雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
知らない声が、私の顔のそばで話していた。
目を開けると、灯が一つ見えた。すぐ消えたように思い、私は手を伸ばした。顔へ触る前に、その手を捕まえられた。
「晴。私だ」
姉の声だった。
私は握られた指を引いた。もっと近くへ来てほしかった。姉は身を寄せたが、私を抱き起こしてはくれなかった。別の手が肩を押さえたので、私はその手を払いかけた。
「動かすなと言っただろう!」
知らない男が怒鳴った。
姉へ怒鳴ったのだと、遅れて分かった。
「抱いておけば済む怪我じゃない。頭をこちらへ向けたままにしてくれ」
「分かっておる」
「分かっているなら、支えを変えないでくれ!」
姉が黙った。
私は目を閉じた。何かが触れ、痛くて声を出した。姉の指へ爪を立てた。誰もそれをやめさせなかった。
その夜のことは、続けて思い出せない。
湯を運ぶ足音。布の擦れる音。男に同じことを二度聞く姉の声。戸口で誰かが小梅を止めたこと。私は何度も名前を呼び、返事があるうちは、次に呼ぶまでの時間を少しだけ延ばせた。
次に、はっきり起きたときには朝だった。
問屋の離れの天井が見えた。見慣れない木目を追って首を動かすと、顔の左側から奥へ痛みが響いた。起き上がろうとして、姉に肩を押さえられた。
「起きるな。まだ寝ておれ」
「姉さま、昨夜は」
「ここにいた」
聞きたいことを先回りされ、私は口を閉じた。
姉の髪はほどけかけていた。片方の袖に黒ずんだ汚れがあった。私がそれを見ていると気づき、姉は袖を膝の下へ隠した。
医者が来た。
今度は私にも名前を言ったが、私は聞いた端から忘れた。姉の手を握ったまま、その人の唇を見ていた。
「左の視力は、戻らない」
姉が口を開いた。
「今は、まだ腫れが」
「腫れが引いてもだ」
「ほかに、誰か」
姉の声が細くなった。
医者は首を振った。できることと、できないことを、ゆっくり話し直した。傷を落ち着かせること。熱や痛みの変化を見続けること。それでも、失われた左の見え方は戻せないこと。
私は頷こうとし、痛みで止まった。
「お薬は、また頂けますか」
医者は頷いた。
今度は姉へではなく、私へ話してくれた。私は聞き、分からなかったところだけ、もう一度尋ねた。
左側からは、何も見えない。
そう聞いて、ようやく、昨夜から顔を右へばかり向けていた理由が分かった。姉が椀を置く音は左からした。私は首を巡らせた。
そこに、いた。
「姉さまにも、怪我はありませんか」
医者が姉を見た。
姉は答えなかったので、私は握った手を少し引いた。
「昨夜、何ともないと」
「ない。お前の言うとおりだ」
その返事で、頬が緩んだ。
笑うと傷が引かれ、すぐ息を詰めた。姉が肩へ手を出した。
「笑うな」
「でも」
「笑うな、晴」
二度目の声が、震えた。
私は姉の指を撫でた。昨夜、袁の棍を退け、丁の肩を砕いた手だった。あの二人が武器を向け直せなくなるところを、私は見ていた。
それほど強い手が、今は椀さえ持たずにいる。
「守れました」
もう一度、言った。
車の上では、ちゃんと聞こえなかったのかもしれない。
「今度は、私が間に合いました」
「分かっておる!」
姉が声を上げた。
医者が顔を上げると、姉は口を閉じた。それでも、握った手は離れなかった。少し外にいる、と医者が言い、戸が閉まってから、ようやく続きが出てきた。
「あの槍を止めたのはお前だ。私の脇へ来たのを、お前が――分かっておる。見ておった!」
私は頷きたかった。
今度は首を動かさず、はい、と答えた。
「なら、どうして、その顔ができる」
姉は私の頬へ触れかけた。
傷のない右側を、指で撫でた。いつもよりずっと弱い指だった。
「昨夜から、お前は、そればかり……私を守ったと。私は、お前を抱いておることしかできなんだ。あの二人を、あそこまで――」
言葉が切れた。
姉が自分の掌を見た。開き、握り、私の左の目元を見た。
「こんな手に、なっても」
声が落ちた。
「お前の目一つ、戻せん」
私はその手へ触った。
姉は引かなかった。だから、私から引き寄せた。袖へ右の頬を当てると、昨夜の槍の先より、今ここで動く姉の指の方が近かった。
「生きていて、くださいます」
姉の肩が、一度大きく揺れた。
私の髪へ顔を押しつける。息が熱かった。
「そうだ。ここにおる。おるから、お前は――」
最後まで出なかった。
私も上手なことは言えなかった。姉の背へ手を回したかったが、起きると痛むので、袖をつかんだままにした。ちゃんと抱いてほしかった。けれど今は、この近さでも、姉が無事だと分かった。
それが嬉しくて、泣いている姉へ、また笑いかけそうになった。
「寝るときも、起きるときも。今は、どこへも」
「行かん」
姉はすぐ答えた。
続きを言う前に、寝床へ身体を寄せてきた。
「私が寝ても、勝手に起きて捜しに行くな。起こせ。何度でも起こせばよい」
私は姉の服を握り直した。
その約束も嬉しかった。返事をする姉の胸が、袖が、すぐそばで動いている。丁の槍がそこを貫かなかったことを思い出すたび、まだ顔が緩みそうになった。
姉はその口元を見て、もう笑うなとは言わなかった。
傷のない頬へ、手を当て続けていた。
*
小竹が見舞いに来たのは、その数日後だった。
まだ脚をかばっていたが、自分で歩いてきた。包みを抱え、椅子に腰を下ろすなり、まず私の刀のことを話した。
「刃は欠けていないのだ。泥を落として、油を引いた。鞘はこっちの壁だ。人の足へ引っ掛けないように置いてある」
「ありがとうございます」
「それから、退屈だろうから持ってきた。これは読む物であって、仕事ではないのだ。間違えるなよ」
紙の束だった。
工房で作った物の名前と、使った人の苦情が並んでいた。字が大きい。私の片目でも追いやすいように書いたのだと気づき、礼を言おうとすると、小竹が先に口を出した。
「字の話は、しなくていい」
「読みやすいです」
「そういう話も、今はしなくていいのだ」
耳が少し赤かった。
私は姉の腕を背へ当ててもらい、紙を開いた。初めの苦情を読み、思わず笑った。痛かったので、そこで止まった。
「脚を長くしてくれ、というのは椅子の方でしょうね」
「使う人の方は、僕にはどうしようもないのだ」
「それは、ちゃんと返事を」
「した。怒られた」
姉が横で笑った。私もまた笑いかけ、顔を押さえられた。
「お前は笑うな。私が代わりに笑っておく」
「それは、もっと笑います」
姉の袖へ寄りかかっている間は、文字を追えた。
どこを変えれば苦情が減るか、小竹と話すこともできた。手を動かすなと言われていたので、口だけで言い合った。小竹が一度、僕の方が先に考えていたのだ、と声を張り、姉が、なら二人とも黙って治してからやれ、とまとめて叱った。
表の蔵から、荷が届いたと呼ばれた。
姉の寝具と着替えだった。森の家に残していた物を、問屋の者が運んでくれたのだという。
「私が取ってくる。すぐそこだ」
姉が立った。
私は袖をつかんだ。
「小竹がおる。戸も開けておくぞ」
「はい」
答えてから、指を放した。
姉は私の顔を一度見て、髪を撫でて出ていった。庭を横切る足音が聞こえた。蔵は向こうだと知っている。怪我人を抱えて山を下りる距離ではない。ここから声を張れば届く。
私は紙へ目を戻した。
「次のは、棚の戸なのだ」
小竹が言った。
私は頷いたつもりでいた。
「晴さん?」
「はい」
「どこまで読んだ?」
行が見つからなかった。
右の目は開いている。字も見える。けれど、今どの話をしていたのか分からなくなった。最初から読もうとすると、庭で箱を下ろす音がした。顔を上げる。姉ではなかった。
「蔵は、そこなのだ。すぐ戻る」
「分かっています」
小竹のせいではなかった。
私は分かっていると、もう一度言った。言い終えてから、同じことを二度言ったと気づいた。
紙の端が指にくっついた。汗だった。
「水を、飲む?」
差し出された椀へ手を出した。縁をつかみ損ね、小竹が慌てて支えた。私は謝ろうとした。代わりに、姉さま、と呼んだ。
声が小さすぎた。
「呼んでこようか」
私は首を振りかけた。
そのまま寝床から脚を下ろした。小竹が椅子を引き、私の前へ来る。自分の痛む脚を忘れたように、立ち塞がった。
「待つのだ。僕が呼ぶ。君は歩くな、顔が真っ白なのだぞ!」
私は小竹の肩へ手を置いた。
押しのけるつもりはなかった。だが、小竹がいなければ戸へ行ける、と考えた。考えた自分が嫌になり、それでも手を引けなかった。
庭で姉の声がした。
私は小竹の横から、身体を出した。
「姉さま」
姉が包みを持って戻ってきた。
私が立っているのを見て、顔が変わった。
「たかが蔵へ――」
叱りかけた口が止まった。
私はその腕へしがみついた。姉が包みを落とした。寝具が床へ広がる。謝らなければならないのに、腕を放したくなかった。
「座れ。ここへ。私も座るから」
姉は繰り返し、私を寝床へ戻した。私の両手を自分の膝へ載せ、上から握った。
私は息を吐いた。
止めていたわけではないのに、それまでと違う息が出た。
「棚の戸は、湿ると、同じところへ当たりますか」
小竹が目を見開いた。
私も、口に出してから、小竹がずっと返事を待っていたことを思い出した。
「……当たるのだ」
「では、あとで、私にも」
「今は駄目なのだ!」
小竹は怒った。
姉も、駄目だ、と言った。二人に叱られたのがおかしくて、私は笑い、また傷が痛んだ。痛みはそのままだった。目も戻らなかった。ただ、小竹の声が何を言っているか、分かるようになっていた。
姉は床の寝具を見た。
それを拾おうとすると、私の手が追った。姉は途中で座り直し、小竹へ取ってくれと頼んだ。
「姉さま、すみません」
「本当に手のかかる」
姉は言った。
私の顔を見て、口元が緩んだ。隠すように唇を引き結んだが、遅かった。
「……まあ、私が座れば、そんな顔ができるのなら」
その先は言わず、姉は私の指を握り直した。
私は、次には蔵へも行かないでほしいと思った。
*
廖平は荷の仲間を先に故郷へ返した。
彼自身は問屋に用が残っていた。私の寝床へ来て、全員が帰る車に乗ったと知らせ、今度から蘭への文は蘭へ届けると言った。
「お前にも知らせる。だが、お前が持っていて渡さないなら、持たせない」
私は姉の手を握ったまま聞いた。
怪我をしたから怒れなくなった顔を、この人はしなかった。それがありがたい、とはすぐに思えなかった。今は叱られたくないという気持ちもあった。
「分かりました」
「本当に分かったかどうかは、次に見る」
廖平は戸へ向かい、途中で壁の刀を確かめた。
「それまでに、自分の荷を持てるようにしておけ。俺の店は、病人をただで働かせるほど落ちぶれてはいない」
姉が少し笑った。
私も、はい、と答えた。
その頃には、寝床から戸まで歩けるようになっていた。
それだけで、何度も失敗した。左から差し出された手拭いに気づかず、小竹を立たせたままにした。椀を置くつもりで卓の縁へ当てた。段がないところで足を上げ、あるところで引っ掛けた。
夕方、右目を少し休めようと閉じると、卓も戸も見えなくなった。開けば戻る。そのたび首を回し、左にある物の場所を覚え直した。
姉の手を握っていても、椀へ湯を注ぐのは難しかった。
自分の帯は結べた。
指も腕も使えた。姉が洗い替えの衣を持ってきた朝、私は途中まで自分で着替えた。姉が襟を直そうと顔を寄せ、私は反射的に少し退いた。
「引っ張るな。曲がる」
姉は遠慮なく言った。
前の人生の私なら、女性がこんな近さへ来る前に、一歩下がっていた。この身体で二十二年も生きたのに、姉の手が襟へ触れると、ときどき、男だった自分の距離の測り方が戻ってくる。
姉には何も変わっていない。小さい頃から服を着せた妹で、今は怪我をした妹だ。私が目をそらしても、鼻の先へ皺を寄せても、着崩れを直す手は止まらない。
私は、もう十分だと言いかけた。
その手が離れ始めると、帯を差し出していた。
「こちらも、お願いします」
「結べるだろう」
「はい」
姉は私を見た。
私は帯を戻さなかった。
「よくもまあ、堂々と」
呆れた声のまま、姉は結んでくれた。いつもより丁寧に、結び目を平らにしてくれた。私はその手を見ていた。昔の自分に何か言われる前に、もう少しだけここへいてほしい方が勝っていた。
*
趙活と小梅が発つ日は、戸の外へ椅子を出してもらった。
受傷から十日あまりが過ぎていた。朝の風が頬の布を撫で、私は顔の向きを少し変えた。左から来た人を、姉が名前で教えてくれた。
魏菊が趙活へ挨拶していた。
掌派人と掌派夫人を見送る、という丁寧な言葉に、趙活が頭を掻いた。
「まだ、どうも慣れないな」
「では、早くお慣れくださいませ。お戻りになっても、お役目まで消えるわけではございませんから」
魏菊はにこりとした。
趙活は、逃げ場がないな、と呟いた。小梅が隣で笑った。
「唐門まで逃がしてあげるんだから、感謝してよね」
「ついてくる奴が言うことか」
「ついていくんじゃないわ。アタシが、あっちへ帰りたいの」
趙活は彼女を見た。
小梅は視線を返した。冗談の続きを待つ顔ではなかった。
「……そうか」
「そうよ。活くんがまだ門でうだうだ言ってても、本梅は先に歩き始めるから」
「待て。今、出る」
彼は荷を持ち直した。
小梅が私の前へ来た。最初の見舞いでは顔を見て口を閉じたのに、その日は椅子の前へしゃがみ、右側へわざわざ顔を寄せた。
「晴姉さん。聞いてた?」
「はい」
「アタシ、あの人と帰るの」
小梅の向こうに、趙活がいた。
こちらの話を聞かないふりをし、荷紐を何度も直していた。
「今度は、黙って先にいなくならせない。置き手紙で済ませたら、唐門の門柱に縛っておくわ」
「聞こえてるぞ!」
「聞かせてるの!」
小梅は振り返り、言い返してから、また私を見た。
「七月半ばには着くつもり。着いたら書く。返事が遅かったら、蘭姉さんへ催促するからね」
「それは、私に」
「駄目。晴姉さんは、都合の悪いお手紙を溜める前科があるもの」
私は言い返せなかった。
姉が横で鼻を鳴らした。
「私へ寄越せ。小梅、お前も、無茶な真似だけ書かずに済ませようとするなよ」
「はあい。反省文以外も書かせてちょうだいね」
小梅が立ち、姉へ抱きついた。
姉は一度、強く抱き返した。私の手は膝の上で止まったが、口は挟まなかった。小梅が離れるまで、服の縫い目を爪でなぞっていた。
趙活が私の前へ来て、短く頭を下げた。
「またな。刀を振れるようになったら、いきなり人の後ろへ立つなよ」
「ご心配なく。お声を掛けます」
「掛けてから斬る、みたいな返事だな」
私は笑った。
彼はほっとした顔をして、すぐ小梅に呼ばれた。
「活くん! ほんとに置いてくよ!」
「待てと言ってるだろ!」
走りかけて、趙活は歩いた。
小梅も歩くのを少し遅くした。二人が並ぶと、道はさっきより狭く見えた。肩が触れそうになり、小梅がわざと寄り、趙活が荷物を反対側へ移す。
そのまま、二人で曲がり角を越えた。
私は見送った。
帰ってきたら何が起きるのか、私の記憶にはない二人だった。
姉が私の肩へ手を置いた。
「寒いか」
「いいえ」
「では、少し日に当たっておれ」
姉も隣へ椅子を出した。
私は自分から、その椅子へ手を伸ばした。姉は当たり前のように、掌を向けてくれた。
私たちは、すぐには町を出なかった。
傷を受けた日から三週間。初めは何も数えられなかった日が、薬の時刻と、窓の明るさと、小竹が来る足音で分かれるようになった。遠くへ行く相談は、まだ先だった。姉は医者と喧嘩をしなくなったが、痛みが強い晩には同じことを二度聞き、寝床の端を離れなかった。
自分の寝具を敷いたのも、私のすぐ隣だった。
「ここでは、姉さまが狭く」
「狭くしたのは誰だ。もう少し寄れ」
私は寄った。
姉が横になる。目を閉じる前に、私の手を引き、自分の腕の上へ置いた。
「これなら、起きたときにも分かるだろう」
私は返事をしようとして、姉がもう眠りかけていることに気づいた。
疲れていたのだ。私が何度も起こした夜の分だけ、この人は眠っていなかった。
起こさないでおこうと思った。
そう思いながら、指が腕から外れると、私は自分でもう一度そこへ戻した。
左側は見えなかった。傷はまだ痛かった。
それでも、姉の腕に両手を置いたまま眠れる夜が、来ていた。