雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
姉は私を、自分で運べると思っていた。
抱いて歩けば三歩でへたり込むので、正しくは、自分で運ぶ方法を知っていると思っていた。
「晴、乗って。お船が出るよ」
敷物へ座らされ、端を持った姉が走り出す。
これは実によく滑った。私の足では出せない速さで床の木目が流れ、風が頬へ当たる。船長が進行方向を見ず、私の喜ぶ顔ばかり見ていることだけが問題だった。
「姉さま、前、まえ――」
柱が来た。
船は止まり、乗客は止まらず、頭だけが先に到着した。
母が来た時、姉は柱を蹴っていた。
「こんなとこにあるから!」
「家を支えている柱に、どけと言わないの。梅、そこを離れて。晴の頭を見せなさい」
母に引き離されると、私はなおさら泣いた。
頭は痛かった。間違いなく痛かったのだが、姉が叱られて向こうへやられたほうも気に入らなかった。母の袖越しに手を伸ばすと、姉がすぐ戻ってくる。
「もう走らない。押していくから」
運航を続けるつもりらしい。
母は私たちをひとまとめに抱えた。姉が腕の中で暴れ、私の頬へ髪が当たった。涙と鼻水でひどい顔だったのに、私はつい笑った。
前の人生の同僚には絶対に見せられない。
そう思ってから、もう見られることはないのだと気づいた。姉の袖を握る手が緩みかける。
「いたかった? まだ?」
姉が額をのぞき込んだ。
私は、その小さな肩へ顔を押しつけた。
*
雪解けが近づくと、母は庭の石段で内功を使った。
教わる場面ではなく、凍りついた洗濯桶をどかすためである。
門弟が二人で持ち上げても動かなかった桶に掌を当て、息を一つ吐く。底で、ぱき、と音がした。大きな桶が、母の片手にすっと持ち上がった。
貼りついていた氷が、丸い皿の形で石段へ残った。
「すごい!」
姉が拍手した。私もした。
母はたいへんいい顔をして、桶を横へ置いた。
「分かったら、凍る前に水を捨てるのを手伝ってちょうだい」
門弟二人が謝った。私たちではなく、そちらへの出し物だったらしい。
姉は氷の皿を持ち上げようとした。二枚に割れた。
「母さんのより、きれい」
片方を私に渡してくれる。私は持った途端、冷たさで取り落とした。
姉は笑い、自分も同じことをした。
氷はよく割れた。私たちは、すぐ母の邪魔になった。
稽古場の父も、似たことをしていた。
大柄な門弟が掌へ力を集めると、袖が風を孕んだように膨らむ。父の胸へ踏み込んだその掌を、父は自分の掌で受けた。
ぶつかる直前まであった勢いが、急に抜けた。
門弟は前へ泳ぎ、慌てて足を足し、父の脇を通り過ぎてしまった。
「お帰りはあちらだ」
父が門を指すと、見ていた人々がどっと笑った。
「師父! 今、わざと逃がしたでしょう!」
「投げられたいなら、そう言え」
「そういう話じゃなくてですね!」
父は笑いながら、男の肩を押した。
今度は同じ掌を、ゆっくり打たせる。どこで息が乱れたのか、足を踏ん張るより先に腕へ力を込めたのか。父の声が低くなり、男もふざけるのをやめた。
相手の集めた
もっとも、父が何でも平気なのではなかった。次の門弟が木剣を突き出すと、父は身をひねって避けた。
姉が抗議した。
「さっきみたいに、やればいいのに!」
「刃は消えん。梅、枕を殴るのと針を殴るのは同じか」
姉は少し考え、首を振った。
「針、折れちゃう」
「お前の手は、丈夫だな」
母が隣で噴き出した。
私は布団から顔を出した。朝の船便は禁止になったが、父が抱いて運ぶ便は残っていた。今日は着替える前に出港したので、私は布団付きの見物人だった。
姉はその日、初めて父を押しのけた。
もちろん父が合わせてくれたのだが、そう教えてやるほど私は無粋ではない。
姉の足が踏み直され、掌が父の胸へ当たった。
父が一歩下がる。
「晴! 見た? 今の見た!」
私は布団を蹴って立ち上がった。
姉は父にもう一度と言い、父は調子に乗るなと言いながらもう一度構えた。今度は姉の肘を軽く押して、ころんと尻餅をつかせる。
姉は地面を叩いた。
「さっきと違う!」
「敵がずっと同じことをしてくれるなら、父さんは昼寝している」
「じゃあ、今から寝て!」
父は腹を抱えた。姉は本気で怒っていた。
けれど次の朝も、一番先に稽古場へ出たのは姉だった。
*
私は三艘目の船を、いささか雑に折った。
姉と二人で遊ぶつもりだった。白と青を並べて見せたら、姉は「阿秀も呼んでくる」と飛び出していった。私は置かれたままの紙へ、しばらく指を押しつけていた。
母が、黄色い紙を一枚寄越した。
「それは帳面に使うから、ここだけ切ってね」
無言で機嫌の直し方を教えられたようで、少し腹が立った。
ただし、三人で遊び始めると面白かった。
水路の水は、私のくるぶしにも届かない。庭へ引く細い流れを三艘が走る。
青は速い。姉が選んだ。
白は、なぜか横を向く。私の船だった。
黄色には阿秀が花を積んだ。船より花のほうが大きかった。
「沈むよ、それ」
「沈まないよ。お花、軽いもん」
姉の忠告を、阿秀はまるで聞かない。黄色い船は最初の石に衝突し、荷を落としてから急に速くなった。
阿秀が叫び、姉が笑い、私は花を拾う役になった。
春の水は指が痛くなるほど冷たかった。花を戻してやると、阿秀は今度は葉を帆にした。
荷主の反省はない。
私は船の底を指で押し直した。片側だけ折りが深いらしい。前の仕事なら道具を持ち替えてやり直すところだが、今は濡れた紙と短い指しかない。
直すより早く、姉の船が着いた。
「また勝った! 晴、そっちで受けてて!」
姉は青い船を持ち、上流へ走った。
私は一人で下流に残った。姉がしゃがむ。垣根の陰へ、頭が隠れた。
遊んでいるだけだ。
すぐそこにいる。
そう分かっていて、私は船を置いた。
「姉さま」
水音がした。青い船だけが来た。
私は拾わず、石段を上がろうとした。いつもは上れる段なのに、靴先が引っ掛かる。もう一度足を上げると膝をぶつけ、息が変に詰まった。
「姉さま!」
返事より先に、水路を越えようとした。
後ろから阿秀が服をつかんだ。私はその手を振り払った。自分が何をしているのか、その時には考えもしなかった。
「晴? 取ってくれなかったの?」
垣根の向こうから姉が現れた。
私は駆け寄って、袖を両手でつかんだ。口を開けると、息ばかりが出た。
姉は困ったように笑った。
「ここにいたでしょう。船、どこまで行っちゃった?」
見に行こうとするので、腕にしがみついた。
姉が私の手を握った。私は袖を離し、その掌へ指を押し込んだ。
それで、ようやく喉が動いた。
「あちら、です。石の、ところ」
さっきまで言えなかったことが、普通の声になった。
阿秀が後ろから花を差し出した。茎が折れていた。
「晴に、踏まれちゃった」
私は花を見た。姉が私を見た。
謝る代わりに、私は自分の白い船を渡した。阿秀は受け取ったが、嬉しそうではなかった。
姉はまだ私と手をつないでいる。私はそれを握ったまま、青い船を探すほうへ体を向けた。
「晴」
姉の声が尖った。
私は、ようやく阿秀へ向き直った。
「……ごめんなさい」
「踏まないでね。次は」
阿秀は白い船にも花を載せた。
横向きに進むその船を見て、姉がまた笑った。私は一緒に笑ったが、つないだ手をほどこうとされるたびに、指へ力を入れた。
競走は長く続かなかった。
姉はとうとう地面へ座り、私を膝の間へ置いて、足元の水へ船を浮かべ始めた。
「ほら、これなら流れないよ。晴が追いかけなくていいでしょう」
私の腕の脇から、姉の手が出る。
それが嬉しかった。二人で船を押すと、青い舳先が石へ当たって戻ってきた。
何度やっても同じところへ戻るので、私たちはその石を港にした。
*
その晩、私は寝床に入ってからも、姉の袖を放さなかった。
姉は引っ張った。私も引っ張った。二人で布団を取り合っているように見えたらしく、母が来て足元を直した。
「布団は二枚あるでしょう。ほら、晴のはこちら」
違うのだが、何が違うのかを母に言うのは嫌だった。
姉が寝返りを打ち、私の手から袖が抜けた。
「姉さま」
「いるよ」
「明日の朝、呼んで」
「呼んでるよ。晴が起きないんだよ」
私は姉の枕を二度叩いた。
姉が振り返る。
「これをしてください。私が一つ返すまで」
自分の枕を一度叩いてみせると、姉は面白がった。すぐ二度返してきたので、私は一度返す。もう一度来た。こちらも返す。
母に「枕を傷めるな」と言われるまで続いた。
姉は笑いながら布団へ潜った。
「阿秀にも教えよう。向こうにいても分かるから」
「だめです」
返事が思ったより強くなった。
布団の中から姉がのぞいた。私はその縁を押さえたまま、理由を探した。
「これは、私を起こすので」
「阿秀だって、寝るもん」
「ここでは、寝ません」
姉は鼻に皺を寄せた。それでも、阿秀へ教えるとはもう言わなかった。
私は枕へ戻った。
暗くなってから、二度、隣で音がした。一度返すと、布団の端から手が出てくる。
私はその手を取った。
姉の指を包んで横になると、昼間ぶつけた膝が急に痛み始めた。そういえば、擦りむいていた。
「姉さま、膝、見て」
「ええ? さっき母さんがいたのに」
姉は文句を言いながら起き上がった。暗くて見えないと言い、結局、母を呼ぶことになった。
私の手を握ったままだったから、姉も布団の外へは出られなかった。