雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
最初に聞こえたのは、笑い声だった。
獄の前に敷かれた石は濡れ、軒先から落ちる水が何本も白い筋を引いていた。その奥から、あはは、ああおかしい、と息の切れる声がした。小梅だと分かった。それが分かると、かえって、門の二人が持つ槍が目についた。
笑えるところにいるのではない。
「ここへ連れてこられた人のことで、伺いたいのです」
見張りは、まず顔を見た。次に背の刀を見て、急に言い方を変えた。
「お嬢さん、ここは見物に来るところじゃ――おい。それは置いていけ」
「見物ではありません。夏侯晴と申します。話の分かる方へ取り次いでください」
私が男だった頃には、一息のうちに庇う相手から警戒する相手へ変えられることは、そうなかった。今は、その二つがいつも同じ顔の上を通る。
私は刀を背から下ろした。渡すと勘違いした男の手を避け、鞘のまま左に持つ。
「抜くなよ」
「そちらも、突かないでくださいね」
私は笑った。
男の足と槍先の間を見ていた。一度踏み込めば届く。さっき趙活に言われたことを思い出し、笑顔のまま待った。
取り次ぎを待つ間に、槍を携えた男が獄から出てきた。
穂先を下げていても、門の見張りよりずっと大きく見えた。私の刀へ目をやったが、足は止めなかった。
「
奥から声が飛んだ。
棍を肩へ担いだ男が、石室の入口に立っていた。
「袁殿、承知した。表が塞がれば、あちらへ。貴殿らも退く時を誤られぬよう」
「俺様に道を教える暇があったら、先に見てこい」
槍の男は言い返さず、山腹へ回る道を下りていった。
残った男が棍を下ろした。袁と呼ばれた男と、今去った丁承烈。見張りの槍だけを数えていた私は、鞘を握り直した。
「
奥の鉄扉が開いた。
声に顔を上げると、荊紅が暗がりから出てくるところだった。
ここに、いたのか。
顔を見つめたままの私に、彼女は唇の片端を上げた。
「まあ。お姉さまのお使いかい」
「お久しぶりです」
「蘭はどうした」
「先に、お話を」
荊紅は私の後ろまで眺め、鼻で笑った。
「また隠したね。昔からそうだ。あの人の袖へ鼻水を擦りつけて、人の話にまで割り込む。背だけ伸びても同じなのかい」
「森から出て人とつるみだしたと思えば、今度は妹を寄越したか」
袁無憲は私の後ろを覗いた。
「誰と何を始める気だ。蘭は」
「本を返して、買物をしております」
「俺様をからかうなよ」
笑っていた口から、笑いだけが消えた。
私は敷石の一枚を選んで立った。門の内側だが、頭の上は空いている。正面の石室には広い入口があり、扉は左右に開いていた。鞭を持つ荊紅。その後ろに、壁へ足をつながれた小梅と小竹。右の看守が腰に鍵を下げている。左の敷石の縁が、わずかに浮いていた。
私には地下の趙活が見えなかった。
今あの下にいる、と思い込まないことにした。
「晴姉さんだ!」
小梅が片腕を高く上げた。
「ご覧のとおり、本梅はしっとりと反省中。お迎えはお早めに。ここ、料理がまずいの。人を閉じ込めるだけ閉じ込めて、もてなしの心がないんだから」
「黙りな!」
「わ~はははは! やなこった!」
小梅の笑いが石室へぶつかり、重なった。
荊紅が鞭を鳴らすと、小竹がびくりと肩を動かした。小梅はそれを見た。見てから、もっと大きな声を出した。
「怒っちゃった。大変、小竹、偉い人が怒っちゃったよ。令牌も一緒に震えてる。あれにもお詫びしなくちゃ!」
「その口だけは相変わらずだね。顔を売るしか能のない雌猫が。金烏上人に可愛がってもらえば、少しは静かになるかと思ったよ」
「あなたなら、お似合いじゃない? そこへ座らせてもらうの、お好きだったでしょ。空いてる席なら何でも」
音がした。
鞭の先が小梅の膝の前を叩いた。私が一歩出るより早く、小竹が小梅の足を自分の方へ引いた。鎖が張り、小竹自身が顔を歪める。
「やめるのだ!」
「おや、下働きにも舌があった。水を飲ませたときは、ずいぶん行儀よくしていたのにね」
小竹の唇が白くなった。
私は鞘を握り直した。荊紅の笑い方を覚えていた。子供を水へ沈めて、あとで謝ればよいことにした日の顔だった。
「ありましたよ。あなたの耳へ入らなかっただけです」
私の声で、荊紅が振り向いた。
「今日は、よく入るようにお話しします。二人を出してください」
「あんたの姉は、私に何を返すつもりなんだい」
「まず、その鞭を下ろしてください」
「私に命じるな!」
荊紅は腰の令牌を突きつけた。見張りが居住まいを直す。私には向けられていない槍まで、彼女の動きにつれて起きた。
この小さな板を持つと、人が動く。そのことが、荊紅を上機嫌にしたり、不機嫌にしたりしていた。
「昔のあの席に座って、黙って人を見下ろしていたのは、どこの誰だろうね。今度は私が呼ぶ側だ。蘭に言いな。呼ばれたら来るものだと」
「姉は、あなたの持ち物ではありません」
「妹の持ち物ならいいのかい?」
小梅が一瞬、笑うのをやめた。
私は返事をしなかった。荊紅がこちらの一瞬を舐めるように眺めたので、腹の底が冷えた。
「小梅と小竹は、ここを出ます」
「あんたに聞いていないんだよ。蘭は、私の顔を見て何と言う? 今もあの綺麗な顔で、可哀想な人を見る目をしているのかい」
彼女の鞭が、私の足元へ来た。
私は半歩下がった。背後の門は開いたままだった。荊紅をその先へ追い払いたい気持ちを抑えた。奥に鍵がある。あの子たちがつながれている。
「姉は、知らせを聞きます」
「何?」
「廖平が会いに行きました。戻らない人がいることも、全部」
私が動かした知らせではなかった。
それを、今は自分の手札のように口にした。
荊紅はしばらく私を見て、それから喉の奥で笑った。
「そう。やっとかい」
私のすぐそばまで近づこうとして、彼女は刀の長さを見た。足を止め、鞭を低く這わせた。
「なら、あんたも待っていな。蘭が返事をするまで、皆で仲良く待てばいい。昔から、そうやって群れるのが好きだったろう」
看守へ目で合図をする。
門の二人が動いた。
私は刀を抜き、鞘を足元へ置いた。剥き出しの刀身に雨が当たった。そのとき、石室の奥から短い悲鳴がした。
浮いた敷石の下から、趙活が出てきた。
彼は、鍵を持つ看守の足を払っていた。男の膝が床へ落ちる。肘を上げた趙活が、その喉元を押さえて壁へぶつける。もう片方の手が鍵束を引きちぎった。
「来たぞ! ……って、お前ら、ちゃんと驚けよ!」
「遅い!」
小梅が叫んだ。
怒っていた。ほんとうに怒っていて、笑顔を作る暇もなかった。
「来るなら、来るって――」
「獄に先触れを出す馬鹿がいるか! 足を出せ!」
荊紅が振り返った。
それより早く、袁無憲の棍が石室を横切った。趙活は小梅の前へ身を入れ、迫る先を腕で受けずに、その内側へ踏み込んだ。肩が袁の胸へ当たる。棍の先が壁を叩き、削れた石が小梅の髪へ落ちた。
「穴から這い出すとは、似合いの登場だな!」
「表へ回ったら、歓迎してくれたのかよ!」
袁は笑ったまま棍を引いた。
趙活が追おうとした足へ、荊紅の鞭が走る。
私はそちらへ行けなかった。槍が二本、門から入ってきた。
右の穂先を刀で外へ押し、左の突きを身を沈めてくぐる。融雪真訣を腕から刃へ通すと、受けた鉄が乾いた音で割れた。折れた穂先が石を打つ。手応えに引かれて刀を振り回すのでなく、そのまま前へ出て、残った柄を持つ男の肩を斬った。
男が槍を落とした。
私は抜け道を空けるように彼を蹴り倒し、次の男へ切先を向けた。
「そこから、退いてください」
男は顔を見た。
さっき、私をお嬢さんと呼んだ男だった。
今は私の口が笑っていることを、見ないようにしていた。槍を引いて門柱へ寄ったので、私は石室の入口へ出た。
趙活が壁際へ押し戻されていた。
鞭を避ければ、袁の棍が上から来る。身を低くすると、小梅たちの方へ穂先のように棍が伸びる。趙活はそちらへ腕を出し、自分の肩へ一撃をもらった。
鈍い音に、小梅の顔が変わった。
「活くん!」
「脚を引っ込めてろ!」
私は荊紅の鞭を横から払った。刃へ触れた先が裂け、彼女は手首を引いた。そこへ踏み込むと、棍の端が私のこめかみへ飛んできた。
刀を立てる前に、趙活の掌が棍を下から打った。
頭上を風が抜ける。
「そっちは頼む!」
私は返事の代わりに、荊紅へ刀を向けた。
彼女が下がる。袁も一緒に下がろうとし、趙活に前を塞がれた。二人を石室の奥へ押すのでなく、足枷から離す。私が入口側へ立つと、荊紅はようやく、私を見ながら鞭を振り始めた。
「妹まで、あの女と同じ目をして!」
「よそ見をされるより、結構です」
鞭が刀の下へ潜った。
私は柄を引き、巻き取られる前に刃を返した。荊紅は腕を縮める。その肩へ届くはずの切先を、また棍が横から叩いた。
腕が痺れた。
袁は趙活と向き合ったまま、棍の長さを使って荊紅まで守っていた。だが、その分、趙活の前が一度空いた。
彼は袁の膝を蹴り、押し返した勢いのまま、小梅の足元へ膝をついた。
「足を出せ!」
「今なら、あの猿を蹴れるんじゃない?」
「お前を鎖につないだまま、猿を追ってどうする!」
私は刀を大きく振らず、入口を横に塞いだ。荊紅の鞭を外へ払い、戻ってくる袁の棍へ刃の腹を当てる。押し切れない。足が滑り、敷石の端で止まった。
鍵の鳴る音がした。
小梅の鎖が落ちるのと、趙活が私の横へ戻るのが、ほとんど一緒だった。
「代われ!」
彼の肩が私の前へ入った。
棍へ体重を預けていた袁が、急に押し返される。私は空いた方から荊紅を斬り上げた。衣の端が裂け、彼女は声を上げた。
追えば腕へ届いた。
だが、その足元に小竹の脚があった。小梅が引こうとしても、まだ鎖につながっている。
私は刃を止めた。
荊紅はその間に袁の後ろへ逃れた。
「右から二つ目、丸い印の鍵なのだ!」
小竹が叫んだ。
「そいつが外すところを見てた!」
「それを早く言え!」
「君が返事を待たないから――」
趙活が袁の棍を私の刀へ受け渡した。
重みを流し、私は切先を荊紅へ戻す。彼女は手を出しかけて、引いた。趙活がしゃがみ、鍵を回した。
「開いた!」
小竹は起き上がりかけて、膝を折った。小梅が脇を抱える。
袁の棍が私の刃を滑り、二人へ向いた。趙活がその柄をつかんだ。引き合いになったところを、私が下から払う。袁は棍を離さず、後ろへ跳んだ。そこへ荊紅の鞭が伸び、私の足を止めた。
もう一息あれば、どちらかを崩せたかもしれなかった。
趙活はその一息を、隣の扉へ使った。
「そっちにも人がいる!」
「知ってる!」
私が呼ぶより早かった。
袁が舌打ちした。私を越えて彼へ行こうとする棍を、また刀で押し戻す。
「囚人を全部連れて帰る気か、貴様ら!」
「置いて帰ったら、お前が面倒を見るのかよ!」
外から足音が増えた。門の向こうに、三人、四人。声を聞いて戻ってきた連中が、肩をぶつけ合って入ろうとしていた。奥ではまだ人が立てずにいる。袁はそちらを見て笑った。
私は小袋へ手を入れた。
「伏せて!」
暗器が門の外へ消え、次の瞬間、雨を裂く轟きが庭を殴った。火花が石を走り、白い煙が人の肩より高く跳ねる。耳の中が鳴った。槍を構えた男たちが、顔を覆って後ろへ崩れた。
袁の顔から笑いが消えた。
私は刀の柄へ両手を戻し、煙の手前にいる彼を見た。袁は棍を構え直したが、私へ踏み込まなかった。足を横へずらし、荊紅と一緒に石室の入口から外れていく。
今なら追い込める。その先に、二人の武器が待っていた。
「出すぞ!」
趙活の声で、私は門へ向き直った。
煙の向こうから突き出された刃を、斜めに払う。外れた武器が門柱へ突き立つ。その腕を斬り、私は開いた入口の真ん中へ立った。
火薬の臭いが雨に混じった。
殺せたかどうか、確かめにいく気はなかった。立ち上がる者があれば、また斬る。
三人の男が石室からよろめき出た。一人がもう一人の腰を抱えている。見たことのない顔だったが、帯に廖平の荷札が残っていた。
私は刀の先で右を示した。
「門を出たら、下へ。車が来ます」
彼らの後から小梅が小竹を支えて出てきた。趙活は最後の男の脇を肩へ載せ、鍵束を握ったまま続いた。
荊紅が小梅へ手を伸ばした。
小梅は振り返り、その手を叩き落とした。
「さわらないで」
笑っていなかった。
荊紅の顔から、血の色が引いた。彼女は鞭を持ち上げたが、私が向き直ると、その腕を袁が引いた。
「今は退け。
「放しな! あの女に、私への借りを――」
「ここで潰されて、誰に取り立ててもらう!」
袁は棍を私へ向けたまま後ずさった。
私は追わずに、小竹の通る側へ刀を寄せた。だが、門柱の下に倒れていた見張りが、小竹の足へ残った槍を突き出した。歩けないと見たのだ。小梅が小竹を引き、二人の膝が崩れた。
私はそちらへ刀を返した。槍の柄ごと男の腕を斬り、倒れる小竹を肩で受けた。
「離せ、この野郎!」
趙活の怒声がした。小梅も見張りの顔を蹴った。
私が門の外を向いたときには、袁が荊紅を先に押し出していた。棍で最後に道を払い、自分も煙の向こうへ消えた。
「蘭にも来てもらう! 今度は私が呼ぶんだ!」
荊紅の声が遠ざかった。
私は小竹を小梅へ渡し、趙活の肩からずり落ちる男の腕をつかんだ。男は靴を片方失っていた。
「逃がすの?」
小梅の声がした。
趙活は、まだ獄の中を見ていた。
「鍵は、全部開けた。残ってる奴は!」
奥から返事はなかった。
彼が最後に鉄扉の向こうを確かめ、戻ってきた。小梅へ答えるときには、息が上がっていた。
「お前らを、ここへ戻さない。それが先だ」
小梅は彼を睨んでいた。
その胸元を一度つかみ、何か言いかけて、やめた。代わりに彼の肩の泥を、ひどく乱暴に払い落とした。
「……あとで、ちゃんと話すんだから」
「俺にも山ほどある」
小竹が二人の間から呻いた。
「話すなら歩きながらにしてくれ。僕、ここへもう一泊するのは嫌なのだ」
私は刀の血を雨で流し、鞘を取りに二歩戻った。
刃を収める手が、少し遅れた。耳の鳴りが消えず、姉の声を思い出そうとしても、さっきの爆ぜる音が被った。
下の道から、人を呼ぶ声がした。
誰かが、獄から戻った人の名前を、一人ずつ大声で呼んでいた。