雪山の娘   作:雪山派外姓弟子

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第六章 雷の夜
待たせた人々


 荷車は、もう空になっていた。

 昨日まで麻袋の山だった荷台に、問屋の女が古い敷物を広げていた。運び賃を取れない荷のために、商いを一便つぶしたのだ。廖平は車の下へ頭を入れ、若い衆が差し出す木片を、違う、それでもない、と片端から突き返していた。

 

「その横のやつだ。そう、それを先に出せと言ったろう」

「先に出したよ!」

「だったら二度目を先に出せ」

「理屈がひどい!」

 

 私は笑って、二人に挨拶した。

 廖平は頭を出した。その顔に笑いが残っているうちに、私は道具袋を下ろした。

 

「昨日の箇所でしたら、私も――」

「直した。蘭の返事はどうした」

 

 袋の底が地面へ当たった。

 私は、重さを確かめるように、持ち手を握り直した。

 

「姉へ、もう少し詳しく説明できるように」

「何を言われた」

「まだ、確かでないことが多くて」

「晴」

 

 廖平は車の下から這い出した。膝に土がついていた。若い衆が布を渡しかけたが、その手を見ずに立ち上がる。

 

「確かなことを一つ聞いている。渡したか」

 

 私は頷かなかった。

 荷台の敷物を伸ばす音が止まった。

 

 今朝、姉は私の背の野太刀を見て、どこまで行くつもりだ、と聞いた。

 町までです、と答えた。嘘ではなかった。まず町へ行くのだから。

 姉は戸口で私の髪を結び直した。結び目が低いと鞘に擦れる、と言って、私の首筋へ指を入れた。私は前を向いていればよかった。ところが、その指が離れると身体ごと振り返り、姉の袖をつかんでしまった。

 忘れ物か、と聞かれた。

 何も忘れていなかった。書状も、刀も、火薬を使う暗器も、姉へ言わずに持っていた。出かけるための物は全部揃っていて、それでも戸を越えられなかった。

 姉は私の手を見て、仕方のない顔になった。

 そんな大刀を背負っておきながら、見送りまでせがむか。

 せがんだ。少しだけ、と言い、結局、道が折れるところまで来てもらった。見送る姉の姿が木に隠れるたび立ち止まり、もう帰れと追い払われるまで振り向いた。

 その手に、書状を渡すことだけはしなかった。

 

「渡して、おりません」

 

 廖平の頬が動いた。

 

「俺の字が汚くて読めなかったか」

「いいえ」

「お前に持たせたのがいけなかったんだな」

「私が先に、できることを――」

「お前が一人増えるのは助かる。蘭が一人減るのは困る。二人とも別の人間だろうが!」

 

 庭の向こうで馬が鼻を鳴らした。

 怒鳴られるとは思っていなかった。そんな自分に、私は一瞬遅れて腹が立った。

 

「姉が上へ来れば、争いへ巻き込まれます」

「来るか来ないかを決めてもらうために書いた!」

「来ます。姉は必ず来ます。あなたが頼めば、姉は――」

「だから、俺たちには待っていろと?」

 

 廖平は空の荷台を指した。

 

「昨日、こいつの兄貴の女房が来た。まだ戻らんのかと聞いた。俺は何と言えばいい。お前の姉さんが心配だから、知らせるのをやめましたと言うのか。言えるか、それをあの人に!」

 

 若い衆が顔をそらした。

 私は初めて彼を見た。さっき笑っていた口が、固く閉じていた。

 私なら、待たせられない。

 姉が捕らえられたと聞けば、知らない人の家族を先へ回してやるつもりなどなかった。それなのに、ここで待つ男には事情を呑めと言おうとしていた。

 

「返しなさい」

 

 廖平が手を出した。

 私は道具袋を開いた。姉の手で畳まれた手拭いの下から、書状を出した。紙の角が湿っていた。握っていた指のせいだった。

 

「破ってはいないのか」

「していません」

「そうか」

 

 礼も、許す言葉もなかった。廖平は宛名を確かめ、懐へ入れた。

 私はその手をつかもうとした。止める気だった。ここから姉のところまでの道を、私以外の誰かが行くのを止めたかった。

 廖平は逃げずに私を見た。

 私は腕を下ろした。下ろすだけで、肩まで疲れた。

 

 そのとき、裏口から趙活が入ってきた。

 膝が泥にまみれ、片袖に枯れ葉がついていた。荷車を見て、こちらの顔を順に見て、歓迎会ではないな、と言った。誰も笑わなかったので、彼もそれ以上は言わなかった。

 

「負傷者を運び込めるところを探しています。魏掌門のところで、ここならと聞きました」

「車を出す。寝かせる場所もある。誰だ」

「小梅と小竹。それに、獄にいる人たちです」

 

 私は趙活へ向き直った。

 名前を、聞き違えたかった。

 

「二人ともですか」

「二人ともだ。鎮魂獄(ちんこんごく)にいる」

「小竹は、あそこへ何をしに」

「小梅を出しにいったんだよ!」

 

 趙活の声が跳ねた。

 彼は口を閉じ、袖についた葉を引きちぎった。葉が半分、布へ残った。

 

「……悪い。俺に怒鳴られても困るよな。山へ戻ってきた小梅が金烏上人を殺しにいって、奪魄の掌門に止められた。小竹は自分の掘っていた道を獄へ曲げて、助けに入った。二人とも、まだ帰ってない。十日あまりになるらしい」

 

 小梅が戻ったことさえ、私は知らなかった。

 あの子がいない時間を、姉が安全な時間に数えていた。今日も、どこで笑っているか知らなかった。

 

「道は」

「ある。途中まで見てきた」

 

 趙活は泥のついた膝を叩いた。

 

「家の者が入口を教えてくれた。ひどい道だ。いや、小竹の腕が悪いんじゃない、俺の肩幅が悪い。獄の手前でいったん戻った。先に出してから行き場がありませんじゃ、救出とは言えないだろ」

「出口を見たのですか」

「床の下まで来る。上から声がした。まだ知られていないと思うが、見つかっていないと保証はできない。そこで今からもう一度入る」

 

 言い終わる前に、彼は水を一杯もらえないかと頼んだ。問屋の女が柄杓を渡すと、礼を言って飲み、半分を頭へかけた。

 まだ昼だったが、湿気を含んだ雲が峰を隠し始めていた。初夏の雨は、一度山へ入ると長い。趙活の髪から落ちた水が、泥を頬へ引いた。

 

 趙活は柄杓を返し、私の背を見た。

 

「その刀、地下へ持ち込むつもりか」

「地上へ回ります」

「よかった。あんたが詰まったら、掘り出す時間がない」

「詰まりません」

「俺は詰まった。俺より立派な物を背負ってるんだから、先に言っておく」

 

 彼の真顔がおかしくて、私はほんの少し笑った。

 笑った途端、喉の奥が痛んだ。朝から、水を飲んでいなかった。

 

 廖平はもう若い衆に支度を言いつけていた。車を出す場所、水、寝具、道で名を呼ばれても返事のない者がいた場合の連絡先。大きな話ではなく、一つ忘れれば人が困る用事だった。私が紙を持っていた間に、この人たちはそれを片づけていた。

 やがて廖平は杖と笠を取り、私の前へ来た。

 

「森の家は、どこだ」

 

 私は答えるまでに時間をかけた。

 道を教える声を、なるべく普段と同じにした。問屋の女はすでに麓の分かれ道を知っていた。そこから先だけ、私が言った。

 

「俺が行く。戻ったときに話そう」

「姉へ、上へ来るなと」

「俺はお前の伝言だけを運びにいくんじゃない」

 

 廖平は庭を出た。

 私は後を追わなかった。追えば、まだ止められる距離だった。彼の足は姉ほど速くない。刀に触る必要さえない。

 その考えが浮かんだことを、趙活には言わなかった。

 

     *

 

 山道の分かれ目に着く頃には、細い雨が降っていた。

 趙活は下の茂みをかき分けた。人の踏んだ土があり、その先に暗い口があった。小竹の道だった。入口へ手をかけた彼は、入る前に私を振り向いた。

 

「地上では、どこに立つ」

「獄の前です。見張りの目を、こちらへ向けます」

「向けさせるだけだぞ。俺が出る前に始めるなよ」

「分かっています」

 

 私の声は、よく通った。

 その声を出しながら、背の刀の留め具を三度確かめていた。一度で済むことだった。確かめ終えると、姉が今どこにいるか考えてしまう。だからまた手を戻した。廖平はまだ家へ着いていないはずだ。姉は私の帰りが遅いと思い始めているだろうか。怒っているだろうか。家の前まで出て、道を見ているだろうか。

 帰りたかった。

 今すぐ帰って、書状のことなど知らない顔をして、雨で冷えたと言って両手を出したかった。

 

「正面の見張りは、最初に殺してしまえば早いですね」

 

 言葉にすると、簡単だった。

 趙活が顔を上げた。

 

「その声が中へ届く方が早かったら、どうする」

「届く前に」

「二人を出す前に、賭けるな」

 

 私は口を閉じた。

 殺すのが悪いとは、彼は言わなかった。救う相手が中にいる。その一点を、私の前へ押し戻した。

 

「鍵は俺が探す。足枷も俺が外す。二人が走れなければ、俺が運ぶ。あんたには、外へ出るところを開けておいてほしい。奥まで入って、相手を倒す方に気を取られないでくれ」

「分かりました」

「あと、その袋の物は」

 

 私は腰の小袋を押さえた。

 工房で仕上げた、火薬を用いる暗器。前の人生で知った言葉だけでは作れず、鉄拳門の荒い手と小竹の経験に、何度も自分の浅さを突きつけられた品だった。

 

「人が固まって迫ってきた場合だけです。中の二人へ向けはしません」

「使うときは俺にも分かるようにしてくれ。帰ってきた顔を見て、敵だと思われたらたまらん」

 

 私は思わず彼の顔を見た。

 趙活は自分の頬を掻き、今のは笑ってもいいところだ、と不満そうに言った。

 

「では、帰ってきたら」

「今、笑ってくれた方が縁起がいいんだがな」

 

 私は笑った。彼も口の端を上げたが、すぐ茂みの奥へ顔を向けた。

 膝をつき、身を低くして、小竹の道へ入っていく。誰かに送り出してもらう顔ではなかった。あの子を迎えにいく顔だった。

 

「趙さん」

「何だ」

「小梅に、帰れと言っても聞かないかもしれません」

「知ってる」

 

 闇の手前から、むっとした声が返った。

 

「帰ったら怒鳴る。俺の話なんか聞きたくないと言っても聞かせる。……だから、まず出す」

 

 彼は見えなくなった。

 私は少しの間、その口を見ていた。姉のいない道で、もう一人、人が消えた。息が浅くなり、背の留め具へ伸びた手を、途中で止めた。

 刀はある。暗器もある。帰る道もある。

 それでも、手に欲しいものだけがなかった。

 私は空いた手を握りつぶし、獄へ向かって歩いた。

 

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