雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
もう一度、冬が過ぎた。
私が二十二になった春の終わり、崆峒の山中で、同じ山の門人同士が斬り合いを始めた。
外での争いに敗れて戻った金烏上人を、護法たちが連名で告発した。ところが、捕縛の手が届く前に、彼は味方を集めて反乱を起こした。
工房へ駆け込んだ門人は、挿香台、磨針観、野狐橋と、襲われた場所を続けて言った。山頂からの急襲で、最初に奪魄門が打たれたという。四門は互いの領分を侵さない。その取り決めが破られたのだと、仕事の手を止めた者たちが顔を見合わせた。
山へ荷を上げる道は、二つに分かれた。
道そのものは、以前と同じだった。
どちらの門の人間かと聞かれ、答えによって通れる方が変わるようになったのだ。荷車は間違えると引き返せず、途中で人だけが下りてきた。
金烏上人の名を、誰もが小声で言った。
代わりに大声で言うのは、運び賃、腐る野菜、届かない薬のことだった。
「上へは行くな」
朝、姉が言った。
私は森の小屋で、仕事着の襟を合わせてもらっていた。
「今日は、町外れの問屋です」
「おかしな荷を頼まれたら、先に言え。どこぞの馬鹿の使いであるから通せ、などと威張る奴も増えた。馬鹿に使われると、使いまで偉くなった気になるらしい」
姉の指が、襟の重なりを直した。
余り布で新しく縫ってくれた物だった。前の私なら、擦り切れるまで気にしなかっただろう。それを人に直してもらうくらいなら、自分で買って済ませたと思う。
今は、縫い目を指で隠すのも惜しかった。
「下を向くな。曲がる」
「はい」
「夕方、もう一度合わせる。今日は早く来なくてよい」
私は頷いた。
姉は、その返事を信じていない顔をした。
*
荷問屋へ行く手前の坂で、荷車が止められていた。
車の前に魏菊が立っている。
玄功門の掌門である彼女の周りには門人がいたが、騒いでいるのは反対側だった。道を塞ぐ男が、今日から荷改めをすると言い張っていた。
「改めると仰るなら、荷主の前で開けてください」
魏菊は、車の包みを示した。
「薬材です。どなたが、いつ、どれだけ取り出したか。書き留める者をこちらから付けます」
「疑うのか」
「数えるのです。疑われぬためにも、よいことではありませんか」
男は荷主を睨んだ。
荷主は、睨まれても袋の重さは戻らない、と小さく言った。聞こえてしまい、男が一歩進んだ。
魏菊側の若い門人も前へ出た。
「掌門、こんな連中の許しなど」
「車を押さえていてください」
「しかし」
「あなたが離すと、後ろの人が潰れます」
門人は振り向いた。
坂だった。車を支える人足の一人が、歯を食いしばっていた。彼は罵りながら車へ戻った。魏菊は、その悪態を叱るより先に、荷主から帳面を借りた。
「そちらのお名前を」
「お前に名乗る必要はない」
「それでは、名乗らなかった方、と記します。後で違う方の責任になってはお気の毒ですから」
筆を渡され、私は気づけば帳面を持たされていた。
魏菊が私を知っていたからではない。すぐ横に、手の空いた人間がいたからだった。
男は私を睨み、背の刀を見て、また魏菊を睨んだ。
「荷は通す。余計なことを書き残すな」
「通してくださったことを記しておきます」
魏菊は、わずかに会釈した。
車が動き出す。人足たちは喜ぶ余裕もなく、車輪を前へ押した。
私が帳面を返すと、魏菊は礼を言い、その横へ、別の荷主が持ってきた紙を重ねた。
その人の荷は通らなかった。
上へ行った身内を返してほしいという訴えにも、男は、ここでは分からないと答えた。
先ほどの門人が、低い声で言った。
「あんな奴、一発殴れば」
「一人減って、別の一人が立つだけなら、今待っている方々は帰れません」
「それなら、このままですか」
魏菊は紙を見た。
すぐに、正しい答えは出てこなかった。
「下の宿へ、知らせを集めてください。同じ人を捜して、別々の道を往復させたくありません」
門人は不満な顔のまま頷いた。
魏菊も、満足した顔はしなかった。
私はそこを離れた。手に残った墨が、自分の仕事でついた墨より乾いて見えた。
*
問屋の女は、車輪の話を後にした。
「お姉さんへ、頼みたいことがあるんだよ」
庭の隅へ呼ばれ、そう聞かされた。
私は道具袋を下ろしかけた手を止めた。
「車のことなら、私が」
「車はここにある。帰ってこないのは、人だよ」
女は離れを指した。
軒に、旅の草鞋が何足も干してあった。
「荷を納めた御者が、何日も戻らない。うちへ泊まってる連中が迎えに行って、追い返された。あたしが聞いても、上のことは分からんと言うばかりさ」
「姉に、何を」
「山の門の人間へ、話を通してもらえないかね。まず、あそこにいる人の話を聞いてやっておくれ」
私は離れを見た。
姉なら、聞く。
それは分かっていた。
*
戸を開けた男は、私の背の刀を先に見た。
「車を見に来た人か。えらく大きな道具を使うんだな」
「これは、仕事の物ではありません」
「そうだろうとも。うちの車を半分にされたら、運び賃も半分になる」
私は笑いかけた。
その笑い方を、どこかで見たことがあった。
「夏侯蘭の妹です。晴と申します」
男の顔から、仕事用の笑いが消えた。
私を見た。
目の周りの皺が深くなり、口が何度も動いた。
「……小晴か」
声で分かった。
「
返事の代わりに、両肩をつかまれた。
昔は、大人の手がそんなところにあるのも当たり前だった。今の私と廖平さんの顔は、少しかがめば合う高さにあった。
彼は私を離し、もう一度つかんだ。
「大きくなったな」
言って、急に笑った。
「いや、大きくなるよな。俺がこれだ。お前だけあのままでも困る」
「姉も、生きています」
「梅が。そうか、蘭っていうのは、あの……」
最後まで続かなかった。
私は頷いた。
廖平さんは戸を大きく開け、誰かへ茶を頼み、頼んだ途端に座らせなければと椅子を探した。私は、その慌ただしさを見ていた。
懐かしかった。
父母のことを話す前に、懐かしいと思えた。
庭に旗があった。
竿に掛け、風へ当てている。雪山の印があり、その周りを別の布で何度も継いでいた。
私は立った。
廖平さんが、何も聞かず竿を下ろした。
「母の」
「ああ。あの時の布だ」
指で触れた。
色は薄くなり、縁が柔らかく擦れていた。私は長い間、母の物を、もう使われない物としてばかり思い出していた。ここにある布は、何度も雨に濡れ、乾かされ、次の土地へ運ばれていた。
「穴、また増えましたね」
「増えるよ。お前さんの母さん、俺の繕いを見たら怒るだろうな」
「笑うと思います」
「余計にこたえる」
私は笑った。
笑うと、喉の奥が痛くなった。
廖平さんは布を畳まず、私が指を離すまで、竿を持っていた。
*
茶は渋かった。
ずっと火のそばへ置いてあったらしい。淹れ直すと言われたが、私はそのまま飲んだ。
廖平さんは、麓で荷運びと修理を続けていた。昔一緒に逃げた者も、後から加わった者もいる。旗を見つければ、別の町でも声を掛けてもらえる。
「雪山派はもうないからって、こっちまで仕事をやめるわけにゃいかん」
彼は、道具袋の傷んだ縁を撫でた。
あの頃から働いていた手だった。
私の手も見て、ちゃんと稼いでいるな、と言ってくれた。武功のことより先に、それが来た。
私は、嬉しかった。
「姉も、お会いしたら喜びます」
そこまでは、本当だった。
茶を飲み終え、庭の車も一緒に見た。私が傷んだところを指すと、廖平さんは、そこは今朝見たと言って、荷の下に隠れていた別の箇所を示した。私はしゃがみ直した。明日もう少し道具を持ってくると約束し、二人で手の土を払って部屋へ戻った。
廖平さんは卓の下から書状を出した。
帰ってこない者の名、荷の数、最後に会えた場所。夏侯蘭へ、と表にあった。
「ここの女将が、お姉さんなら門の人間に会えるかもしれんと言ってな。まさか、梅のことだとは思わなかった」
私は紙を受け取った。
「仲間は、ここにいる方々だけですか」
「上に四人。二人は昔からの仲間だ。あとの二人は、この春雇った。若い方は、今日帰れると思って、宿代も余分に持ってねえ」
四人だった。
姉一人ではなかった。
数が増えれば、姉を行かせる理由が増える。それを、嫌だと思った。
「今の蘭なら、門の人間へ話を通せるか」
「通せます」
「頼みたい。俺が行けば、また同じ所へ戻される」
私は書状を袋へしまった。
廖平さんが、肩の力を少し抜いた。その変化を見て、紙を取り出すなら今だと思った。
出さなかった。
「いつ、会える」
「今夜、会います」
「俺も行こうか」
「先に私から話した方が、よいです」
彼は頷きかけ、私を見た。
「小晴。荷は少し待てる。人は、どうしてるか分からん」
私は頷いた。
分からないのは、向こうにいる人たちだった。
姉がどこにいるかは、分かっていた。
*
森へ着くと、姉は小屋の下へ下りていた。
私の襟を合わせる針と糸を持っている。棚の鉢から摘んだ枯れ葉が、一枚、袖へくっついていた。
私はその葉を取った。
「随分、遅かったな」
「問屋で、お話を伺っていました」
「何の」
「上へ行った荷が、戻らないと」
姉は私の襟を持ったまま顔を上げた。
「人は」
その問いが来ることを、知っていた。
「明日、もう一度確かめます」
「それなら私も」
「姉さまは、来なくてよいです」
強く言った。
針が止まった。
「誰が決めた」
姉の声から、さっきまでの調子が消えた。
私は袋を持ち直した。書状の角が、布越しに手へ触れた。
「車の修理を頼まれたのは、私です。あちらにも、急に皆で行っては」
「私はまだ、どこへ行くとも言っておらん」
そうだった。
私は口を閉じた。
姉は私の襟を離した。糸の端を切らず、針を布へ戻した。
「問屋の名を言え」
名は言った。
廖平さんのことも、母の旗のことも、上で帰りを待っている四人のことも言わなかった。どれか一つでも出せば、姉は自分で次を選んでしまう。
夕飯で、私はたくさん話した。
棚の引き出しを見て小竹が怒った話。屋台の主人が、芥子餡をもう売らないとぼやいた話。姉が小さく笑うと、その話をもう少し長くした。
姉の椀が空になった。
姉が湯を取るために立った。
私はその手首をつかんだ。
「……晴」
自分でも、驚くほど強く握っていた。
姉は戸の方へ行くところでさえなかった。湯は、すぐ後ろにある。
私の指を見て、姉は椀を置いた。
「何を隠しておる」
私は手を緩めた。
離すことはできなかった。
「今夜は、いてください」
姉は答えなかった。
それでも座り直した。手首を握らせたまま、空いた手で私の指を一本ずつ確かめた。赤くなった跡を自分で撫で、その後で私の手を包んだ。
私はようやく、残っていた飯を飲み込めた。
姉は、その口元を見ていた。
*
姉が奥の傘へ向いている間に、私は書状を道具箱へ移した。
明日、自分で確かめる。
戻ってくる人が増えれば、姉は行かなくて済む。増えなかったら、別の手を考える。その間に四人が何をされているかは、分からないままでよかった。
そういう順番にした。
母の布を見つけた、と言えば、姉は今夜きっと笑った。
廖平さんが生きていた、と言えば、あの人の名を呼んだ。
私はその喜びも、一緒にしまった。
「何の音だ」
背後から、姉が聞いた。
「道具を、揃えています」
蓋を閉めた。
明日の朝、最初に開けるのは私だ。
そうなるように、寝床を箱の前へ寄せた。