雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
「晴!」
坂の下で姉の声がした。
私は男の腕を支えていた。下り道の石が滑るので、次にどこへ足を置くか、そればかり見ていた。名前を呼ばれて顔を上げると、姉がこちらへ走ってきた。
来てしまった、と思った。
来てくれた、とも思った。
どちらを先に口へ出せばいいのか決まらないまま、私は男を近くの門人へ押し渡した。
「姉さま」
「お前は、何を――」
姉の胸へ、額がぶつかった。
腕を回すのに刀の鞘が邪魔だった。横へずらし、もう一度抱きついた。雨で冷えた姉の服を、両手でつかんだ。何か言わなければならない。荊紅が逃げたこと。小梅も小竹も出たこと。だが、姉の息が近くにあると分かった途端、喉が塞がった。
「怪我は。晴、顔を上げろ。どこを斬られた」
私は首を振った。
姉は私の肩を離そうとした。その手を追って、手首をつかんだ。
「何とも、ありません」
「なら、ちゃんと立て。……いや、離れろとは言っておらん。手を見せろ」
私が差し出すと、姉の指が掌を開かせた。爪の跡が残っていた。自分で握りつぶしていた手だった。
姉はその跡を見て、眉を寄せた。ひと息だけ、掌を包んでくれた。
私はようやく息を吸えた。
「荊紅と袁無憲が、逃げました。半雨屏へ。小梅と小竹は、趙さんが」
「見た。二人とも見た。お前の顔も今、見た」
姉は言い、私の手を放さずに、声を低くした。
「廖平の文を、なぜ隠した」
私は姉の胸元を見た。
「姉さまを、呼ばせたくなくて」
「それでお前が獄へ入れば、私は家で飯を食って寝ると思ったか? 夕方になっても帰らぬ妹を、よしよし賢くやっておると、放っておけると思ったのか!」
姉の声が背中まで響いた。
私は口を開いたが、答えは出なかった。
「私を騙すなら、もう少し上手に騙せ。朝、あれほど指を離さなかったお前が、町へ一往復して何事もなく帰るものか。廖平が来る前から、私は――」
姉は言葉を切った。
つかまれた手が痛かった。痛いと言えば緩めてくれる。それを今、口にするのはずるい気がして、黙っていた。
「帰ったら、続きを聞く」
私を自分の脇へ引き、姉は負傷者の方へ向き直った。
「歩けぬ者を先に下ろせ! 下で車を待たせておる。肩を借りるのに遠慮するな、遠慮して転ぶ方が迷惑だ」
誰かが笑い、誰かが、へい、と返事をした。
姉は小竹の前へしゃがんだ。小梅がその脇に立ち、さっきまで握っていた小竹の袖を、まだ指から離せずにいた。
「小竹。脚を見せろ」
「歩けるのだ」
「聞いたのは、歩けるかではない」
「……歩くより、運ばれたいのだ」
「初めからそう言え」
姉の口が少し緩んだ。小竹も、張りつめていた顔を崩した。
趙活はそこから少し離れて、水を飲んでいた。柄杓ではなく、門人の水筒だった。小梅が隣へ行くと、彼は飲むのをやめた。
「ほら」
「要らない」
「声が枯れてる」
「誰のせいかしら」
「半分くらい荊紅だろ」
小梅は水筒を奪った。
一口飲む。むせる。趙活が手を出すと払いのけ、二口目はゆっくり飲んだ。私には、その二人が立っているだけの光景がひどく懐かしかった。獄を出てから、まだ一刻も経っていないのに。
「金烏上人は、どこだ」
趙活が門人へ聞いた。
答えたのは、傷を巻いていた若い女だった。
「半雨屏です。丹霞子様が朝天門と薬王洞を取り返して、追い詰めたと。今は掌派人の座を懸けた勝負になっています」
女のそばで、男が長く息を吐いた。
ようやく帰れる、と言った。肩へ掛けた荷を、足元へ下ろそうとした。
「その知らせは、もう古い!」
坂の上から、男が駆け下りてきた。
足がもつれ、女が腕を出した。男はその手につかまり、息を吐いたまま次を吸えずにいた。
「大鉄舗からだ。魏掌門のご指図で、退く道を空ける。山の民も、今のうちに下へ」
「退く?」
女の手が止まった。
男は頷くより先に、咳をした。
「道法将軍が、押されている。丹霞子様が負けそうなんだ!」
小梅が水筒を下ろした。
小竹も、借りていた肩から顔を上げた。
「さっきは、金烏上人が逃げ腰だと」
「あれが芝居だった。優勢だった丹霞子様が、不意を打たれて血を吐いた。斥候が見てきたんだ。今は逃げ回って、どうにか命をつないでおられる」
男は自分の袖で口を拭った。
泥が頬へついた。気にしていなかった。
「応援は、行かないのですか」
「掌派人を決める一騎打ちだ。手を出せば、こちらが約束を破ったことになる。魏掌門は、まず山の者を下ろせと。勝つのを待って、車を出すんじゃ遅い!」
荷を下ろしかけた男が、また肩へ担ぎ直した。
女は振り向き、下へ知らせる者の名を呼んだ。
姉も、負傷者を支えた門人へ早く行けと言った。私が見ている間に、下りていく人の間隔が狭くなった。
小梅だけが、上を向いていた。
趙活も気づいた。返せと言う前に、小梅の手首へ目を落とした。
「小梅」
「なあに」
「先に下へ行け」
「あら。迎えに来た人は、もう帰るの?」
「お前に言ってる」
「知ってる」
笑いが戻っていた。
その戻り方が、さっきまでと違った。小竹に笑いかけ、姉へも頭を傾け、水筒を趙活の胸へ押しつける。その指先に、迷いがなかった。
「金烏上人が勝ったら、誰をどこへ帰せるのよ」
趙活が黙った。
「アタシは、もう一度連れて戻ってもらいたくないの。せっかく歩けるようになったんだから、自分の足で行くわ」
「俺も行く」
「ついてこられる?」
からかう声だった。
趙活は笑わなかった。
「お前が先に行こうとするから、ついていくしかなくなるんだよ」
小梅はその顔を、少し長く見た。
それから肩をすくめ、普通の道を外れた。低い灌木の向こうに、細い踏み跡があったらしい。雨に濡れた裾が見え、次にはもう、葉しか動いていなかった。
「小梅!」
趙活が追いかけた。だが、斜面の下は崖になっていた。私には、あの子の渡った足場さえ見えなかった。
彼は歯を食いしばり、山上の道へ戻った。
「半雨屏へ、近いのはこっちですか」
女の門人が頷いた。
小竹が、肩を貸していた門人の袖を引いた。
「僕も上へ行くのだ。小梅が帰るところまで見たい」
「その脚でか」
姉が睨むと、小竹は一度唇を結び、それでも顔を上げた。
「今度は、僕だけ下で待つのは嫌なのだ」
姉は舌打ちした。玄功門の二人が互いを見てから、小竹を間に入れて担ぎ直した。先の負傷者は下の車へ、小竹は私たちと上へ行くことになった。
姉は立ち上がり、私の刀の鞘を、歩く邪魔にならぬよう直した。
「行くぞ」
「姉さまも」
「小梅がおる」
それで十分だという顔だった。
私は姉の袖を放したくなかった。あの子が下へ行けばいい。小竹も私たちも出たのだから、金烏上人と丹霞子の勝負など放っておけばいい。誰が上に立とうと、姉と私の家の戸さえ開けなければ、それで――。
姉が私を見た。
私は、その考えを言わずに歩き出した。
*
日が峰の向こうへ沈む頃、半雨屏へ続く最後の坂へ出た。道は、人で詰まっていた。
上で何かが鳴るたび、前の背が揺れ、後ろの者が爪先立ちになる。湿った衣と泥の臭いがこもり、雨の筋さえ、人垣の向こうでは見えなかった。
趙活が名乗っても、前は開かなかった。
「唐門の者を入れるな!」
「丹霞子様に話がある!」
「掌派人を決める勝負だぞ。よそ者が横から口を出すな!」
「なら、門の人間に頼む。小梅が来なかったか。虞小梅だ!」
その名で顔を見合わせる者がいた。
知らないふりをする者もいた。誰かが、金烏上人の女を捜してどうする、と笑った。趙活の手が、その男の襟へ伸びた。
「もう一度言ってみろ」
低い声だった。
周りがどっと動いた。私は刀の鞘を前へ置いた。抜くためではなく、押し寄せる身体から、姉との間を空けるために。姉は趙活の手首をつかまず、その男へ顔を向けた。
「知っておるなら答えろ。知らぬなら、自分の舌を見せびらかすな」
「な、何だと」
「噛み切るぞ」
男は口を閉じた。
その向こうで、誰かが人を退かせた。魏菊だった。
「道を空けてください。勝負を妨げるなというお話なら、ここで人を押し倒しても同じことです」
声は大きくなかったが、前の列から順にこちらを振り向いた。
「趙師兄。こちらへ。ただし、場内にはお入りになりませんよう」
「小梅は」
「今は、こちらでは見ておりません」
彼女は答え、趙活の泥まみれの袖を見た。
その視線が小竹の方へ動く。後ろで肩を借りていた小竹は、魏菊を見て口を開きかけた。何かを謝る顔だった。魏菊は先に、よく戻りました、と言った。
小竹がうつむいた。うつむいたまま、唇だけが笑った。
私たちは人垣の端を抜けた。
その先で、視界が開いた。
山腹を大きく抉った岩の場に、空と洞の天井が半分ずつ被さっていた。雨に濡れる者と、岩の下に立つ者がいる。
数百人。
黒々と並ぶ頭と、その間に浮く門ごとの色。半雨屏の広い石の場を、人が取り巻いていた。松明の火が雨に滲み、その中心で二つの影が離れた。丹霞子と金烏上人。丹霞子は口元を拭い、下がった足をすぐ横へ運んだ。そこへ金烏上人の掌が走る。避けた先でも、息を整える暇はなかった。
名を呼ぶ声が両側から上がり、金烏上人が一歩出るたび、丹霞子側の人垣が息を吸った。
私は、家へ帰れなかった人たちの荷車とは違う場所へ来たのだと、ようやく感じた。
ここでは全員が、何かの勝ちを待っていた。
向かいの列に、荊紅がいた。
令牌を持ち、金烏上人側の門人へ何か言っていた。傍らには棍を抱えた袁がいる。男が一度こちらを指す。荊紅の顔が、姉へ向いた。
「姉さま。向こうに、荊紅が」
「見えておる」
姉は私の肩を自分の後ろへ押した。荊紅から目を外さず、立つ場所を半歩変えた。
荊紅は笑った。遠くからでも分かるほど大きく口を開き、令牌を上げた。男たちを従えてこちらへ来るのかと思ったが、動かなかった。
「勝負が済むまで、待っていてもらうよ!」
声だけが飛んできた。
「蘭! 逃げるんじゃないよ。今度は、お前も人の話を聞くんだ!」
姉の頬がひくりと動いた。
しかし、返事をする前に、広場の向こうで異変が起きた。
人の立っていない対岸の斜面に、白いものが動いた。
最初は雨が明るく見えたのかと思った。次に、その影が木から離れるのが見えた。小梅だった。正面の人垣を通らず、向かいの山へ回ったのだ。彼女の腕が上がり、刃の細い光が金烏上人の方へ向く。
影が、止まった。
飛び出すはずだった身体が、空中で引かれたように傾いだ。近くの枝が揺れたわけでも、足場が崩れたわけでもない。人垣が騒ぎ始め、私は姉の袖を握った。
小梅のそばに、人がいた。
薄暗がりに浮いた顔を見て、何人かが姚掌門、と声を上げた。別の声が、なぜここに、と続いた。その人物に導かれるように、小梅が石の場へ現れた。
歩き方が、おかしかった。
獄を出たときより真っ直ぐで、滑る石にも戸惑わない。けれど小竹が呼んでも振り向かず、趙活を見つけても、何の顔にもならなかった。
私は名前を呼びかけ、やめた。
それより先に、趙活が走っていた。
「第三者の横槍は許されん!」
丹霞子の声が広場を打った。
飛天側からも、介入があった以上は試合無効だという声が上がった。火龍が前へ出て、
私は、見覚えのある顔が本物ではないのだと、そこで知った。
偽りの姚は、騒ぎを気にする様子もなく小梅へ向き直った。
「殺せ」
その声に、小梅の刃が、趙活へ向いた。
「おい」
趙活が言った。
笑おうとしたのだと思う。ほんの一瞬、口元だけが動いた。
「そんな出迎えは聞いてないぞ。お前に怒鳴る話、まだ一つもしてないんだ」
小梅の腕が動いた。
趙活は身体をひねった。袖が裂けた。彼はその手を取ろうとしたが、小梅はするりと抜け、もう一度、刃を上げた。
人垣から歓声が上がった。何を見ているつもりなのか分からなかった。止めろという声もあった。笑う者と怯える者が、同じ列で肩を触れ合わせていた。
「
姉が低く言った。
私は姉の横顔を見た。怒りとは違う硬さがあった。
「引き離せば」
「小梅を斬るつもりか」
私は答えられなかった。
姉の手は空いていた。その手なら人を倒せる。けれど、倒した後にあの子の顔が戻るのか、私には分からなかった。刀を抜いて割り込めば、丹霞子の勝負まで壊れる。小梅を殺せと叫ぶ金烏上人側の声へ、口実を渡すことにもなる。
姉は前へ出かけた門人を腕で止めた。
「端へ下がれ。今、お前たちまで入るな」
私はその横で、押されて転びかけた小竹を支えた。
私たちの手が届くのは、ここだった。
「小梅! 俺を見ろ!」
趙活の声が雨を破った。
刃を避け、また避け、それでも彼女の正面から退かなかった。口元から血が出ていた。いつ切れたか、私には見えなかった。
「俺はまだ、ここにいるぞ。勝手に終わったことにするな! お前がいないと、俺の文句は誰が聞くんだ!」
小梅の顔は動かなかった。
趙活が息を吸った。
「また旅へ行こう。あの続きだ。支度ができたら、その日に出る。来世までなんか、待ってやらないからな!」
小梅の刃が、彼の胸の前で止まったように見えた。
次の瞬間には、また雨が二人を隠した。
私は姉の手を探し、見つけた。姉も私の手を握った。握ったまま、二人とも広場を見ていた。