雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
待たされるのは嫌だ
掛け布の向こうに、誰もいなかった。
私は右手を伸ばした。敷物の皺をつかみ、次に枕をつかんだ。まだ温かい。だから遠くへは行っていない。戸も閉じている。外には荷問屋の夜番がいて、病人の寝ている離れに近づけば、まず犬が吠える。
そこまで考えたのに、次の息が入らなかった。
「姉さま」
声が小さすぎた。もう一度呼ぼうとして、唾を飲めなくなった。
起きる。足を下ろす。左にあるはずの履物を探し、何もない床を二度蹴った。そこで首を回せばよかったのに、私は寝床の上ばかり見ていた。空いた場所へ手を戻す。さっき触った枕が冷えていくのが、ひどく恐ろしかった。
「晴? 起きたのか」
声は戸のすぐ外でした。
生きている。私を呼んでいる。
それでも立ち上がると膝が折れた。布団へ手をついて、もう片方の手で戸を探す。左の目元に当てた布がずれ、頬の傷が引かれた。
「何を――待て、動くな!」
戸が開いた。
姉が置いた水差しの音を聞くより先に、私はその袖をつかんでいた。姉は腰を落とし、私の脇へ腕を入れた。抱き上げられるほど弱くはないのに、足が言うことを聞かない。姉の肩へ額を押し当てると、ようやく喉の奥で詰まっていたものが動いた。
「外に、いたのですね」
「この戸の外だ。針が見えんので、月明かりへ出ただけだろうが。お前も、呼べば――」
私は姉の背中へ両腕を回した。
言葉の途中で姉の肩が止まった。私の腕が震えている。顔の布も結び直さなければならない。それなのに、私が強くつかむので片手を抜けなかった。
「……分かった。まず座るぞ。私まで腰を抜かしてどうする」
姉は布団へ腰を下ろした。私はすぐ膝を寄せた。
横の卓に置いた水が欲しくなった。さっきは水差しの形すら分からなかったのに、今はどの椀へ注ぐかも分かる。私は姉の左手を握ったまま、右手で椀を取った。縁へ水を当てすぎて少しこぼしたが、飲めた。
姉はそれを見ていた。
「喉が渇いておったのか」
「今は」
「今は、では分からん」
けれど、その先を問われなかった。
姉の指が当て布を直し始めた。手が離れると追いかけ、邪魔になっていると分かってから止めた。止めた手は、代わりに姉の腰帯を握った。
「同じ部屋に、いてください」
「おるだろう」
「寝る時だけではなくて。目が覚めたら、そこに」
「厠へも行くなと言う気か」
答えられなかった。
行くな、と言えば言えてしまう。私はそのくらい卑怯だった。姉の胸にしがみついて、傷を庇う手まで自分のために止めておいて、まだ、足りない。
前に知っていた物語では、勝ってからも安心できなかった。
あの人は自分の命を、帰る家で使おうとしなかった。
言えない。目の前の姉が、まだ選んでもいない死だった。私は父母の死さえ防げず、菊ちゃんの死さえ止められなかった口で、知らない記憶の続きを姉へ押しつけようとしている。
「何をそんなに噛んでおる。傷が引けるぞ」
姉の親指が、私の口の端を軽く押した。
私はその手へ頬を寄せた。傷のない右側。自分で選んで、掌の中に顔を置く。
「一人で起きるのが、嫌なのです」
姉はしばらく黙っていた。
外で犬が身震いした。首輪が鳴った。それだけの夜だった。
「私が先に起きたら、お前を蹴り起こせばよいか」
「手で、お願いします」
「細かいやつだ」
呆れた声の最後が、少し緩んだ。
姉は水差しも裁縫箱も内側へ引き込んだ。半分開いた戸から月の光が細く入ってくる。その光へ自分の膝を出して座り直し、私には肩を貸したまま、繕いかけの上着を広げた。
「これなら見える。針を落としたら、お前も探せ」
私は頷いた。
白い糸が、一針ずつ短くなっていった。
*
傷を負った日から三週間が過ぎていた。
左眼の視力は戻らない。医者は最初に告げたことを変えなかった。私が朝ごとに確かめるのは、痛みが増していないかと、姉がもう起きているかだった。
当て布の下は暗いのではない。そこから何も来ない。それが朝ごとに違う不自由になった。
四日後、裏庭で刀を持つことを許された。
長旅はもう少し様子を見ろと言われたが、姉は旅支度より先に、私の野太刀を持ってきた。姉が背から下ろした大きな野太刀を受け取る。柄の重さは覚えていた。いつもの結び目を解き、鞘を外す場所まで覚えていた。
姉が私の左へ回った途端、刀の先が遅れた。
木の棒で脛を叩かれた。
「痛っ」
「生きておる足だな」
「確認の仕方が乱暴です」
「死んでおったら、もう少し乱暴にする」
庭の外で、問屋の下働きが吹き出した。
私はそちらを睨み、また脛を叩かれた。
「よそ見をした」
「今、あの人が」
「私も笑いたいが、二度も同じ所では飽きるぞ」
悔しい。
姉が私を弱い者として扱わないのは嬉しかった。それと、腹が立つのは別だった。
私は刀を立て直した。左を壁に近づけ、足ごと姉へ向き直る。融雪真訣の内功を刃へ通すと、腕を引っ張っていた重さが身体の下へ収まった。見えないものが見えるわけではない。姉の手は、見えてから追わなければ間に合わない。
棒が肩へ来た。
刀の腹で受け、斜め下へ流す。姉は引き戻すより早く懐へ入ってきた。私は柄を自分の胸へ寄せ、半歩だけ退いた。棒の先が袖を擦ったが、身体には届かなかった。
そこから刃を返す。
姉は棒を縦にして受け、軽く跳び退いた。足元の土が薄くめくれた。
「今のは?」
私はすぐ聞いた。
姉は棒についた土を払い、私の膝を指した。
「いちいち私を見て喜ぶな。その間に三度死ぬ」
「一度は出来たでしょう」
「出来た。だから四度目まで生きろと言っておる」
顔が熱くなった。
私は刀を振り上げかけ、下ろした。頬の奥で、傷が熱を持ち始めていた。
姉が棒を投げた。私ではなく、見物していた下働きの足元へ。
「続きは明日だ。そこのお前、笑った分だけ庭を掃け」
「私の庭ですけど!」
「ならば普段から掃いておけ。妹が土だらけではないか」
横暴な言い分に、今度は私が笑ってしまった。
姉も笑った。それから、私の刀を取ろうとした。
私は柄を引いた。
「運ぶのは出来ます」
「そうか」
姉はあっさり手を引き、私の髪についていた枯葉だけを取った。その指が離れる方は、すぐ追いたくなった。
稽古の間、あの夜と同じ手を何度も見た。怒っていなくても、笑っていても、姉の呼吸と技の間へ、昔の継ぎ目は戻らなかった。絶世の域に立つ人は、世に幾人もいない。その一人が、棒を拾わずに帰ろうとして、下働きに文句を言われていた。
*
帯を結ぶのも、髪を束ねるのも、もう出来た。
なのに、朝の姉は私を前へ座らせた。髪を梳きながら、乾きかけの傷へ櫛の背が触れないよう、顔を自分の膝へ傾けさせる。
「そこまでしていただかなくても」
「なら、じっとしろ。動くから時間がかかる」
私は膝に置いた両手を握った。
前の生で、男として覚えた遠慮が、時々こういうところで顔を出す。女の人の身支度へ無神経に入り込むな。甘えるにしても、節度というものがある。そう思った私の頭を、実の姉の手は何の警戒もなく抱え直した。
姉にとっては、昔から髪の絡まりやすい妹だった。
私はもう二十二なのに、その事実が嬉しくてたまらない。
「……もう少し、ここを」
自分の右の耳の後ろを指した。
「痒いのか」
「いいえ」
姉は櫛を置いた。指先で二度、私が指したところを撫でた。
「では、なぜ頼む」
笑っていた。
私は答えず、頭をもう少し傾けた。姉の指がそこに留まった。いま離せばまた黙り込むぞ、と脅したわけではない。脅さずとも、姉は私の顔を確かめて、朝の用事を後へずらしてしまう。
その日の昼、姉は手紙を書いた。
私は横で、旅に使う包みを畳んでいた。紙の宛名が見えて、手が止まった。
「第三香へ、ですか」
「うむ。六年も遊ばせた。そろそろ起こしてやらねばな」
姉は書き損じた一枚を丸め、屑入れへ投げた。外れた。
私は拾わなかった。
「あと一年では」
「私が一年早く来いと言っておるのだ」
「まだ、行かなくても」
筆が止まった。
姉は私を見ずに、紙の端を押さえ直した。
「来年の夏まで、あの男の顔を思い浮かべながら家を決めるのか。椅子一つ買うにも、決着がついてからと?」
墨を含ませすぎた筆先が、紙に黒く丸を作った。
「癪だ」
姉はそれを睨んだ。
「どいつもこいつも、私に待てと言いおる。六年待ったぞ。指の皮が剥けて、足を捻って、同じ手を何千遍も直して、それでもあの男が決めた日まで座っておれというのか。私は嫌だ。明日とは言わん。お前の傷が落ち着くまで待った。これ以上は、私が待ちたくない」
私は畳んだ布を握っていた。
姉の指の節には、薄い傷が何本もある。私に付き合って出来たものばかりではなかった。朝、私が起きる前に、傘を置き、何度も同じ指を動かしていた人の手だ。
あの手を守りたい。
あの手の行き先を、全部ここへ戻したい。
「私が、先に会えば」
「誰に」
姉が顔を上げた。
私は黙った。
「お前の頼みは、聞いておる。着替えも、寝床も、私の袖も好きにしておるだろう。これまで取るな!」
思わず布を落とした。
姉は息を吐き、落ちた布へ目をやった。しかし謝らなかった。筆を持ち直し、書き始めた。
止めたい言葉が幾つもあった。どれも、彼女の怒った顔の前で正しい言葉にはならなかった。
私は布を拾った。畳み直すふりをして、姉の膝へ片手を置いた。払いのけられたら、もう話せない気がした。
姉は書き終えるまでそのままにしていた。
「同じ宿に」
「泊まる」
「部屋も」
「同じだ」
「帰りも、一緒に」
姉は筆を置いた。
「お前、帰りは自分だけ先に走るつもりだったのか。ずいぶん薄情だな」
私の手を取り、墨のついていない指で握った。
笑おうとしたら、唇がうまく動かなかった。
*
書状は、第三香の消息を知る者へ託して送った。
待つ間、姉は市場で椀を二つ買った。まだどこに住むかも決めていないのに、重いと言った私へ、ならお前の頭へ載せると答えた。
椀の縁には鳥が描かれていた。片方だけ、嘴がやけに長い。
「こちらが私ですか」
「文句の多い方がお前だ」
姉は二つとも布に包み、荷のいちばん上へ載せた。
その間に、小梅からも便りが来た。七月半ばには唐門へ着いたという。姉は声に出して読み、末尾に小さく書かれた趙活の文句まで、楽しそうに二度読んだ。
第三香の返書が来たのは、書状を送ってから十日ほど経ってからだった。
私は封を受け取り、見覚えのある筆跡を見た。紙の真ん中を握れば、簡単に潰れた。火へ投げてもよかった。届かなかったことにすれば、また数日、この庭で稽古が出来る。
姉が外から戻ってきた。
私の手にある封を見た。何も言わなかった。
私は腕を伸ばした。
「お返事です」
手紙を渡せたからといって、気が楽にはならなかった。
姉が読み終えた紙を、私にも開いて見せた。第三香は早い再戦を受けた。返書の末尾には、蘭がようやく話す気になったのなら、という意味の文があった。
姉はそこだけ、声に出さず読んだ。
「会えば分かる」
紙を畳んだ指に力が入った。
私はその手首をつかんだ。怖いと言いかけ、喉を鳴らしただけで終わった。姉は少し目を伏せ、自分の側から私を引き寄せた。
「出立前に寝込むなよ。椀が増えて、お前を背負う場所がない」
私は胸へ顔を寄せた。姉の声が、耳だけでなく身体から聞こえた。
*
夏の盛りが山の向こうへ退き始める頃、私たちは北へ向かった。
荷問屋の犬は見送りに出てこなかった。いつもの日陰で寝ていた。私は少し腹を立て、姉は、餞別の骨もやらんくせにと笑った。
道は長かった。
日が落ちる前に宿へ入り、医者に言われた通り傷を見た。左の段差を踏み損ね、雨で一日遅れ、橋が混んでいれば座って待った。背の野太刀を下ろすたび、姉が私の荷から椀の包みを奪った。壊すな、という口実だった。
ある坂で、私が歩調を上げると、姉は後ろから袋を引いた。
「どこへ逃げる」
「早く着けば、休めます」
「ここでも休めるぞ」
姉は道端の石へ座り、傘を開いた。水を飲む。私が手を伸ばすと、水筒を上へ持ち上げた。
「ここまで下りてこい」
私は隣に座った。
足が急に重くなった。疲れたのは今ではないのに、今、疲れてよいことになった。
姉の膝へ肩を寄せ、水筒を受け取る。谷の向こうでは、雲の影がゆっくり山を渡っていた。
「あれを越えたら、明日には着きますか」
「着かん。もう一つ山がある」
「その向こうは」
「着いてから聞け。景色を全部、今日中に取り上げるな」
姉は足を伸ばした。
私はその横で、初めての谷を見た。第三香はまだ、この景色のどこにもいなかった。