雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
小梅は、まだ趙活の袖をつかんでいた。
人が代わる代わる近づいても、彼が返事をするたび体の向きを変えても、その手だけはついていく。趙活が少し困った顔をすると、小梅は堂々と顎を上げた。
「何? 掌派人になった途端、下々の者が邪魔になった?」
「袖が脱げる」
「脱いだら?」
「こんな大勢の前でか!」
小竹が、うるさいから二人とも一緒に脱げ、と言いかけ、意味に気づいて口を押さえた。小梅がそれを聞き逃すはずもなく、小竹の肩へ腕を回して何か囁いた。小竹の耳が赤くなった。
姉が笑った。
久しぶりに、声まで出して笑った。
私はその顔を見ていた。金烏上人が敗れたことより、その顔を長く見ていたかもしれない。
「私たちは、森へ帰るぞ」
姉が言った。
趙活はまだ門の者に囲まれていて、小梅も離れる気がなかった。小竹は魏菊に見つかり、今度こそ脚を休ませるよう命じられていた。勝ったからといって皆がすぐ一緒に帰れるわけではない。それでも、誰も鎖でつながれていなかった。
私は刀を鞘へ戻したまま、左手に持った。背へ負うには姉の手を放さなければならず、今はそのままでよかった。
道の口で、魏菊の門人が下りてくる者の名を確かめていた。負傷者を先へ通し、金烏上人の側にいた者には、どこへ戻るのかを聞いている。押し合いになるたび、上から別の門人が走ってきた。
姉は小竹を運ぶ二人へ声を掛け、問屋で落ち合うよう伝えた。
「私たちは家へ戻る。朝になったら、着替えを持って下りてくるぞ」
小竹は眠そうな顔で頷いた。
私もようやく、森の小屋で眠ることを考えた。濡れた衣を替え、姉に叱られながら飯を食べる。隠した手紙の話は、まだ終わっていない。それでも帰れば、姉の寝床の隣へ自分の布を敷ける。
*
古い水場で道を折れた。
汲み置きの水を見て、姉が明日の朝まで足りるかと聞いた。小屋に残した分は、飯を炊くには足りる。そう答えると、それではお前が全部飲むな、と言われた。
水場に掛かった灯が、濡れた土へ細く伸びていた。
あと少し歩けば、家の木が見える。
「表へ出るな。下まで名を聞いてやがる」
男の声がした。
山の上から来る背道で、枝が揺れた。
「この先で森を抜けられる。待たれよ。そこに人が――」
槍を持つ男が言い切る前に、棍の先が道へ出た。
袁無憲だった。
その横に荊紅。後ろに、獄の前で別れた丁承烈がいた。
私は鞘を引き寄せ、柄へ手をかけた。
「姉さま。獄の」
「貴様!」
袁の目が私の手へ落ちた。
次に姉を見、私たちの後ろの木立を見た。
「ここへ回していたか。まだ何人、伏せてやがる!」
棍が来た。
刀を抜くより早く、姉が私の前へ出た。棍の先を傘の柄で横へ流し、空いた手を袁の腕へ掛ける。袁は引いたが、姉は離れなかった。
「人の帰り道へ飛び出して、何をほざく!」
姉が傘を放した。濡れた土へ落ちるより早く、空いた手で棍を押さえ、一歩、袁を押した。
「袁殿、下がられよ。私が通す!」
丁が槍を起こし、袁の横へ入った。
私はその横で刀を抜いた。鞘を道の端へ滑らせる。荊紅はもう、袁の脇を抜けていた。
「蘭! 私を置いて、また――」
鞭が姉へ伸びた。
私の野太刀が、その途中を叩いた。荊紅の腕が外へ開く。姉へは届かなかった。
袁は棍を身体の前へ戻し、私たちから離れようとした。姉の指を振りほどくために返した先が、また私の側へ回る。姉はそれを押さえ、袁を背道の方へ押し返した。
丁の槍が、私と荊紅の向こうを回った。袁を押している姉の脇へ向く。姉は袁の棍を掴んだまま足を返した。袁も棍を手放さず、反対側へ引く。
「荊紅、退け! そいつに構うな!」
袁が怒鳴った。
荊紅は退かなかった。
「お前だけ、綺麗な顔で帰れると思うな!」
裂けた鞭がまた跳ねた。
私はその腕の内側へ刀の柄を入れた。鞭を振る空間を潰し、荊紅の肩を向こうへ押す。彼女の足がもつれた。今度は棍が助けに来ない。
姉は袁を崩していた。
だが、丁の槍がその右脇へ入った。
腰には暗器があった。だが、姉と二人の男の腕が重なる場所へ、火を放つことはできなかった。
私は荊紅を放した。
野太刀を返し、槍の穂先を下から受けた。融雪の勁を刀身へ通す。槍は重かった。刃の上を滑りながら、なお姉の方へ進もうとした。
私は両手で柄を押し上げた。
姉の脇から、穂先が離れていく。
荊紅の衣の下で、短い光が動いた。
空いた腕で、短刀を抜いたのだ。
私の顔へ来る。
顔を引いて刀を返せば、自分には届かない。
だが、受けている槍がそのまま姉へ抜ける。
私は柄を
左の目のあたりが、熱で弾けた。
槍先は、姉の肩の外へ逸れた。
衣を裂く音はしなかった。見えた。ちゃんと、外れた。
「晴!」
姉が叫んだ。
私は返事をしようとして、膝を折った。刀の先が地面へ当たった。柄を握った腕だけで、しばらく立っていた。
左側で何かが流れている。熱く、痛くて、息を吸うと喉が鳴った。
それでも、姉の脇には血がなかった。
姉が私を見た。
頬を伝ったものが、姉の手の甲へ落ちた。
「貴様ら――!」
その声に、袁が棍を振った。
もう追い払うための大きな払いではなかった。自分と姉の間へ、何としても一本の境を作ろうとする棍だった。
姉は下がらなかった。
棍へ触れた指が、袁の手首へ移った。
雪山の足で懐へ入り、奪魄の手で腕を返す。袁は知っていたらしい。肩を沈め、掌の来る胸を逃がそうとした。
逃がしたところに、姉の掌があった。
音が、袁の背まで抜けた。
彼の口から血が飛んだ。棍を地へ突いても身体を支えられず、片膝が土へ落ちる。
姉は息を詰めなかった。
稽古で何度も見た、引く手と打つ手の間。そのわずかな継ぎ目へ、今までは私の刀が届くこともあった。今はなかった。袁の胸を打った呼吸のまま、もう丁の槍を受けている。
知らない技は、一つもなかった。
なのに、槍を握る丁の顔が変わった。
丁の槍が、姉を押し留めようと横へ振られた。
姉の手が柄を滑り、丁の胸元へ入る。彼は槍を捨てて跳び退こうとした。間に合わなかった。姉の指が肩を捕らえ、掌がその下へ沈んだ。
丁の片腕が、力を失って垂れた。
息と一緒に血を吐き、膝が折れる。袁が棍でその背を受けなければ、地へ倒れていた。
「退くぞ……!」
袁の声は潰れていた。
丁は返事ができず、顎を一度動かした。
荊紅だけが、姉の横へ来た。
「また、その餓鬼を――」
短刀が上がった。
姉が向き直った。荊紅の腕を払う手が、そのまま胸へ届いた。
一度だった。
荊紅の足が地を離れ、背道へ投げ出された。
短刀が落ちた。身体が土へ当たり、少し滑った。
あの女は、もう起きなかった。
姉の息は途切れていなかった。
絶世へ、あと一歩。その最後の隔たりを、今の姉の動きには見つけられなかった。
顔には怒りが残り、私の血のついた指が開いていた。袁も丁も、そこへ武器を戻さなかった。二人は身体を寄せ、背道をよろめき退いていた。
私は刀を支えにしていた腕を、滑らせた。
姉の足が、こちらへ向いた。
次には両腕で抱き留められていた。
「晴、手を離せ。刀を離せ!」
できなかった。
指に命令が届かなかった。姉が手を上から包み、一つずつ開かせた。野太刀を道の端へ寝かせ、私の頭を自分の肩へ支える。
その肩越しに、袁が一度振り返った。
口へ血の泡をつけ、丁の動く方の腕にすがっていた。姉が私の顔へ布を当てると、二人の背は木の間へ消えた。
姉は私を見ていた。
「姉さま」
「ここだ!」
「槍は」
「当たっておらん。私には、当たっておらん!」
よかった。
口にしようとして、痛みで悲鳴になった。こんな高い声が自分から出るのかと思った。身体が勝手に縮み、姉の襟を引っ張った。
「動くな。頼む、晴、顔へ触るな」
姉の声も割れていた。
私は首を巡らせ、傷のない方の目で、その顔を見た。泥がついている。濡れている。けれど、血は私の物だけだった。
「守れ、ました」
息の間から、それだけ出せた。
姉の唇が震えた。
「喋るな」
「姉さまを」
「分かった。分かったから、今は――!」
抱かれた身体が浮いた。
痛くて目を閉じた。閉じても、姉の腕がある。私は襟を握ったまま、離されないよう身体を寄せた。
「誰か! 水場へ来い! 医者を呼べ!」
姉が叫んだ。
森の家と反対へ、足音が走った。すぐ近くで返事がしたが、走ってくる足は、まだ遠かった。
姉は待たずに私を抱いて運んだ。
*
水場の灯が顔の上へ来た。
正道にいた門人が二人、駆け寄ってきた。姉に怒鳴られ、一人が下へ走った。もう一人は私たちの来た道を見て、誰が、と聞いた。
「先に刀と傘を拾え。その先に、荊紅が倒れておる」
姉はそれだけ言って、下り始めた。
私は布を当てられた顔から逃げようとし、そのたび、自分の頭の重さで呻いた。姉は同じ名を何度も呼んだ。晴。晴。聞こえていたが、全部へ返事をすると、息が続かなかった。
下の道で、趙活に会った。
呼びに走った門人の後ろから、戻ってきたのだ。小梅の足音もした。
「晴姉さん……?」
声が止まった。
趙活が姉の前へ出た。
「車を止めてある。先に行く。下まで道を空けさせる!」
彼は走った。
小梅も後を追いかけ、途中で振り返った。何か言おうとした唇が見えた。言葉は出なかった。彼女はまた走り出した。
私の刀を持った門人が、後ろから追いついてきた。
荊紅は死んでいた、と言った。道を離れた足跡は二人分。どちらにも血が落ちていたという。
姉は足を止めなかった。
私も振り返らなかった。
荷車の輪が見えた。
あの空けた車だった。乗せてもらおうとして身体を離されたとき、私は姉の襟を引っ張った。
「一緒に」
「乗る。私も乗る」
姉は何度も言った。
誰かが板を押さえ、姉が私を抱いたまま荷台へ上がった。狭いところで座り直す間にも痛みがあり、私は姉の手へ爪を立てた。
「痛いか」
私は頷きかけ、やめた。
姉は私の頭を支え直した。胸のところへ耳が近づくと、息が聞こえた。
生きている。
私の押し返した槍は、この身体へ届かなかった。
車が動き始めた。
車輪が溝を越えるたび、頭の奥に痛みが響いた。私は歯を食いしばった。姉が私の指を握る。自分で握り返すことができた。
「晴。私を見るのだ。こっちだ」
顔を上げた。
姉は、笑っていなかった。
どうしてそんな顔をするのかと、聞きたかった。姉さまを守れたのです。今度は間に合ったのです。伝えようとした口から、細い息ばかり漏れた。
「……よかった」
ようやく言えた。
姉の手が、私の頬の手前で止まった。
私はその手へ、傷のない方の頬を寄せた。