雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
一年目の十二月、
期限は半年。唐門の名もあった。
私は貼り紙を写し、森へ持っていった。姉は薪を割っていたが、私の顔を見ると斧を下ろした。
「何を壊した」
「何も」
「では、何を買った。先に言っておくが、その小屋は増築せんぞ」
私は紙を渡した。
姉は読み終えると、割った薪を紙の上へ載せた。風で飛ばぬようにしただけなのに、私は慌てて唐門の文字を引っ張り出した。
「布衣が増えるのか」
「あの方が来るとは書いてありません」
「分かっておる。あんなのが大勢来たら、山が一つ減る」
姉は笑い、また斧を取った。
唐門から奪魄へ来る人がいたら、姉も教えるのか。聞けば、まず頼まれたのかと問われた。違うと言ったら話が終わった。
私は、あの名前を言い出せなかった。
*
翌年、山へ来た唐門の留学生を、私は紙屋で見つけた。
男は一束の紙を抱え、店先の札を指していた。
「二十枚と書いてある」
「一束の値だ」
「そこまでは俺にも読めた。一束二十枚と書いてあるんだ」
「古い札だ」
「札だけ古くなるのか。値段は新しいのに」
客が吹き出した。
店主は笑わなかった。男はそこで初めて、商売の邪魔をしている客に自分が加わったと気づいた顔をした。
「足りない四枚をくれればいい」
「二度と来るな」
「二十枚なら、来る回数も減る」
余計だった。
棚から引き出された四枚は、いずれも角が折れていた。男は折れ目を見、店主を見、いかにも言いたいことのある唇を閉じた。銭を置いて外へ出る。
「毎度」
「二度と来るなと言ったばかりだろう!」
私は笑ってしまった。
振り向いた顔を見て、笑いが止まった。
趙活だった。
画面の絵に似ている、と考えた自分に、遅れて驚いた。頬の陰は、私と同じ朝日でできている。紙を押さえる指には粉がつき、首元には薄く汗をかいていた。
私が一歩寄ると、彼は一歩下がった。
「何かついてるか。この顔に、さらに」
「趙活さん、ですね」
「そうだが……俺を探してるのか」
彼は店の札を振り返った。
「紙屋の身内だったら、先にそう言ってくれ」
私は名乗った。
夏侯晴。姉は夏侯蘭。そこまで一息に言いかけ、姉の名を飲み込む。初めて会った人へ、まだ知らない姉を押しつける口になっていた。
その代わり、紙の交換を申し出た。
「私なら、あの店にも顔が利きます」
「やめてくれ。俺が言い負かした後で、綺麗な人が俺の代わりに怒鳴るんだぞ。主人の寿命が縮む」
返事ができなかった。
綺麗な人、と男に言われる側なのだ。工房の女職人と呼ばれるのには慣れたが、その一言には、まだ今の身体だけ先に前へ出たような感じがした。
趙活も紙を揃えながら、妙な速さで続けた。
「紙の寿命も縮む。いや、俺が困るのはそっちだ。……今の順番は忘れてくれ」
「この程度の折れなら、使えます」
「買った本人が諦める前に、諦める理由をくれないか。まだ腹が立ってる」
私は口を閉じた。
彼は紙を抱え直した。私の背へ目が動く。長い鞘を見て、無意識に半歩、道の外へ寄った。
「それ、紙の代金を取り立てに行くための物じゃないよな」
*
「飛天門だぞ、俺は」
道を案内すると言った私へ、趙活は不思議そうに返した。
奪魄ではなかった。
私は彼の服を見、持っている紙を見、そのどこにも間違いを見つけられなかった。
「配属は、変えられませんか」
声に出してから、まずいと思った。
彼の顔から笑いが消えた。
「何で?」
「奪魄にも、優れた方がいらっしゃいます。姉がそこに」
「いや。優れた人がいるのは分かった。俺が変わる理由は?」
私には、いくらでも理由があった。
彼には一つも渡せなかった。
姉はあなたを好きになる。あなたなら、あの人を死者の側から引き戻せるかもしれない。そのために買った紙をしまい、今日の予定を捨てて、一緒に来てほしい。
言えるはずがない。
「一度、お会いになるだけでも」
「夏侯さん、俺はまだ、今いる所で何を習えるか、ろくに分かってないんだ。来たばかりで、あっちがいい、こっちがいいと首を振って回ったら、最後には俺の首だけ余るぞ」
彼は、自分の首を指した。
私は笑わなかった。
「今日でなくても、よいのです」
「なら、今ここで決めなくてもいいだろう」
彼の声音が硬くなった。
道の分かれ目で、私は足を止めた。趙活も止まったが、待っているのは私の承諾ではなかった。私が飛天への道を塞いでいた。
脇へ退くと、彼は一度だけ会釈した。
「顔だけで決められるのには慣れてるけど、行き先まで決められるのには、まだ慣れてない」
言ってしまってから、彼は私を見た。
少し言い過ぎたと思ったのかもしれない。けれど取り消さず、歩き出した。
私は、その後を追った。
「もう、変更の話はいたしません」
「それは、助かる」
「門の前まで、ご一緒しても」
今度は頷いてくれた。
*
飛天へ向かう坂で、趙活は息を切らした弟子たちに追い越された。
山へ走りに行くところだという。一人が趙活を見て、遅いぞ、と笑った。
「さっきの俺は買物だ。競走に勝ったつもりになるな」
「なら、今から来いよ」
「……紙を濡らすと、紙屋へ戻る羽目になる」
彼は言い訳に自分で腹を立てたような顔をし、私へ紙を預けた。
私は受け取った。まさかこちらに預けて走り出すとは思わなかったので、呼び止めるのが遅れた。
弟子たちの背を追って、趙活が坂を上がる。
初めは速かった。
途中から、背が前へ傾いた。石段の上の方で一人を抜き、抜かれ、何か言い返したところで足を滑らせた。
尻から落ちる音がした。
弟子たちは笑いながら走っていく。趙活も立った。追いつけなかったが、少なくとも私のところへ引き返しはしなかった。
私が門前まで歩いていくと、彼は段に座り、肩を大きく上下させていた。
「指導の前に、お疲れになりますよ」
「指導、なあ」
彼は息の合間に笑った。
「期待はしてない、とまで、わざわざ言ってくださった」
「それなら」
奪魄へ、と出かかった。
趙活がこちらを見た。
私は紙を差し出した。彼は受け取って、折れた角を丁寧に広げた。
「だから帰った、じゃ、期待してないと言った人の方が当たりになるだろ」
負けず嫌いな声だった。
彼はまだ覚えていないところを書き出し、その横に、さっき足を取られた段のことまで書いた。
山を走れば、秘笈の分からないところが消えるわけではない。
それでも、今日何も得なかったことにはしたくないのだろう。
私は、木の下で姉が一歩退いてくれた時の、自分の手を思い出していた。
*
「競走なら、アタシも交ぜてくれればよかったのに」
虞小梅は、期待を外された芝居の客のように言った。
門前の段に腰を下ろすと、趙活の顔を遠慮なく覗き込む。彼は筆を持ったまま仰け反った。
「走り終わってから来る奴に、交ぜてくれと言われてもな」
「言うのはただでしょう。転ぶところも見られたし」
「それなら、間に合ってただろ!」
小梅は笑って、私へ手を振った。
「晴姉さんが連れてきたの?」
「お帰りになるところを」
「そう。アタシは虞小梅。きみの噂、よく聞くよ」
彼は急いで筆を置き、礼をした。
虞師姉、と呼んだ途端、小梅が手をひらひら振った。
「硬いなあ。小梅でいいの。アタシは活くんって呼ぶ」
「俺の方まで決まってるのか」
「嫌? じゃあ、不活くんにする? その段から後ろへ落ちれば、名乗る手間もいらないね」
趙活は背後を見た。
石段が続いていた。彼が少し前へ座り直すと、小梅は楽しそうにその場所を詰めた。
「活くんでいい。生きているうちに返事しておく」
「話が早い人、好きよ」
「急がせた人が言うことか」
小梅の指が、膝の紙へ伸びた。
そこには転んだ回数まで残っていた。
「うわあ。これ、遺書?」
「次に転ばないための覚え書きだ。つつくな、まだ乾いてない」
「じゃ、本梅の勝ち方を書いておく? 最初から『負けました』って言えば、転ばずに済むの」
「その手を使ったら、お前に一生言われそうだ」
「一生で足りる?」
彼は初めて、少し笑った。
小梅はその笑いを見逃さず、笑ったんだからもう友達、と決めた。趙活は、笑わせた回数で友達を決めるなら紙屋の主人にも紹介してくれ、と返した。
私は一緒に笑えなかった。
姉のために探した男の隣に、別の女が自分の場所を作っている。
「小梅。この方は、お忙しいのですよ」
「知ってる。だからここへ来たの。帰らせないで済むでしょう」
小梅は私を見上げた。
無邪気な顔だった。昔から、そんな顔だけを信じられる子ではない。
「蘭姉さん、今度会いに行くね」
「姉は」
「忙しい、でしょう? 姉さんに聞くから大丈夫」
先に言われた。
私が黙ると、小梅はまた趙活の方を向いた。
「ねえ、活くん。さっき、本当は痛かった?」
「どれだ」
「尻から落ちた時」
「そこを見てたなら、手ぐらい貸せよ!」
「アハハ。最初からお友達だったら貸したかもね。笑ったらかわいそうだもの」
彼は紙を引き寄せて、小梅から隠した。
彼女は取らなかった。ただ、その脇へ座って、乾くのを待っていた。
「今度は飛天殿へ来て。アタシと走ろうよ」
「転ぶ見物料を取りたいなら、別の客を探してくれ」
「やだなあ。今日は本梅が案内してあげようっていうの。覚え書きより、道を覚える方が先でしょう」
小梅は立ち、彼の顔を覗き込んだ。
趙活も立った。尻を押さえなかったが、一歩目が妙に小さかった。
小梅は見た。そして、今度は笑わなかった。
彼が隣へ来るまで、何でもない顔で待っていた。
*
森へ帰ると、姉は私の顔を見て、また何を壊したかと聞いた。
私は答えず、手を取った。
姉が眉を寄せる。その手を両手で包んでから、ようやく、唐門の方に会ったと言えた。
「お前が待っていた奴か」
「待っていたわけでは」
「それを私にまで言うか。で、どうだった」
紙屋の話をすると、姉は声を立てて笑った。
私が続けられずにいるのに、毎度と二度と来るなを交互に言って、また笑った。
「口のある奴だな。よいではないか」
よい、のだろう。
姉の弟子にはならなかった。小梅とは、私に頼まれなくても知り合った。
それなのに、ここへ連れてこなかったことが嬉しかった。
「姉さま」
「ん?」
「今日は、私がいます」
言ってから、何という話のつながらなさだと思った。
姉も目を丸くし、それから、私の指に挟まれた自分の手を持ち上げた。
「知っておる。お前が二人いたら、もう片方の手もなくなる」
私は笑った。
笑ったので、姉が手を抜こうとした。
すぐ追って、また握った。