雪山の娘   作:雪山派外姓弟子

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火のそばで笑う人

「下の段も開けるのだ」

「動きますよ。さっき確かめました」

「いいから、両方なのだ」

 

 小竹に言われて、私は棚の引き出しを二つ開けた。

 棚が傾いた。

 正面から私が抱え、横から小竹が押し戻した。中へ入れていた重しが転がり、工房の者が一斉にこちらを向く。

 雷謙が、仕事の手を止めた。

 

「納める前でよかったな。納めた後なら、客ごと抱えて一生立ってろ」

 

 笑った弟子の頭へ、雷謙の布が飛んだ。

 

「てめえの納めた椅子も戻ってきてんだよ。笑う分は直してから稼げ!」

 

 笑いは途切れ、工房がまた鳴り出した。

 木を削る音、槌、戸口で値切る客の声。鉄拳門が引き受けた雑多な仕事は、ここで陳絮さんの店の仕事とも混じっていた。私は縁のある工房へ通い、手の空いた者と組んで、他人の注文を物へ変えていた。

 今日は薬種屋の棚だった。

 前の世界で設備を見ていた時も、動けば終わりではなかった。使う者が、こちらの思う順に触ってくれるとは限らない。知っていたはずのことを、ここでは小竹に先に見つけられた。

 

「底へ印があるのだ」

 

 小竹は、古い棚の擦り傷を示した。

 前の持ち主も、同じことを繰り返していたらしい。私は滑らかに動くかばかり見て、その傷を汚れとして拭いていた。

 

「よく、ご覧になっていますね」

「古い物は、使った人がどこで困ったか、少し残してくれるのだ」

 

 得意そうに言ってから、小竹は私の顔を見た。

 褒められるのを待っているようで、待っていると分かられるのは嫌そうでもあった。

 

「助かりました」

「うん。……僕も、最初は倒したのだ」

 

 誰に、いつ、と聞く前に、小竹は古い棚を向き直らせた。

 彼女の身体には、人に見せずに覚えた仕事が多かった。私はそれを、便利な経験という一語でまとめたくなかったが、今は感傷に座り込む場所ではない。客は夕方に棚を引き取りに来る。

 小竹と相談して、注文主を呼ぶことにした。

 

「注文と違うと怒られませんか」

「怒られるのだ」

「それでも」

「倒れて下敷きになった客は、もっと怒るのだ」

 

 もっともだった。

 

 昼前、棚は納まった。

 客はもちろん怒った。持ってきた時に言え、と私たちを叱り、代金を少しでも減らそうとした。雷謙は、持ってきた時に傾いてみせてくれりゃ分かった、椅子と違って棚は座って待たねえ、と言い返した。

 結局、私たちの手間が一つ増え、客の使い方も一つ変わり、値段は最初に決めたままになった。

 雷謙は銭を数え、私たちへ分けた。

 

「次は余計な仕事を増やす前に呼べ」

「呼べば、一緒に見てくださるのですか」

「客から余計に取る」

 

 小竹が私の袖を引いた。

 それ以上聞くな、という顔だった。

 

     *

 

 趙活が来たのは、私たちが納品の控えを書いていた時だった。

 借りた物を返しに来たと言って、戸口から小竹の紙を覗く。

 

「それ、小竹の字か」

 

 小竹が紙を裏返した。

 

「まだ書き終えていないのだ」

「待て待て。あそこ、何が跳ねてる。魚か?」

「字なのだ!」

「いや、分かってる。分かった上で聞いてるんだ。どの字がそんな元気に」

 

 小竹は紙を抱えたまま立ち上がった。

 趙活が笑った。追い払われるほど面白くなる、あまり褒められたものではない顔だった。

 

「見せてみろよ。俺の字よりひどいか、確かめてやる」

「君の字と比べるために書いているのではないのだ! あっちへ行け!」

 

 近くの弟子まで笑った。

 小竹の耳が赤くなった。彼女は紙を丸めかけ、止めた。そこに、ようやく趙活の目が止まった。

 彼の笑いが、小さくなった。

 

「……返す物、ここでいいか」

 

 小竹は答えなかった。

 彼は台へ置き、少し迷ってから、その隣に自分の紙を一枚置いた。紙屋で折られた端が残っている。何に使えとも、許せとも言わなかった。

 帰ろうとした彼へ、小竹が言った。

 

「僕は、読めればいいとは思っていないのだ」

 

 趙活が振り向いた。

 

「分かった」

「分かっていないのだ」

 

 彼は困った顔をした。

 私は仕事の控えを取り上げ、声に出して品名と代金を読んだ。全部読めたが、それを褒めても小竹が喜ばないことだけは分かった。

 彼女は私から紙を取り返し、気に入らない一字を書き直した。

 趙活はその間、戸口に立っていた。

 

     *

 

 明るい仕事の後に残った物は、封をした小さな荷だった。

 火薬を用いる暗器。

 私の刀が届かず、姉の手も待てない時に使う物として、長く捨てずにいた考えが、とうとう持ち運べる重さになった。

 実際に使った跡を見た晩は、眠れなかった。

 土も、草も、私が思っていたようには残らなかった。煙が晴れても、目の前のものへ近づくのが嫌だった。自分だけが、その外に立てる保証などなかった。

 

 小竹は、煤のついた布を別にまとめていた。

 私は片付けを手伝った。何をどう作ったかより、片付ける物が多いことの方が、今は嫌だった。

 

「全部、持って帰るのだ」

「ええ」

「ここに置いたら、誰かが触る」

「分かっています」

「分かっている人は、今のうちからこっちを空けておくのだ」

 

 私は無害な仕事道具を移した。

 自分の持ち物の中に、他の物と一緒に扱えない物が入る。置き場所まで暮らしが狭くなった。

 雷謙は封を一瞥し、私へ顎を向けた。

 

「それをお前が何に使うかまで、俺の仕事にするな。ここを巻き込んだら、次に使う腕は残らねえぞ」

 

 親切な許可ではなかった。

 それでも私は、品を捨てなかった。

 小竹は私の袖についた煤を払い、その手を引っ込めた。

 

「刀も、忘れないでほしいのだ」

 

 背の野太刀を見た。

 重さも届く長さも、稽古で知っている物だった。こちらなら安全だということではない。それでも、何を斬るかを決めて振るう時間がある。

 私は刀を背負い直し、封をした荷を抱えて工房を出た。

 

     *

 

 翌日、姉は私を市へ連れていくと言った。

 仕事着を脱げ、と言われて初めて、何日も同じ服へ手を伸ばしていたことに気づいた。

 

「洗った物です」

「洗ってあれば、襤褸も晴れ着になると思うな」

 

 差し出されたのは、明るい色の衣だった。

 私は自分で着た。帯も結んだ。姉は一目見てその結び目を解き、文句を言う私の顎を指で押した。

 

「下を向くな。髪が挟まる」

 

 女同士、姉妹同士。姉には、それで済む距離だった。

 私は胸元を押さえていた手を下ろせずにいた。前に男として持っていた遠慮は、こんな時だけ遅れてやってくる。そのくせ、姉が結び終えて離れようとすると、自分から肩を寄せていた。

 

「まだ、髪が」

「今度はそっちか。仕事が増える妹だな」

 

 姉は櫛を取った。

 私は目を閉じた。

 

 市では、私が銭を出すより先に、姉が払った。

 足袋を買い、髪紐を買い、私が不要だと言った小さな手鏡まで買った。店の女が笑って、仲のよい姉妹ねえ、と包んでくれる。

 

「姉さま。それは本当に、持っています」

「では二つになった。お前の美しい顔を二人で見られる」

「そのような使い方は」

「嫌なら私を映せ。もっとよい顔だ」

 

 姉は鏡へ自分の顔を映して見せた。

 店の女がとうとう噴き出した。私も笑った。姉は満足して鏡を私へ押しつけ、次の店を指した。

 

「今日は、お前がいらぬと言った順に買ってやる」

「では、何も申しません」

「知恵がついたな」

 

     *

 

 小梅は、芥子餡の饅頭を売る屋台にいた。

 趙活がその前に立ち、まるで仇の首を検分するように饅頭を見ている。

 

「辛くない、と言ったな」

「本梅のお口には」

「最初から、主語をつけろ!」

 

 小梅が笑い、こちらに気づくと両手を振った。

 姉が挨拶する間、趙活は饅頭を置かずに持っていた。捨てれば負けだと思っているらしい。目が少し潤んでいる。

 

「水をお飲みになれば」

「今飲んだら、こいつが勝った顔をする」

「もうしてるよ」

 

 小梅は、にっと笑った。

 姉は趙活の顔と饅頭を見て、これが紙屋の男か、と言った。

 

「俺の紹介は、いつもその話なんですか」

「今日は饅頭へ喧嘩を売った男でもよいぞ」

「饅頭からは買ってません。こいつです」

 

 小梅は胸へ手を当てた。

 

「わたくしめは、ただ、世の中には顔に出ない苦労もあると、活くんにお教えしたく」

「顔へ出てるよ、俺の!」

 

 姉が笑った。

 私は趙活へ水を渡した。彼はとうとう飲んだ。

 小梅が勝ち誇る前に、彼は残った半分を彼女へ差し出した。

 

「辛くないんだろう。食え」

「アタシはもう食べたもの」

「本梅のお口では、辛くないと」

「活くん、意地悪」

「今なら、そう言われる覚悟がある」

 

 小梅は半分を取った。

 笑いながら口へ入れ、噛んだ。

 すぐには変わらなかった。

 二度目に噛んだ時、目が閉じた。

 趙活の顔が明るくなった。

 

「ほう」

 

 小梅は笑ったまま、彼の腕をつかんだ。爪が入ったらしく、彼の方も目を閉じた。

 

「おい。俺に効かせるな!」

「活くんが……おいしいって、言わせたいなら……」

「そこまでして言わなくていい!」

 

 水の器が行き来した。

 小梅は飲み終えると、屋台の主人へ、次に来たら弔いの饅頭になるかもしれないから名前を覚えておいて、と言った。主人は客の悪ふざけだと笑った。

 私には、小梅が一瞬だけ、笑っていなかったように見えた。

 趙活はその顔を覗き込んだ。

 

「怒ったか」

「うん。アタシの負けた顔、見たでしょう」

「俺のも見ただろ」

「なら、あとで二人とも忘れることにしよう」

「忘れられるか、あんな顔」

 

 彼女が腕を締める前に、趙活は逃げた。

 逃げながら笑っていた。

 

     *

 

 姉は小梅と、道の向こうの糸屋へ寄った。

 私には、買った物を受け取ってくれと言い残した。見える距離だった。小梅が姉へ何かを話し、姉が眉を上げ、二人とも店の奥の品を見た。

 店の女が、私へ包みを差し出した。

 私は銭を出した。

 

「お代は、いただいたよ」

「……はい」

 

 銭をしまい、また出した。

 女は、困った顔をした。

 私は袋の中を探った。何が足りないのか分からない。手鏡があり、足袋があり、髪紐がある。銭を数え直した。姉の声が聞こえない。店の柱に隠れただけだと知っている。なのに包みの紐を解いてしまった。

 

「晴姉さん?」

 

 戻ってきた小梅の声へ、返事が遅れた。

 私は彼女の横を抜け、姉の手を取った。自分の帯の脇へ押し当てる。

 

「ここ、ほどけたかもしれません」

「ほどけておらん」

「見てください」

 

 姉の指が帯へ触れた。

 私は息を吐いた。店の女へ向き直り、包みを受け取って、礼を言えた。銭はもう渡さなかった。

 姉が私の手と包みを見た。

 

「……糸は次にするか」

「蘭姉さん、さっきの色」

「覚えておる。次に取っておけと頼む」

 

 小梅は口を閉じた。

 私は、礼を言わなかった。言えば自分が何を取ったか、はっきりする気がした。

 姉は私の帯を軽く引き、自分の方へ寄せた。

 

「これで、ほどけてもすぐ分かる。厄介な妹だ」

 

 そう言う顔が、少し得意そうだった。

 

 市の端で、姉は小さな鉢を買った。

 朝だけ日の差す小屋でも育つと聞いて、自分で選んだ。私は鉢を抱え、姉の手を、空いた腕に回してもらった。

 帰って置く場所を決めるまで、その手を借りていた。

 鉢は、死者の傘の下ではなく、窓際に置かれた。

 

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