雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
家を空ける日
最初に家へ入った物は、姉だった。
次が姉の荷。その次が私。椀の包みは最後だった。姉が自分の荷から出し忘れたので、私は二度、道を戻りかけた。
「いちばん上へ置いたと、おっしゃいました」
「いちばん上にあったぞ。服をその上へ入れるまでは」
「それを上とは言いません」
「昨日は上だった」
椅子へ座った人は、少しも悪いと思っていない顔をしていた。
私は二つの椀を取り出し、欠けていないか調べた。嘴の長い鳥と、丸い鳥。並べると嘴の長い方が少し傾いて見える。
姉は、よくお前に似ていると言った。
「どこがです」
「何か言いたそうだ」
私は何か言いたくなり、やめた。
姉が得意そうに椅子を鳴らした。
*
竈は、私たちの入居を歓迎しなかった。
薪を入れ替えても、火は湿った木の中へ引っ込み、煙だけが部屋へ出た。私は窓を開けた。姉も窓を開けようとして、私の頭へ肘をぶつけた。
「そこにおったのか」
「姉さまこそ、右へ」
「お前の右か、私の右か」
二人とも同じ方へ動いた。
笑っている場合ではなかったが、姉が先に笑った。私は咳き込みながら、火のついていない薪を抜いた。どうにか煙が収まり、竈の口を空け直した頃には、鍋の中の水は最初より少しぬるくなっただけだった。
姉は鍋をのぞいた。
「この汁は、色が薄いな」
「まだ水です」
「味も薄そうだ」
「水です!」
姉はもう一度笑い、空の椀を二つ持った。
「隣へ行く。火を借りるついでに、何か食わせてもらおう」
「私が」
「その顔で行くと、家を燃やしたと思われるぞ。拭いておけ」
姉は戸を出た。
家主の女の家は、塀一枚を隔てたところにある。私は女に応じる姉の声まで聞いた。笑っている。危ないことは何もなかった。
私は濡らした布を取った。
鼻の煤を拭く。布をすすぐ。竈の前へ戻る。
抜いた薪を、右から左へ移した。燃えていない方と湿った方を分けようと思ったのだ。分け終えてから、さっきの方がよかった気がして戻した。
もう一度動かした。
戸が鳴るたび振り返った。
風だった。
隣から姉の笑う声がした。私は竈の前へ座ったまま、布を両手でねじった。水が膝へ垂れた。
立って、隣へ行けばよい。たったそれだけだった。
ところが、立つにはまずこの布をどこかへ置かなければならず、私は置き場所を決められなかった。卓へ置けば濡れる。床へ置けば汚れる。桶はすぐそばにあるのに、そこへ手を伸ばすと、また戸が気になった。
「晴、持てるか」
姉が帰ってきた。
私は布を桶へ落とし、立った。椀を受け取るのではなく、その肘を両手でつかんだ。
「こら、熱いぞ。先にこれを――」
私は顔を上げた。
姉の声が止まった。膝の濡れたところと、冷たい竈と、何度も動かした薪を見た。
「……椀を置かせろ。それくらいは、させてくれ」
私は一緒に動いた。
卓へ椀が置かれ、空いた姉の手を取る。袖口を握り直した途端、さっきまで決められなかったことが決まった。濡れた床へ乾いた布を置き、薪を壁際へ寄せ、火の消えた竈の口を片づけた。
姉は私について半歩ずつ歩いた。
「私まで掃除道具にされたか」
叱る声ではなかった。
私が返事をしないと、肩へ額を一度つけてきた。
「そう急ぐな。飯が来たぞ」
姉の機嫌が、少しよくなっていた。
私はそれを知って、握った袖を緩めなかった。
*
荷箱へ板を渡して、最初の食卓にした。
座ると膝がぶつかった。離れて座るには板が短かった。私は、この卓はしばらく直さなくてよいと思った。
隣から頂いた汁は温かく、芋の形が半分崩れていた。姉は一口食べ、嘴の長い鳥をこちらへ向けた。
「母さんは、もっと塩を入れた」
「そうでしたか」
「父さんが足すから、先に入れてやったと言っておった」
私は父が食卓で怒られている顔を思い出そうとした。
母の声は浮かんだ。父はそこで笑っていただろうか。それとも、黙って汁を飲んだだろうか。
姉も、続きは言わなかった。
私は箸で芋を崩した。
明日は自分たちで作る。塩を多くしても、母の汁にはならない。だからといって、まずく作る理由もなかった。
「明日は、竈の方を先に見ます」
「飯が出来てから直せ」
「その順番では、また隣のお世話に」
「よい人だな」
私は笑った。
姉は最後の芋を私の椀へ落とした。お腹が一杯だと言う前に、自分の椀を伏せた。文句を受け付けないやり方だった。
夜、奥へ布団を運ぶと、姉が二部屋あるぞと言った。
私はもう一方の部屋を指した。道具箱を持ち込み、細かな物を広げたところだった。
「あちらは、仕事部屋です」
「ずいぶん早く決まったな」
「はい」
「私の荷まで運んであるではないか」
私が自分の分だけ移したのでは、言い逃れになると思ったのだ。
姉は戸口から二つの荷を見て、額を押さえた。私が布団を広げる間、そこに立っていた。
叱られるかと思った。
「私の上着を箱の下へ入れるな。明日、掘り出すのはお前だぞ」
それだけだった。
姉の布団へ寄せると、足で押し戻された。私はその分だけ戻した。手が届くところは変わらなかった。
*
秋には、私の仕事部屋が仕事部屋らしくなった。
小さな箱の取っ手、戸の立てつけ、荷車から外して持ち込まれる木の部品。崆峒で身につけた仕事が役に立つ一方、山の木は私の思う方へ削れなかった。里の大工に叱られ、同じ物を持って出直した。
「そこを薄くしたら、冬に割れる」
「今は、動きが重いのです」
「冬には家ごと重くなる。お前だけ軽くなってどうする」
よく分からない叱り方だったが、翌朝の霜を見てからは、言われた通りにした。
庭では、姉が子供に足の置き方を教えていた。
最初は二人だった。枝を持って来て、剣を教えてくれと頼んだ子が、足を押されて転んだ。立ち上がって、剣なら勝てたと言った。
「ほう。では私も剣を持つぞ」
「先生は駄目!」
「勝手な流派だな!」
私は窓から笑った。
子供が姉の袖へしがみつき、もう一度と言った。姉がその頭を撫でると、私の手はそこで止まった。
取っ手を付けるはずの箱へ、同じ釘を二度当てた。気づいて引っ込める。
「晴。そいつをこっちへ持ってこい」
姉が窓から私を呼んだ。
作業台を庭へ出すことになった。姉が座って教える日には、椅子を私の隣へ寄せた。子供が来ない日は、その椅子で本を読んだ。
私は片手で箱を押さえ、金槌を使えた。左から来た子供へぶつかりそうになったので、通る方を決め直した。姉がそばにいるだけで目まで戻るわけではなかった。
仕事が片づくと、姉は本から目を上げた。
「早いな。さっきは一つの穴をずいぶん睨んでおったのに」
私は姉の椅子の肘へ手を置いた。
姉は、そうか、という顔で少し笑い、子供に呼ばれるまで私の指を弄んでいた。
里の女たちからは、夏侯さんの家の小さい方、と呼ばれた。
誰かが大きな水桶を運びたいと言うと、私は当然のように立った。前の生の男のつもりで、力仕事なら自分が出ると思ったのだ。持ち上げることは出来た。今の身体でも、武芸を知らない男よりずっと運べる。
ところが帰ると姉が待っていて、乱れた髪をほどき、すぐ手を洗えと桶を差し出した。
「子供ではありません」
「大人は泥の手で髪を触るのか。なるほど、勉強になった」
私は口を閉じ、手を洗った。
髪を結び直す手を拒むつもりで背を伸ばし、櫛が離れると自分から首を戻した。里の女が、それなら任せておきな、と笑った。
任せたいから困っているのだとは、誰にも言わなかった。
*
廖平が来た時、庭の子供は三人に増えていた。
彼は荷車の旗を下ろし、姉へ見せた。母の継ぎ布は、新しい布の端に細く残っている。私はそこへ指を置いた。
「もう、別の物みたいですね」
「違いない。継がなければ、道で飛んでいく」
廖平は笑った。
姉は旗の端を撫で、彼へ返した。
「ここへ置いていくか」
「明日もこれで走ります。覚えて待っている客がいるので」
「そうか」
姉は手を引いた。
私は旗を家へ取り戻したいと思ったことを、少しだけ恥じた。けれど、次に来た時も触らせてもらおうとは思った。
冬の前に、森や工房へ預けていた荷が届いた。
姉の本、衣、私の道具。小竹から来た包みには、私がいちど諦めた留め具が入っていた。添えた紙に、使う前に向きを見ろ、と大きく書いてある。
私は笑って、声に出して読んだ。
「妹をよく知っておる」
姉は感心したように言った。
私は返書の紙を取った。小竹へ仕事の礼を書き、姉の鉢植えを預かってもらっている礼も書こうとしたら、姉に紙を取られた。
「花の話は、私が書く」
その横顔を見た。
小竹と姉の間に、私の知らない話がある。いま目の前で書かれる一行さえ、私へは向かない。
私は紙を奪い返さず、椅子を寄せた。
*
唐門から便りが届いたのは、年を越して、雪の下の水音が少し大きくなった頃だった。
荷を運ぶ者が何人も手を貸したらしく、紙の外側は擦れていた。趙活の字で、薬材の荷受け場の戸と荷箱を見てほしい、三日ほど手を借りられるかと書いてあった。
仕事だけの手紙ではなかった。
町へ下りる人が増えたこと。荷の便がいつまで続くか分からないこと。来られなければ、来られないと早く知らせてくれればよい、ともあった。
私はその行を長く見た。
来ないでくれ、とは書いていなかった。だが、軽い仕事だとも偽っていない。
記憶の中の最後の春が、近づいていた。
「趙活か」
姉が背後から覗いた。
私は紙を渡した。指を離すのが、まだ難しかった。
姉は読み終え、窓の雪を見た。それから、奥の部屋へ行った。
旅の袋を持って戻ってきた。
「いつ出れば間に合う」
「姉さまは、こちらに」
「それはいつだ」
私は口をつぐんだ。
姉は袋の底を払った。去年の枯葉が一枚落ちた。
「小梅の顔を見に行く。小竹にも会えれば、預けた花をどうするか決める。お前の仕事が三日で済まねば、その間に市場を見る」
「戦になるかもしれません」
姉の手が止まった。
軽く扱っていると思ったのだろうか。姉は手紙をもう一度取り、危険を書いた行を指で叩いた。
「読んだ。お前だけ字が読めると思うな」
「でしたら、なおさら」
「顔も見ず、便りだけ寄越せというのか。半雨屏から帰った小梅を、私は見たぞ。ここで雪の数を数えて待っておる方が腹立たしいわ」
私は返事を失った。
姉の行きたいところが、いつも私の守りやすい場所とは限らない。そんなことは何度も知ったのに、毎回、初めてのように腹が痛くなる。
私は袋を受け取った。
「宿は」
「同じ部屋だ。道は二人で相談する。危なくなったら、お前一人で先へ走るな。まだ何かあるか」
ありすぎた。
私は姉の手を袋ごと握った。
姉は振りほどかず、次の荷を取る手を止めて待った。
*
出発の朝、子供たちは姉の留守を少し楽しみにしていた。
稽古が減ると思ったらしい。姉が一人ずつ足の置き方を確かめ、帰るまでの言いつけを重ねるたび、顔が曇った。
「先生、そんなに覚えられない」
「では毎日同じことをやれ。忘れたとは言えん」
私は笑った。
子供がすぐ私を指した。
「晴さんも?」
「当然だ」
姉が振り返った。
私は笑った口のまま頷くしかなくなった。子供たちは急に元気になり、帰ってきたら見せてね、と声を揃えた。
家主へ鍵を預けた。
窓を閉めた。竹の椅子には布を掛けた。
姉は一度振り返り、私の背の荷を叩いた。
「帰ったら、あの椅子から私をどかすなよ」
私は頷いた。
山道の向こうへ、今度は二人で下りた。
家は空になった。なくなったのではなかった。