雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
小梅は、朝餉を食べ終える前に来た。
小屋の下から姉の名を呼び、返事があると、梯子へ足をかけるより先に顔を上げた。
「蘭姉さん。お別れを言いに来たの。ついでに、何か食べるものある?」
「ついでの方から目を離さんな、お前は」
姉は自分の餅を半分にした。
小梅は上がってくると、その大きい方を取った。いつもの服に、いつもはない旅の袋を背負っていた。袋を下ろさずに食べるので、戸口へ背が引っ掛かる。
「座れ。家を背負って行く気か」
「それもいいなあ。蘭姉さんごと持って行けるし」
「置いていけ」
私は言っていた。
小梅がこちらを見た。姉は餅を飲み込み損ね、拳で胸を叩いた。
「晴。冗談にまで刀を抜くな」
「抜いておりません」
「声の話だ!」
小梅が笑った。
笑いながら袋を床へ下ろす。紐を解く手だけは、速かった。取り出した紙を姉へ見せ、ほら、と印を指した。
「下山の許可。ちゃんとあるよ」
「飛天門のか」
「ええ。掌門様のお許しが、ありがたくも、こんなに赤々と」
姉は紙へ手を伸ばしかけ、小梅の指を見た。
爪の脇にも、同じ赤が残っていた。
「お前、何をした」
「機嫌を取ったの。大選が近いからって、火龍仙君ったら、アタシが逃げないよう見張りを増やすんだもの。だから、お料理を差し上げて」
「それで、喜んで通したと?」
「喜んでたよ。途中までは」
小梅は餅の残りを口へ放り込んだ。
噛んで、飲み込むまで、姉は待った。待っても話を先へ進めないので、その頬を指でつついた。
「小梅」
「幻を見せる毒。お強い仙君様が何を御覧になったかまでは、アタシ、付き合ってない。倒れてもらって、掌門の印章をお借りして、自分でここへ押したの」
彼女は印のある紙をひらひらさせた。
私は思わず戸の外を見た。下の道に人影はなかった。
「その許可証で、門を通ったのですか」
「通ったよ。印を見ろって言ったら、ちゃんと見てくれた。今頃、何を見て通したんだって怒られてるかもね」
「では、ここへ長くいては」
「うん。だから、お別れが先。ご飯は、ついで」
小梅は、空いた手を見せた。
姉は残りの餅まで渡さず、包む布を取った。私はその脇へ椀を置いた。小梅は湯を一息で飲み、熱い、と今さら文句を言った。
「逃げるなら、もっと早く言え。見送りの飯くらい、食える物を作っておいたわ」
「捕まる前に出られるか、アタシにも分からなかったんだもの。それに、あんまり先に言ったら、止めるでしょう」
「行く先も聞かずに、笑って送り出せというのか」
「
その名で、姉の手が止まった。
私は小梅を見た。
小梅も金烏上人も、千灯楼に属している。そのことは、前の人生から覚えていた。崆峒にいるからといって、ここの門のことだけで動く人たちではない。
けれど、知っていた二つの名から、今、姉の小屋で餅を食べている小梅の行き先までは出てこなかった。
「殺して済むなら、苦労しないんだけどね」
小梅は言った。
冗談を足す前の声だった。
「何度やっても、あの人は死なない。こっちは一度しくじるたびに、余計に身動きが取れなくなる。偉くなるのは好きよ。人を使う方へ回れるなら、回りたい。でも、踏みつけられる役まで一緒に貰う気はないの」
姉は、包み終えた餅を彼女の袋へ押し込んだ。
小梅が口を開く前に、紐を引く。
「それは、途中で食え。今、全部食うな」
「分かってるよ」
「それと、寝床を惜しむな。腹を空かせて眠らず歩いて、誰より先に自分を殺す馬鹿がおる。お前まで増えるな」
最後は、私も見られた。
言い返せなかった。
小梅は袋を肩へ戻し、今度は笑わずに、姉へ頭を寄せた。抱きつくほど長くはいなかった。頬を姉の肩へ一度つけると、自分から離れた。
「帰ってきたら、おいしい方のご飯にしてね」
「食える物と言った。うまい物とまでは、まだ約束しておらん」
「そこを何とか。晴姉さん、証人になって」
私は、姉の袖を取っていた。
小梅の目がその手へ落ち、すぐ私の顔へ戻った。
「……お帰りになったら、聞いておきます」
「うん。帰ったらね」
*
小梅は小屋を出ると、下の道を右へ折れた。
町の方ではなく、山を離れる方だった。
少し先で足を止め、こちらへ向き直った。
「活くんから、何か来てる?」
趙活は、もう山を下りていた。
留学生たちが発ってから、工房で彼の顔を見なくなっていた。私が首を振ると、小梅は、そっか、と言った。
「来たら、アタシにも教えて。どこへ寄越せばいいかは、こっちから知らせる」
「その前に、お会いになるかもしれませんよ」
「そうだったら、本人に聞くわよ」
小梅は舌を出した。
姉が、道を見て歩け、と怒鳴った。振り向いたまま下りかけていた足が止まり、小梅は大げさに背筋を伸ばして、山へお辞儀をした。
「お世話になりました! もう呼び戻さないでね!」
姉へだけ言ったのではないと、分かった。
小梅は走り出した。
袋が一度跳ね、彼女は片手で押さえた。そのまま、曲がり角を越えていった。私たちは追わなかった。
姉が小屋へ戻るまで、私は袖を放さなかった。
火龍仙君が倒れたことより、金烏上人から逃げたことより、姉があの子と一緒に行かなかったことを先に喜んでいた。
姉は、私の手をほどこうとはしなかった。
小梅の使った椀を洗う間だけ、袖ではなく、自分の帯をつかませた。
*
数日後、遊びに行こうと言ったのは、姉だった。
私はすぐに、誰を訪ねるのかと聞いた。
「誰も」
「では、何かお探しに」
「遊びに行く。分からんか」
姉は卓へ地誌を広げた。
川沿いに家々が並び、橋の上にも店がある。見開きの端まで、舟と荷物が描き込まれていた。
「母さんが、南へ行きたいと言っておったろう」
私は頷いた。
葉をお金にした店。荷車の音。母は買物をするためだけでなく、知らない店へ入り、知らない人が何を売っているかを見たがっていた。
「連れていけなかったな」
姉は言った。
その後に、だから代わりに、とは続けなかった。頁を閉じ、窓の向こうを指す。
「まず、川下の市へ行く。あそこも、お前と行ったことはなかろう。朝に出れば、日が落ちる前に戻れる」
「南の町では、ないのですね」
「いっぺんに全部歩く気か。お前は遊びまで仕事にするな」
私は、地誌の表紙へ手を置いた。
姉が行くなら、どこでもよかった。
けれど、その返事だけでは足りない顔をされて、もう一度絵を見た。
「川の市を、見たいです。店の前まで舟が来るところを」
「よし。それと、お前の荷を半分にする」
最初の難所は、そこだった。
工房の仕事を納め、丸一日、空けた。
陳絮さんには、道の途中で新しい修理を請け負うなと念を押された。私は費用を書き、姉はその数字に飯代と遊び代を勝手に足した。
「そんなに使いません」
「使わねば、持って帰ればよい。足りずに帰るよりましだ」
「予備は別に」
「これは予備ではない。遊ぶ金だ」
金にも、逃げ道を作らせてもらえなかった。
*
川下の市は、想像していたより狭かった。
道が狭いというより、道へ物が出ていた。籠、籠の上の籠、魚を並べた板、その板を避ける客の肘。背の野太刀をぶつけぬよう身体を横へすると、姉が私の帯をつかんだ。
「横へ逃げるな。そこで干魚になるぞ」
「姉さまの傘が、先に売り物へ」
「見ておる。お前の頭も見ておる。いちいち忙しい」
姉は言いながら、屋台の串を買った。
私が何の肉か尋ねる前に一本を口へ入れ、妙な顔をした。
店主が、川の物だ、と言った。
「川の何ですか」
「今は串の上だよ」
説明になっていなかった。
姉が、食え、と私へ差し出した。私がためらうと、自分だけ妙な物を食ったと思わせるなと言う。仕方なく食べたら、塩と香草の味の奥に、知らない歯触りがした。
「どうだ」
「もう一本、要らないとは思いません」
「面倒な褒め方だな。おい、もう二本」
私は止め損ねた。
隣の客が笑い、姉へ別の店を教えた。姉が聞く。私は財布を持っているのに、一つも交渉へ入れない。買物の速さに追いつくだけで精いっぱいだった。
母がいたら、きっと店主と同じ声で笑った。
その想像は、痛かったが、嬉しくもあった。
橋の手前で、手拭いを見つけた。
姉は水鳥の柄を選んだ。私は同じ物を選ぼうとし、母なら違う柄も買っただろうと思って、橋の柄にした。
二枚を並べて広げると、端の水がつながった。
姉が驚いて、店の者へ見せた。偶然だと言われても、買うまで何度もつなぎ直していた。
「姉さま。買ってからでも、できます」
「お前が違う柄へ替えたら、できん」
「替えません」
「なら、二枚とも包め」
姉は店の者へ言った。
包む手元を、まだ見ていた。
私に見せるためにしていない顔を、すぐ隣で見られた。
*
帰り道で、雨に降られた。
町からの道を古い水場で折れ、森へ入った。途中で山の上から来る細い背道が合わさるが、そこを過ぎれば、もう小屋は近い。姉が本を返しに行く時も、私が仕事帰りに通う時も、この道だった。
姉の傘へ入るために、私は背の刀を片側へ寄せた。姉も柄を傾けた。二人分の荷まで収めると肩が離れなくなり、私は都合がよかった。
「濡れておるではないか。もっと寄れ」
姉は私の腰へ腕を回した。
前の私なら、傘を自分が持つと言って、その腕から一度離れたはずだった。今は女の姉妹として当然のように引き寄せられ、その近さを失う方が嫌だった。
私は傘の柄へ手を添えただけで、腕の中にいた。
「これで、よいです」
「初めから、そうしておれ」
小屋へ戻る頃には、雨はやんでいた。
買った手拭いを二枚、窓際へ広げた。水鳥と橋の端をつなぐと、姉がまた笑った。
その横に、町で買った鉢があった。
夕飯の支度を始めるまで、私たちは荷を全部ほどかず、窓の前に座っていた。
*
二年目の十月下旬、趙活は唐門へ帰った。
唐門から届いた彼の短い便りで、その日を知った。江陵で小梅と会い、
あの人を姉へ向けようとした私へ、道の選び方を尋ねてくることはなかった。
小梅からは、別に手紙が来た。
市で見た物の話が続いた後、急に字が大きくなっていた。
活くんが、アタシに会わずに先に帰ったの。くれぐれも案じるな、だって。何よ、それ。顔を見て言ってみなさいよ。
端には、小さな字で書き足してあった。
そっちに便りが来たら、本梅にも見せて。勝手に捨てたら承知しないからね。
私は二通を並べた。
小梅のいない間に、あの子の話し方を忘れたことはなかった。けれど、紙の上でまで誰かをつかまえようとする声は、山を下りる朝には聞かなかったものだった。