雪山の娘   作:雪山派外姓弟子

28 / 32
天がどうするか

 朝の椀から、湯気が上がっていた。

 姉は二つ目の饅頭を割り、半分を私へよこした。私は一つ目さえ食べ終えていなかった。

 

「食べられません」

「持っておれ。私が帰りに食う」

 

 紙へ包み直す。姉がそれを私の懐へ入れた。

 腹のところが温かくなった。

 生きて帰るつもりだ、と言われるより、その半分が重かった。

 

 姉は私の髪を結び、自分の髪は自分で結んだ。私は帯を直すふりをして、彼女の指を見ていた。何度も私の髪を梳いてくれた指だ。今日は第三香の手を取る。

 

「姉さま、袖が」

 

 少し折れていた袖口を、私は伸ばした。

 何度も伸ばしていたら、姉が腕を引いた。

 

「布を薄くする気か」

 

 笑いそうになって、失敗した。

 姉は私の顎を軽く上げた。右の目が合うまで待ち、笑った。

 

「目を離すなよ。私が勝ってから聞き返したら、額を小突いてやる」

 

 私は頷いた。

 野太刀を背負った。

 暗器を収めた袋には触れなかった。雪の中で使う足を、戸口で一度踏み直した。昨日の道には、また薄く雪が積もっていた。

 

     *

 

 稽古場へ出ると、風が正面から来た。

 第三香は傘も差さずに立っていた。肩へ落ちた雪を払い、掌を開き、握る。白い息が一度、顔を隠した。

 

「妹は離しておくのか」

 

 私は、姉が答える前に歩み出た。

 背の結びを解き、大きな鞘を下ろす。雪へ寝かせず、近くの木へ立てかけた。

 

「先に、私と戦ってください」

「お前と?」

 

 第三香が私を見た。

 姉を見ようとする目の前へ、刀を抜いて置いた。

 

「私も、あなたを待っていました」

 

 言うと、声が思ったより低く出た。

 姉は何も言わなかった。傘の下から、こちらを見ていた。

 

「母親にしがみつく子のようだったが、刀まで持つようになったか」

「姉です」

 

 私は踏み込んだ。

 融雪の勁を通した刃が、第三香の肩へ落ちる。彼は横へ足を運び、刀の腹を掌で払った。刃を逸らされた身体の前へ、もう片方の手が来る。

 私は柄を胸へ引いた。

 掌が柄へ当たり、両腕に重みが走った。足が滑る。雪の下の地面を踵で捉え、下がったところから刀を横へ返した。

 

 第三香が退いた。

 衣の裾が、刃の上を抜けた。

 届かなかった。だが、彼も私の懐へ残ることはできなかった。

 

「……なるほど」

 

 今度は、第三香が来た。

 正面の掌へ刀を合わせると、それは触れる前に引かれ、彼の肩が左へ回った。見えない側へ抜けられる。私は首だけで追わず、足を入れ替えて身体ごと向き直った。

 目の前へ、もう次の掌が迫っていた。

 

 刀の腹で受けた。

 刃先が下がった。重い。腕だけでは返せず、私は膝を曲げ、身体の下から柄を持ち上げた。第三香の袖が刀を滑る。肘を引いたところへ、私の切先が戻った。

 

 袖の端が裂けた。

 

 第三香は腕を引いた。血は出ていない。だが私を見る顔から、子供をどかそうとする笑いが消えていた。

 痺れる指で、柄を握り直した。

 まだ持てる。

 息を吸い、彼が足を止めた方へ、刃を向けた。

 

 第三香の掌が上がる。

 踏み込めば、また打ち合える。私の刀も、まだ届く。

 今度こそ、姉が前へ出るより先に。

 

「晴。戻ってこい」

 

 姉の声がした。

 刀の先が止まった。

 

 第三香は構えを解かなかった。

 私も、すぐには下げられなかった。もう一歩出たい。あの腕が姉へ向く前に、自分へ向けたままでいたい。

 けれど、呼んだ人を見た。

 姉はそこにいた。返事を待っていた。

 

「……はい」

 

 刃を引いた。

 第三香へ正面を向けたまま、一歩ずつ退いた。追ってくれば受けるつもりだったが、彼は来なかった。私を越えて姉を見ていた。

 鞘の前まで退き、刀を収めた。傘の縁が頭の上へ来てから、私は息を吐いた。

 

 姉の指が、私の肩へ積もった雪を払った。

 その手を追いかけそうになり、刀の柄を握り直した。両手が、まだじんじんしていた。

 

「見ておれと言ったろう」

 

 低い声だった。

 私は、はい、ともう一度言った。

 姉は私の右側から前へ出た。私に見えるところを歩き、第三香へ向き直った。

 

「妹を、随分と鍛えたものだな」

「貴様は、私以外を気にする余裕があるのか」

 

 姉が傘を畳んだ。

 第三香の目が姉へ戻った。

 

「今日で決める。負けた方が、生きるも死ぬも勝った方へ任せる。七年でも十年でも、もう一度待たせる話はなしだ」

「お前が負けても、それを言えるか」

「勝ってから聞け!」

 

 第三香が踏み込んだ。

 姉が、半歩入った。

 

 雪が跳ねた。

 

 次にはもう、第三香の膝が地についていた。

 姉の傘の柄が、その胸へ突き当たっている。空いた手の指は、喉を押さえていた。

 私は息を吸いかけたまま、止まった。

 次の一撃を待つ場所が、もうなかった。

 

 姉が傘の柄を引いた。

 第三香の身体が前へ折れかけ、喉へ当てられた指で止まる。姉が傘を開くと、二人の上へ降っていた雪が遮られた。

 彼の膝は、地面から離れなかった。

 

「立ってみろ」

 

 姉が言った。

 第三香は腕に力を入れた。姉の指がほんの少し動くと、彼の顎が上がり、呼吸が掠れた。

 

「……実に弱いな。失望した」

 

 声は、雪を払った時と変わらなかった。

 第三香は姉を睨み、地の雪をつかんだ。それから、つかんだ指を開いた。

 

「……私の負けだ」

 

 私はそこで初めて、息を吐いた。

 吐いても、次が入らなかった。姉が勝った。彼の手は地面にあり、姉の指はその命へ届いている。

 殺せる。

 今度こそ、姉の手で。

 

     *

 

「やれ」

 

 第三香が言った。

 姉は彼の喉を押さえたままだった。

 

「そのために、ここへ来たのだろう。天に誓った言葉を忘れたのか」

 

 姉の目が動いた。

 私は、指が進むのだと思った。

 だが、姉は手を引いた。

 

 第三香が咳き込み、地面へ片手をついた。

 姉は傘を肩へ戻し、片足についた雪を払った。

 

「帰れ」

 

 私も彼も、すぐには意味を取れなかった。

 姉は傘の下から、もう一度言った。

 

「聞こえんのか。負けたなら、さっさと帰れ!」

 

「殺さぬというのか」

 

 第三香は立ち上がった。息を吸うと、胸が痛むらしい。顔が歪んだ。けれど、目は姉から離れなかった。

 

「私の命を取ると、お前は――」

「誓った。だが気が変わった」

 

 姉は、第三香の顔を見て言った。

 

「あの時は、貴様を殺すことしか頭になかった。歯を食いしばって飯を食い、眠ってまで貴様の顔を見た。まったく、割に合わん!」

 

 姉は声を張った。

 私は見上げた。怒っているのに、口元が笑いそうになっていた。

 

「今朝は饅頭を半分残してきた。下りたら椅子を見に行く。貴様の屍を片づけて、一日潰すのはご免だ!」

「そんなことで、誓いを破るのか」

「そんなことかどうかまで、貴様に決めてもらわん。天が文句を言うなら、私へ言わせろ。頭へ雷でも落とす気か? やれるものなら、やってみろ!」

 

 傘が空へ向いた。

 高い雲が一つ、ゆっくり流れていた。

 私は笑えなかった。恐ろしくて、嬉しくて、どういう顔をすればよいか分からなかった。姉は本当に、天へ喧嘩を売った顔をしていた。

 

「では、もう憎んではいないと」

 

 第三香の声が少し緩んだ。

 姉は傘を下ろした。

 

「耳が悪くなったな。帰れと言ったのだ」

 

 彼は口を閉じた。

 それでも、姉の顔を見て、苦い笑みを浮かべた。

 

「……そうだ。それでこそ、私の知っていたお前だ。昔から、気が変わると誰の言うことも――」

 

 傘の先が、第三香の胸へ突きつけられた。

 彼が一歩退く。

 

「まだ私を知った口で喋るか! その昔へ戻りたければ、一人で戻っておれ。私は行かんぞ」

 

 第三香の笑みが消えた。

 彼は傘から姉の顔へ目を上げ、言葉を飲み込んだ。謝りはしなかった。膝についた雪を払い、肩を張り直した。

 

「勝った者は、好きに言えるものだ」

「そうだ。よく覚えて帰れ」

 

 姉は傘を引いた。

 第三香は荷を拾った。胸の痛みを隠すように、ゆっくり背筋を伸ばした。私へ目を向けた時、その顔にはまだ、こちらを見下ろす癖が残っていた。

 

「気に入らぬか」

 

 私は答えなかった。

 今も殺したかった。これから彼が私たちの家の方角を覚え、姉へ何か言ってよこすかもしれない。その可能性を、私は一本残しておきたくなかった。

 野太刀の柄へ手をかけた。

 

 姉が私の前へ立った。

 

「晴。饅頭を出せ」

 

 私は顔を上げた。

 第三香も、しばらく姉を見ていた。

 姉は本当に、私の懐へ手を伸ばした。

 

「潰しておらんだろうな」

 

 私が包みを出すと、半分の饅頭は少し平たくなっていた。

 姉はそれを見て眉を上げ、文句を言いかけ、食べた。

 第三香は何も言わず、道へ向かった。

 見送るために、姉が食べるのを止めることはなかった。

 

     *

 

 足音が消えた。

 私は姉の袖をつかんだ。傷がないと確かめようとして、指がうまく開かなかった。

 

「見たか」

 

 姉が聞いた。

 頷こうとしたのに、首が震えただけだった。

 

「最後まで、見ておったか」

 

 私は姉の腕を引いた。

 身体を調べなければと思った。血が出ていないか、息は苦しくないか、膝は。どれも途中で分からなくなり、顔を押しつけた。姉の腕が背へ回った。

 

「勝ちました」

 

 声が潰れた。

 

「姉さまが、勝っ……」

「聞こえたぞ。里じゅうへ知らせたいなら、もっと大きな声を出せ」

 

 私は泣いた。

 膝が折れそうになったが、姉が支えた。泣いている自分の声が恥ずかしい。昔の男だった自分なら、勝った人の胸へこんなふうに顔を隠さなかった。そう考えた端から、姉の衣をもっと強く握った。

 今はその妹で、勝った人の腕の中にいた。

 

「私が勝ったのだぞ。お前が先に疲れてどうする」

 

 姉は笑っていた。

 私の頭を抱えたまま、石の上の雪を傘で払い、二人ぶんの重さで腰を下ろした。

 

「水をくれ。あの饅頭、口の中の水を全部持っていきおった」

 

 私は慌てて水筒を出した。

 左手を離せなかったので、栓を開けるのに手間取った。姉が自分で取って飲み、私へ返した。

 半分ほど飲んでから、もう一度姉を見た。

 そこにいた。

 肩に雪がついていて、指にも袖にも傷はなく、まだ次のことを欲しがる顔をしていた。

 

「下りるぞ。あの婆さん、家の持ち主を待たせるなと言っておった」

「今日ですか」

「今日だ。私は今日、椅子に座る」

 

 その言い方に、涙が出たまま笑ってしまった。

 

     *

 

 空き家は、里の外れにあった。

 家主の女は鍵を持って待っていた。戸を開けると乾いた木と埃の匂いが流れ出し、姉はくしゃみをした。

 

「お見せする前に、掃こうと思ったんだけどね」

「構わん。椅子の埃さえ払えば、先に座れる」

 

 昨夜、婆さまが話していた椅子は、窓の前にあった。

 姉は窓の前の竹の椅子へまっすぐ歩いた。

 

「それだ」

 

 座った。

 椅子がきい、と鳴った。

 姉は足を伸ばし、もう一度体重を預けた。また鳴った。

 

「丈夫か」

「私が十年座ったんだよ。人を見ておくれ」

 

 家主の女は自分の腰を叩いた。

 姉は彼女を見て、声を立てて笑った。

 

「それなら、私があと十年座ってもよいな」

 

 私は椅子の脚を見ていた。横木が緩んでいないか、床が沈んでいないか。姉の袖を握ったまましゃがもうとして、手が届かず、妙な姿勢になった。

 

「直すのは、私が立ってからにしろ」

「確かめるだけです」

「私より椅子を構うのか」

 

 すぐ顔を上げた。

 姉の笑いが大きくなった。

 

「忙しいやつだな!」

 

 家主の女まで笑った。

 私は少し腹を立てた。けれど離れる気にはなれず、椅子の横へ座り込んだ。

 

 家には部屋が二つあり、竈は小さく、裏に水を汲む場所があった。冬の風は北側から強く来ると、女は言った。姉は家賃を聞き、戸の傷みを聞き、畑の端を少し借りられるか聞いた。私へ任せず、自分で全部聞いた。

 私はその間、姉の指を握っていた。

 

「窓を開けろ、晴」

 

 少し離れなければ届かない。

 私は立ち、窓を押した。左の留め具を見落として開かず、顔を回してから外した。

 風が入った。

 姉の髪が揺れ、椅子がもう一度鳴った。

 

「ここがよい」

 

 姉は家主へ言った。

 私に勝ってよいか尋ねなかったように、ここでも、先に自分の欲しいものを言った。

 

「この椅子も、置いていってくれ」

 

 家主が頷いた。

 私は窓から戻り、姉の差し出した手を取った。握り直しても、胸の中はまだ忙しかった。第三香のことは消えない。明日、姉が一人で戸を出たら、また今日と同じように待てないのだろう。

 姉は椅子の肘へ頬を寄せた私を、一度撫でた。

 

「では、家賃の話だな」

 

 勝った人は、足を伸ばしたまま値切り始めた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。