自分の手が濡れていたことを、そこで思い出した。

 

「手を、ください」

「つかんでおるだろう」

「こっちに」

 

 自分で姉の手を頬へ運んだ。

 息が入った。さっきまで舌の上にあった湯の味がして、喉が動いた。

 姉は私の肩を一度押したが、離れないと分かると、押す手を背へ回した。

 

「……朝から大騒ぎをするな。私が悪いことをしたようではないか」

 

 声が低くなった。

 けれど私が顔を上げると、姉は口元をわずかに緩めた。その顔が見たくて、私はもう一度すり寄った。姉の指が、今度は頼む前に髪を撫でた。

 

「本は、明日にする」

「一緒に」

「それまで取るか」

 

 叱る声のまま、姉は私を横へ倒した。

 頭の下へ腕が入った。私は自分の枕を押しのけた。

 目を閉じるより先に、眠ってしまった。

 

     *

 

 起きた時、姉は本を読んでいた。

 私の髪が袖の下へ入り込んでいる。起き上がろうとすると、姉が顔をしかめた。

 

「待て。腕を返せ。私にも二本しかない」

 

 痺れた腕を持ち上げ、私の肩へ置く。私は申し訳ないと思いながら、肩に載ったその重みを守るように座った。

 前の人生なら、女の人の腕を枕にして寝たと知れば、まず離れただろう。今も、そういう自分が残っている。けれど姉にとっては、幼い時から髪へ櫛を通し、熱を測り、布を掛けてきた実の妹だった。

 

「襟が曲がっておる。こっちを向け」

 

 私は襟を直すための手を止めた。

 自分でできる。それを言うと、姉の手は戻る。

 結局、顎を上げた。

 

「よろしい。人に戻ったな」

「最初から人です」

「では、その荷の山は何だ。行商人か」

 

 姉は本の挿絵を見せた。大きな袋を背負った旅人が、細い脚で山を登っている。

 私が笑うと、姉は急に紙を要求した。

 

「描いてやろう。今朝のお前だ」

 

 私は紙と筆を取り出した。

 顔を描くならもう少し大きい紙がよいかと聞き、姉に欲深いと言われた。襟を直されたばかりなのに、また襟を触った。髪も撫でつけた。

 姉は私を見上げ、筆を止めた。

 

「何で今さら、よい顔をする」

「普通の顔です」

「ほう。では私は毎日、妹の特別ひどい顔を見せられていたわけか」

 

 出来上がった絵には、巨大な荷物が描かれていた。

 足が二本。頭らしき丸が、端から少し。

 

「顔はどこですか」

「そこだ。よく探せ」

「荷物の似顔絵ではありませんか!」

 

 姉は筆を引いて笑った。

 ならばこちらも、と私が筆を奪うと、逃げずに座ってくれた。細かい図なら描ける。職人に渡して使える程度には、線にも慣れている。それなのに、姉の顔を描こうとした途端、眉をどこへ置けばよいのか分からなくなった。

 顎の線が長すぎた。

 描き直せば、下へ一本残る。

 

「立派な髭だな」

「影です」

「この影は剃るのか、梳かすのか」

「黙っていてください!」

 

 姉は腹を抱えて笑った。私は絵を伏せようとし、先に取られた。返してほしいと言えば、私が描いてあるから私の物だと言う。私の絵の荷物を指せば、それは全部やったと言い張る。

 取り合ううち、筆が姉の手に当たった。黒い筋が一本できた。

 姉はその手を眺め、絵と比べた。

 

「こちらの方が私に似ておる」

 

 私は膝から崩れた。

 笑いながら抗議したが、声にならない。姉は私の鼻先へ黒い手を突き出し、ほら、姉さまだぞ、と裏声を使った。ひどい。何も似ていない。そう言いたくて顔を上げるたび、そこに手があった。

 小屋の外で、鳥が一羽、驚いて飛び立った。

 

     *

 

 午後、木の下で刀を抜いた。

 鞘を外して傍らへ置き、大きな柄を両手で握る。姉は竹の棒を持ったまま、笑い残した顔で立っていた。

 

「その髭の達人へ打ち込んでこい」

「まだ、お忘れにならないのですか」

「一生忘れん」

 

 私は踏み込んだ。

 刃を正面から振り下ろすと、姉は横へ退いた。戻す前に棒が肩を打つ。続けて膝の外を打たれ、脚が崩れた。

 刀が大きければ届く範囲も広い。その代わり、外せば、姉はもう懐にいる。

 二度目は深く踏み込まなかった。棒が刀の腹を押す。融雪の勁を通し、押してくる力を流して刃先を戻す。姉の袖が揺れた。

 当たると思った。

 棒が私の手首を跳ね上げた。刃は空へ抜け、柄尻が胸を打つ。息を詰めたところへ、額をこつんと叩かれた。

 

「一度近づいただけで、勝った顔をするな」

「しておりません」

「しておった。私にそっくりだったぞ」

 

 悔しくて、もう一度頼んだ。

 今度は姉が押さずに引いた。私は前へ転びかけ、足で地面を掴んで止まった。そこから刀を返すと、姉は棒を引っ込め、初めて一歩下がった。

 

「今のだ」

 

 その声で、腕の痛みまで嬉しくなった。

 四年前にはできなかった。菊を助けられなかった私が、四年分稽古をして、ようやく姉に一歩退いてもらえる。

 雪山と崆峒の技は、もう姉の手の中で一つになっていた。前に知っていた物語では、絶世へあと一歩と評された人だ。今の姉も、私を転がしては、自分の最後の一息が気に入らぬと稽古を続けた。

 姉は、第三香と戦うために強くなっていた。

 私は、その勝負を姉へ渡さずに済む手も、捨てていなかった。

 

     *

 

 今年の春からだったはずだ。

 前の世界で遊んだ、あの物語が始まるのは。

 

 夕暮れ、帳面の唐門(とうもん)の文字を見た。

 その下に、趙活(ちょうかつ)、と書いてある。

 私が知る道では、彼は姉と出会った。姉にからかわれ、鍛えられ、あの人が勝った後にも手放そうとした命を、引き留めた。

 その先の、唐門が滅びるところまでしか、私は知らない。

 選ばなかった道は見えず、見たはずのことも欠けている。三歳の時、知っているというだけで父母を救えると思いかけた。その父母は、もう十七年いない。

 今なら。

 そう書きかけるたび、筆を止めた。

 

 夜、私は姉の寝床へ自分の布を寄せた。

 小屋の奥には、もう一本の傘が開いている。姉はその下に荷を置かない。灯を消してから、そちらへ向いた。

 菊への、小さな声が聞こえた。

 私は息を止めた。

 昼にはあんなに笑ったのに、姉にはまだ、私の入れないところがある。私が笑わせた分だけ、そこが狭くなるのではなかった。

 

「姉さま」

 

 呼んだ。

 返事を待つ間に、もう一度呼びそうになった。

 

「何だ」

「腕を、貸してください」

「昼の続きか。寝すぎだぞ、お前」

「眠るまでで、よいので」

 

 それが守れない約束なのは、私も姉も知っていた。

 姉はしばらく来なかった。

 布を握る私の指が痛くなる頃、床が軋んだ。頭を持ち上げられ、腕が差し入れられる。

 

「昼もそうして、返してくれんかった」

 

 私はその腕へ頬を押しつけた。

 姉は髪を撫でた。二度目には少し乱暴に撫で、三度目にはゆっくりになった。

 奥の傘はそのままだった。

 私の枕だけが、今夜も使われずに残った。

 

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