雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
山の影に入ると、風の匂いが変わった。
吹きつける雪が、上着の襟へ入り込んだ。私は首をすくめ、姉の足跡へ足を重ねた。水路へ下りる道は昔と同じ方へ曲がっていたが、その先にあったはずの大きな木がなく、代わりに布の幟が揺れていた。干した薬草を売る店だった。軒の下へ入ると、姉は閉じた傘の雪を払い、私の袖もついでに叩いた。
客が二人、銭の数で揉めていた。
「去年はこれだけで二束だったよ」
「去年のを食わせるわけにもいかんだろう」
私は足を止めた。
人が住んでいる。
廖平から聞き、荷の便りでも読んでいた。それなのに、家から出てきた女が軒の桶を蹴り退け、邪魔だと夫を怒鳴るのを見るまで、私はここを焼け跡として思い描いていた。
姉が店の前へ立った。
「辛い物はあるか」
「薬草屋で何を買う気だい」
店の婆さまが振り向いた。顔を見た途端、口を開けた。
「……小梅か」
姉の傘が少し傾いた。
「今は、蘭といいます」
「そうだった、そうだったな。廖平が言っていた。そっちは?」
私は頭を下げた。
婆さまは私の当て布を見て、それから背丈を見上げた。どちらについても聞かなかった。
「二人とも、やけに大きくなったもんだね。お前らの父さんが来たのかと思ったよ、その刀」
そんなに似ている刀ではない。
だが、私は否定出来なかった。背に載った重さを、急に持ち直したくなった。
婆さまは隣の男へ怒鳴り、椅子を出させた。さっきの客には、値切るなら明日来な、と言った。
「明日なら安いか」
「明日の気分による!」
姉が声を立てて笑った。
私の覚えている人だった。顔の皺も店も違っていて、その笑いを聞くまでは、名前が出てこなかった。
椅子へ座らされ、茶を出された。婆さまは話を一つ始めると、隣から二つ別の話を足した。山の下へ出て商いをしている者、子供が生まれた者、戻ったのに寒さへ負けてまた下りた者。亡くなった名もあった。その時だけ、婆さまは指を止めた。
「家の跡へ、行くのだろう」
姉が頷いた。
「今夜はここで食べな。美人が二人も来たんだ、爺さんに一度くらいまともな汁を作らせるよ」
「いつもまともだ!」
奥から声が返った。
婆さまは聞こえなかったふりをした。
私たちは旅の荷を預けた。野太刀と腰の袋は身につけたまま、線香と少しの供え物を持って、上の道へ入った。
*
門があった場所を、私は一度通り過ぎた。
振り返っても、門はなかった。
雪から覗く礎石の並びで、ようやく分かった。あの頃は、ここから父の居間までがひどく遠かった。今は数えるほどの歩数で、庭の向こうまで見渡せた。廊下がなくなったせいだけではない。私は大きくなった。
姉は雪を踏んで庭へ入った。
靴の底で、凍った土が鳴った。火事の跡に若い木が何本も育ち、細い枝へ雪を載せていた。姉が一枝をくぐると、積もった白さが肩へ落ちた。
「ここで店を出した」
姉が言った。
私は足元を見た。売る物を並べていた場所は、もう分からない。
「廖平が直してくれましたね」
「父さんが稽古へ連れていったな。客が待っておるのに」
「姉さまが、受けすぎたのです」
「商売熱心だったのだ」
姉の声は少し笑っていた。
私も笑ったが、台所のあった方を向いた途端、笑いが喉に引っかかった。
あそこから、母が来た。
私を抱いて、姉を呼んだ。私の見ていない何かを何度も確かめていた。前の生の記憶より、母の衣についた粉の匂いの方が近かった。
私は石の雪を払い、供え物を置いた。
置き損ね、袋が向こう側へ倒れた。父なら、食べる前に落とすなと笑っただろうか。母なら、洗えばよいと拾っただろうか。どちらも、今の私が勝手に作れる返事だった。
私は袋を拾い、ついた雪を払った。
姉は線香を持っていた。
風に消された火を、もう一度つける。傘を少し傾ける。三度目で煙が立った。
姉はそれを石の間へ挿して、膝をついた。
「ただいま」
それだけが聞こえた。
私は姉の後ろへ座った。名前を呼びたかった。近くにいても、姉がどこか遠いところを見ていると、私はすぐ自分へ戻したくなる。
伸ばしかけた手を、地面へついた。
姉が持っていた袋から、椀が一つ出てきた。新しく買った鳥の椀ではない。長く使った、小さな椀だった。
菊ちゃんに供えるのだと、聞かなくても分かった。
ここに菊ちゃんの墓はない。雪山の娘ではなかった。けれど姉はその椀へ茶を注ぎ、両親へ置いたものの隣に並べた。
「家に来たら、母さんと喧嘩したかもしれんな」
姉が呟いた。
私が返事を考える間に、姉は自分で鼻を鳴らした。
「二人とも、私に言いつけるに決まっておる」
茶から上がる湯気が、白い息と重なって消えた。
私は何も言えなかった。姉の横顔に、私を慰めるための笑みはなかった。膝をついたまま、何度か息を吐いていた。
父母も菊ちゃんも、私が上手に話せば生きてくる人ではなかった。
長いことして、姉が立った。
椀の茶を静かにあけ、布で拭き、また荷へ戻した。
私はその袖を取った。
姉は振り返らず、私の指へ自分の指を絡めた。私のためだけに来た場所ではなかった。それでも、帰る時には私を連れていってくれた。
*
翌朝に使う稽古場は、屋敷跡より少し上にある。
雪が深ければ道を確かめておこうと、私たちは斜面を上がった。風の通るところでは、足跡がすぐ白く埋まった。姉は傘を傾け、私の肩へ積もった雪を手で払った。
その手が止まった。
道の先に、第三香がいた。
「早かったな」
彼は、まるで私たちを待ち合わせた茶屋へ迎えるように言った。
六年ぶりだった。前より肩が厚くなっていた。踏んできた雪が靴の縁へ残り、手には荷も持っていない。私の左の目元へ一度目を留め、すぐ姉へ戻した。
「明朝と書いた」
「里へ下りるところだ。顔を見れば、一言くらい話せると思ったが」
「話すことなら、手紙へ書いた」
姉は傘を肩へ寄せた。
第三香の口元が動いた。
「まだそれを持っているのか」
私は背の結びへ手をかけた。
姉の指が、その手ではなく、鞘の端を押した。通り道へ出かけていた長い鞘が、私の背へ戻った。
「明日の相手は私だ。妹を見るな」
「お前を見ている。七年もあれば、その傘を捨てられると思っていた。まだ足りなかったようだ」
姉の手が柄を握り込んだ。
第三香はその手へ顎を向けた。
「菊を悼んでいるつもりか。いつまで死んだ女にすがって――」
「その口で、菊ちゃんを呼ぶな!」
声が雪の斜面へ飛んだ。
私は、結びを解きかけていた手を止めた。姉の横顔を見た。あの頃と同じように怒っていた。だが、足は自分の立つ場所から動かなかった。
「明朝だ。言いたいことは、私に勝ってから言え」
第三香はしばらく姉を見ていた。
傘から、その下の顔へ目を移す。
「そうか。明日なら、話を聞くのだな」
「耳の都合まで明日にするな。勝ってからだ」
彼の唇が閉じた。
私たちの脇を通り、里の方へ下りていく。雪を踏む足音が遠くなっても、私は背の結びから手を下ろせなかった。
今、追えば。
道の向こうにいるうちに、姉が見ていないところで。
風が顔へ当たった。左の頬の傷が引かれ、私はようやく自分の手を見た。
「晴。下りるぞ」
姉は私を待っていた。
私はその袖をつかんだ。
「明日は、私も」
「見ておれ。あの男が負けるところを」
私は返事をしなかった。
見たかった。
姉が、自分で勝った顔を。
その前に、あの男の手が姉へ届くのを、見ていられるだろうか。
*
夕飯の汁には、芋がたくさん入っていた。
婆さまの夫は、まともな汁だと二度言った。姉は三杯食べた。私は一杯目の半分を残していた。
姉が椀を返すために立つと、飲み込むところで喉が止まった。
「おかわりかい」
婆さまに聞かれた。
私は首を振ろうとして、姉の背から目を離せなかった。台所は目の前だ。肩も髪も見える。第三香はいない。明日の勝負が始まるわけでもない。
芋が口の中で冷えた。
私は卓の下へ手を入れた。
さっきまで触れていた姉の膝は、そこにない。
「晴。残すなら――」
姉が振り返った。
私の口元を見て、言葉を止めた。椀を婆さまへ渡し、私の隣へ戻ってきた。
私はその膝へ掌を置いた。
姉は一度、私の手を見た。それから座り直し、膝がもっと近くなるよう椅子を寄せた。
「熱いうちに食え」
私は飲み込んだ。
箸で芋を割り、次の一口を食べた。塩が少し強かった。そんな味のことを、今になって思えた。
婆さまが何か聞きたそうにしたが、姉が先に汁の味を褒めた。夫がまた胸を張り、話が戻った。
昔の男だった自分なら、こんな格好で人前に座らなかった。
大人が人の膝へ手を置いて、触れていなければ飯も食べられない。恥ずかしい。姉から手を離したくない。どちらも本当で、私は後の方を選んだ。
姉は里に空き家があるかと聞いていた。
私は明日のことを考えていて、家の場所を聞き逃した。姉が笑うと、握っていた膝の衣が少し動く。
椀を空にするまで、その動きを掌で確かめていた。