雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
朝の椀から、湯気が上がっていた。
姉は二つ目の饅頭を割り、半分を私へよこした。私は一つ目さえ食べ終えていなかった。
「食べられません」
「持っておれ。私が帰りに食う」
紙へ包み直す。姉がそれを私の懐へ入れた。
腹のところが温かくなった。
生きて帰るつもりだ、と言われるより、その半分が重かった。
姉は私の髪を結び、自分の髪は自分で結んだ。私は帯を直すふりをして、彼女の指を見ていた。何度も私の髪を梳いてくれた指だ。今日は第三香の手を取る。
「姉さま、袖が」
少し折れていた袖口を、私は伸ばした。
何度も伸ばしていたら、姉が腕を引いた。
「布を薄くする気か」
笑いそうになって、失敗した。
姉は私の顎を軽く上げた。右の目が合うまで待ち、笑った。
「目を離すなよ。私が勝ってから聞き返したら、額を小突いてやる」
私は頷いた。
野太刀を背負った。
暗器を収めた袋には触れなかった。雪の中で使う足を、戸口で一度踏み直した。昨日の道には、また薄く雪が積もっていた。
*
稽古場へ出ると、風が正面から来た。
第三香は傘も差さずに立っていた。肩へ落ちた雪を払い、掌を開き、握る。白い息が一度、顔を隠した。
「妹は離しておくのか」
私は、姉が答える前に歩み出た。
背の結びを解き、大きな鞘を下ろす。雪へ寝かせず、近くの木へ立てかけた。
「先に、私と戦ってください」
「お前と?」
第三香が私を見た。
姉を見ようとする目の前へ、刀を抜いて置いた。
「私も、あなたを待っていました」
言うと、声が思ったより低く出た。
姉は何も言わなかった。傘の下から、こちらを見ていた。
「母親にしがみつく子のようだったが、刀まで持つようになったか」
「姉です」
私は踏み込んだ。
融雪の勁を通した刃が、第三香の肩へ落ちる。彼は横へ足を運び、刀の腹を掌で払った。刃を逸らされた身体の前へ、もう片方の手が来る。
私は柄を胸へ引いた。
掌が柄へ当たり、両腕に重みが走った。足が滑る。雪の下の地面を踵で捉え、下がったところから刀を横へ返した。
第三香が退いた。
衣の裾が、刃の上を抜けた。
届かなかった。だが、彼も私の懐へ残ることはできなかった。
「……なるほど」
今度は、第三香が来た。
正面の掌へ刀を合わせると、それは触れる前に引かれ、彼の肩が左へ回った。見えない側へ抜けられる。私は首だけで追わず、足を入れ替えて身体ごと向き直った。
目の前へ、もう次の掌が迫っていた。
刀の腹で受けた。
刃先が下がった。重い。腕だけでは返せず、私は膝を曲げ、身体の下から柄を持ち上げた。第三香の袖が刀を滑る。肘を引いたところへ、私の切先が戻った。
袖の端が裂けた。
第三香は腕を引いた。血は出ていない。だが私を見る顔から、子供をどかそうとする笑いが消えていた。
痺れる指で、柄を握り直した。
まだ持てる。
息を吸い、彼が足を止めた方へ、刃を向けた。
第三香の掌が上がる。
踏み込めば、また打ち合える。私の刀も、まだ届く。
今度こそ、姉が前へ出るより先に。
「晴。戻ってこい」
姉の声がした。
刀の先が止まった。
第三香は構えを解かなかった。
私も、すぐには下げられなかった。もう一歩出たい。あの腕が姉へ向く前に、自分へ向けたままでいたい。
けれど、呼んだ人を見た。
姉はそこにいた。返事を待っていた。
「……はい」
刃を引いた。
第三香へ正面を向けたまま、一歩ずつ退いた。追ってくれば受けるつもりだったが、彼は来なかった。私を越えて姉を見ていた。
鞘の前まで退き、刀を収めた。傘の縁が頭の上へ来てから、私は息を吐いた。
姉の指が、私の肩へ積もった雪を払った。
その手を追いかけそうになり、刀の柄を握り直した。両手が、まだじんじんしていた。
「見ておれと言ったろう」
低い声だった。
私は、はい、ともう一度言った。
姉は私の右側から前へ出た。私に見えるところを歩き、第三香へ向き直った。
「妹を、随分と鍛えたものだな」
「貴様は、私以外を気にする余裕があるのか」
姉が傘を畳んだ。
第三香の目が姉へ戻った。
「今日で決める。負けた方が、生きるも死ぬも勝った方へ任せる。七年でも十年でも、もう一度待たせる話はなしだ」
「お前が負けても、それを言えるか」
「勝ってから聞け!」
第三香が踏み込んだ。
姉が、半歩入った。
雪が跳ねた。
次にはもう、第三香の膝が地についていた。
姉の傘の柄が、その胸へ突き当たっている。空いた手の指は、喉を押さえていた。
私は息を吸いかけたまま、止まった。
次の一撃を待つ場所が、もうなかった。
姉が傘の柄を引いた。
第三香の身体が前へ折れかけ、喉へ当てられた指で止まる。姉が傘を開くと、二人の上へ降っていた雪が遮られた。
彼の膝は、地面から離れなかった。
「立ってみろ」
姉が言った。
第三香は腕に力を入れた。姉の指がほんの少し動くと、彼の顎が上がり、呼吸が掠れた。
「……実に弱いな。失望した」
声は、雪を払った時と変わらなかった。
第三香は姉を睨み、地の雪をつかんだ。それから、つかんだ指を開いた。
「……私の負けだ」
私はそこで初めて、息を吐いた。
吐いても、次が入らなかった。姉が勝った。彼の手は地面にあり、姉の指はその命へ届いている。
殺せる。
今度こそ、姉の手で。
*
「やれ」
第三香が言った。
姉は彼の喉を押さえたままだった。
「そのために、ここへ来たのだろう。天に誓った言葉を忘れたのか」
姉の目が動いた。
私は、指が進むのだと思った。
だが、姉は手を引いた。
第三香が咳き込み、地面へ片手をついた。
姉は傘を肩へ戻し、片足についた雪を払った。
「帰れ」
私も彼も、すぐには意味を取れなかった。
姉は傘の下から、もう一度言った。
「聞こえんのか。負けたなら、さっさと帰れ!」
「殺さぬというのか」
第三香は立ち上がった。息を吸うと、胸が痛むらしい。顔が歪んだ。けれど、目は姉から離れなかった。
「私の命を取ると、お前は――」
「誓った。だが気が変わった」
姉は、第三香の顔を見て言った。
「あの時は、貴様を殺すことしか頭になかった。歯を食いしばって飯を食い、眠ってまで貴様の顔を見た。まったく、割に合わん!」
姉は声を張った。
私は見上げた。怒っているのに、口元が笑いそうになっていた。
「今朝は饅頭を半分残してきた。下りたら椅子を見に行く。貴様の屍を片づけて、一日潰すのはご免だ!」
「そんなことで、誓いを破るのか」
「そんなことかどうかまで、貴様に決めてもらわん。天が文句を言うなら、私へ言わせろ。頭へ雷でも落とす気か? やれるものなら、やってみろ!」
傘が空へ向いた。
高い雲が一つ、ゆっくり流れていた。
私は笑えなかった。恐ろしくて、嬉しくて、どういう顔をすればよいか分からなかった。姉は本当に、天へ喧嘩を売った顔をしていた。
「では、もう憎んではいないと」
第三香の声が少し緩んだ。
姉は傘を下ろした。
「耳が悪くなったな。帰れと言ったのだ」
彼は口を閉じた。
それでも、姉の顔を見て、苦い笑みを浮かべた。
「……そうだ。それでこそ、私の知っていたお前だ。昔から、気が変わると誰の言うことも――」
傘の先が、第三香の胸へ突きつけられた。
彼が一歩退く。
「まだ私を知った口で喋るか! その昔へ戻りたければ、一人で戻っておれ。私は行かんぞ」
第三香の笑みが消えた。
彼は傘から姉の顔へ目を上げ、言葉を飲み込んだ。謝りはしなかった。膝についた雪を払い、肩を張り直した。
「勝った者は、好きに言えるものだ」
「そうだ。よく覚えて帰れ」
姉は傘を引いた。
第三香は荷を拾った。胸の痛みを隠すように、ゆっくり背筋を伸ばした。私へ目を向けた時、その顔にはまだ、こちらを見下ろす癖が残っていた。
「気に入らぬか」
私は答えなかった。
今も殺したかった。これから彼が私たちの家の方角を覚え、姉へ何か言ってよこすかもしれない。その可能性を、私は一本残しておきたくなかった。
野太刀の柄へ手をかけた。
姉が私の前へ立った。
「晴。饅頭を出せ」
私は顔を上げた。
第三香も、しばらく姉を見ていた。
姉は本当に、私の懐へ手を伸ばした。
「潰しておらんだろうな」
私が包みを出すと、半分の饅頭は少し平たくなっていた。
姉はそれを見て眉を上げ、文句を言いかけ、食べた。
第三香は何も言わず、道へ向かった。
見送るために、姉が食べるのを止めることはなかった。
*
足音が消えた。
私は姉の袖をつかんだ。傷がないと確かめようとして、指がうまく開かなかった。
「見たか」
姉が聞いた。
頷こうとしたのに、首が震えただけだった。
「最後まで、見ておったか」
私は姉の腕を引いた。
身体を調べなければと思った。血が出ていないか、息は苦しくないか、膝は。どれも途中で分からなくなり、顔を押しつけた。姉の腕が背へ回った。
「勝ちました」
声が潰れた。
「姉さまが、勝っ……」
「聞こえたぞ。里じゅうへ知らせたいなら、もっと大きな声を出せ」
私は泣いた。
膝が折れそうになったが、姉が支えた。泣いている自分の声が恥ずかしい。昔の男だった自分なら、勝った人の胸へこんなふうに顔を隠さなかった。そう考えた端から、姉の衣をもっと強く握った。
今はその妹で、勝った人の腕の中にいた。
「私が勝ったのだぞ。お前が先に疲れてどうする」
姉は笑っていた。
私の頭を抱えたまま、石の上の雪を傘で払い、二人ぶんの重さで腰を下ろした。
「水をくれ。あの饅頭、口の中の水を全部持っていきおった」
私は慌てて水筒を出した。
左手を離せなかったので、栓を開けるのに手間取った。姉が自分で取って飲み、私へ返した。
半分ほど飲んでから、もう一度姉を見た。
そこにいた。
肩に雪がついていて、指にも袖にも傷はなく、まだ次のことを欲しがる顔をしていた。
「下りるぞ。あの婆さん、家の持ち主を待たせるなと言っておった」
「今日ですか」
「今日だ。私は今日、椅子に座る」
その言い方に、涙が出たまま笑ってしまった。
*
空き家は、里の外れにあった。
家主の女は鍵を持って待っていた。戸を開けると乾いた木と埃の匂いが流れ出し、姉はくしゃみをした。
「お見せする前に、掃こうと思ったんだけどね」
「構わん。椅子の埃さえ払えば、先に座れる」
昨夜、婆さまが話していた椅子は、窓の前にあった。
姉は窓の前の竹の椅子へまっすぐ歩いた。
「それだ」
座った。
椅子がきい、と鳴った。
姉は足を伸ばし、もう一度体重を預けた。また鳴った。
「丈夫か」
「私が十年座ったんだよ。人を見ておくれ」
家主の女は自分の腰を叩いた。
姉は彼女を見て、声を立てて笑った。
「それなら、私があと十年座ってもよいな」
私は椅子の脚を見ていた。横木が緩んでいないか、床が沈んでいないか。姉の袖を握ったまましゃがもうとして、手が届かず、妙な姿勢になった。
「直すのは、私が立ってからにしろ」
「確かめるだけです」
「私より椅子を構うのか」
すぐ顔を上げた。
姉の笑いが大きくなった。
「忙しいやつだな!」
家主の女まで笑った。
私は少し腹を立てた。けれど離れる気にはなれず、椅子の横へ座り込んだ。
家には部屋が二つあり、竈は小さく、裏に水を汲む場所があった。冬の風は北側から強く来ると、女は言った。姉は家賃を聞き、戸の傷みを聞き、畑の端を少し借りられるか聞いた。私へ任せず、自分で全部聞いた。
私はその間、姉の指を握っていた。
「窓を開けろ、晴」
少し離れなければ届かない。
私は立ち、窓を押した。左の留め具を見落として開かず、顔を回してから外した。
風が入った。
姉の髪が揺れ、椅子がもう一度鳴った。
「ここがよい」
姉は家主へ言った。
私に勝ってよいか尋ねなかったように、ここでも、先に自分の欲しいものを言った。
「この椅子も、置いていってくれ」
家主が頷いた。
私は窓から戻り、姉の差し出した手を取った。握り直しても、胸の中はまだ忙しかった。第三香のことは消えない。明日、姉が一人で戸を出たら、また今日と同じように待てないのだろう。
姉は椅子の肘へ頬を寄せた私を、一度撫でた。
「では、家賃の話だな」
勝った人は、足を伸ばしたまま値切り始めた。