雪山の娘   作:雪山派外姓弟子

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王命より高い嘘

 金烏上人が笑った。

 人の叫びを、聞くに値しない音へ変える笑い方だった。趙活の袖に血が滲み、小梅の手が再び上がるのを見て、金烏上人側の何人かまでつられて笑った。

 

「まだ分からぬか。あの娘が従っているのは王命だ。貴様が何を喚いたところで、使命を終えるまでは目覚めん」

 

 趙活はそちらを見なかった。

 

「小梅」

 

 小さく呼んだ。

 さっきまでの怒鳴り声より、小さかった。私のところまで聞こえたのは、周りの何人かが黙ったからだった。

 

「荷物は、俺も持つ。お前が持てと言ったからじゃない。……今度は、俺も行きたいんだ」

 

 小梅の手首が震えた。

 そう見えただけかもしれなかった。刃はまだ彼へ向いていたし、目も開いていた。彼女の唇から返事は出なかった。

 金烏上人が腕を広げた。決着はついた、掌派人の座は我が物だという声が、広場へ落ちた。

 丹霞子が一歩動き、口元を袖で押さえた。その袖へ、また赤いものが滲んだ。

 偽りの姚が、小梅の背後で顔を上げた。

 

「口先で王命を覆せるものか。奇跡でも、待っているのかね」

 

 私は姉の手を強く握った。

 相手を斬れば済むことなら、まだ手の出しようがあった。今は、あの手を払えば小梅の腕を壊すかもしれず、かばえば趙活の足を止めるかもしれなかった。姉の指も動かなかった。力がないからではないことが、握った手から分かった。

 

 そのとき、趙活の傍らへ、一人の女が降りた。

 人垣を押し分けてきたのではなかった。上から現れ、濡れた石へ足をつけた。衣が遅れて落ちる。

 誰だ、と近くで声がした。魏菊も顔を上げた。

 女は趙活の方を向いた。微笑んでいるようにも見えたが、私には雨で目元までは分からなかった。

 

「救いたいなら、雷に打たれる覚悟をおし」

 

 趙活が彼女を見た。

 偽りの姚の肩が動いた。

 次に、音がした。

 

 雷鳴ではなかった。

 岩の奥を一度に鳴らすような轟きが半雨屏を通り抜け、人垣の頭が一斉に下がった。私は反射的に姉の前へ肩を出した。腰の暗器には、手を触れていなかった。

 頭上で、光るものが動いた。

 

 洞の天井。

 それまで暗がりに紛れていた剣が、岩の上から離れていた。どうしてそこにあったのか、誰が何を起こしたのか、考える前に女が跳んだ。

 偽りの姚が掌を出した。

 届かないと思うほど遠い。だが女の身体が空中で折れ、衣が内側から打たれたように揺れた。

 

 私は息を呑んだ。

 女は落ちなかった。

 その腕から絹の索が伸び、宙の剣を捕らえた。索がたわみ、光る刃が向きを変える。彼女の身体が下がり始めたとき、もう趙活が跳んでいた。

 

「師弟よ、受け取りな!」

 

 女の索から放たれた剣へ、彼は両手を出した。剣が掌に収まり、重みに肩が沈む。石へ降りた膝が一度折れたが、倒れなかった。頭上の剣を見ていた数百人が、その持ち主を見下ろした。

 泥だらけの唐門の男。

 頬に血がつき、服は裂け、今朝は小竹の穴に肩をつかえさせたと文句を言っていた人が、仙剣を握っていた。

 

「神雷剣(じんらいけん)……」

 

 誰かが囁いた。

 その名が隣へ渡り、さらに後ろへ広がった。私は剣より、趙活の足を見ていた。彼は足場を踏み直していた。まったくふらつかない神様ではなかった。自分の足で立つために、踵を石へ押しつけていた。

 

 彼が、剣を掲げた。

 

 雷が鳴った。

 昼が戻ってきたようだった。人の顔も、雨粒も、金烏上人の開いた口も、たった一度、白く鋭く浮き上がった。眩しさで閉じかけた瞼の内側へ、趙活の姿が残った。

 

「名を九天応雷趙真君(きゅうてんおうらいちょうしんくん)! 神諭はこれ王命に勝る!」

 

 声が岩へ当たり、帰ってきた。

 その大仰な名に、誰かが吹き出しかけた。だが笑いは続かなかった。金烏上人が怒鳴り、偽りの姚が何か言いかけ、そのどちらよりも先に、趙活が小梅を呼んだ。

 

「虞小梅、命を聞け!」

 

 小梅の顔が上がった。

 

「これからは、もう誰の命令も聞(・)か(・)な(・)く(・)て(・)い(・)い(・)」

 

 広場のざわめきが引いた。

 命を聞けと言った口で、命を聞くなと言った。

 それを言うために、彼は天まで持ち出した。

 

 小梅の手にあった刃が、下がった。

 唇が動く。雨の音に紛れて、私のところまでは届かなかった。けれど趙活には届いたらしい。ひどく苦しそうに、それでいて笑うのをやめられないような顔になった。

 

「信じろよ。お前に騙された分くらい、今度は俺に騙されてくれ」

 

 剣を持つ腕が震えていた。

 上げ続けるのが苦しいのか、小梅の返事を待つのが苦しいのか、私には分からなかった。

 

「帰ってこい。俺たちのところへ」

 

 次の雷光が、二人を照らした。

 小梅の背にまとわりついていた暗いものが、光の中でほどけた。人の影なのか、雨が作った翳りなのか。私はそれを名前で呼べなかった。ただ、あの子の顔が変わった。

 眉が上がり、口元が歪み、今にも何かを言い返す顔になった。

 

「……仰せのままに」

 

 声がした。

 小梅が跳んだ。

 

 私は一瞬、また襲いかかったのかと思った。趙活は避けなかった。剣を横へ逃がし、片腕を開いた。その胸へ小梅が飛び込む。二人の身体がぶつかり、趙活の足が後ろへ滑った。

 彼は踏ん張った。

 小梅は彼の服をつかみ、もう片方の手まで回した。顔は、私には見えなくなった。

 

 小竹が声を出した。

 言葉になる前の、喉からこぼれた声だった。肩を貸していた門人がびっくりして顔を向ける。小竹はその袖で目を拭こうとして、慌てて自分の袖へ持ち替えた。

 私は息を吐いた。

 こんなに長く止めていたつもりはなかった。膝の力が抜けかけ、姉の腕へ寄りかかった。姉も、私の手を握り潰すようにしていた。

 

「何を勝手な!」

 

 金烏上人の声が割って入った。

 

「そんな戯言で掌派人を名乗れるものか! 剣を拾っただけのよそ者が、我が崆峒を――」

「よそ者ではない」

 

 丹霞子が言った。

 彼は趙活へ向き直った。雨をものともせず、その場に響く声で、第十一代の掌派人を迎えると告げた。

 人垣が波立った。

 私は、趙活が困った顔をするのを見た。抱きつかれた小梅を剥がすわけにもいかず、剣を持ったまま、何かとんでもない話になっていないか、とでも言いたそうに口を開けた。

 小梅は彼の胸から顔を上げ、泣いた跡のある目で、にやりとした。

 

「今さら、やっぱり違いますなんて言わないでよね」

「まだ何も言ってないだろ」

「言う顔をした」

 

 魏菊が前へ出た。

 

「わたくしも、趙師兄を掌派人としてお迎えいたします」

 

 金烏上人が彼女を睨んだ。

 

「玄功門まで、茶番へ加わるか!」

「王命が娘を縛るとは認めながら、それに勝る神諭は茶番とおっしゃる。都合により天の位を上げ下げしては、皆も返事に困りましょう」

 

 丁寧な声だった。

 だから、言い終えた後のざわめきがいっそう大きくなった。笑う者が出た。今度はすぐには消えない笑いだった。

 金烏上人の顔が赤くなった。

 

「黙れ!」

 

 彼が踏み込んだ。

 小梅が趙活から離れた。離れたといっても、手は彼の袖へ残っていた。趙活がその手を取り、二人は並んだ。

 金烏上人の脚へ、丹霞子が動いた。

 

 それまで広い場を我が物のように歩いていた足が、止まった。

 丹霞子の脚が絡み、金烏上人の踏み込みを捕らえていた。腕で彼を振り払おうとした金烏上人の上体が傾く。その前へ、趙活と小梅が一緒に出た。

 

「いくぞ!」

「遅れないでよ!」

 

 二人の足が上がった。

 蹴りが重なり、金烏上人の身体が浮いた。

 

 大声が聞こえた。誰の声か分からなかった。金烏上人の衣が人垣より高く翻り、広場の縁を越えた。その姿が岩の向こうへ消えるまで、私は目を離せなかった。

 次に見たのは、空振りした趙活の手だった。

 着地した小梅の方へ伸ばして、彼女が自分で踏ん張ったので、行き場をなくしていた。

 

「……平気か」

「本梅を誰だと思ってるの」

 

 小梅は胸を張った。

 一歩歩き、膝が少し折れた。趙活が慌てて支えた。

 

「今のは、石が悪いの」

「そうか。じゃあ、石に文句を言っておく」

「あと、ちょっとお腹が空いた」

「それは牢の飯が悪いんだろ」

「そう。ひどいところだったのよ」

 

 彼女は言い、彼の腕をつかんだまま、急に黙った。

 趙活も黙った。今度は、どちらかが困った顔を作って話を終わらせることはなかった。小梅が額を彼の肩へぶつけ、しばらくそのままでいた。

 人垣のどこかから、掌派人を呼ぶ声が上がった。

 一人ではなかった。別の列でも続いた。まだ納得しない顔の者も、黙っている者もいたが、その間を声が渡った。半雨屏の岩へ、さっきとは違う名が響き続けた。

 

 私は向かいの列を見た。

 荊紅が令牌を上げていた。何か叫んでいたが、誰もそちらへ向かなかった。彼女が近くの男の肩をつかむと、男はその手を払い、金烏上人が消えた方を見た。

 荊紅の腕が、ゆっくり下がった。

 袁がその肘をつかんだ。道の口では、槍を持つ丁が人垣の外を指していた。荊紅は振りほどこうとしたが、袁は棍を脇へ抱え直し、もう歩き始めていた。

 

 別の気配に、姉が顔を上げた。

 剣を渡した女と、偽りの姚が向き合っていた。二人の間の言葉を、歓声の中で私はほとんど聞き取れなかった。偽りの顔をした者は、こちらに背を向け、やがて姿を消した。

 女は追わなかった。私たちの立つ岩際へ退いてきて、片手をついた。

 その身体が一度、大きく揺れた。

 

「危うく、命を落とすところだった……」

 

 かすかな声だった。趙活がそちらへ駆け寄ろうとし、女が片手で制した。余裕で人を助け、余裕で去る仙人の仕草には見えなかった。岩へ置いたもう一方の手は、指の関節まで白かった。

 魏菊が門人を二人、そちらへやった。

 誰かの勝ちを喜ぶ声の中でも、休ませる場所と水を求める声は、必要だった。

 

 小竹は、今度こそ自分で歩いて広場へ出た。

 趙活が見つけて手を振ると、小竹は頷く代わりに怒った。

 

「そんなに振るな! 傷が開いたら、また運ぶ人が要るのだ!」

「俺まで荷物扱いか」

「君、穴から出てくるとき石をずらしただろう。あそこ、あとで直すのは僕なのだぞ」

「俺を助けに来るなと言う気か!」

 

 小竹の目から涙が落ちた。

 口ではまだ、違うのだ、と言っていた。小梅が笑い、小竹を抱き寄せた。強く抱きすぎたらしく、小竹が痛いと抗議した。

 

「生きてるから痛いの。お祝い、お祝い!」

「お祝いで骨を折るな!」

 

 その声に、私は笑った。

 自分でも驚くほど、普通に笑えた。姉がこちらを見て、それから同じ方を見た。

 小梅は趙活と小竹を両側に置き、濡れた顔のまま笑っていた。彼女がつかまえているのか、二人につかまえられているのか、もう分からなかった。

 姉が鼻を鳴らした。

 

「まったく。人を散々走らせおって」

 

 怒った声のつもりだったのだろう。

 だが、最後まで笑いが残っていた。

 

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